頭の中が急に静かになる現象

寒いから暖房をかけて寝て、暑くなって布団を蹴飛ばして、寒くなって起きて布団にもぐりこむという愚行を繰り返しています。たぶんそれで風邪を引きました。どうも私です。

 

急に頭の中が静かになることがあって、そうなるとあまり文章を書くテンションではなくなったりします。ということは、いつもは頭の中が過剰に騒がしいということになるのかもしれない。こういうところがいわゆる発達障害っぽさなのかもしれないなあと思うなど。
頭の中で会議とか討論とか、発表とかしません? しませんか…。

 

私は発達障害(ASD)ですが、定型発達の人と比べて特別劣っているという意識はありません。苦手なことも多いけど、定型発達の人もまあそれなりに苦手なことはあるでしょう。反対に、得意なことも多いです。
ただ現在の社会では、ちょっと適応しづらいっぽいので障害者ということになるわけですが。それは何というか制度の問題で。使える制度があって使う資格があるなら使えばいいじゃんの精神でいるので使ってるって感じです。障害者とカウントされるわけだけど、私としてはそんなに気にならないので。

 

頭の中の議論が不活発ですね。
それなら別にブログを書く必要もないんですが、書きたいので書いてます。

 

今日は午前中に作業所(在宅ワーク)があり、午後はマンガの作業をします。
おつかれさまです。

 

今日も一日。ご安全に~。

自信を持つことを人任せにしない

自信というのは「ある」「ない」とかじゃなくて「持つ」「持たない」という「自分の行動の結果」なんですよねっていう話をします。

 

自信ってどこからか湧いてくるものでもなく、ましてや誰かが授けてくれるものでもなく、「今ここにいる私が、今ここにいる私を、信じる!」という能動的な行いです。なのでそれまでの生活のなかで芳しい結果を出せていなくても、どうにもイマイチでも、今ここにいる私が私を信じると決めればそれは自信です。

 

怖いですね。
自信を持つって怖いんです。
だって自分は何か間違っているかもしれないし、周囲から笑われるかもしれないし、調子にのって失敗するかもしれないし、傲慢な人間になってしまうかもしれない…。

 

でも、自信を持たないのもまた怖い。
自信がないからと努力や行動を放棄して、なにもしないことへの言い訳をしながら、現状から一歩も動かず、成長も変化もなく、ただそこで朽ちていくだけ…。

 

結局のところ、どっちがいいかっていう話なんですけどね。
私は人から笑われても、行動を起こし続ける方を選びたいなあと思ったので自信を持つ選択をしています。

 

自信ってほんと、自分が持つぞ!って決めないと持てないんですよ。
自分を信じることを他人任せにしている人って、けっこういらっしゃると思います(過去の私も含めて)。
周りが私を評価してくれないから、私のことを悪く言うから、褒めてくれないから、私が自信を持てるような言動をしてくれないから、私が自信を持てないのは仕方ないんだと。そう思っていても、実際に思ったような行動をしてくれる人間は存在しないのでいつまで経っても自信を持つことができないんですねえ。

 

自信を持たないことにも一応メリットがあるんです。
なにも行動しないことへの言い訳になるってこと。
周りが自信を持たせてくれないから、自分の人生はこんなんなんだって周囲に責任を擦り付けることができますね。

でもそんなのって、楽しくないなあ…。

 

自信はなにかをしなくても、今からでも持つことは可能です。
今の自分が今の自分に対して、がんばれ、大丈夫だよ、きっとできる、という声をかければ、もうそれは自信です。

 

そういうパワーもない人は、疲れてると思うんでとりあえず休みましょう。おいしいものを食べて、ゆっくりお風呂に入って、たくさん寝ましょう。

 

自分も人も、大切に。

お金稼ぎゲームに参加します

お金を稼ぐことについて考えています。
お金の話って、しづらい空気がありますが、大事なことだよなあと思うので書きます。

 

私はお金を稼ぎたいです。
なぜならお金がたくさんあるとたくさんの人を助けることができるからです。
あと自分の暮らしも豊かになります。選択肢が増えます。自信がつきます。

 

お金をたくさん稼ぐということは、それだけの良いものを世界に提供した上で、それがうまく広まっていったということです。

 

そうなりたいです。

 

お金を稼ぐにはどうしたらいいだろな?ということを日々考え、本を読んだり動画を見たりもしています。一般的には胡散臭いと思われているような人物の本だったり、スピリチュアル系の動画だったり、なりふり構わずの姿勢です。しかし投資には現時点であまり興味はありません。というか今は必要ありません。なぜなら種銭がないから。まずは稼ぐところからだから。そこを避けていたら投資しても特に意味はないだろうから。

 

で、稼ぐにしてもいわゆるマインドというやつ、心の在り方やお金への価値観の時点で問題を抱えているような気がしたので、ノートを使って自分と向き合っています。

 

そこで今日発見したこと。
私は世界を怖い場所だと思っているということ。
それがお金を稼ぐことに何の関係があるのかって話ですが。
関係あるんですね、私の中では。

 

世界は怖い場所だ→怖い場所で自立なんかしたくない→誰かに守られていたい

 

という思考が私の中にあり、それが結果的に経済的自立への道を阻んでいるんじゃないか。という仮説にたどり着いたわけです。けっこう、これは、発見でした。そりゃあ怖い場所で独り立ちなんて怖くて出来ないししたくないですわ。

 

でも、世界は怖くて危険な場所である、というのは事実ではある。
そこで発想の転換
私は昔よりもずっとずっと成長したのだから、もう怖がらなくていいんだ。という考え方をしたら自立への道を進めるんじゃなかろうか。

 

例えば遊具あるじゃないですか遊具。小学校にあるようなアスレチック。
あれは一歳児にとっては危険極まりない場所ですが、小学校五年生にとっては格好の遊び場。とっても楽しい。好奇心も尽きない。
私にとっての世界も、いつの間にか楽しい場所に変わっていっている。
そう思うことにしました。

 

楽しく遊ぶように仕事をして、どんどん稼いで、他の人たちにとっても楽しく面白い世の中になるように行動していきます。

 

自分も人も、大切に。

「誰でも出来る」と断言するときに切り捨てているもの

私が苦手としている言葉、意図的に使用を避けている言葉がありまして。
それは「誰でも出来る」です。

 

こんなこと誰にでも出来るよ、簡単だよ、といったような意味で使われる言葉ですね。

 

何故苦手なのかといいますと。
この世界に「誰でも出来ること」ってほぼ存在しなくないですか?と思うからです。

 

勉強してテストで高得点を取ることだとか、運動をすることだとか、料理、片付けなどの家事、風呂に入ったり歯磨きなどの身づくろい、走ること、歩くこと、音楽を聴くこと、なにかを見ること、自力で呼吸をすること。
そういったことが出来ない人は確実に存在します。

 

「誰でも出来る」という言葉を発するとき、おそらくその人が想定している「誰でも」のなかには「障害や疾病など何らかの事情がある人」は入ってないのだと思います。引っかかるのはここで、「誰でも」と大きく出ておきながら「特殊な事情がある人は別だけど」のように、確かに存在する人たちを枠の外に追いやるような言葉だから苦手なんですね、「誰でも出来る」って。
特殊な事情があると見なされた人たちだって、この世界に存在する「ふつうの人」ですよ。

 

「誰でも出来る」って、主に目の前の人を励ますときに使用される言葉ではあるので悪気はないのは理解しているのですが、どうにも、苦手ですね。
ああこの人の認識の中ではそれが出来ない事情がある人は「誰でも」の外にいるんだなあ、とか考えてしまってモヤモヤします。これは私の勝手な想像ではあるんですが、そういう想像を刺激されるので苦手なんですよねって話。

 

自分の中の「ふつう」の枠、ときどきチェックしてみると人生が捗るかも?

 

自分も人も、大切に。

同性パートナーは、元夫

パートナーのことについて書こうと思う。
私は現在結婚しておらず、同性パートナーとパートナーシップ宣誓制度を使いながら一緒に暮らしています。

 

で、この同性パートナーなんですが、元夫です。

 

つまり

こういうことです(この本は私が描きました)

 

もう少し踏み込んで書くと、結婚八年目にして夫から性別違和を告白されたので、いやもうそれなら女になればいいじゃんいいじゃん!となり、夫は名前を変え、性別適合手術をし、戸籍上の性別の取り扱いを変え、社会的には女性として暮らしているわけです。ちなみに結婚していると戸籍の性別を変更できないので、紆余曲折ありながらも我々は離婚しております。その後、パートナーシップ宣誓制度を利用。暮らしの上では特に変わりなく、仲良く過ごしています。

 

ここから先は完全なのろけなんですが、彼女は私にとって最高のパートナーで、向こうも同じように思っているようです。夫が女性になるという少々衝撃のある出来事には見舞われて、私も私なりに悩んだりもしましたが、諸々を共に乗り越え、笑い合い、泣いたり怒ったり、様々なことを共有し合ってきた仲として、そこは性別は全く関係なく信頼関係を築けていると自負しています。

 

そういう相手にめぐり会えて幸せだなあ、と思います。

 

社会もけっこう親切で、パートナーシップ宣誓制度もありますし、私たちが同性カップルだとか、パートナーが元男だとかを知られても嫌な態度を取られることはほとんどなく、楽しく穏やかに過ごしています。
親族も、最初は一部パニックを起こしてましたが(特に私の母)今ではごく当たり前のように、私のパートナーのことを改名後の女性名で呼んでくれます。離婚はしていてもパートナーであることには変わりないということで、冠婚葬祭や盆正月などの親戚付き合いにも呼ばれます。

 

周囲にも恵まれているわけで、これは本当にありがたいことですね。
私の人生の特色は、人に恵まれていること、なのかもしれないなあ。

 

自分も人も、大切に。

発達障害があると思い詰めると人生の足を引っ張る

自分を発達障害者だと思いすぎないほうがいいという話をします。

 

自分の障害特性の自覚は大切であることは前提のうえ、「自分には発達障害があるんだ…」「障害者なんだ…」などと思い詰めない方が人生が捗ります。
というか、思い詰めるとその思考が人生の足を引っ張ります。

 

発達障害者および障害者であること自体は、ただの状態です。
こういう特性があって、それが障害だと国から認定されてます。というだけ。

 

障害があるから劣っているとか。
可哀相な存在であるとか。
そういうのは端的に言えば差別ですし、思い込みというか、イメージというか。
たしかに助けが必要な場面は多いかもしれませんが、それは社会の状態が健常者優先のつくりになっているからであって、例えば目の見えない状態が健常の社会だったら目の見える人は非常に不自由な環境に置かれて助けが必要になるでしょう。どっちが多数派か、社会がどういうつくりになっているかで障害の有無も変わるわけです。

 

当事者が気にするべきは「障害だと国から認定されて云々」のところではなく、「自分の特性はどういうものだろうか」です。
ひとまず現在の社会では、自分は発達障害者だと認定されている。そういった状況のなかでうまくやっていくにはどうしたらいいだろう?→まずは現状把握だ!てなもんです。

 

自分は何が苦手で、何が得意で、どういうことを避けて、どの能力を武器とするのか。そういったことを考え抜いて生きていく必要があるわけですから、自己憐憫に浸って思い詰めている場合ではありませんね。
ちなみにこういう考え方は、障害者認定はされていないグレーゾーンの方にとっても有用なんじゃないでしょうか。認定されてるされてないは置いといて、自分の特性を把握して上手いことやっていく方法を考えるというのは、多くの人にとって必要とされるスタンスでしょう。


正体不明の「ふつう」に沿って生きていくよりは、ね。

 

自分を大切に。

漫画を描く人こそ早寝早起きをしよう

私は早寝早起きです。
漫画家というと夜遅くまで起きていて〆切に追われながら不健康な生活をしているというイメージがあるらしいですが、そうでもないです。そもそもそんなハードスケジュールになるほど仕事や〆切を抱えているわけではないし。

 

夜遅くに起きているほうがアイディアややる気が湧く、という漫画家さんもいるらしいですが、私はシンプルに体調が悪くなるので夜更かしはしないです。むしろ早寝早起きのほうが脳みそのコンディションが整っていい感じに作業ができるし、発想も健やかに伸びていく気がします。

 

仕事をたくさん抱えるようになってスケジュールがタイトになってきたらどうなるかはまだ未体験ゾーンなので分かりませんが、でもそういうときこそ体調を崩さないように早寝早起きをして健康的な食生活を送ってコンディションを整えていきたい所存。
生活は大事だ。

 

不健康な方がアーティストっぽい感じというか、命削って創作してる感はあるけれど、でも命を削って摩耗して折れてしまったら創作もなにも出来なくなってしまうので……やっぱり健康的な生活は大事ですよ。

 

早寝早起きのコツは、早く寝ることです。夜の八時とか九時とかに寝る。
そうしたらたくさん寝てもわりと早く起きられます。たくさん寝すぎて早く起きられなかった場合は、心身に疲労が溜まっているのでしょうからあきらめてたくさん寝て休んでください。

 

まずは寝る。とにかく寝る。睡眠時間は死守。なにがなんでも寝る。

 

それが創作する力の源になるんじゃないでしょうか。
創作だって体力勝負ですからね。