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日々の暮らしの中からふと浮かんだ思考を集めています。

ー詩を書いてみる。No.2-


Yussef Dayes X Alfa Mist - Love Is The Message (Live @ Abbey Road) ft.Mansur Brown & Rocco Palladino

 

 

即興についての即興詩 /2020年6月21日

 

 

即興(インプロヴィゼーション)。証明が不可能な、潜勢力(デュナミス)の痕跡。

 

或るときは、六弦上に現れる、メロディックマイナーの旋律をクロマチックに駆け上り、

 

或るときは、鍵盤上に現れる、ミクソリディアンの旋律を盤上の指先が現前させる。

 

音符は存在しない。超越的な音の世界において、亡霊のように痕跡として立ち現れ、余韻と残響を残し、蜃気楼のように消えていく。

 

 

理性で捕捉できない交響曲。身体を脱構築する八分の七拍子。時空を刻む十六連符。

 

ドラマーはスネアとハイハットを操り、音の軍団を指揮し、或いは挑発し続ける。

 

激しく成るドラムロールに苦悶の表情を浮かべながら、六弦奏者にサインを送る。

 

「もっとできるだろう?」。渾身のクラッシュシンバルとともに、眼光が会話する。

 

 

十六小節の恍惚。引力を生む音響空間。音像の歪み(ディストーション)。

 

十二フレットと二十二フレットの間に実在し得る、ありとあらゆる音の可能性。

 

交錯し合う音の志向性。振動する弦と指先をつたう、意識の炸裂。

 

 

確かなものはなにもなく、不確かなものだけが湧現する。

 

不確実性において記述される、旋律の予持、或いは予感。

 

即興(インプロヴィゼーション)。証明が不可能な、潜勢力による、確かな魂の証明。

 

 

 

Written by Daigo Matsumoto

ー詩を書いてみる。ー

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ーブルーモーメンツー /2020年6月18日

 

時間は止まる。無意味になる。目の前の光景は、永遠を夢見ながら、その永遠を、この一瞬に閉じ込める。

 

その時間は、この一瞬を支えようとするけれど、堪えきれずに崩れ去る。

 

残された光の粒子。暗闇と摩擦する色彩。無と有の境界線に張り付いた群青。

 

その粒子たちは、わたしを貫通し、わたしの奥にある、わたしというものを洗い流す。

 

 

街角は、午後六時。シャンパンゴールドの光線は、足早な人々の輪郭を、柔らかに映し出す。

 

街路樹の葉たちは仕事を終えて、雑踏のエチュードに耳を澄ます。

 

表情を変える構造物。山吹色の眩い反射。濃度を増す影。

 

存在を確かにしていた、その時間の確からしさが、微かに信じられなくなる。

 

 

失いかけた余白に、透明な色彩を取り戻す。

 

わたしのわたし自身に、微かな輪郭を纏わせる。

 

暗く透き通った、藍色のグラデーション。

 

 

一瞬に永遠が在り、永遠が一瞬に在る。

 

時間というものを、忘れさせる時間。

 

ふと足を止めた瞬間の、ブルーモーメンツ。

 

 

 

 

Written by Daigo Matsumoto 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ー「パーク・ライフ」を批評するー

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 今回取り上げた作品、吉田修一氏の「パーク・ライフ」は私のフェイバリットとも言える作品だ。吉田修一氏については多くの人がご存知だろうが、本作品はそのデビュー作でかなり昔の作品であり、若い読者の方には知らない方も多いだろう。まずその概要を説明したい。

 2005年に出版された吉田修一氏の「パーク・ライフ」は氏の初の単著であり、東京という大都市の真ん中に位置する「日比谷公園」を舞台に、精密なシーン描写と人間の背面にある心理、また、当時の時代の空気を圧倒的な筆力で書き上げた短編として、2005年の芥川賞を受賞した。この作品により注目を集めた吉田修一氏の以後の活躍は述べる必要はないだろう。ポスト現代文学を牽引する日本を代表する文学作家である。

 この作品の最大の特徴としては、のちほど後述するが、(そして最大の主題となるのだが)主人公の「名前がない」ことが挙げられる。主人公の名前は作品中に一度も出てこないのだ。
ただ属性としては何点か記述されている。

・30歳前後の恋人などもいない男性。
・浴室芳香剤などを取り扱うメーカーに企画兼営業として勤めている。
・東京は地元ではない。大学卒業後にそのまま東京で就職している。

 以上の属性が主人公を構成する要素である。次に物語の主役となるのが、主人公が山手線でたまたま出会った「スタバ女」。彼女もまた名前は作品中に一度も出てこない。かなり主人公とは正反対の性格で、思い付いたら躊躇なく動きはじめる行動的な女性だ。また脇役としては、上司の近藤(男)と、主人公がマンションを一時預かることになる宇田川夫妻、そして主人公の初恋の相手ひかる、主人公の母、公園で出会う風船の実験をしている謎の老人などで構成されている。

 物語の本線としては、山手線の電車内で主人公が間違えて話掛けた相手が、スタバ女であり、その場は彼女の機転の効いた対応で、上手くやり過ごせたのだが、主人公は彼女が電車を降りた後も、彼女の事が気になっていた。その後、彼がほぼ毎日利用している日比谷公園で、偶然に彼女を見かける。そこから頻繁に公園で会う関係になり、物語の本線が進んでいく。

 次に、物語の伏線としては、主人公の知り合いの夫妻が一時別居している間、部屋にいるペットの猿「ラガーフェルド」の世話を頼まれ、2LDKの広い部屋を夫妻が戻るまで夫妻のマンションで過ごす、その生活シーンが伏線となっている。

 全体としては主人公の日常に訪れた二つの出来事が、いくつかの非日常な偶然を呼ぶ、シティライフの群像劇とも言えるだろう。しかしながら、その描き出された世界観は、日常の中に訪れた偶然の出来事によって、少し地上から5cmほど浮遊したような、独特の浮遊感と透明感を身に纏っている。
 
 ここまでが概要となる。さて、ではこの名作「パーク・ライフ」を読み解いていこう。さしあたり、ここから問題となってくるのは、主人公の心情と行動の分析についてだ。この物語において、主人公の心情や感情の揺らぎについての描写がほぼ全くといっていいほど描かれていない。また行動についても、ほぼ主人公の日常に関することであり、その行動に主人公の強い情念や主体性は見られない。物語はほとんどすべて偶然性によって進んでいくのだ。ここが多くの文学作品と違う特徴と言えるだろう。

 もう少し解体しよう。そして主題に接近を試みよう。主人公の心情や感情の揺らぎがほとんど描かれないとはどういうことか。前述したように、主人公には名前がない、つまり匿名である。そう、主人公は「誰にでもなり得る存在」として設定されている。彼は比較的空想癖のある人間で昔の恋を少し思い出したり、公園で考え事をしていると、もしや他人に心の中を覗かれていないだろうかと妄想したりもする。そして普段は満員電車で吊り広告を眺めながら通勤し、独り身に一抹の寂しさを感じながらも東京の生活を楽しんでいるという、あまりにも東京的な標準的ライフスタイルと実存の持ち主なのである。仕事をし、スターバックスのコーヒーを飲み、都市的に生活をする。換言するならば時代と日常および東京という都市に漂泊する現代人の典型的な実存のパターンを象徴している。

 主人公に名前がないように、その実存はなにものでもなく匿名的であり、固有名のある人物ではなく大都市東京を漂泊する「人間A」に過ぎない。この東京という都市に固有名を剥ぎ取られた、匿名的な「人間A」としての希薄な実存。単調な日々の繰り返しに主体的に変化を起こす訳でもなく、ただ何か自己が自己であることを確認させてくれるような偶然性をぼんやりと期待する、そのメシア的偶然への渇望。このような、大都市東京を漂泊する「半透明な実存」を抱えた現代人の、典型的な心象風景を描き出すことがこの作品の主題だと言えるだろう。

 その「人間A」に偶然性をもたらすのが、これもまた固有名のない「スタバ女」である。主人公は(これは文章として表現されたものではないが)スタバ女に恋慕とまではいかないが惹かれていく。これはお互いに漂泊者としての孤独感を抱えており、その孤独感を埋め合わせるような存在としてのスタバ女への、同じ孤独者としてのシンパシーであろう。そしてその二人の性格は対照的であり、主人公はスタバ女の行動的で予測のできない言動に引き込まれながら、日常から偶然性の世界に足を踏み出していく。
 
 では、もう一度作品全体について立ち戻ろう。前述したように、この作品の主題が大都市東京を漂泊する「半透明な実存」を抱えた現代人の心象風景を描き出すことなのだとすれば、それはどのように表現されるべきか。情念や意志、濃厚な実存、あるいは答えに向けて突き進み、隠蔽された因果律を紐解いていくようなサスペンスといった、一般的な文学のモチーフとして使われる媒介をなしにして、作者はどのように物語を語ろうとしているのか。

 ここからは技術論になるかもしれないが、作者の志向するものを解体していきたい。

 まず作者は主人公の情念や心情の波を極力消そうとする。そして、そういった情念や心情の代わりに、主人公の脳裏によぎった思考や、その主人公の周辺環境の特徴、象徴的なアイテムを入念に記述し、また対象の視線の動きや表情の変化、あるいは推察される対象の心の揺らぎなども細やかに描写する。さらには、対象との会話の裏側にある主人公の印象や思考の揺らぎなどについても、圧倒的な描写力によって丹念に記述していく。そのような描写を目の当たりにすると、読者はまるで、物語の世界を映画のように撮影されたものとして、物語を主人公の傍らで覗き込んでいるかのような感覚にも襲われる。 

 そのような物語における「環世界」の描写方法により、主人公の「半透明な(空疎な)実存」と「圧倒的なまでに細部まで描写された環世界」との間にコントラストを生み、「半透明な(空疎な)実存」と「その周囲の環世界」を現像前の写真のフィルムのように「反転」させることになる。つまり「半透明な実存」は環世界の中に埋没し、ネガとポジを逆転させたかのように「空白」となる。結果として「半透明な実存」は、読み手を主人公の視点に自分のことのように没入させる、格好の「余白」となるのだ。

 この「物語の余白」に投影された読者、つまり「物語の環世界」に引き込まれた読者の心象は、その環世界への圧倒的に緻密な描写によって、仮想現実的に物語の環世界に投げ込まれ、その環世界を体験として、あるいは脳内の映像としてありありと想像することができるようになる。その時「半透明な実存」は、読み手の色に染まっている。

 作者は物語に投影された読者を導くかのように、執拗にその物語の環世界におけるあらゆる表象を、まるで現実に存在しているかのようなリアリティで記述し続ける。その場所の風景と構造、対象の表情、心象的な雰囲気、些細な動作、会話の裏側にある心の振れ幅、キッチュなアイテム(例えばコーヒーであれば、スターバックスのカフェモカという商品名まで記述する)などを写真のように事実性に基づいて淡々と描写し、そして映画のようにカメラワークを何回も入れ替え、あるいは写真のコラージュのように(この場合は写真家デヴィット・ホックニーのフォト・コラージュをイメージされるのが適切だろう)シーンと視点の角度をつなぎ合わせる。これらのような重層的な描写は、環世界に奥行きと立体感を与える。そしてこれらの記述はコンスタティヴ(事実確認的)な言明として、その環世界を確定記述していく。

 その確定記述されたコンスタティヴな環世界は、物語に仮想現実的に没入された読者にとって、目の前に現前する世界の地面、あるいは把握された空間となる。そのことにより、没入された読者はパフォーマティヴ(行為遂行的)に物語の世界を歩きまわり、眺め、触れる体験をすることになる。例えば、主人公が「ガリレオ全集」を手に取ったとき、読者はその厚み、重さ、ページをめくる際の紙の質感などを、行為遂行的に追体験することになる。このような環世界に対する圧倒的に緻密な、コンスタティヴ(事実確認的)な描写によって、環世界を緻密に確定記述し、その世界に地面と空間、立体感を与えることにより、読者を誘い、読者にパフォーマティブ(行為遂行的)にその物語の中を彷徨わさせているのだ(しかもそれは確信犯的な作者の犯行である)。
 
 このような構造を持った本作品について、その全体の構造と世界観について追記したい。冒頭で私はこの作品の世界観について「その描き出された世界観は、日常の中に訪れた偶然の出来事によって、少し地上から5cmほど浮遊したような、独特の浮遊感と透明感を身に纏っている。」と述べた。しかしながら、この「浮遊感」と「透明感」はどのようにもたらされるのだろうか。

 「浮遊感」、つまり地面から5cmほど浮いているような感覚。この感覚の原因を探るならば、それは事実確認的に確定記述されたリアリティのある環世界と、偶然性によって進められる物語との「差異」の感覚として表現できるだろう。確定記述された、リアリティのある物語上の日常の世界に取り込まれているとき、そこに偶然性がなければ物語は始まらない。偶然性は読者の目の前に「可能世界」を提示する。淡々と延長される日常とは別のあり得たかもしれない別の世界。言い換えるならば、リアルな描写により事実確認的に確定記述された世界の中に、偶然性によって開かれた「可能世界」という、もう一つのパラレルな世界を現出させ、二つの世界を併存させているのである。

 

 つまり、リアルな描写によって事実確認的に確定記述された、物語の環世界という「仮想世界」と、偶然性によって導かれた行為遂行的な「可能世界」が、ひとつの物語の中に「共存―平行(パラレル)」する形をとるのだ。このリアルに描写された、事実確認的に確定記述された世界の明晰さやクリアさが「透明感」のような感覚を読者に与える。また「仮想世界」の中に「可能世界」という、もう一つの世界を幻視させることが「浮遊感」のような感覚を同じく読者に与えていると言えるだろう。
 
 この「仮想世界」における「可能世界」への二人の離脱―逃走のクライマックスとして、日比谷公園で赤い気球を上げようとしている謎の老人との会話がある。なぜ気球を上げようとしているのか聞いてみようと二人が話しかけると、老人はこの公園を上空から見てみたいのだと答える。二人はなぜなのかは問わなかった。しかし、スタバ女は推測する。きっとこの人は私たちの先輩なのではないのだろうかと。二人のように毎日この公園に通い続けた自分たちの先輩なのではないかと。

 このとき読者は「仮想世界」である物語における「可能世界」、つまり物語上の日比谷公園の中に、真っ赤な気球が上がるさまをイメージする。活字の世界の中に気球の真っ赤な色彩が幻視され、それを眺める二人のあり得るかもしれない未来を想像する。つまり「仮想世界」の中の「可能世界」の中に、「空想世界」という、さらにもう一つの世界を描き出してしまう。それは想像上の、思弁的な、この物語の世界観全体を包むような、超越的な視点とも言えるだろう。

 この物語は主人公とスタバ女が写真展に行き、帰る間際にスタバ女が以下ように呟くシーンで終わる。「よし。…私ね、決めた」。
 この物語に偶然性を与え「可能世界」への扉を開き続けたスタバ女が、ふと何かを決意する。主人公にはその意味は分からず、また作中に記されてもいない。しかし、主人公はこの言葉に、この物語を導いた偶然性と可能世界の終わりを予感する。そしてこの可能世界が続くように願い、叫ぶ。

「あの、明日も公園に来てくださいね!」

 その叫びはスタバ女に届いたのかは分からない。しかし、主人公の心の中で、スタバ女の呟きを反芻するとき、その言葉がよみがえり、主体性を隠蔽された主人公の中に、以下のような感情が(敢えて作者が表現してこなかった、その感情が)湧き起こる。

「まるで自分まで、今、何かを決めたような気がした。」

 

 この言葉は、今まで物語の環世界に引き込まれていた読者を、読者側の世界、つまりわれわれの現実世界に引き戻す。そして、この言葉は私たちの「現存在(Dasein)―実存」に再帰され、作者から私たちに贈与されたものとなるのだ。

 

 

 

Written by Daigo Matsumoto               

 

                                                                                                          

最近読んだ本


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 あらかじめ断っておくと、このノートは、大阪市内のわりと香ばしい地域の、カフェを目指している系の喫茶店で書かれている。オシャレ感を醸し出せる可能性はほぼゼロに近いと考えていただきたい。しかも持病が出て、慌てて薬(エチゾラム=所謂デパスジェネリック薬)をキメて、薬が効いてくるまでの時間に気を紛らわす為に、発作的に記している事をご容赦いただきたい。

 さて、内容は考えられる状態ではないので、サクッと最近購入した書籍を紹介したい。

 まずジル・ドゥルーズの「ニーチェと哲学」。これはドゥルーズの処女作「経験論と主体性」を読了して調子にのって購入した、ドゥルーズの2作目の作品だ。ドゥルーズのどこが凄いかと言うと「解釈力の高さ」だ。ドゥルーズ曰く「解釈は哲学における最高の技術」であり、その言葉を実践するように初期ドゥルーズはヒューム、ニーチェ、カント等のテクストを、神経症のように多角的かつ綿密に独自の解釈を加えて分析をしている。
 
 内容については挑戦中なので流すが、ニーチェを「意味と価値」を形而上学に付与した、力動への意志に基づいた反弁証法主義者として捉えている。ニーチェさんに言わせると「矛盾?貧弱!弁証法?くだらぬ!力こそパワー!」ってことだ。

 次は岩田卓司さんの「贈与の哲学ージャン=リュック・マリオンの思想」だ。これは岩田教授が中沢新一氏との講演会で語った、フランスで存命の現象学者ジャン=リュック・マリオンの哲学をテーマとした講義録の形をとっている。

 マリオンはジャック・デリダの弟子であり、フッサールハイデガーといった現象学者を学びながら省察を深めて、キリスト教神学を背景とした「根源的与え=根源的贈与」という独自の現象学的還元による結論を導き出している。この「我々は、この世界に、根源的に与えられてしまっている。」というエポケーの極みには、キリスト教神学の神の恩寵を通奏低音としながら、生の偶有性なども副旋律として奏で、私の見立てでは巷で流行りの(といってもネタ切れ気味な「現代思想」や「ユリイカ」界隈に限定されるが)、反出生主義にも根本的反駁を加えるポテンシャルを持っていると考えている。個人的にはマリオンの主著「贈与と還元(ヤフオクで10000円、版元絶版)」を何とか入手して読み込みたいと思っている。といったところだ。

 その次は角川ソフィア文庫から出版されている「仏教の思想(全12冊合本版)」だ。私の東洋哲学面での関心は、今年亡くなられた故梅原猛氏の梅原日本学にあり、晩年の梅原猛氏と東浩紀氏の対談集「草木の生起する国」を読み、そのあとがきで東浩紀氏がこの本を仏教研究に役立つ本なので読者に是非読んでいただきたいと推薦されていたからポチッと購入したのだ。

 この本には梅原猛氏が8本の論文を寄稿しており、その論考は、現役の仏教者でもぐうの音も出ない程の完璧な理論読解に基づいた、仏教東洋哲学の研究にとって非常に重要な内容となっている。中でも天台仏教や日蓮の解釈は、精密であり大胆で、最も肝心なエッセンスを丁寧に解説しており、私も舌を巻くというか、ただため息が出るほどのロマンシチズムに圧倒された、素晴らしい内容だった。この本は思想のプロでも下敷きにできるほどの内容であるので、一度読んでしまうとTwitter界隈の仏教論が浅く感じてしまうに違いないだろう。

 最後に、ミシェル・フーコーのコレージュ・ド・フランスでの講義集、このブログのヘッダーにも使っている「主体の解釈学」について触れる。この本は後期フーコーの重要な概念「霊性」についての解説がみどころだ。

 「霊性=主体が真理に到達するために必要な変形を自身に加えるような探求、実践、経験。主体の全存在にかかわるもの、その存在そのものの変容や育成を目指すような訓練の総体のことである。」

 この霊性の概念は、日本で言う徳のような、実存自体を作り替える精神修養の必要性とも捉えられる。人間性全般を高める、孤独かつ孤高な精神修養。哲学を学ぶ上でも、最終的に問われるのはその実践なのだ、と暗に伝えているとも思われる。

 またそれ以外にも、自己への配慮(エピメレイア・ヘアウトゥー)という概念を紹介していたりもする。

要約すると、
1)振る舞いや見方、他者への態度
2)視線を外部、他者、世界から「自己」へ向け変える事。
3)自己を変え、自己を浄化し、変容する訓練(省察の技術、過去を記憶する為の技術、良心の吟味の技術、表象の検証の技術)
といった感じである。

 このエピメレイア・ヘアウトゥー=自己への配慮の思想は、「汝自身を知れ」ほど有名ではないが、「汝自身を知れ」と同様に、1000年に渡り西洋の道徳の基礎となってきたとの事。フーコー程になると1000年の単位でヨーロッパに通底する思想を語ることができるのだなと、ただただ感嘆する。こちらもまだ挑戦中なのだが非常にエキサイティングな内容だ。

 以上、ここ2ヶ月程の期間で購入した本の中から、印象に残っているものを紹介した。私の主観だらけな説明でこれらの本の魅力が伝わったかどうかは自信がないが、気になった方は一度手にとっていただきたい。損はしないことは請け合いだ。

 では、また、ふらっと思い立つその日まで。

 

 

DAIGO MATSUMO

‐ とある街角で、哲学する。‐

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ー平成の終わり、変わらぬ街、変わらぬ時間ー 

 

新しい哲学が生まれると誤謬から開放されて善意の人々が敵対的な二陣営に分裂している状態を打破するだろう。 (「哲学の改造」ジョン・デューイ著 岩波文庫

 

 平成が終わった。何かが崩壊する訳でもなく、予定通りに、淡々と。

 

 今日5月4日は新しい天皇と新しい時代を祝いに、皇居前に14万人が一般参賀として集まったらしい。大阪に暮らす私としては全く実感がなく、ただ、TVの中で繰り広げられる別世界を「変わっちまったなぁ。参ったな。」といった、間の抜けた表情で眺めているだけだった。

 

 目下、8連休の中日という事もあり、筋肉が堕落していく感覚と細胞レベルで退屈している身体が客観的に実感され、家に篭っているのも勿体ないような気がしたので、出不精で行動半径が狭いなりに、行きつけの近くの茶店に向かうことにした。

 

 茶店の名前は「RENGA」といい、昭和40年代あたりに建てられたビルを、リノベーションと言うには余りに陳腐な改装をした、5階建ての謎なビルの1階にある。

 

 ビル自体は2階はヘアサロン、3階はネイルサロン、4階は古着屋、5階はギャラリーのようだが詳しくは知らない。隣に駐車場があるために、ビルの壁面が剥き出しになっており、その剥き出し感を隠すかのようにビルの壁面はペンキで黒く塗られ「1F-CAFE、2Fーsalon…」等と入居テナントの内容が、美大生のバイトが描いた様なデザインで、申し訳程度にペイントされている。

 

 RENGAには4年ほど月2回は通っているが、マスターの名前は知らない。またマスターも私の名前は知らない。「まいど!」と「空いてるお席にどうぞ!」という掛け声に対し「こんちゃーす。」という具合の関係だ。店に入ると、私が座る席は決まっている。一番奥の3つの二人掛けの座席の、一番右だ。丁度いい具合に「私の」席が空いていると、マスターもバイトの女性も「どうぞ。」と言わんばかりに、おしぼり、お冷、灰皿の三点セットを「私の」席に運んで来てくれる。

 

 どしっと「私の」席に腰かけ、おもむろに注文がありそうな顔をすると、バイトの女性がやってくる。そして「いつもの…ですよね?」と言いたげな顔でこちらの様子をうかがった後、サービス業としての形式的な、非の打ち所のない面持ちで「ご注文はいかがされますか?」と尋ねてくる。私は「(言わなくても分かるだろうが)アイスカフェオレとピザトーストで。」といつもと同じ調子で答える。このやり取りには意味はない。客と店員という関係と一定の距離感を保つ為の「儀礼」である。

 

 席に陣取り、手帳型ケースに入れたスマートフォンと、W05というWi-fi、CRAZY BABYという白いワイヤレスイヤホンを取り出し、煙草を一本吹かす。アイスカフェオレが来るまでの間、塩梅の良さそうな音楽をリストから探す。今日はツイッターのフレンドであるフェロイさんが「最高」と言っていた「The National」の「HIGH VIOLET」というアルバムの1曲目、「Terrible Love」をセットした。FUZZの効いた、敢えて篭らせたようなギターと、シンプルなコードのリフレインを奏でるピアノ、解放弦の響きを上手く取り入れたギターアルペジオのアンサンブルが、それぞれ主張し過ぎず調和しており、音空間の広がりを感じ、心地良い。

 

マルクス・アウレリウス「自省録」ー

 

 届いたアイスカフェオレを飲みながら、気怠い休日に丁度いいような本を探す。昨晩はマルクス・アウレリウスの「自省録」を寝る前に読んだ。ストア哲学を学んだローマ時代の皇帝、マルクス・アウレリウスが人生の後半に、自らの戒めとするような言葉を紡ぎ、誰にも見られる事のない「自省録(反省ノート)」としてしたためたものだ。

 

 アウレリウスは古代ローマを善く統治した「五賢帝」と呼ばれ、また彼が残した「自省録」の質の高さから、ストア哲学で理想とされた「哲人政治」を実現した皇帝としても後世に名を残している。その言葉は現実の執務上の格闘と、元老院など宮廷の人間達との軋轢、また本来は哲学者を目指していた彼の哲学的理想と現実とのギャップ、日々の気付きや葛藤および考察を、彼が修めた修辞学に基づいた丁寧な言語表現と、飾らない自己内観の生の言葉で記されている。例えばこんな具合だ。

 

「怒るのは男らしいことではない。柔和で礼節あることこそ一層人間らしく、同じく一層男らしいのである。そういう人間は力と筋力と雄々しい勇気とを備えているが、怒ったり不満をいだいたりする者はそうではない。なぜならばその態度が不動心(アパテイア)に近づけば近づくほど、人は力に近づくのである。」(「自省録」マルクス・アウレリウス著 岩波文庫

 

 彼の言葉からは時の為政者として、前任の皇帝から皇位を継承し、インペラトール(最高司令官)として統治するにあたって、周囲の政治家と協調的に職務を遂行する為の実践的な処世術と、ストア哲学の理想のバランスを取ろうとした苦労と内省の跡が垣間見える。

 

 この言葉のリアリティはキリスト教の禁欲主義が浸透する前の、ストア哲学が実践的なものとして残っていた時代の空気と、自省録という対外的に出版するものではない著作の内省的性質から、奇跡的に生まれたものだと言える。不動心、名誉、死、宇宙といった超越論的な内容を「恥ずかしげもなく」生き生きと自己に語りかけ、一日を終える。カント批判哲学以降では忘れ去られた、形而上学ではない生身の「生」の言葉は、一人の人間としての生き方を後世の人間に突き付けてくるのだ。

 

ー大阪哲学同好会とプラグマティズム

 

 さて、昨晩の読書を回想している間に、注文したピザトーストが届く。この店のピザトーストは、トーストの四隅がカットされており、持ちやすく食べやすい。周囲の客を見渡すと、シフォンケーキを食べているOL2人組や、珈琲と煙草を飲みながら、ガラケーで何やら仕事の話をしている(が、恐らくトラブルで半分キレている。)建設会社の日に焼けた男など、統一感の無い相変わらずの風景だ。

 

 「そういえば…。」と私は思い出し、ツイッターのログを見直す。そこには大阪哲学同好会の6月から始まる勉強会「プラグマティズム W・ジェイムズ読書会」のお知らせがリツイートしてあった。ああ、これだ。

 

 私は4月から「大阪哲学同好会」という哲学書の読書会に参加させて頂いている。きっかけは、またもツイッターで知り合った横山さんという方(「独今論者のカップ麺」という横山さんのブログは哲学好きは必読。ヴィトゲンシュタインやメイヤスーなどの論考が丁寧に纏められている。)のログとブログからその存在を知り、3月に思弁論の関係で読んでいたショーペンハウエルの「意志と表象としての世界」に関する読書会がある事を発見して「これは行かなくては!」と人見知りなりに思い立った事を発端としている。

 

 大阪哲学同好会では火雨さんという若手の批評家の方や、目力があり体格のよいナイスミドルの横山さん、カントに精通した年配の高校教師の方、哲学科で修士まで行かれた方など10名前後でテーマを決めて、読書とプレゼン、ディスカッションなどを行っている。プレゼンテーターのプレゼンの最中に、質問や横槍という名の各自の論理展開や、他の哲学者との比較など、闊達な議論がなされる。(大阪哲学同好会については今後、読書会毎に書いていく予定。)その哲学同好会の次回のテーマがウィリアム・ジェイムズの「プラグマティズム」なのだ。

 

 「プラグマティズム」は実用主義の哲学だ。一つの命題を立てたとして、その命題の真偽を問うには、その命題がもたらす結果が有用であればよいという考え方と言えばいいだろうか。非常に素朴だがアメリカでは浸透し20世紀を形作る哲学となっている。

 

 パースが提唱し、ジェイムズが普及させ、デューイが完成させアメリカ社会に実装させたプラグマティズムには、個人的に学生時代より興味があり、冒頭のデューイの言葉が載っている「哲学の改造」は特におすすめで、松岡正剛の「知の編集工学」やジャン・ボードリヤールの「消費社会の構造と神話」と並ぶ、私を形作ったマイフェイバリットでもある。

 

 とはいえ、次回の課題図書であるジェイムズの「プラグマティズム」については、電子書籍でペラペラと流し読みをした事がある程度であり、ジェイムズの主張については「その命題がもたらす結果が有用なものであれば、神や信仰といった命題も真である。」という言葉に集約されるように、アメリカ社会に通底するプロテスタントの信仰を肯定することで、プラグマティズムアメリカ社会に浸透するきっかけを作った、というようなざっくりとした理解だった。

 

 「課題だしな。精読するかな。」と二杯目のアイスカフェオレを飲みながら、電子書籍をペラペラとスクロールしていると、以下の文章が目に留まった。

 

 哲学は人間の営みのうち最も崇高なものであると同時にまた最も瑣末なものである。それはごくささやかな片隅で働くが、また最も広大な眺望を展開する。よく言われるとおり哲学は「一片のパンをも焼きはしない」、しかし哲学はわれわれの心を鼓舞することができる。(「プラグマティズム」W・ジェイムズ著 岩波文庫

 

 ハーバード大学で教授を務め、当時一流の知識人であり、社交界でもスターであったジェイムズらしい、修辞学的に整った丁寧で綺麗な文章だ。しかも直観的に伝わる熱量もこもっている。素晴らしいと素直に思った。

 

 では何が素晴らしいと思ったのかと言われると困るのだが、私の抽象的な感動をパラフレーズするなら、哲学の効用を、熱量を込めて、明確に訴えているからだと言えば良いだろうか。ジェイムズが言う通り、哲学はパンを焼けない。哲学は実用性や実務性はかなり薄い。リアリスティックに言うなれば哲学で食っていく事は、一握りの人物にしか許されてはいない。しかし、私達の「心を鼓舞する」という明確な効用があると断言されると、いかにもそのような気になってくるものなのだ。

 

 ー日常への回帰、5月4日ー

 

 そんな事を考えながら、ふと周囲を見渡すと、店内は客の数は減らないものの、客層は一周回って全部替わっていた。OL2人組はミセスの3人組に変わり、いらついていた建築会社の男は、買い物帰りの雰囲気のカップルに、またバイトの女性はピークタイムの勤務を終えて、マスター一人になっていた。一人ピザトーストとアイスカフェオレで長居をするのも気まずいので、テーブルを片付け、肩掛けバッグとポケットに例の3点セットを仕舞い、お会計の準備をした。

 

 「1000円になります!まいどあり!」というマスターの声が響く中、RENGAを後にした私は、駐車場を過ぎて薬局を曲がり、松屋町通に突き当たった。そしてベビーカーを引く若い母親やスーツケースを持った中国人、高そうな自転車に乗った若者を尻目に一人、松屋町通りを北進していった。

 

「心を鼓舞する哲学か。」

 

 大阪の中心から少し外れた、松屋町通りと長堀通りが交差するいつもの交差点で、雑踏に紛れてそんな事を思案しながら、目に映るのは、平成が終わっただけの、代わり映えのない、いつもと変わらない街並みと、いつもと変わらない時間だけだった。

 

 2019年5月4日。新しい時代とやらは、まだ3日とちょっとしか経っていない。

 

 

                          Written by Daigo Matsumoto