映画『水深ゼロメートルから』感想

 

演劇をほとんど観たことがないしまして高校演劇など全く知らない自分にとって、演劇の映画化はすごく複雑な気持ちになる。なぜなら原作を知らずに映画を観ていいのかという問題が常に付き纏うからだ。原作のある作品はなるべく原作から入りたい。しかし漫画や小説と違って演劇はすぐに手を出せるようなものではない。映像化されておらず現行で上演もされていなければ鑑賞は絶望的である。公演を1回観る金額も映画より遥かに高い。きっと何かきっかけがなければこれからも自分は演劇を鑑賞することはないのだろう。そういう意味で、映像化して媒体が変わってしまったものを観て素直に楽しんでいいのだろうかという気持ちがある。作り手はそんなことを考えていないかもしれないし、むしろ全国の映画館で上映されることでこの物語が広く伝わることをこそ望んでいるかもしれないけど、演劇だと観ないのに映画なら足を運ぶという感覚が、既に個人的に媒体ごと差別をしているような気持ちになってしまうのだ。だが、演劇を映像化した映画に強く感動した経験もある。『今度は愛妻家』がそれだった。観たのはサブスクでだが、あまりに泣き過ぎていちいち一時停止をしなくてはならないくらいだった。こんな経験は他にはないし、きっとこの作品が映画にならなければ自分はあの感動を知らないままだっただろう。

 

と、難しいことを書いてしまったのだけれど、結局は観に行った。年始の『カラオケ行こ!』の山下敦弘監督作品の余韻が続いていたというのもあるし、『リンダリンダリンダ』好きとしては山下監督の撮る女子高生の物語という符合を黙って見過ごすことはできなかった。肝心の映画だが、前半はかなり退屈。普通の女子高生の話が延々と続き、そこには起伏もなく驚きもなく、正直肩透かしの印象を受けてしまった。当時現役の高校生だった方の脚本ということもあって、登場人物達の悩みは等身大のものである。そんな等身大の会話を楽しめるという意味では悪くないのだけれど、あまりに普遍的すぎて、それこそ夕方のファミレスにいるような感覚だった。若者達の会話を盗み聞きしているような。

 

物語感の薄い言葉の応酬、舞台もほとんどが水のないプールで展開されて動きがない。こんなものなのか…とかなり退屈に感じていたのだけれど、終盤ココロとミクが互いの心情をぶつけ合うところで一気に映画に引き込まれた。そこまでの展開を退屈に思い、真面目に観ていなかったのが悔やまれるほどの強い感情のやり取り。おそらくスクールカーストも異なり、チヅルというムードメーカーの力もあって良くも悪くも無難な会話しかしていなかった2人が初めて意見をぶつけ合うのだ。校則違反のメイクをするココロは、女性として生きることを早くに覚悟し、その中で優位に立つためにとにかく美しくなろうとしていた。対するミクは幼い頃は阿波踊りの男踊りをできていたのに成長すると女踊りを強制されることに納得がいっていない。彼女は自分が生まれ持った女という属性に縛られることが嫌なのだ。

 

縛りの中で一番になろうとするココロと縛りからの解放を望むミクの対立は、現代社会の構図にも当てはまる。彼女達は彼女達なりに、社会の持つ不自由さを感じ、自分で行動しているという点には力強さが宿っていた。きっとこれから先も彼女達は女でいることを強制されていくだろう。それを認めるか認めないか。映画はそこに明確に答えを出さないが、この脚本を高校生の時点で書き上げた中田夢花さんが本当に凄い。等身大の高校生だからこそ出せるエネルギーと、学生に見合わない大人びた感覚が作中に同居しているのである。何より、男性部員で構成される野球部によって無自覚に砂で汚されたプールを掃除する構図が、男性優位の現代社会と重なるのが素晴らしい。どうやったら10代でこんなことを思いつけるのか。いや実際に何か経験があるのかもしれないけれど、それを物語に昇華していることがもう凄い。

 

男子だけがインターハイに行った水泳部で、負けたくないと思いながらも恋にうつつを抜かしてしまうチヅルの決意表明のシーンも良かった。野球部のグラウンドに砂を戻す。ただそれだけのことだし、周りからすれば酷く滑稽なのだけれど、彼女にとってはそれが大切な儀式なのだ。こういう「青春っぽい儀式」に自分は弱い。誰かが笑ったとしても、当人にとっては大きな意味のある行動なのだ。そしてラストシーン、突然の土砂降りの中、男踊りの構えを見せてエンドロールに突入する流れにはかなりやられた。か、かっこよすぎる…!あそこで踊り始めてももちろん良かったし、あの流れならミクが中断することはまずないのに、敢えて構えの時点で切る。チヅルに見せることすら恥ずかしがっていた彼女が、対立したココロの前で堂々と男踊りを踊るのだ。それは彼女にとっての決意表明であり、そして彼女の心を動かしたのはチヅルの行動やココロとの対立なのだろう。

 

終盤までの間延び感がどうしても否めず集中できていなかったのだけれど、そのセリフ1つ1つがラストに集約されていくような細かい感情や情報のやり取りがあったはず。自分はそれをいくつも取りこぼしてしまったかもしれない。ラストに爆発するタイプの映画なのでそれまでがやや退屈だが、もう一度じっくり観たくなるような素敵な作品だった。

 

 

 

 

 

 

映画『バジーノイズ』感想

 

「バジーノイズ」は日本語に訳すと「賑やかな騒音」になる。この映画は1人で音楽を作ることに没頭していた主人公の清澄が、潮という女性と出会い世界と繋がろうとしていく物語であり、それを端的に表した素敵なタイトルと言えるだろう。原作はビッグコミックスピリッツで連載されていたようだが未読。JO1のファンだと思しき女性客が多数を占める中での初日鑑賞になった。監督はドラマ『silent』の半分以上を手掛けた風間太樹。彼の映画作品を観るのは初めてだったが、『silent』にもあった切なくなる演出が随所に見られた。学生の物語ではないがどこまでも青く、青春映画のような煌めきに満ちている。ただ自分を喜ばせるためだけに作っていた、悪く言ってしまえば「独りよがり」な清澄の音楽が、いつの間にか人と繋がる手段になっていく。漫画が原作であることを強く想起させるような独特な演出やテンポ感の中で、清澄の心境の変化は真摯に描かれていた。

 

冒頭、潮が清澄の部屋の窓ガラスを粉々に割るシーン。おそらく漫画なら1ページもしくは見開きで描かれているのだろうと思わせるほど、衝撃的なシーンだった。ここから清澄と潮の物語が始まる、映画のスタートを告げる意味でもエンジンが掛かったというか勢いをつける力が込められていた。だが同時に、あまりに唐突だなあとも思ってしまったのだ。コマの大きさを自由に変えられる漫画ならばまだしも、映像で、まして実写でいきなり窓ガラスを粉々に割る女性というのはあまりに浮世離れしすぎている。それに至るプロセスも、下に住んでるのが管理人の清澄のはずなのに本人が知らんぷりをするから、という共感しづらいものだった。彼女の個性が一気に表出する場面であり、同時に清澄の人生が大きく変わる分岐点となるこのシーンが浮いてしまっているのは凄く勿体無いことだなあと思う。

 

そしてこのシーンに違和感を持ってしまったために、映画全体で潮が都合の良い女性にしか見えなかった。人との関りを拒む主人公をとにかく気にかけてくれる美少女がすごくオタク的というか…。フィクションだから別に構わないのだけれど、こんな子が現実にいるわけなくないか?と。何より、映像の質感がそれこそ本物っぽさを漂わせているリアル調の映画である分、その漫画的要素がすごく浮いて見えてしまっていたのである。一番残念だったのは、その潮の存在が最後までどういうものなのか分からない点。なお、原作では清澄と潮の関係はもっと恋愛的なものになっているらしい。しかし、映画では同棲や抱擁のシーンはあっても、その関係性はいつまでも明確にならない。清澄を支える人物だとは分かっているのだけれど、その曖昧さがどうしても違和感として残ってしまっていた。何より、録音や打ち合わせにも参加する彼女がただの動画撮影班なわけはないのに、そこに誰もがツッコまないというのがすごくズレているというか。陸が清澄に「潮のことどう思ってるの?」と訊くとかそういうワンシーンがあるだけでもいいのに、二人の関係性に外野が一切触れてこないのがちょっと奇妙に思えた。

 

もちろんこれには安易な恋愛映画だと捉えられたくないという気持ちもあるのかもしれない。現代社会を考えれば、恋愛関係と定義するより、互いを支え合うパートナーという関係性のほうが合っているとも言える。しかしそれならそもそも冒頭で潮と出会った清澄が、潮から彼氏の存在を聞かされてちょっと落ち込む…みたいなシーンは余計だったのではないだろうか。そのシーンがあるなら女性として見ていた彼女がいつしかかけがえのない相棒に変わる…という変化が必要だった。

 

何よりこの潮が浮いてしまっている問題が引き起こすのが、ラストへのそれこそ「ノイズ」なのである。この映画は音楽プロデューサーにこき使われ、作業所で黙々と作曲をするようになってしまった清澄を、潮・陸・航太郎の3人が救出することで幕を閉じる。そしてその救出劇で重要になってくるのが、清澄が3人にもたらした変化であり、清澄が3人にとってどういう存在だったのかという部分なのだが、潮に関してはそこがかなりぼかされているようにも思えた。とはいえ、航太郎に関してもほとんど描かれていなかったりと、その点はかなり勢いに任せているとも言えるのだが。窓ガラスを割るシーンが浮いていたせいで、それと重なる、部屋のドアを椅子で破壊しようとする潮のシーンにもうまく入り込めず。というかそこで「あのシーンと重ねてるんですよ~」と言わんばかりに窓ガラス破壊の回想を差し込むのはさすがに観客を信じてなさすぎるだろ…と思ってしまった。あそこまで構図が同じなら気付けるはずである。

 

と、色々文句のようになってしまったけれど、全体的な評価としては良作でした。理由は徹頭徹尾「漫画的」だったため。序盤はそれがノイズでもあったのだけれど、悪徳プロデューサーに監禁させられた主人公を関わった3人が救出に向かう…という囚われのお姫様的シナリオはすごく魅力的だった。映像の質感はリアルなのに、やっていることはかなりドラマチック。具体的には潮と陸と航太郎の3人が夜中に信号を渡るシーン。あの引きのシーンはすごく良かった。話しているうちに信号が赤になってもう一度ボタンを押さなくちゃいけなくなる点も含めて素晴らしかったのではないだろうか。潮と陸が、清澄を自分達が世に出したくせに清澄が他の誰かに渡ってしまうことへの嫉妬に耐えられなかったことを告白する。いつの間にかかけがえのない存在になれていたことは、独りよがりの音楽を作り続けてきた清澄にとって最高に嬉しいことだっただろう。何より、彼等が清澄を救おうとしていることも彼の意見を聞いたわけではなく、ただのエゴ、つまり独りよがりでしかない。しかしその思いが人の心を動かし、行動に繋がり、感動を呼ぶのだ。その前の航太郎と陸が清澄救出を決意するシーンで「一人足らねえだろ」と潮を探し始めるのも最高。かつて敵だったライバルを味方にするシーンみたいな味わい深さがあった。別に殴り合って戦うような敵がいるわけでもないし、実際には契約を切らせればクリアというすごく現実的な物語なのだけれど、そこに漫画的なヒロイックな要素が加わることで、王道の楽しみ方ができるようになっていた。むしろ結末を知って改めて観ると、その漫画らしさに序盤から感動できるのかもしれない。

 

そして映画を彩る音楽も素晴らしい。ついリズムを刻みたくなるような印象的だが優しい音楽。音楽映画としても申し分ない出来だったと言えるだろう。キャストの演技もかなり良く、陸を演じた柳俊太郎は色気が爆発しすぎていたほどである。あんなんに見初められたらそりゃあ清澄も慕うしかない。むしろ一度離れられたことがすごい。川西拓実の演技も、一人で俯き加減の時と誰かと音楽を奏でて楽しそうな時の振れ幅があった。清澄の周囲とうまくやれてなさそうな冷めたキャラクターを見事に表現していたように思う。

 

リアル調の作風で漫画的な物語をやるというのはすごく面白かったが、やはり若干浮いている部分はあった。何より、中途半端に恋愛映画っぽく描くくらいなら最初からそうでないと断わるようなセリフや描写が欲しかったし、その辺りの曖昧さは少し勿体なかったかもしれない。ただ、独りよがりの音楽を奏でていた清澄が誰かと繋がることの楽しさに目覚めていく物語という分かりやすいプロットは一貫しており、その点への真摯な姿勢は素晴らしかった。雰囲気だけが良い映画になりそうなところだが、ちゃんと中身でも心を打ってくる。

 

 

 

 

 

 

映画『ゴジラ×コング 新たなる帝国』感想

 

地上の王ゴジラと地下の王コングが大乱闘を繰り広げる怪獣映画。『ゴジラ -1.0』の公開からまだ半年も経っていないどころか、予想以上の大ヒットによりまさかのロングラン上映になっているというのに、ハリウッドからも怪獣プロレス系のゴジラが殴り込んでくる。『FINAL WARS』以降の氷河期が嘘のようにゴジラが今世界中で脚光を浴びているという事実。自分は2014年公開のいわゆる「ギャレゴジ」がスクリーンでゴジラを観た初めての経験という浅い人間なので、モンスターバースがここまで続いていることに嬉しくなってしまう。浅いなんて言いながらももうギャレゴジから10年も経過し、シリーズも映画だけで5作目。ギャレゴジの時は3.11からまだ時間も経っておらず、初代を意識したようなゴジラと核の脅威を結び付ける描写もあったが、この『ゴジラ×コング 新たなる帝国』ではゴジラは自身のパワーの源となる核物質を求めて世界中を大暴れし、対するコングは他の猿たちと接触する。正直、とてつもなく変な映画だと思う。国産の『-1.0』が人々の心を打つ(邦画っぽすぎるという指摘もあるけれど)映画になっているというのに、まるで別の角度からハリウッドが殴り掛かってくるのだ。何ならその拳にはパワードアーマーが付いている。戦争の恐ろしさの訴えと人間ドラマに注力した『-1.0』とは対照的に、今作はアクション娯楽大作として徹底されており、人間ドラマよりもセリフのない猿たちのドラマのほうが濃厚に描かれている。自分は『-1.0』に深く感動した身だけれども、今作にも別の意味で感動させられてしまった。ハリウッドが本気で怪獣プロレスをやっているという事実。コロッセオゴジラの寝床にし、コングの右腕にパワードアーマーを装着させるような人達がこの世界に存在しているという事実。比較的空いている劇場でなぜか隣に座ってきた変な男性がいなければ、腹を抱えて(もちろん声は押し殺して)笑っていたかもしれない。それでも鑑賞中、ずっとニヤニヤが止まらなかった。人は痛快娯楽作品を観た時、「俺達が観たかった怪獣映画だ!」なんて俗っぽい言い回しを使うことがあるけれど、これはもう「俺達が観たかった」の域を超えている。前作でぶち上がった期待を簡単に飛び越え、ドーパミンを出すことに特化した猿と猿の殴り合いが展開される本作。やっていることはB級映画のようなのに、映像がS級でその細部まで気配りが行き届いている。ハリウッド映画の可能性、ゴジラ映画の可能性を更に切り拓く凄まじい映画なのではないだろうか。

 

予告を観た時、ゴジラとコングが並走する(しかもコングの右腕はメカメカしくなっている)映像にはワクワクさせられたが、敵がスカーキングなる色違いの猿だと聞いてちょっとがっかりしたのも事実である。前作の『ゴジラVSコング』ではゴジラとコングの対決、しかも決着が着くという触れ込みからのメカゴジラ登場に心を奪われ、圧倒させられた。注意したいのは、メカゴジラには数十年の歴史があり、既に国産ゴジラ映画でも何度も登場している存在であるということ。だからこそファンは喜ぶし、ファンでなくともやはりゴジラとコングの共通の敵として機械化されたゴジラが出てくるというのはテンションが上がるだろう。だが、赤毛の猿…2Pカラーの猿ごときに続編のラスボスが果たして務まるのか…と心配し、いやむしろこいつは前座で終盤で他の怪獣が出てきたりするのではないだろうかと予想していた。だが、映画を観ても出てくるのは猿ばかり。コングは虫歯になり、かわいらしいけど狡猾なミニコングが登場し、劣悪な環境で奴隷としてこき使われる猿達が出現、そして満を持してスカーキングが姿を現す。

 

本当にごめんなさい。舐めていました、スカーキングを。倒した怪獣の骨を鞭のように使う攻撃方法、氷河期を招くほどの最強怪獣シーモを謎の宝石で操る卑劣さ、他の猿を虐げるという徹底的な悪役っぷり、かつてゴジラを窮地に立たせたという伝説。正直突然暴走した前作のメカゴジラが可愛く見えるくらいに「ヤバい」やつだったのだ。コングの銀歯を馬鹿にしたり、玉座の周りに女猿を大量に侍らせていたりと、もう細かい部分の全てが「スカーキングは凶悪です」と物語っている。姿勢も悪いし、表情にも嫌味な感じが出ていて、コングの宿敵としてこれ以上の配役はないなというか。よくこんなキャストを探してきましたね、アダム・ウィンガード監督…。あまり情報がなかったシーモの最強っぷりと扱いにも驚いたが、やはりスカーキングの一連の行動や演技にはとてつもない衝撃を受けてしまった。猿VS猿でもまだこんなにやれることがあるのか…と。人間キャストなしの地下施設での猿たちのシーン。普通は人間が言葉で実況してくれるものだと思うが、この映画はコングとスカーキングの表情や動きだけで物語を進めていく。言葉はないのに、彼等が何を考え、何をしようとしているかが明確に分かるのだ。あまりに面白すぎてずっと笑ってしまったが、これは考えれば凄いこと。コングの正義感っぷりとスカーキングのヒールっぷりを、視覚的な情報だけで楽しむことができる。こんな映像体験は初めてで、今思い返してもそのシーンの面白さと徹底っぷりに頭が下がる。実際パンフレットを読むと監督は昭和ゴジラに散見された、言葉のない怪獣同士のコミュニケーションを再現しようとしたと語っており、それがとても良い形で出てきたなあと思う。試みが完全に成功しているのだ。それにしても複数の猿だけで十分近く持たせるのはあまりに面白すぎるのだけれども。

 

また、前作で自分の種族は既に絶滅しており自身が最後の生き残りだと知ったコングの、冒頭の独身男性っぷりも楽しい。襲い来る怪獣に対応する姿は仕事に追われるサラリーマンのようだし、そんな中で好きなものを食べて虫歯になってしまうというのもお茶目でかわいい。人間臭くなりすぎてはいるが、コングが人間臭くなっているというのがもうだいぶ面白いので自分としては全然有りである。コングがくたびれている一方で、ゴジラの自由気まま具合も素晴らしい。地上で大暴れする怪獣があれば急いで駆けつけ殺戮を繰り返す。その度に人類にも強大な被害が出るが当然一切気にしない。気に入らないものは徹底的に排除するし、気に入ったコロッセオは自分の寝床にする。王としての地位を謳歌するその傍若無人っぷりは孤独を抱えているコングと正反対で、仮に前作を知らずとも、ゴジラとコングの立ち位置やマインドが対局の位置にあることが分かるようになっているのだ。にしても、ゴジラコロッセオで寝かせるというのが凄い。一時期はゴジラにシェーをさせるだけで色々と言われていたものだけれど、今やゴジラはまるで猫のようにコロッセオで眠るのだ。

 

細かいことを言うと、地下の猿達の毛並みが軒並み悪いのがすごくよかった。ちょっとハゲてたりとか。多分劣悪な環境で働かされているが故のものなのだろう。対するコングは髑髏島で悠々と育ったこともあり、フッサフサなのである。スカーキングに虐げられてる猿達の健康状態を毛並みで表現しているというのが面白すぎる。スーコという名前のミニコングも、少年漫画によくいる、主役を助ける子どもポジションとして楽しめた。ただかわいいだけじゃなく、ちゃんと彼にも成長譚のドラマがあるのだ。そしてゴジラと対をなす存在であるシーモにも、スカーキングに虐げられてきたという背景がある。リオデジャネイロでのラストバトル、猿同士でシーモを操る宝石を奪い合うのが素晴らしい。本来こういう「怪獣を操る装置の争奪戦」は人間の役割なのである。現に『キング・オブ・モンスターズ』でも、怪獣を目覚めさせる装置=オルカを人間達が奪い合う物語が展開されていた。要は怪獣を悪用しようという存在と、それを防ごうとする主人公サイドのドラマとして、この「装置の奪い合い」は怪獣映画においてお家芸なのである。しかしこの映画において主役は怪獣達なのだ。そのため、これまでは人間達がやってきたことさえも怪獣達がこなす。一挙手一投足がビルを破壊するスケールでの宝石の奪い合い。正直こんなものは考えたこともなかった。怪獣映画ではよくあるシーンなのに、それを怪獣達がやっているということがこんなにも新鮮に感じられるだなんてという驚き。とはいえ、登場する人間達も前作に引き続き魅力的で、人数も限られているため印象に残りやすい。怪獣達が主役という前提はあるものの、決して人間達を置き去りにしない辺りの細かい采配。やっていることはバカ映画なのに、作り込みが徹底されていることが窺える。

 

モスラの登場は事前に明かされていたけれど、あれは公開まで隠していてもよかったかもしれない。ゴジラとコングの仲介役になるという流れは過去作のオマージュを感じられてすごくよかったです。というかコングが地上に出てきた瞬間に殺そうとしていたゴジラをなだめるモスラの格ですよ。

地下施設では重力操作によって猿達に空中戦を強いたりと、とにかく話題性に事欠かない本作。普通の劇場で観てしまったが、時間の都合さえ合えばIMAXなどのスクリーンでもう一度鑑賞したい。国産ゴジラもきっとまだまだ続いていくだろうが、ハリウッド版もこのテンションで駆け抜けていただきたいものである。怪獣プロレスを現代の最先端映像技術で再現し、おまけに徹底的に怪獣を中心に据えた物語展開。2時間があっという間に感じるくらいアクションとバトルが山盛りで、ドラマパートも猿達のドラマパートなので目が離せない。これから『猿の惑星』の新作が公開されるというのにこんなに猿を浴びて私たちは大丈夫なのだろうか。

きっとこれからも新しい怪獣もしくは既存の怪獣のハリウッドリメイクをするだけで永遠に楽しめるコンテンツになるだろう。今のところ情報はないようだが、このテンションでこれからもハリウッド版ゴジラをお願いしたい。

 

 

 

 

 

 

 

Vシネクスト『王様戦隊キングオージャーVSドンブラザーズ』・『王様戦隊キングオージャーVSキョウリュウジャー』感想

『キングオージャーVSドンブラザーズ』『キングオージャーVSキョウリュウジャー』 特別版ドンブラ ver.(初回生産限定) [Blu-ray]

 

はじめに自分の各作品へのスタンスを示しておきたい。

『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』はこれまでにないくらい素晴らしい作品だった。

『王様戦隊キングオージャー』は縦軸の物語のあまりの拙さに辟易しながらの視聴だった。

『獣電戦隊キョウリュウジャー』は放送当時こそノれなかったものの、繰り返し試聴していくうちにかなり好きになった。

 

ちなみに、『キングオージャー』と『ドンブラザーズ』についてはそれぞれ放送後すぐに感想を書いている。

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

 

『キングオージャー』と『ドンブラザーズ』に正反対の思いを抱いていた自分としては、今作の脚本が高野水登さんだと聞いた時点で肩を落とす結果となり、全く期待もしていなかったのである。しかしその分、いろいろ割り切って観ることができたのかもしれない。率直に言うと今回のVシネ、2作ともかなり面白かった。

 

キングオージャーVSドンブラザーズ

2作のテンションがあまりに違うので1つずつ触れていきたい。まずは前半の『キングオージャーVSドンブラザーズ』(通称キンドン)から。私は前述の通り『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』を心の底から楽しめる傑作だと思っており、反対に『王様戦隊キングオージャー』をあまりに拙い作品だと捉えている。今作は脚本が『キングオージャー』の高野さんだったのでかなり落胆したのだが、それが逆に良かった。私としては本作は非常に見事な『ドンブラザーズ』のトレースであり、「ドンブラザーズを丁寧に研究して作った作品」であることが強く感じられる1作だったのだ。

端的に言うのならば、「高野水登さんのオタク気質を思いっきり堪能できる」のである。『ドンブラザーズ』の旨味を上手く抽出し、物語として昇華する。すごく丁寧に作られた二次創作のように、違和感がなかった。井上脚本っぽさは感じられないのだけれど、『ドンブラザーズ』へのリスペクトが欠けているというようなことはないと思う。

冒頭、いきなりシュゴッダムに荷物を届けに来る桃井タロウ。本来なら惑星すら違うはずだがそんなことはお構いなしに玉座の前に堂々と現れる。けれどよく考えてみれば前作『ドンブラザーズVSゼンカイジャー』でも最終回で失われたタロウの記憶をラーメンで思い出させるような作品だったのだから、整合性などどうでもいい。むしろ2作の世界観の擦り合わせに変に理屈をつけているほうが収まりが悪い気もする。どうせ繋げるのが難しいならさっさと繋げてしまおうという潔さは、『ドンブラザーズ』本編にも度々感じられるものだった。ギラが餅を詰まらせて死ぬというのも『キングオージャー』本編にはない馬鹿馬鹿しさで、新しい側の戦隊であるキングオがドンブラの世界観に寄せてきているのもいい。そしてシュゴッダムでカブタンを見たタロウは、自分の子どもの頃の友達であったカブトムシのギィちゃんを思い出す。偶然居合わせたブーンにギィちゃんのことを尋ね、ハーカバーカにいるのではと聞くと、自ら嘘をついて死ぬ。確かにキングオージャーのメインモチーフである昆虫要素とドンブラを繋げるのならその接点くらいしかないのだけれど、そういう細かいネタを拾ってくる辺りのオタク仕草が新鮮で嬉しい。おそらくだがこういう仕込みは井上脚本だったら存在しない。というように、井上脚本だったらまずこういう作りはしないよなあ…という部分が度々見受けられるのだけれど、それらはドンブラで登場した要素の構成(雉野がキングオージャーにやられてるとか)であり、普通の作品なら絶対にやるべきことかつ井上敏樹が絶対にやらなそうなことなので、そのギャップが妙に面白くもある。というかこれは敏樹がちょっとおかしい。けれど、井上脚本にない攻め方で井上脚本を再現するというのがすごく自然で、ハードルを低めに設定していたにも関わらず思わず感心してしまったのである。

 

そこから続く、それぞれの戦隊メンバーが絡む件ではVシネっぽさが色濃く出ている。前作のVシネはそれぞれパートが分かれていて前々作は焼肉対決だったので、この各メンバー毎に絡む懐かしの構図に嬉しくなる。そこで反発してラストバトルで共闘というのがお決まりの流れだが、今回は尺も短めなのであまり反発もないままにキャラのやり取りを楽しめるというのは斬新だった。またしてもヒトツ鬼になった大野に関してもさすがにもう驚きはないのですんなりと受け入れられ、そしてまた案外あっさりと倒されるのもお馴染みになっている。一点、リタ・ヒメノ・はるか・ソノザの「子ども向け番組論争」に関しては高野さんの心の声があまりに漏れすぎているようにも思いため息が出たが、それが作品のテーマになっているというようなことはなかったので安心した。これが大きくピックアップされていたら作品のイメージもだいぶ違ったものになっていたかもしれないが、これくらいの小ネタなら全然許容範囲である。ただやはり気になったのは、ソノイについてだろう。多くのファンはハーカバーカが舞台という時点でソノイ登場を察していたようだが、私は一切考えていなかったので当日劇場で鑑賞して心底驚いてしまった。まずは、高野さんよくソノイに触れたな…とその勇気を称賛したい。前作でもあっさりと命を落とし、ソノザに看取られるのみという何とも言い難い死に方をしたソノイ。そんな彼のその後、ましてタロウとのやり取りにメインライターでもないのに触れるというのはかなり勇気の必要なことだったと思う。結果的に言うと、私は登場に驚きこそしたものの、「場所が違うだけ」という彼の言葉に納得はしていないし、特に感動することもなかった。場所が違うも何も、ハーカバーカは『キングオージャー』の世界での舞台。『ドンブラザーズ』において死後の世界は存在しないのである。これが井上脚本で扱われていたらまた違っただろうけれども、正直に言って高野さんが描くタロウとソノイのその後にはあまり興味がない。作品自体は楽しめたが、それはあくまでこれが番外編的立ち位置であったからにすぎないのである。なので、このソノイの曖昧な言葉に対して怒りを募らせている人をSNSで見かけ、まあ怒るよなとも思ってしまった。この作品でソノイに関しては唯一、タロウとソノイを再会させたという意味で「公式がドンブラの物語を進めてしまった」部分なので。

 

本作は、特にテーマがあるわけではないというのが逆に『ドンブラザーズ』らしく、ただ単にドンブラとキングオの間に縁を繋いだだけのちょっとしたコメディ回という肌触りが心地よかった。変に重い物語が来たらどうしようとも懸念していたのだが、30分という枠もあってか杞憂に終わったのである。元々私は『映画 王様戦隊キングオージャー  アドベンチャー・ヘブン』や本編入れ替わり回などの短編はかなり楽しんで観ていたので、実は高野さんは短編を書かせるとかなり良いものを作る人なんじゃないかなと密かに思っている。何より『キングオージャー』の悪いところはシリアスとコメディの落差にあると考えているため、コメディに振り切ったような今作は高野脚本と凄く相性が良かったのかもしれない。『ドンブリーズ』で井上脚本以外のドンブラは駄目だな…と思ってしまった自分でも、この作品はすごく楽しむことができた。

 

 

キングオージャーVSキョウリュウジャー

『王様戦隊キングオージャーVSキョウリュウジャー』(通称キンキョウ)は打って変わってかなりストーリーの濃い作品。まず触れたいのは何よりキョウリュウジャーの勢揃いである。Vシネが2作同時上映でその上キョウリュウジャーが全員揃うと聞いた時は正に「聞いて驚け!」状態だったが、実際それをかなり高いクオリティで映像にしてくれて本当に驚いている。竜星涼のキングがまた観られるだけでも儲けもの…くらいに捉えていたのにその100倍は良かった。というか良すぎた。自分は『キョウリュウジャー』をリアタイこそしていたものの、最近観返してようやくその魅力に気付いた人間なので素直に感動したが、これは思い入れがもっと強い人なら号泣してしまうのではないだろうかと、そんな風に勝手に心配してしまうほどに素晴らしい出来である。『VSドンブラザーズ』が前座に感じられてしまうくらいには気合の入り方が違う。いやどちらも面白い作品なのだけれど、この『VSキョウリュウジャー』は熱量が段違いなのだ。当時のキャストやスタッフもかなり気合を入れて作品に取り組んだことがよく分かるのである。

 

冒頭、竜星涼のあの発声でのキョウリュウチェンジ。当時と全然声が変わっていない辺り、10年前既に彼の演技は完成されていたんだなと感慨深くなる。ノリノリのキング、坂本監督味に溢れる構図とアクション、数分前とあまりに違うノリのギラ。同時上映の意味がちゃんとあるというか、同じ人が脚本を書いているのに2作品のトーンがまるで違うのが素直に凄い。『キングオージャー』本編では活躍できなかった空蝉丸と弥生の登場で更にテンションは上がっていく。その分逆に他メンバーの出番が少ないな…とも思ってしまったが、レッド・ゴールド・バイオレットの活躍だけでご褒美なので欲は言わない。何より揃ってキョウリュウチェンジしてくれたというだけで嬉しいのだ。しかもトリンやグレー、シアン、更にはラストに桐生ダンテツまで。あまりの情報量に頭がクラクラするくらいである。しかし何と言ってもウッチー。ウッチーのポンコツ具合により歴史がどんどん改変され、最終的に宇蟲王ギラが誕生してしまう。これが凄くよかった。『キングオージャー』本編ではこういう一メンバーの子供じみたやらかしが、世界規模の悲劇に繋がっているのに何故か放っておいたり(ンコソパ壊滅後のヤンマとか)有耶無耶にしたりしれっと解決したりということが多すぎたのである。制作側の事情などが関係していることもあるのかもしれないが、そういうモヤモヤを残したまま物語だけが前に進んでいくことがストレスでしょうがなかった。シリアスの顔をしているのに制作側のやりたいことだけが優先され、観ているこちらの感情を置いてけぼりにするような作風に辟易していたのだ。しかし、今作では30分という尺の短さもあるが、ウッチーがポンコツすぎるというだけで全てが成り立ってしまう。そしてそれもちょっと弥生に寄りかかってしまったり、幼いギラにお腹いっぱい食べさせてあげたくなったりという、コメディとして笑えるくらいの丁度よさだったのがよかった。「ウッチーのせいじゃん!」とツッコミを入れられる楽しさというか、こういう遊びのあるキャラクターが『キングオージャー』本編にはいなかったので、ウッチーをうまく利用したなあと思った。ウッチーなら実際こういうことやりそうなのがまたいいし、それに対して「あなたのせいですよ!」的な弥生の態度が見られるのも楽しい。また、『VSドンブラザーズ』と同様、『キョウリュウジャー』に関しての解像度も非常に高く、高野脚本のオタク具合にひれ伏してしまった。高野さん、メインライターを務めるよりもゲスト脚本の立ち位置のほうが輝く人なのかもしれない。

 

対するキングオージャー側のif世界線ルートも凄く面白かった。ンコソパのてっぺんを取れなかったヤンマ、落ちぶれたヒメノ、宝塚スターみたいになってしまったリタ、相撲の八百長試合で日銭を稼ぐカグラギ、チャラチャラしたジェレミー、そして悪役のギラ。演者達もノリノリでやっているのが伝わってきたし、スーパー戦隊の「帰ってきた」シリーズ当初のような趣が非常に懐かしくもある。それでいて、『キングオージャー』本編でのセリフや展開をうまく挿入する手腕も見事。さすがにプリンスがギラに抱き着いて「優しい邪悪の王様のままでいてね…」が宇蟲王ギラに結び付くのはオタクすぎるだろと笑ってしまったが、ところどころであのコラボ回と地続きだということを匂わせてくるのは凄く良かった。その他にもソウジがトリンに剣を渡すとか、細かい加点があまりに多い。三条さんがバックについていたんじゃないかと思ってしまう。いや当時のチーフPの大森さんがそもそも今回もプロデューサーを務めているのだけれども。

 

ただよく分からなかったのは時間改変の設定である。そもそもこういう時間改変もののでは「改変をなかったことにして本来の未来を取り戻さなくちゃ」がゴールに設定されるはずなのに、改変が終わっても改変後の世界は続いていて、そこでキングオージャーメンバーの本筋の記憶を取り戻す作業をして一緒に敵を倒す…というのがよく分からなかった。ウッチーがレインボージュルリラをギラに食べさせなかったことで正史に戻ってめでたしめでたしなのではないだろうか。何か見落としたか…とも思ったけれど、まあそういう細かい疑問を吹き飛ばすくらいに作品のテンションと勢いが凄まじかったのでそこまで大きな問題だとは思っていない。

 

最後に

という形でそれぞれについて述べさせてもらったのだが、やっぱりよかったなと思うのは、どちらも「ファンムービー」的な内容になっていたことだろう。もちろん作品の出来に関しては個人によって受け取り方が異なるものだと思うが、変に重いテーマを作品に背負わせず、ドンブラザーズとキョウリュウジャーの世界観や「らしさ」を表現しようとしたという姿勢が、この良さに繋がっている気がする。何より『キングオージャー』の良い部分も、世界観の構築だと思っている人間なので、そういう意味で今回の2作は高野さんの脚本と相性が良かったというか、高野さんが自分のフィールドに持って行ったというか、そのような感想を抱いた。これでドンブラザーズやキョウリュウジャーがヒーロー性などを説いてきたり、キングオージャーと激しく対立し彼等を諭すような内容だったら自分も楽しめなかったかもしれないが、あくまで世界観を表現することにのみこだわった(意図的にかは不明だが)点、その潔さにはかなり好感が持てる。ただ、だからこそソノイを出したのはちょっと安易だったのではという気もするし、でも出さないのも不自然な気もするし…とその点に関しては未だモヤモヤしている。ただ2作品とも驚くほど面白かったので、『キングオージャー』本編で地に堕ちた高野さんの評価を少し変えなくてはな…とは思っている。現行の『爆上戦隊ブンブンジャー』がかなり面白いので、今から来年のVシネクストも楽しみである。

 

 

 

 

 

 

【週報】2024/4/8~2024/4/21 キョウリュウとコロナとギアス

2週間ぶりの週報です。前回突発的に始めたくせにもう週一ペースすら守れていない。しかしこれには理由がある。言い訳をさせてもらいたい。コロナになりました。

 

正確にはコロナと診断されたわけじゃないのだけれど、状況や病状から判断してどう考えてもコロナだろうなと。濃厚接触者(という言い方ももう今の分類だと存在しないみたいです)になったことが判明した翌日には頭痛、発熱、激しい喉の痛み。普段熱が出てもせいぜい37度台なのに今回は39度までいった。その熱の高さゆえに、勝手ですがコロナに罹ったとしています。喉の痛みも酷く、口を開けなくてもずっとゴロゴロ違和感が。そんな状況だったにも関わらず、職場ではコロナはもう風邪と同じ扱いになっていたため、特別休暇などは一切なし。転職したばかりで有給の使えない自分はどれだけ熱が出ようと出勤せざるを得なかった。動かなければまあまあまあという具合だったのだけれど通勤がかなりキツかった。肉体的にも、あとこんな病状なのに電車乗っていいのかなという精神的にも。ただ代わりが見つからない限りは容易に休めないシフト制の現場なので、当日いきなり休みますということがなかなかできない。大した仕事量ではないけれど本当に連日頑張ったなと…。普段だったら速攻で休んでますね。

 

その上、4/21に応用情報の試験が控えていまして。半年に1度しかチャンスのない試験なのでこれを流せば次の機会は10月。もう勉強したくないし何としてもここで受かっておきたい…のに具合が悪い…治ってもなんか映画とか観るのは勉強から逃げてるみたいで罪悪感が…でも勉強したくない…という負のループに陥り、本当にただダラダラと過ごすだけの日々が続いていた。自分でもびっくりするくらい、昼まで寝て適当に外でご飯を買って食べ、また寝るという生産性ゼロの日々。自分ってこんなに堕落できるんだ…という発見があったのがせめてもの収穫でした。でも学生の時、テスト前とかもこんな感じだった気がする。勉強はしたくないけど他のことをするのも気が引けてしまって、結局ただただ時間が消えていく、という。大人になってまたこんな経験をすることになるとは。仕事の都合でこれからもまだまだ資格試験を受けることになりそうなので、次はせめて体調だけは整えたい。

 

何もしてね〜みたいに言いましたが、『獣電戦隊キョウリュウジャー』は見事観終わりました。いつも暇な時間をずっと視聴に費やして、途中ほぼ惰性で観てしまうために内容をまるで覚えていないというアホな結果になるのですが、1日4話という制限を設けてこれを見事に解決。4話くらいならじっくり楽しめますね。30分ものはこれからもなるべくこのペースでいくことにしようと思う。そして『キョウリュウジャー』、本当に面白かった。と同時に、この突き抜けた明るさは中学生の頃の擦れた自分には確かに合わなかったなあと実感。当時観たかったのは考えさせられるようなシリアスな作品だったし、今でもやっぱりそういう作品を求めてしまうのだけれど、『キョウリュウジャー』はどちらかというと勢いを重視していくような作品なので、肌に合わない人にはとことん合わないなあと。でもようやく楽しめるフェーズに来ました。ただ度々言われているように、レッド一強の意味合いが強い作品だなあとは相変わらず思っています。そもそも強化形態がレッドしかないのも当時の流れからすると驚きだったし。もちろんキングに負けないくらいの個性を全員が持っているのだけれど、それでもやっぱりキングを中心にした戦隊だなあという印象は拭えない。でも次々とキョウリュウジャーが出てきて最終的に10人になって終盤では力を受け継いだ面々までキョウリュウチェンジしちゃうノリはもう圧巻。この勢いはそう簡単に出せるものじゃない。『キングオージャー』の最終決戦でも同じことをやっていたけれど、やっぱり持つ熱量は段違いだった。あんまり言うと『キングオージャー』への攻撃みたくなっちゃうのでやめるが、そのキョウリュウチェンジにちゃんと感動が乗っかるのは嬉しかったですね。それと劇場版の『ガブリンチョ・オブ・ミュージック』とVシネの『100 YEARS AFTER』がめちゃくちゃ面白かった。特に劇場版に関してはきっと自分が幼稚園生くらいでこれを観ていたらきっと一生忘れられない作品になっただろうなあというくらい。アクションもミュージカルも敵の設定もトバスピノも最高だった。シナリオ的にも、この映画でメインとして扱われた「音楽」がキョウリュウジャーの大筋に繋がっていっていて、かなり分岐点的な劇場版だなあという印象を持った。最初の音楽要素は曲に合わせて踊りながら変身するくらいだったのに、地球のメロディにまで発展するとは。

 

そして『キョウリュウジャー』が終わったので続いては『コードギアス』を。新作の予習で久々に鑑賞しているが、これもまあ面白い。前に観たのは『復活のルルーシュ』公開前で、ロボットアニメを今でもほとんど知らないのでとにかく作品の持つ勢いというか推進力に圧倒されつつ一気に観たおかげで全然内容を覚えていなかったのだけれど、細かく観るとルルーシュ中二病っぷりと細かいことを気にせず未来へ突き進んでいくある種傲慢ですらある決断力にゲラゲラ笑ってしまった。『コードギアス』の魅力は細かいことを考えずとも楽しめるのに、細部にまでしっかり魂が宿った作品であるということだと思う。2周目の今回はじっくり観ていきたい。

 

他にもいろいろあった気がするのだけれど、何せもう日数が経過してしまっているので細かいところまで思い出せない。来週からはちゃんと書こうと思う、自分のためにも…。

【週報】2024/4/1~2024/4/7 オーメンとキョウリュウとヒロアカ

このブログでは主に映画やドラマの感想をまとめているのだけれど、それだけじゃあどうも面白くないよなあと思い、1週間毎に簡単な日記でも書こうかなと筆を執った。結構はてなブログ等を巡回していると同じことをやっていることが多くて、自分もやってみたいなあと興味を持ったというのもある。会ったこともない人のなんてことない一週間の記録が結構面白かったりするのだ。自分の一週間が面白くなるか、なったとしてそれを文章で面白く書けるのかというのは分からないけれども。ただ自分だけが見るための日記だと、筆不精の自分では続かない。ということでこのブログを活用することにした。

 

前々からこういうのはやってみたかったのだけれど、今年は4月1日が月曜日ということでかなりタイミングがいいじゃないかと見計らっていたのである。しかしまあ、結局4月9日に書いているのでダメだなあと思う。こういうのは少しずつ書いていくのがいいだろうに。とはいえここを逃したらもう始める気を失ってしまう可能性があるので、1日遅れながら書くことにした。

 

先週は何があっただろう…と思い返すと、やっぱり「新年度」だった。

1月から今の職場に配属された自分に、この春ようやく後輩ができたのである。最初2日間の教育係を任された時はあまりの荷の重さにくじけそうになり、3月終盤はそのことで頭がいっぱいだったが、非常に善良な好青年で心配は杞憂に終わった。たくさん話してくれるわけではないけれど、こちらが話したことや教えたことはちゃんと聞いてくれる丁度よさ。後輩を持つと、自分の「教育される側」としてのスタンスが正しかったのか答え合わせをしているような気分になる。こういう受け答えはできていたかなとか、ちゃんと分からないことを確認していたかな、とか。同時に、自分の中でまだ形になっていなかった仕事の流れも、他人に言語化することによって鮮明になってきたように思う。思うだけかもしれないけれど。

 

正直今の職場は成長性がなく今すぐにでも離れたいと前々から考えていたのだけれど、気軽に話せる後輩という存在のおかげで、少し職場を好きになれた気もする。配置変えもあって同じシフトで働く人も変わったのだが、以前ペアを組んでいた方よりずっと良いような気がした。井の中の蛙大海を知らずと言うが、シフトが変わっただけでこうも見える世界が変わるものか…と驚いた春だった。

 

映画は『デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション 前編』と『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』を観た。ゴーバスについては感想を記事にもまとめたのだけれど、かなりガッカリしたというのが本音である。お祭ムービー的なノリのはずなのにアクションがショボくてショボくて…。前作『アフターライフ』が傑作だっただけに落差を感じてしまった。

 

curepretottoko.hatenablog.jp

 

 

対する『デデデ』(こう略すのが正しいのかは分からないけれど)、3月中に漫画を大人買いして一気に読んだらまあこれが面白くて面白くて。浅野いにおという作家を読まずしてちょっと敬遠していたわけだけれど、こんなことならもっと早く読んでおけばよかったと後悔。セカイ系のジャンルだしオタク的な言葉遣いが飛び交うタイプの作品だから好みは分かれそうだけど、このサブカルに肩まで浸かったような作風の中で、二人の少女の互いを「絶対的」に想い合う絆が美しく煌めく姿が本当に素晴らしかった。映画は原作者も関わっているらしいのだけれど、原作では後半に明かされた謎が既に前編で開示されて驚き。そこを変えるのかあという大胆さが良かった。自分の都合ではあるけれど、少し前に漫画を読んだばっかりの作品の映像化なんて正直漫画そのまんまだったら全然楽しめないので…。時系列に工夫を凝らしたり、オリジナル展開があったりしたほうが好きだったりする。そういう意味で後編が非常に楽しみ。きっとアクションも盛りだくさんになるだろうし。

 

自宅では「オーメン」シリーズをひたすら観ていた。新作というか前日譚がいよいよ公開になるので。1日に公開なのだけれど、9日現在、まだ観られていないし観る目途も立っていない。せっかく5作品も予習したのでちゃんと観たいんですけどね…。一応簡単に各作品の感想を述べておくと、1作目の『オーメン』はすごく面白かった。確か大学時代にも一度観ているのだけれど、あの時はガラス板で首がスパーンと飛ぶ死に方が衝撃的で、その印象だけが強烈に焼き付いていたのである。改めて観ると死に方博覧会みたいな映画で、とにかく人の死に方が印象的。悪魔の子ダミアンに関わると命を落とすという恐怖と、育ててきた子どもを殺さなければならなくなった男の葛藤。ドラマ性も強く、ホラー映画の金字塔となっているのも納得の出来でした。

 

続く2作目でダミアンは思春期に突入。共に育った幼馴染のような存在の少年との友情が描かれ、同時に「自分が悪魔の子であると知る」という一大イベントが待っている。1作目とはかなり趣が違うのだけれど、「何となく」でダミアンを嫌う身内のババアと養父母がいがみ合う構図が好きだった。ただ1作目のあまりのクオリティにちょっと押し黙ってしまうみたいなところはる。その次の3作目『最後の闘争』ではダミアンは大人になっており、大企業の社長に。ダミアンを殺せるメギドの短剣を持った7人の神父がダミアンを殺そうと躍起になるのだけれど、まあこれが本当にあっさりとやられていく。ダミアンもダミアンで自分を倒せる存在が生まれたことを知り、3月24日に生まれた乳児を次々に殺していくという怯えっぷり。ただ2作目までとは違い、信者がかなりの数いる様子。自分がこの3作目にして思ってしまったのは、「結局ダミアンって何がしたいの?」ということ。悪魔の子という触れ込みでスタートした1作目と、まだ思春期で社会に溶け込む途中だった2作目では、恐怖の根源は彼の「可能性」に内包されていた。要するに「この子は将来世界を滅ぼす」という恐怖である。関わる人物が次々と命を落とすことでその恐怖はリアリティを増していくのだけれど、3作目のダミアンはもう大人になってしまっている。不思議な力で敵を殺す…などではなくて、結構人力で殺人を犯していくのだ。信者に頼むだけ。こ、これが悪魔の子…となってしまう。ただの悪いおじさんではないだろうか。主人公のダミアンの葛藤や恐怖もしっかりと描かれかなり人間臭くなってしまっているため、正直どの辺がオカルト映画なのか分からない。これならいっそ超能力持ちで見ただけで人の命を奪えるとかそれくらいのほうが清々しい。7人の神父達も呆気なく倒されてしまい、緊迫感も薄い。と思いきや一人の女性が後ろからサラッと刺しただけでダミアンは命を落としてしまう。ホラー映画の続きってこういう風になりがちではあるけれど、1作目のクオリティが高いだけに非常に残念だった。

 

4作目はちょっと趣向が変わっている。ダミアンの死後新たに生まれた悪魔の子、今度は女の子の物語なのだ。しかしやっていることは1作目とほぼ同じ。何ならポケモンの赤と緑くらいの違いしかないという程度に同じなのである。オーメンモンスター ダミアン/ディーリアみたいな。もっと言うと、ディーリア版は殺人描写がややマイルドになっているかもしれない。後フィルムの質感が明るくなったので、雰囲気もそこまで暗くない。ただ話は一本調子なので見やすくはあるかなあ、と。そして最後はリメイクの『オーメン666』。これだけは今Amazon Primeで配信されているのだけれど、これがまんま1作目と同じ。本当に展開もほぼ変わっていないし画面の構図さえ全く同じの箇所がある。世代が一巡したということでもあるのだろうけど、こんなにも同じリメイクがこの世にあるんだ…と驚いてしまった。同じすぎて特に感想はない。強いて言えば吹き替え版の主人公の声優が東地宏樹さんだったので、海外ドラマ『スーパーナチュラル』のディーンを思い出しながら観ていた。オカルト用語が飛び交うので余計に意識してしまいました。

 

後は『獣電戦隊キョウリュウジャー』の視聴を始めました。もう通算3回目か4回目になる気がする。正直これまでは自分の好きなノリではないなあという気持ちが強くて、でも続編等の度に全話視聴していたのだけれど、今回はマジで面白いです。自分のキョウリュウジャーという作品に対しての向き合い方がまるで変わっている様子。三条脚本の小物使いの上手さに舌を巻きながら、序盤でも縦軸の物語がぐんぐん進むスピード感にひれ伏しています。キャラクターの分かりやすさも凄いし、恐竜と電池を掛け合わせた諸々のデザインにも惚れ惚れしてしまう。プレバンで予約受付中のガブリボルバーほかを買おうか真剣に検討しているくらい。

キングだけが優遇されている作品というイメージがすごく強かったし、それは今も結構感じるのだけれど、それでも竜星涼のキングにはやっぱりついていきたくなる気持ち良さがある。というかこの竜星涼の魅力に気付くまでに10年かかってしまった。リアルタイムでは分からなくても数年越しに観ると全然見え方が変わってきたりするので、やっぱりその時々で感想をしっかりまとめておくのは大切なことだよなあと改めて。これを書いている時点では13話まで観ました。もう追加戦士のゴールドが仲間入りを果たしているスピード感。本当に飽きさせないというか、こっちの脳みそにドバドバ情報叩き込んでくるのが快感でしょうがない。

 

最後に、『僕のヒーローアカデミア』の漫画を読み始めました。これももう何周かしているのだけれど、序盤が無料だったので改めて。95話まで。最初読んだ時はこれもノリがキツくて結構距離を取っていたのだけれど、いつの間にか涙ぐむくらいに自分の心を揺さぶる作品になっていた。学生時代全然友達がいなかった人間なので、A組が一丸となるノリが結構ついていけなかっただけなんですよね。でも大人になってそういうものと離れていくにつれて、徐々にその眩しさに胸を打たれるようになったというか。今でもギャグがちょっと子どもっぽいなとかは思うのだけれど、感動するシーンでは自然と涙を流しているくらい好きです。とはいえ定期購読中のジャンプを1年溜めているので全然展開にはついていけてないのだけれど…。夏に公開される映画ではオールマイトの「次は君だ」を自分のことだと受け取った男がダークマイトとして暴れ回るらしく、これが非常に楽しみ。ヒロアカは間違ったヒーローという部分にどんどん切り込んでいく作品なので、その集大成が観られると嬉しい。

 

とまあ最初の週報はこんな感じで。出不精なので結局観た映画の話ばかりになってしまうのが悲しい。多分来週も同じ話題が続きます。

映画『ゴーストバスターズ/フローズン・サマー』感想

 

最初に思ったのは、「みんな大人になってる!」だった。特にフィービー役のマッケナ・グレイス、ポッドキャスト役のローガン・キム。前作『アフターライフ』の頃はまだ子どもだったのに…。時の流れを感じさせてくる圧倒的成長。自分は特にこのシリーズに思い入れもないのだけれど、『アフターライフ』のジュブナイル感が凄く好きで当時劇場で観てかなり興奮した記憶がある。ストレンジャーシングス感というかIT感というか、少し前に流行したジュブナイルホラーの系譜としてとても面白かった。フィン・ウルフハードが出てるからそう思うだけだろと言われても全く反論はできない。『アフターライフ』の良かったところはオタクでクラスからも浮いていたフィービー含め、とにかく周囲に馴染めずにいたスペングラー家が一つとなってゴーストと戦うという構図。本当にこれに尽きる。多分自分が小学生でこの映画を劇場に観に行っていたら、一生忘れない体験になっていただろうなあという感触があった。今でこそこういう子ども向けの幽霊映画はあまり見なくなったが、その枠としてすごく真摯だし、シリーズの新作としても誠実な作品だなあと今でも思う。

 

その制作陣がほぼ続投ということで、過去作をちゃんと全部予習するくらいには期待していた。そんな中で2016年版の『ゴーストバスターズ』が結構今の自分の好みにドンピシャだったなあという発見もあったりした。あのバカなノリが愛しすぎる。話を『フローズン・サマー』に戻すと、ちょっと期待外れだったかなという印象。話自体はコンパクトにまとまっているし、複雑なことを考えなくていい、理解しやすい映画でその点は良かった。けれど同時にすごく取っ散らかってるというか、結局何が言いたいの?と小一時間問い詰めたくなってしまって、あまり面白くはなかった。

 

冒頭、スペングラー家が一家総出でゴースト退治に勤しんでいて深く感動する。彼等が市民権を得てこうして活動しているのだという事実に、『アフターライフ』に心を打たれた人間としてはかなり舞い上がってしまった。ドローン型の捕獲器にもテンションが上がり、前とは違い進化したゴーストバスターズ…ではあるのだけれど、やはりやっていることは街の破壊。過去の作品にも前作にもあった、滅茶苦茶やって街を破壊してしまうという描写だった。それはお約束なのかもしれないけれど、それでもやはり何度も観ると気が滅入ってしまう。またこれをやるのか、と。しかもそれが冒頭に一か所あるだけではなく、フィービーの行動がとにかく裏目に出続けてしまうという映画なのだ。まだ子どもであることを理由に、バスターズの仕事から降ろされてしまうフィービー。もちろん共感はできるのだけれど、いや彼女が周りから浮いてしまうっていう話はもう前作で観たじゃん…という。成長した彼女の姿が見られて嬉しいはずなのに、話は前回のテーマを繰り返すようにフィービーを不遇に扱う。このギャップが結構受け入れきれず、う~んとなってしまった。

 

孤独で押しつぶされそうになるフィービーが出会うのが、幽霊の少女。一緒にチェスをして仲良くなり、何かとこの幽霊がフィービーに接してくるのだが、その目的はフィービーを利用してガラッカを復活させることだった。復活させれば家族に会わせてもらえるという約束だったのである。家族と折り合いが悪くなった先で出会う幽霊の少女という王道さ。徐々に心を開いていくフィービーがとにかく愛くるしいが、このやり取りが映画において重要であるはずなのに、かなり表面的なのも気になってしまった。もっとこう、お互いのセリフの中から気付きを得るとか、二人の唯一無二感を出していくとか…。結果的に幽霊はフィービーを利用してガラッカを復活させてしまうのだけれど、それに対しての「ごめんなさい」がちゃんと感動を生むような構成にはなってなかったように思った。もっと「やりたくなかったの…感」を出してほしかったなあ、と。

 

また、この映画では子ども扱いされることに悩むフィービーの他にも、必死に父親になろうとするゲイリーと、いつまでも大人になりきれないレイモンドのストーリーも展開される。キャリーと恋仲になりゴーストバスターズとしても活動するが、まだ家族ではないゲイリーが、思春期のフィービーと向き合う物語。そしていつまでもオカルトに傾倒し続けるレイモンドの葛藤。しかしそれらはてんでバラバラであり、映画としてまるでまとまっていない。個々の物語として確かに過去作からの流れで彼等はそこに悩むべきなのだろうけれど、それが映画としてまるで成立していないのだ。レイモンドの葛藤は最終決戦でサラッと解決してしまうし、ゲイリーの悩みもラストにフィービーにパパと呼ばれただけで終わってしまう。そして何より時間を掛けてきた子ども扱いされるフィービーのモヤモヤですら、ちゃんとしたところに着地しない。

 

やることなすこと全てがここまで裏目に出てしまえば、最終決戦でフィービーが大活躍を果たし人望を取り戻すのが順当だと思うのだが、一切そんなことはなかった。彼女はまたも勝手に行動(特に誰に話すわけでもなく真鍮の武器を作る)し、それが結果として勝利の鍵にはなったものの、周りがそれを称賛するシーンはなかった。仮に称賛していたとしても、彼女の軽率な行動によってガラッカが復活してしまったことは紛れもない事実であって、そこに対する反省が一切されなかったのはあまりにも怖い。「私がやってしまったのだから私が倒さなくちゃ!」という焦燥に駆られるようなことさえなかった。何なら幽霊に裏切られたことへの悲しみさえ描写されない。もちろん急いでガラッカを倒さなければという流れになるのは分かるのだけれど、それでも映画としてはやはりフィービーの心のケアをしてあげなくてはならないと思う。ましてそれをメインテーマとしてずっと掲げていたなら尚更である。

 

結局ガラッカを倒した喜びで、かろうじて積み重ねてきた描写さえ全て台無しになったように見えてしまった。あと、ファイヤーマスターが全然要らない。世界を凍らせる敵に対して炎を操る戦士が対抗するというのは少年漫画的ですごく燃える展開だけれど、あのキャラクター自体がそもそも全然いらなかった。他のキャラと交流を深めるでもないし、特別な魅力があるわけでもない。正直彼がいなくても物語は全然成立したように思う。旧ゴーストバスターズが揃うのも、もはやお約束になってしまったのであまり感慨深くはない。というか、まだ彼等に頼らないといけないのか…と残念に思ってしまった。サポートや補佐として動くならともかく、ラストバトルにも関わってくるし、レイモンドに関してはちゃんと悩みまで抱えているという…。もちろん彼等のことが嫌いなはずはないのだけれど、新しいキャラクターにもっと時間を割いてもいいのではないかなあ、と。

 

極めつけはラストバトルのしょぼさ。ガラッカによって世界が氷漬けに…!という恐ろしい規模の脅威を描いているのに、それがいつもの拠点で解決してしまうのは一体どうしたのだろうか。予算がなかったのかと邪推してしまう。復活すぐのビーチ氷漬けのほうが全然映像として迫力があった。確かにいつもの拠点のゴースト達を解放するというガラッカの目的上ラストバトルの場として相応しくはあるのだが、それでも狭い倉庫でビーム撃ってるだけなのはちょっとなあ…。何なら「夏」ということも全然強調できていなかったので、氷漬けの異常感もあまり出せていない。まあこれは原題は「FROZEN EMPIRE」なのでいいのだけれど…。ただやっぱり氷の幽霊を出すのであれば、もっとそれを文学的に表現したり、テーマと絡めてほしかったなあと思う。恐怖で動けなかったキャラクターが勇気を振り絞って敵に立ち向かうとか、その程度でもいい。世界が凍るというのが本当にただの脅威でしかなくて、文脈がまるで乗っていなかったのが気になってしまった。一応幽霊が持っていたマッチが役立つという描写はあるが、あまりにしょぼい。

 

そして初代ぶりに厄介者のペックが市長になって出てくる。初代と同様にゴーストバスターズを忌み嫌い徹底的に潰そうとするのだが、これもなんだかなあ…と。別に脅威として描かれているわけでもないし、彼がバスターズを壊滅に追い込んだことが全然物語の中で機能していない。何なら取り上げられた武器もすぐ取り戻せてしまう。本当にゲスト以上の意味合いがなく、そういう辺りの雑さも色々と気になってしまった。映画としてかなりツギハギだし、個々の描写も全然テンションを上げてくれない。せっかく『アフターライフ』で新たな道を切り拓いたはずなのに、どうしてこうも雑なスペクタクルムービーになってしまったのだろう。トレヴァーに関してはほとんど触れられていなかったし、キャラクターのその後を描いた作品としてもかなり不誠実に思えてしまった。決定的なのはラストに流れるゴーストバスターズのテーマソングが全然似合わない作品になっていたこと。あの陽気さも、前作にあったジュブナイル感も薄れてしまい、何だか抜け殻のような作品だった。かなり残念。それでもマッケナ・グレイスの魅力はめちゃくちゃ出てるので、スクリーンで彼女の演技を堪能できたのは良かった。