2024年4月26日をもちましてD'ARTISAN~Barber's PRIDE~は10周年を迎えます㊗️
今日はこの先読み返すであろう「備忘録」として書き残していこうと思います。
なので、長いです。
すっ飛ばしてもらって大丈夫ですので✋
まず、私は2011年の8月に高知に移住しました。
東日本大震災が起きた年です。
当時の私は東京で複数の店舗を持つ会社でサロンの責任者を任されていました。
サロンには活気があり、人間関係も良好でそれなりの収入もあった事から勤務することに不満はなく、むしろ充足感もあったように記憶しています。
そんな折、あの大震災が起きました。
当時、娘は1歳になったばかりでした。
東京のスーパー、ストアからは商品が消え、オムツがない、電池がない、食品がない。
計画停電、電車の間引き運転、原発問題、毎日の放射線量は何ベクレル?何シーベルト?、風評被害など経験したことがないことばかりでした。
もっと被害が甚大な東北を想えば、花見も自重し素直に笑うことも正解なのか不安になる生活でした。
初めての子供を授かり、乳飲み子を抱える妻は私の幾倍もの不安を感じたでしょう。
そうした不安から逃げ少しでも心の安寧を取り戻すべく、妻のかねてからの希望である故郷への帰還を決断します。
もとより一人っ子である私は両親の反対にも遭いましたが、連絡を密にする事、休みには孫の顔を見せに帰ってくる事などを条件に説き伏せました。
知り合いが一人もいない高知での生活には意外にもすぐに馴染めました。
海がある、山が川が、ドライブに渋滞がない、魚が美味い、何より酒の国(酒国しゅこく)であり、いい意味で欲がなく大雑把な県民性が私にはビタっときたのでした。
1ヶ月ほど仕事もせず西だ東だと遊び回りました。
9月に入り「独立開業」など全く頭にない私は美容室の面接を受けます。
高知市内の朝倉にある美容室でした。
その時点で33歳の私には15年のキャリアがあったので、それなりの待遇で迎えられるだろうと思っていました。
地方都市高知の経済事情を舐めていたのです。
頭にある希望月収からはかけ離れた提示。
いやいや、そんな事はない。
選んだ店舗が悪かった、次は大丈夫。
しかし面接2軒目のサロンも提示額は私の18歳当時の初任給。
マズい。これは本気だ。
この時は結構動揺しました。
しかし2軒目の同い年のオーナーは私を欲してくれた。
そして私の意を汲んで条件付きで譲歩して下さり(インセンティブみたいなもんね)、心を決めました。
お世話になります、と。
働き始めて楽しいものの流石にスグには結果は出ない。
税金は昨年度の収入に対して課税される。
しかし給料は追い付かない。
ならばもっと労働する。
アルバイトですな。
とはいえ9時から19時まではサロン勤務。
帰ってきて19時半。
飯をかき込んで20時からアルバイト。
何をしたかって。そりゃ
当時男性のアルバイトで時給が千円を超えるには県外企業であることかホストくらい。
まぁ後者でも良かったのだが🙄そこはハンバーグでしょ。
たしか21時までは850円で、その後から2時までが1000円だった。
週4、5で働いたかな。
楽しかったね、若い子ばっかで異業種で。
言うて自分もまだ若かった。
今なら無理無理。
そんな怒涛の2年間を過ごし漸く「独立開業」が頭をもたげる。
稼ぐなら独立だと。
でもどうやって開業するのか分からん。
プランはありました。
まず理容、美容のダブルライセンスがあるのでどちらで開業するか(ちなみに理美容室としては開業出来ないのでどちらかを選択しなくてはなりません)。
これは2年間勤めている間に色々考えました。
この時点でもう35歳である事でプレイヤーとして女性をお客様とした時にいつまで出来るのか。
理容師の資格=シェービングが出来る、を活かさない手はないな、とか。
よし、barber(理容室)でいこう。
当時バーバーブームが少しずつ浸透してきているのは感じていたけど、まだその中心は都市部に偏っていた。
2年間の高知理美容室調査(鈴木調べ)で高知には高級志向のbarberが無いこと、理容室は基本男性客だがあえて男性専用と謳う理容室が無いこと、30代を過ぎると華やかな美容室には段々と行きづらくなるが受け皿となる理容室は無いこと、大人の男性をターゲットにしカット以外のトータルをサポートする理容室が無いことなど。
こうして今も受け継ぐコンセプト、
「大人の男性のためのヘアサロン」が出来上がりました。
そしてこの構想を引っさげ向かった先は高知商工会議所。
ここで開業から始まり10周年に至るまで影響を与え続け、経営をしていく上で欠かすことの出来ない最も大事な出会いがあります。
経営指導員のS氏。
のちに中小企業診断士として独立し、全国の商工会議所から絶え間ない講演依頼、プロフェッショナルな経営コンサルタントとして活躍されています。
当時このS氏が高知の商工会議所の指導員として在籍し偶然にも私の独立に伴走してくれた事で今があります。
創業融資、補助金、テナント指南、ホームページ制作指南、経営計画に至るまでお世話になり、今も何か迷えば頼りにしています。
この出会いがなけれぼD'ARTISANは存続していないかもしれないと思うくらい大きなラッキーでした。
着々と準備を進め、いよいよ2014年4月26日に-𝙊𝙋𝙀𝙉-となりました。
当時の懐かしい記事
実は2014年4月26日はホームセンターDAIKIのオープン日と重なり、私が渾身の思いで作った小さなB5サイズの新聞折込広告はDAIKIのたたみ1畳はあろうかというオープンチラシに見事にかき消されたのでした。
無事にオープンはしたものの順風満帆とはいきません。
なんせお客さんZEROからのスタート。
外からは見えない2階の空中店舗、検索してもヒットしないホームページなど、そりゃあ来ない。
全く鳴らないのに一応電話を携帯に転送設定し自転車で自らチラシを1000部配り、毎日ブログを書き(seoをかける余裕なんてないので)とにかくホームページを稼働しGoogle先生に見つけてもらおうと。
お客さんゼロの日なんてざらにありました。
なんなら最長で4日間ゼロとか。
そんな時に限って家に帰ると当時4歳の娘が無邪気に言うのです。
「おかえり〜!今日お客さんいっぱい来たー?」
とにかくこの時期が1番キツかった。
このままお客さんなんて来ないんじゃないか、創業融資で借りた600万どうしようとか、家族が路頭に迷うなとか。
とにかく暇なんで掃除は行き届いてました笑
ホント数少ないお客さんを大事に大事に。
この想いだけ。
気持ちもブレそうになるのよね。
大人の男性だけじゃなく子供も受け入れたら良かったかなとか、たまに電話がある女性からの問い合わせに日銭のために施術しちゃおうかなとか。
そんな弱気が頭によぎる度S氏は言うのです。
「大丈夫、やってる事は間違いない。見つけてもらうまでの辛抱だから。今のコンセプトは絶対にブレてはダメ!」
すると3ヶ月もすると徐々に反応が増えてきたのです。
他にないコンセプトによる集客と地道なブログ活動によりホームページが「高知 理容室」「高知 バーバー」などの検索で1ページ目までに上がってきたのです。
ここからは安定してきました。
スタッフとして働いていては分からなかった集客の難しさ、来客の喜び。
以降はアップデートは重ねながらもコンセプトはぶらさずに。
これまでにもスタッフの離脱や店舗の移転、コロナの蔓延など対応に苦慮することはあったけど周りに助けられて何とか走り続けてこれました。
私の唯一の誇りは開業1年目の4月から前年同月比で1度も下回った月がないこと。
これは少しずつでも成長を続けている証拠だと思っています。
経営って利益を出し続ける事だなと最近思います。
日本人は儲けようとする事を悪しとする傾向かあります。
でも利益を出すことは正義です。
以下、S氏の最近のブログ内容から引用です。
当たり前ですが、儲けると経済的に余裕が出ます。
そして「よいこと」が実現できるようになります。
例えば、以下の5つです。1.インプットができること
良質なインプットにはお金が必要です。そしてよいインプットは、よいアウトプットを生み出します。それをお客様に還元しましょう。2.支援・援助ができること
間接的に、税金で地域・社会・業界に貢献できます。また直接的に、投資・寄付・募金を通じて、応援することが可能になってきます。3.従業員に貢献できること
従業員に、儲けた利益を還元することができます。十分な給与を与え、質の高い教育を行うことが自社の経営力向上に繋がるでしょう。4.後継者に引き継げること
儲け続ける体制ができると、後継者によい形でバトンタッチすることができます。余計な苦労をかけないこと。それが、親心でしょう。5.チャレンジができること
人生は一度きりです。その人生で、心の底からやりたいことに挑戦できます。ひとは、心の安心・安定がないと、リスクを取れません。
儲けることが、あたかも悪いことだと考える方がいます。
違います。利益を出しつづけて存続することは正義です。
様々な想い、経験をして10周年を迎えることが出来ました。
お客様には本当に感謝申し上げます。
そして多くの方に出会い支えてもらいました。
S氏、家族、公文君にも感謝です。
さあ26日になりました!
また新しい1年の始まりです。
今後とも好きなお客様だけに響く経営をしていきたいと思います。
長々と乱筆失礼しました🙇♂️
これこらも宜しくお願い致しますm(_ _)m
ではまた👋