⚠️注意⚠️
「ニーチェの思想」は安易に覗くと場合によっては精神に支障をきたしかねません。
意外にこれはどの媒体でも触れてない感ありますが、ニーチェは特に身構えておいて損は無いと思う。
現に、事実としてニーチェの思想はナチス・ドイツの優生思想に悪用された過去があります。(ニーチェの思想が幾分捻じ曲げられて利用されてはいるのだが。)
(※「優生思想」とは、ある価値基準において”劣っている”または”害悪”とみなした場合はそのものを排除してよい。処分することは改良の尊い犠牲上、止むを得ないとする思想。)
しかし、それだけエネルギーを有している事に変わりはありません。
ちなみに、本人ニーチェもこのような言葉を残しています。
「多くのことを中途半端に知るよりは、何も知らない方がいい。
他人の見解に便乗して賢者になるくらいなら、むしろ自力だけに頼る愚者である方がマシだ。」
じゃあ自分はどういうつもりで臨んでいるんだと言えば、
聖書を通して、随分たくさんの教えに触れ、その上で起爆剤として(盲信や迷妄しない為)捉えています。
もう1つ個人的な理由としては、自分の尊敬している友達の思想が「二ーチェ」に被る所が見受けられるので本人と話すよりもひょっとしたら会話になるのではないかなんてこともあります。
いずれにせよ、「劇薬」と評される「ニーチェ哲学」真摯に向き合う人(もしくはごくテキトーに流せる人)に推奨です。
⑴「清く正しく美しく」という
キリスト教的な価値観を徹底的に批判した。
⑵全人類に共通する唯一無二の「真理」なんてものは存在しない。
⑶生きる上での新しい価値(自身固有の絶対的価値)を見出せ、
さもなくば、待ち受けるのは絶望(末人になる)のみだ。
(※一時は誤魔化し避けても、晩年になり後悔が募りどうしようもなくなるぞ)
それでは、いってみましょう🚗💨
「超人」と「永劫回帰」について
※「超人」と「
永劫回帰」はセットで捉えられている(しやすい)思想の為、分けずに扱います。
ニーチェはその著『ツァラトゥストラはかく語りき』において、人間関係の軋轢におびえ、ー生活の保証、平安、快適、安楽ーという「幸福を求める現代の一般大衆」を「畜群」と罵った。
その上で、永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。
○「永劫回帰」の下線部についての考察
人間は「何か目的を持って生まれてきた訳ではない」
だから、「”自分自身にとっての”人生の意味を、価値を自分で模索して作りなさい」
ということだと解釈している。
それを見出し、自らのその”絶対的価値”において”永劫回帰という無意味な人生の中”を邁進する者を「超人」
対照的に、それができずに、ルサンチマンに陥り”高慢と嫉妬”を行き来し死の前に(またはそれまでのタイミングで)”絶望”にエンカウントし(いや、直視していなかっただけで本当はずっと分かっていたのだろうか。)人生bad endとなる者を「末人」
と私は解釈している。
※「末人」とは
憧れを持たず、「傲慢」と「ルサンチマン」に身を委ねて生きる人間のこと。
有名なループ映画「恋はデジャブ」では、いつも周りを見下し偉そうにしてた天気キャスターの男が、田舎町で、永遠にくり返される一日に閉じ込められてしまいます。
始めは、美人を口説いたり、店の飯を好き勝手に食べたり、あらゆることを試す。が全て、次の日にはまた最初から。飽きます。
会話はいつも同じだから、人は居るようで居ない。孤独。だんだん気が狂い始めます。
そして最後、彼は、ピアノをただただ毎日弾くようになります。
誰に聞かせるわけでもなくただただ純粋に、何千回と。
その時には、他人を見下して自分の存在意義を確かめるようなことはしなくなっています。
ピアノを自分の為だけ、自分の純粋な楽しさだけで弾き続け(←これが超人化)素晴らしく美しい音色とともに、ループの世界から抜け出すんです。
(恋愛ものなので、恋愛的エピソードがありますが、ここはニーチェ哲学の視点だけで書かせてもらいました。面白いので未見でしたら是非)
つまり「超人の生き方」とは、世界がどうであろうと他人がどうであろうと「自分にとって絶対的に揺るがない価値観、幸せを見つけ、それに基づいて生きること」だと思います。
ニーチェの「破壊力」と「真意」
ニーチェに言わせると「近代哲学もキリスト教的な人間の理想像を基礎にしている。」
だから近代哲学にも容赦なく批判を浴びせる。
かつては「キリスト教的価値観」が「世間の善悪の一般的基準」だった。
ニーチェは、私たちが当たり前に受け入れている道徳の枠組みがなぜ作られ、どこに落とし穴があるかということを鋭く指摘する。
ヨーロッパの近代的な世界観をチャラにした
近代哲学では、いろんな哲学者がそれぞれの世界像を立て、これこそが真の世界と論じてきました。ところがニーチェは「世界の真理なんてものは一切ない」ことを喝破し、近代哲学の大前提を全て間違っていると言った。これは哲学的にはとてつもなく大きな転回であった。
※以下、対話形式で大変読解しやすかった為そのまま引用しています。
社会学者の”古市”憲寿さん 哲学者”竹田”青嗣さん
古市 真理がないとすると、人それぞれ勝手に生きればいいことになりませんか。
竹田 たしかにニーチェの哲学は、現代では、かなり相対主義的な考え方として受け入れられました。でも、本当に革命的なところはそこではなくて、ニーチェは、近代哲学が作れなかった真善美に関する「価値の哲学」を作ろうとしたんです。
古市 ニーチェの作ろうとした価値の哲学とは、どのようなものだったんですか。
竹田 私の考えでは、自分を不遇だと思って生きている人に自分のルサンチマン(反感)に負けるなと言い、それを乗り越えてどう生きるかという考え方を提出したのが価値の哲学です。生きる上での新しい価値を作り出せ、
ニーチェが言いたいのは、人間は人生が上手くいかないと、普通はほとんど末人になってしまうということです。
末人の反対がニーチェの「超人」です。超人とは、世間的な道徳のルールや反感の中で生きる末人から抜け出て生きること。末人やルサンチマンの人間はうまくいけば傲慢になり、うまくいかないと世の中や他人、自分にも反感を抱えて生きる。ルサンチマンも一つのエロスなので、これから出るのは難しい。しかし、ルサンチマンに囚われたままだと自分の生をスポイルし、肯定できない。それを自覚して、自分の生きる価値を作ろうとする人が超人です。
ええ。さらにいうと超人の思想は「永遠回帰」という考え方とセットになっている。
古市 永遠回帰というのは、どういうことですか?
竹田 人間は、同じ人生を永遠にグルグル繰り返すだけということです。私がよく使う喩えでいえば、キリスト教的な世界像というのは、我々はバスに乗っていて、到着したらそこで楽しいピクニックになる。つまりバスの中で良いことをしていた人は、天国でピクニックができる。ところが、ニーチェの永遠回帰の世界像は、バスは途中で崖から落っこちる!(笑)。それを反復しているだけ。つまり、人生に「そのあと」の目的はない、ということです。だからこそ、バスの中で生きる意味を見つけるしかない。挫折の人生を経験したニーチェがそこまで言いきったことは、なかなかすごいと思います。
古市 でも、落ちるだけのバスの中で末人にならずに生きるのは大変ですね。
竹田 そうですね。ニーチェの考えでは、天国のため、神様のためもまやかしだけど、社会のために生きるというのもあやしい。
古市 自分の外に生きる目的を持たないほうがいいわけですか。
竹田 現代のような競争社会では、だいたい6分の1ぐらいの人はそこそこ成功して自分の生を肯定できる。でも多くの人はむしろ失敗感や挫折の感覚を持つ。あるいは、成功も失敗もなく、「まあ、世の中こんなものだろう」という感覚で生きる。社会のためにと考えて行動し、失敗するとよけいに自分を許容できなくなります。そういう人たちは、自分や世界に対して、どこかで唾を吐きかけている。『高慢と偏見』という小説がありましたが、末人は、高慢か反感のなかを生きているわけです。どういう生き方をすると一回きりの自分の生を肯定できるか、自分でよく考えよう、というのがニーチェの教えです。
古市 もし現代にニーチェがいたとしたら、仕事も上手くいってなくて、自分が負け組だと思っている人に対して、どういう言葉をかけるんですかね?
竹田 「末人の道は楽じゃないよ」だと思います。その時は、ルサンチマンのエロスがあっていいんですが、一回限りの自分の生が終わりに近づくにつれて、末人は救いようがなくなってくる。だんだんそれが見えてくる。ルサンチマンであがいているうちに、もうバスは崖から落ちて終わりになる。どうやってそんな自分の生を肯定できるか、考える道はあるよ、と言うでしょうね。
「ルサンチマン」は、弱者が敵わない強者に対して内面に抱く、「憤り・怨恨・憎悪・非難・嫉妬」といった感情。
そこから、弱い自分は「善」であり、強者は「悪」だという「価値の転倒」のこと。
※「価値の転倒」≒都合の良いように解釈を作り出すということ
ニーチェはキリスト教の起源をユダヤ人の支配者ローマ人に対するルサンチマンであるとし、①キリスト教の本質はルサンチマンから生まれたゆがんだ価値評価にあるとした。
②「貧しき者こそ幸いなり」「現世では苦しめられている弱者こそ来世では天国に行き、現世での強者は地獄に落ちる」といった弱いことを肯定・欲望否定・現実の生を楽しまないことを「善い」とするキリスト教の原罪の価値観・考え方、禁欲主義、現世否定主義につながっていったキリスト教的道徳はルサンチマンの産物と主張した。
ニーチェによれば、ルサンチマンを持つ人とは③「本来の『反動』、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩」である。
「自己」と「その自己が住むこの世界」を肯定できない人間は、この世界に④ルサンチマンを抱き、この世界を否定し、別の世界に救いを求める。
ルサンチマンを抱く人間の行為は、⑤抑圧や虐げへの反動として受動的であり、抑圧してくる外の世界の否定が先にくる。
ニーチェは、⑥ルサンチマンを抱く人間を自発的に行為する力を無くしたという意で、「弱者」、「奴隷」と呼んだ。
乱暴な言い方かもしれないが、
「ルサンチマン」で伝えたかったことは、
「逆算的にくだらない自分都合の理論や屁理屈をこねくり回して現実逃避したって仕方ねぇんだぞ」ってニュアンスだったのではないか、
少なくとも自分はそ受け取った。
ここで問題とされる由来や成り立ちとは、歴史の教科書で「キリスト教の成立」として説明されるようなものではなく、むしろその影で隠蔽されているもの。すなわち「ルサンチマン(Ressentiment)」、つまり傷つけられた自意識、怨恨、復讐心に他なりません。自分たちを虐げる者(例えば当時のローマ人)に対し力で立ち向かうのではなく、「想像による復讐(eine imaginäre Rache)」で報復する弱者の知恵、それこそキリスト教という道徳上の「奴隷蜂起(Sklavenaufstand)」を生み出し、育んで来た根本要因なのだ、と。ニーチェは系譜学という手法によって、キリスト教会が説く「汝の敵を愛せ」や「貧しき者は幸いである」といった福音の上っ面を剥ぎ、その底にうごめく暗い情念をその教えの「正体」として引きずり出すのです。
ではその「武士道」とは本来どのようにして成立したのでしょうか? その社会規範としての成立期は、実は実際に武士が活躍していた戦国の世ではなく、江戸時代のこととされています。江戸時代といえば基本的に天下泰平、平和の時代、鎖国により外敵もありません。つまりもはや「武士」が必要でなかった時代のはず。ならば彼らの大半は刀を捨て、鍬や算盤を手に生涯を過ごしても良かったのではないのでしょうか?
ところがそうはなりませんでした。彼らは「武士」という職業に固執し、かつ「士農工商」という用語に示されているように社会の最上階級に留まることを欲します。戦乱の時代ならともかく、平和な時代に「軍人」が一番デカイつらをしているというのは、考えてみればおかしな話ではないでしょうか。それを可能にするために、必要とされたのがこの武士「道」というイデオロギーなのです。つまり武士道とは、実際の「戦士」としての武士が消滅した後に、その身分を道徳ないし美徳という姿でなお確保し、サムライを一種の「司祭」として生き延びさせるために練り上げられた教義というわけです。
キリスト教であれ武士道であれ、「道徳」が世に広める教えは耳に心地よく響きます。まさに今日、「サムライ」という言葉が我らが国民を熱狂させているように。しかし実際にその仮面の背後に込められているのは、特定の者たちに都合の良く作られた利害や権力関係。ニーチェのいう系譜学はそうした道徳の実体を暴き出すことで、「あらゆる価値の転換(Umwertung aller Werte/ウムヴェーアトゥング アラー ヴェーアテ)」を可能とするのです。
引用の始めに、「魂だって肉体と同じく死すべきもの(Die Seelen sind so sterblich wie die Leiber.)」とありますが、これはプラトンなどの古代ギリシア哲学、およびそれを引き継ぐキリスト教神学の考えに真っ向から反するものといえるでしょう。肉体は消え去る、されど魂は死後も滅びず、永遠に生き続ける、というのが、多くの宗教が前提とする霊魂不滅説なわけですから。
この霊魂不滅説が人々を古来魅了する理由、それはまさしく人間の本性に備わる「永遠」への憧れに他なりません。この目に見える肉体は老い、朽ちていく。だが目に見えぬ魂はその後も永遠に生き延びるのではないか? その先がたとえあの世であれ転生の先であれ、死と虚無の不安から解放してくれるこの教えが人々の心をつかむことに不思議はありません。
しかし「見えないもの」に価値を置くことは、他方で「見えるもの」をおとしめることにもつながっていきます。来世こそが全て、とする思いは、この目の前にある生、今という瞬間をその派生物に過ぎないものにしてしまう。そして同じことは、過去の神聖化にも該当します。その代表例は先に述べた「道徳」の成立です。系譜学では、道徳の底に秘められた暗い情念により呪縛される生が問題とされました。それはまさに、この今の生が過去によっておとしめられているという状況の診断書でもあるのです。
系譜学が過去の呪縛を暴くことで「この今」を解き放ち、永遠回帰が変わりなく繰り返す「この瞬間」の永遠を告知する。ニーチェが「この今」、「この瞬間」として取り戻そうとしているのは、言葉の真の意味での「自然」な生、つまり「ありのままのこの今を生きる」(自(おの)ずから然(しか)り!)という「今を肯定する生」なのです。来世や別のより良い生、過去や未来といった離れた視点からこの今を肯定しようとすれば、他者によって自己を「然り!」とするありかた、すなわち「他然」に陥ってしまう。だがそんな他者などもはや存在しない、すなわち「神は死んだ(Gott ist tot./ゴット イスト トート)」のだ、と。
生のあらゆる瞬間を「自ずから然り!」と生きる者、そうした者をニーチェは「超人(Übermensch/ユーバーメンシュ)」と呼び讃えます。それはその表現に反し神や魂といった「超越」を求める人ではなく、そうした超越に依存せぬありのままのこの生にこそ永遠を認める者をいうのです。
ニーチェはルサンチマンを「弱者側の道徳観」と捉えた。弱者は強者に対する憤りを行動に移せない。そのため弱者は、想像の中で復讐心を膨らませて心を慰めるのだいう。
ニーチェは、当時の西欧文化において絶対的な価値基準であったキリスト教的道徳観に対して懐疑的であった。キリスト教の起源は、ユダヤ人の、かつて虐げてきたローマ人に対するルサンチマンが根底にあるという。強者たるローマ人により虐げられ、貧しく不幸な生活をしている自分達ユダヤ人は、貧しく不幸であり、だからこそ幸いなのだ、貧しい人にこそ神の国が開かれているのだ、という考え方がキリスト教の根底にあるとニーチェは捉えた。
例えば、有名人のゴシップ・醜聞・スキャンダルの類に(直接的には無関係なはずの)人々が過剰なまでに反応して大騒ぎするのも、ルサンチマンの感情が根底にあるためと考えれば腑に落ちる。自分より恵まれている有名人に対する嫉妬心、憎悪、復讐心。これが自分と同じ境遇の、自分と同じルサンチマンを抱いた人々と、ひそかに一致団結した場合、大きな炎上騒ぎとなることも少なくない。
こうした感情の機微を、ニーチェは人間の本質であるとし、批判せずむしろ肯定的にとらえている。
ニーチェがルサンチマンについて再定義した後も、著名な哲学者や歴史家、批評家などがルサンチマンの概念を独自に論じている。フランス現代哲学を代表するジル・ドゥルーズは、著書においてルサンチマン概念の再生を述べた。フランスの文芸批評家ルネ・ジラールは、ルサンチマンを誰もが持ち得る嫉妬心に過ぎないと論じている。
つまり、ルサンチマンのような感情は自分で制することが難しく、誰でも自然と抱いてしまう感情だというのだ。ルネ・ジラールの考え方からすると、貧しく虐げられた者のみが強者に対して抱くのではなく、強者ですらルサンチマンを抱き得ることになる。
「ルサンチマン」とは、「社会的な弱者が強者に対して抱く負の感情」を意味する語である。単なる「負の感情「」ではなく、弱者が自分を「善」と位置づけ、強者は「悪」であると捉える、「価値の転倒」を伴う感情であるという点を特徴とする概念である。
「ルサンチマン(ressentiment)」という概念に最初に言及した哲学者は、19世紀デンマークの実存哲学者セーレン・キェルケゴール(S. Kierkegaard)であるとされる。キェルケゴールは「妬みが定着すると水平化現象(目立つ存在を自分と同じ立ち位置に引き下げようとする動き)を引き起こす」と考え、これをルサンチマンと名付けた。
キェルケゴールとほぼ同時代のドイツ人思想家フリードリヒ・ニーチェ(F. Nietzsche)は、「行動による反応が禁じられた状態になると、人は想像上の復讐によって行動の埋め合わせをするようになる」とし、ルサンチマンを再定義した。このニーチェによるルサンチマンの考察・分析は現代にも大きく影響を遺している。
貧困の例
貧困にあえいでいる者が、自らの力で脱却できない状態が続くと、富裕層への嫉妬や妬みなどを起因に価値転換が行われる。お金を得るために悪いことをしているに違いない、だから富裕層はお金を得るために心がギスギスしている悪である。他方、自分は、富を持たないが心は豊かな善の状態である。こうした考え方により、貧困者は富裕層に対して哀れみを抱くようになっていく。
身体能力の例
肉体的に優れていない者が、体格では敵わない相手に対して鬱屈した感情を抱くようになると、それを起因に価値転換が起きる。優れた肉体による腕力で奔放に振る舞う者は悪であるから、肉体的に優れた者もそのように振る舞うに違いない。優れた肉体でない自分は善であると捉えるようになり、やがて内面では自分の方が優れていると考えるようになる
なお、ニーチェはすべての生物が力の増大を目指すように、人間社会のいかなる問題でも、自分の力を増大させようとすることは良いことであると考え「超人」思想を生み出した。これは、ルサンチマンから脱却できぬ「末人」の対極的な概念といえる。同時にルサンチマンに侵された弱者が、自己正当化のために道徳を作ると考えた。ニーチェによれば、相手を引きずり降ろし権力側に立ちたいが十分な力を持たないため、弱者は道徳を持ち出すのである。そして、道徳により弱者を正しいと評価し強者を非難するとした。これは権力を渇望する自分たちの意思を欺く行為であると、ニーチェは痛烈に批判した。
元々はデンマークの思想家セーレン・オービュ・キルケゴールがこの感情を「強者の足手まといになる道徳観」として強者の立場から提唱したが、後にニーチェが弱者の立場から再定義し、「弱者の道徳観」とした。
一般的にこの弱者による「恨み」や「嫉妬心」など負の感情は悪しきものと捉えられがちだが、ニーチェはこれも人の本質の一つであるとし、そこから生まれる反骨心や向上心が人類を押し上げるものとして、肯定的に捉えている。
ただ、強者側への嫉妬・嫌悪が高じ過ぎてしまった結果、弱者側に対し理非曲直を正そうとしないまま同情・肩入れしてしまったりする危険な要素が含まれているのも事実である。
ニーチェは、自分にとって「おもしろくない」事象や事柄を、自らが都合よく腑に落とせるようにと世界を歪めて捉えるなと、自分自身を誤魔化すなと人の子の弱さに警鐘を鳴らしていたんじゃないかと感じました。
下線部に記載の通り、ニーチェはこの「恨み」や「嫉妬心」自体を批判していたわけではないことから、
それらの感情や思いを当てがう「ベクトル」を見誤るなと主張しているように思った。
「どうだって?偉人だと?
私が見るのは常にただ自分自身の理想を演じる俳優ばかりだ。」
しかし、ニーチェよ。私は言いたい。
その通り。確かにその通り。
automaticに浮かんでくる感情や思考はやけに獣じみていて、イヤになる。
比較的ロクなことがない「怒り」は分かっていても中々コントロールできなかったり、
理論的にも理性的にも望んでいないのに、無性に性欲は込み上げてくるし、
虚栄心などくだらないと思っていても未だに瞬発的につまらない嘘をついてしまったりするしetc...
どんなにご立派なことを掲げていてもこれでは嘘つきと言われても仕方がないかもしれない。
しかし、それは本当にそう言い捨てていいだろうか?
私はアプリケーションなどでいう所の、人間の「今のバージョン」に満足していない。
が、それと同時に最近ここまでの知能に至ったのは紛れもなく今までの脳が選択した優先順位あってのことなんだと素直に敬意を抱いている。
その上で、現在の「脳のバージョン」および優先されている諸機能は果たして現代に適応しているのだろうか。
別に現代の表面的なもの(※医学、科学、電子機器とかなんか色々)が過去に比べて発展したとはいえ如何程のもんかとは思っている。(全く過大評価はしていない。)
しかしもって、ゲームのステータス振りで言う所の、もう少し「理性的」にステ振りして良いのでは?と感じてならない。
確かに、「性」一つとっても、これだけ強烈な(SEXのオーガズムと覚醒剤は似ていると言われている)快楽を設定されているにも関わらず、昨今は”晩婚化”しているし、”少子化”してるは挙げ句の果てに「熟年離婚」や「仮面夫婦」なんて揶揄まで。
もしかしたら、今後も性欲は快楽設定上げていかないと絶滅に近づく恐れすら?あるかしれませんが。。笑
これまでの正規ルートを非正規に、つまり変革をもたらすにはそれなりのストレスコストがかかるのは必然です。(それが強固な慣習であれば尚)
俳優でもなんでも、そこに立ち向かっていかない事には突破口も見出せないし、進化は無いと自分は思っている。
そしてそれは寿命通りに生きれたとして、全く時間が足りないかもしれない笑
しかし、それでいいし、第一そんなことは二の次三の次だと思っている。
何故なら、私は「理性的に自分の絶対感に常になるだけ素直に生きること」に命を見出しているからです。
まだ書籍も読んでいないし、まぁ読んだところで、もっといえばタイムマシンに乗ってニーチェ本人と会って何時間語り合ったところで人のことなんて理解できませんからあれなんですが、
ニーチェが晩年になって発狂し、精神病を患う事になったのは、あまりにも純朴で、あまりにも真っ直ぐで素直な部分が、あまりにも「人間という無力さ」に
ピュアなニヒリズムがとどめをさしたのかなと思ってなりません。
そして、もしかしたら、かなりキリスト教思想に対しても固執して勝つ強烈に批判していたことから(※言わんとすることは確かに思える部分も少なくない。少なからず聖書を読みイエスを信頼している自分も)
ニーチェも意地で全部が全部を否定して、自分を喜ばしくない形で追い込む事になってしまっていた側面もあったのかもしれないと思ったり思わなかったりした。
だからこそ変わる時なんだと。
参考
ルサンチマン - Wikipedia
ルサンチマンとは何? わかりやすく解説 Weblio辞書
ルサンチマン (るさんちまん)とは【ピクシブ百科事典】
ニーチェのいう「超人の生き方」とは?わかりやすく教えてほしいです。 引用:'永劫回帰の無意味な人生の中で自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきと説いた。' - Quora
https://filt.jp/lite/issue99/s07.html