でザイナーらしからぬ

でなりの雑記。ツイッターで済ませたくないこと書くとこ。

肯定の押し売り、やめない宣言。

こんにちは。五年くらい前はナルシストを名乗ってた、イタ〜い人。でなりです。


昨日相変わらず友達とスプラをしてたら「また相談相手になってください」なんてすてきな言葉をかけてもらい、嬉しいとともに、実はビクッとした。

というのも、昔からあまり自分は人の悩みの相談相手になるタイプではないのである。

その要因の一つはきっと、僕の自己肯定感の高さが由来してると最近感じている。

自己肯定感が高い人の悩み

嫌味らしく、また諦めっぽく聞こえることを恐れず言うと、自己肯定感の高い人間は、低い人間の気持ちに究極なれない。

「○○が全然できない自分が許せない」なんて聞いた日には「いやいや、生きてるだけで丸儲けよ?」と思ってしまう。

でなりさんは努力して立ち向かい、成し遂げてるから自己肯定できるんだ!なんて言われたりするが、自己肯定感オバケは人と比較などしない※1。

残念ながらでなりさんは元々特別なオンリーワンなのである。

その思考になると人を褒めるのは容易い。なにせ全人類元々特別。特に友達ともなると、いいところを見つけてるから友達なわけで。

しかし自己肯定感が低いと素直に受け取れないことがある。10の褒め言葉より1の失敗を見て心が疲れる。僕から見たらそんな性格すら「なんで妥協のないカッケェ性格なんだ!」と思うのに、ずるずると自己否定に走り悲しむことがあるなと感じる。

僕の個人の話

別に僕は自己肯定感は生まれながらにして高かったわけではない。特にスポーツをやってる時は酷かった。昔から親兄弟から鈍臭いと言われ、マイペースにことを進めればノロマ扱い。

それなのに個人スポーツのバドミントン部に入ったが故に、番手という概念に出会う。たいして懸命に運動したわけでもなければ、ノロマな僕は周囲に置いていかれる。

そんな僕の自己肯定感がなんとかなり始めたのは、 親が勉強を褒めてくれるようになってからである。 自慢ではないが僕は家族全員の中で1番学校の成績が良かった。田舎の公立中では1位を取ったことも(一応)ある。

特に数学が得意で、親も「あんたは理系やね!すごい!」と言ってくれるし、友達も先生方もそう言ってくれる。

それにより、最終的に何かに悩んでも 「俺には数学がある…」と呪文のように思う ことで、何にもできねえなぁという自己否定から逃げられたと思う。

そこから「数学」「プログラミング」「デザイン」と依代を渡り歩いていき、なんとか周りの人から褒めてもらうことで少しずつ自己肯定をできた結果、やっとこさ自分のことを自分で認めてあげられるようになったのである。

「数学が好きだから、ぜってえに負けねぇ!!!」とひたむきに努力をしたように受け取れる文章だが、そうではなくて、別にその場その場でなんとなく得意なことを言い訳に自分を許していた。

個人的には自己肯定感を高める方法はこれっきゃないと思っている。

自己肯定感を高めるのではなく、逃げ道を探し自己否定を止める

デザイナーになりたての頃、作るものがなんだかダサくて、すごくモヤモヤすることが多かった。でもあの時自分を支えてくれたのはプログラミングの存在だった。

新卒でプログラマになれる程度にはなんとかプログラミングができ、そしてデザインもなんとかできてる自分。その二足の草鞋で逃げ場を作っていた。

しかしそこは実は逃げ場ではなかった。あの頃は「え、デザイナーでそのレベルでコード書けるひと居ないよ!レアですね!」なんて褒めてもらうことも多く、「あぁ、そうなんだ、そんなそんな、嬉しいなぁ…!」とよく思っていた。

僕は気持ち的には逃げていたが、実はそこは褒めの温床だったのである。

人にはいろんな側面がある。きっとAがダメでも、Bができることがある!みたいな。そういう時はAと向き合いすぎなくていい。Bに少し逃げてみるとBで褒めてくれる人がいる。

Bで少し逃げたら、またAをやってみる。それを繰り返すと次第にAでも人に褒められるようにもなる。ここまで来たら、AもBもできる人になる。

大切なのは、 否定しすぎて落ちることを避けることである。 しつこいが、元々特別なオンリーワンの我々には、なにかしら小さくとも長所がある。それを大切にし、そこに逃げてあげることこそ、きっと自己否定気味の人に必要なことな気がする。

結局僕にできること

冒頭に述べた通り、きっと僕は自己肯定感の低い人の気持ちに究極寄り添いきれないと思う。

相談に乗るふりをして自己肯定感を押し売りしてしまっていることなんかもあり、悩みだなと感じていた。

しかし最近考えを改めた。

上の例で言えば、Bに逃げた時、Aで少しでも成長した時、僕の親が、友達先生などが最初してくれたように、誰かが褒めてくれることがすごく大事なように思う。

僕にできること、それは

とにかく人を褒める。だれかの素敵なところを素敵だと伝える。

やはりこれしかないと思う。

僕は誰かに自己肯定感を押しつけてしまうかもしれない。もしかしたらそれが人を傷つけるかもしれない。

だから僕は、同じ数、いやもっと多く、誰かを肯定していき、人をしれっと救える人でありたいなと、最近感じた。


※1 : 僕はする。ただし、僕と誰かを比べるのではなく、僕のデザイナーとしての特徴と、誰かのデザイナーとしての特徴などを比較する。これをすると、人格丸ごと否定が構造上ほぼ不可能になるので、自己否定できなくなる。僕は、すくなくとも視力ならキムタクに勝ってるのである(知らんが)。

2人目のデザイナーへの、アツい思い

こいつを見て欲しい。

このツイートについている資料。本当に素晴らしいと感じている。

この資料をツイートしてるあらけん氏も、自分自身も、いわゆる組織としては「1人目のデザイナー」である※1。故に、かなり気持ちがわかる部分がある。

我々スタートアップは、2人目のデザイナーにはオールマイティを求めたいのである。

あらけんさんの資料を見て欲しい。そこには彼がいわゆるUXやUIにとらわれず、いかに手広く仕事をしてきたかが記されている。

実際自分もそうである。会社メンバーの名刺一つから、ゲーム内の必殺技の色に至るまで細かく指定して仕事をしている。

1人目のデザイナーに求められるもの。それはまさしくオールマイティさ。たとえば会社の名刺一つ。たとえば機能のボタンの配置。それぞれ専門のプロがいるような領域をあえて横断してデザインすることを求められる。

また、スタートアップとは、デザイナーに限らず各メンバーに無茶を強いるものだと一般的には感じる。そこには当然成長痛と成長がもたらされる。

オールマイティな分野を求められ成長したデザイナーはもちろん、オールマイティなデザイナーと言っても差し支えないだろう(個人差)。

こうして我々スタートアップの「1人目のデザイナー」は、自分が苦しんで成長した分、「今の」自分と同じようなオールマイティさを持っているデザイナーが魅力的に感じる…

どころか、「そうでなくては当社では通用しない。」とどこかしら思ってしまうのである.

そこが辛いところだと僕は感じている.

しかし、僕たちもデザイナーであり、この世にオールマイティなデザイナーなど多数はいないことは知っている。

しかし我々スタートアップのデザイナーも鬼ではない

大切なことは

  • オールマイティな分野について
  • タスクを遂行する覚悟があり
  • (各自のスキルの軸はありながらも)
  • オールマイティにスキル成長を目指す意欲がある

ということである。

特に大事な部分を切り出すと「スキル成長を目指す意欲」の部分。つまり我々スタートアップとて、「オールマイティなスキルを保有している」ということにこだわりはない。

たとえば、自分の所属するGraffityは求められるスキルに「Unity particle」が挙げられている。しかし、エンジニアと協業を手放しにできるレベルでParticleを触れるデザイナーが世に何人いるだろうか。つまり、Particleを満足いくレベルで触れ、広くデザインらしい作業をできる人間がいたら業界トップ水準ではないかと僕は思う※2

スタートアップの組織論的にはそこを求めてはならない。スタートアップが雇うべきは今の給与が高いスーパースターではなく、今は手の届く給与だが今後我々と成長し組織に素晴らしい効果をもたらす「未来のスーパースター」である。

つまり、我々が欲しいスキル全てを持ってる人材よりも、「我々と並走し、欲しいスキルすべてを手に入れてもらえる気持ちがあること」こそ、大事なのだと僕は思う、

たとえば、Particleを触る気持ちはあります!やり方はあんまわかりません!でもデザインはできます!とか

たもえば、UXも広告もブランディングもそこそこ経験あります!Unityは触る気持ちだけあります!とか

こう、「あ、こいつは俺の手伝いをしながら、俺みたいに(俺以上に)オールマイティに事業にコミットしてくれる 姿勢がある んだ〜」と思えることこそ大切だと僕は思うのです.

2人目のデザイナーへの、アツい思い

もしもあなたが2人目のデザイナーになるなら、

  • (あなたらしい、1人目のデザイナーと比較しての優位性を保ちながら)
  • 1人目のデザイナーと同様、事業にアツイキモチを傾けながら
  • 1人目のデザイナーと同様、仕事を幅広く展開していくこと

これが求められると思います。また、少なくとも僕はこれを求めています。

たとえスキルがなくとも構いません。必要なのはあなた自身のスキル不足に、あなた自身でケツをふける覚悟です※3。

もしある会社の事業自体にコミットしたいなら、その気持ちだけあれば、自分のスキル不足を解消するための勉強など容易いことでしょう。アツいキモチはあなたの努力の助けです。

Graffityに、またEstieに、2人目のデザイナーとして、「ビジョン共感していながら」「スキルも伸ばす気概がある」そんなデザイナーがやってくるのを祈ります。

※1 Graffityでは僕の入社より前にデザイナーが退職しており、2人目のデザイナーでかつ1人目っぽい動きをしたことを付記します。真の1人目も偉大でした。

※2 「は?そんなん業界にゴロゴロいるだろ」と思った方は僕に連絡ください。マジで知見ください。

※3 あなた自身の覚悟とは別の話として、もちろんあなたの仕事について責任を持ってお金を払い、責任を持って公開するのは会社の役目です。つまり何が言いたいかと言うと、我々1人目はこの直前の文から受ける印象ほど「あなたに投げっぱなし」にはしないと言うことです.

ARな世界観でデジタルとアナログの忖度を支える鷹の目

ARプロダクトをデザインし始めてはや2年。

改めて強く感じたのは、AR時代のデザイナーには今以上にUXっぽい観点が求められると感じる。特に大切なのは「鷹の目」でユーザー体験を考えること。

現実世界を拡張することが書いて字の如くなARのコンセプト。つまり我々ARコンテンツクリエイターにとって「現実世界の状況」というのはかなり密接なものである。

たとえば観光するアプリを考えたとき、「目的地への道順を地図で確認するのではなく、犬を追いかけると到着する」とか、「名所の見所を観光ガイドらしく止め絵の写真と文字ではなく、あそこが見所!と直接指し示す」とか。表現の仕様もかなり拡張される。

しかし同時に、制約や変数もかなり増える 例えば京都を観光してるのにビビッドカラーのマスコットが道案内をしてしまったり、デジタルなデザインの矢印をお寺の中に張り巡らせてはせっかくの景観ももったいないわけだし。

しかも例えば犬がナビをする例を実現するには、「すんげえオクルージョン」「誤差がかなり少ない測位」といった、道の形を正しく把握できる何かしらの技術が必要なはずで。

こう考えると、現実とデジタルを一体化するというコンセプトには、双方の忖度が必要になると思う。

たとえば現実世界ではオクルージョンのしやすい道路をつくったり、現実的なとこだとGPS以外の精度の高い測位手段を街中で提供したり。

デジタル側も、景観を壊さない各種表示を行わなければならない。

この双方の忖度を必要とされるプロダクトのデザイナーもやはり、双方に忖度できる人でなくてはならない。

技術の限界をもっと広い分野で知り、現実の状況を知り、人の動きや感じる気持ちも当然知り。

そのうえでアンチパターンを踏まずにできるアプローチを打つためには、鷹の目を持ち、「ここはデジタルには無理だからアナログなアプローチで」「ここはアナログには無理だからデジタルなアプローチで」と細かく行き来し使い分ける必要があるのではないかと、今日このごろ思います。

(通勤時間というものが久々に発生したため、その時間をたまには思考整理に充てるべくブログを書きました。またそのうち書きます。今日もお疲れした!)

Clubhouseを通じて振り返る僕という人

疲れたのです。なぜか。

Clubhouseからの通知を見るだけで、心が疲れ、ため息が出たりするのです。

自分はClubhouseでみんなが体験したような、新しいコミュニケーションの形にすごく共感していて、良さも実感しました。

普段はあまり話せない知り合い・他人・友人まで、自由に音声でコミュニケーションできたり。

また普段は聞けない、尊敬できる方々同士の会話を聞いて、当人同士はいつもの会話かもしれませんが、僕らにとってはありがたい知見の塊になっているような。そんな場って素敵だなと感じます。

高専生のころ、母から「あなたは社交性あるから大丈夫よ」と言われたその時から、自分がコミュニケーションが苦手ではないとも感じています。むしろ母の言うとおり、人と楽しく話すことは自分の一つの特技だとも感じています。

こう見ると、自分はClubhouseに向いてるんじゃないかとも感じていて、なのでこう、疲れるのが自分の中で不思議なのです。

どうして疲れるんだろう…?

この疲れはいくつかに分解できると自分では思っています。

  • 見知らぬ人・関係値の低い人と会話をする疲れ
  • 自分の頭を、意識の高い話を聞くモードに切り替える疲れ
  • 単純に話が聞きたいときに、会話に招待される可能性がある疲れ
  • 他の人が話していたら空気になってしまうという疲れ

おそらくこの4つが僕の中で疲れる四大要素かなと思っています。

そしてこれらの要素は、僕の性格に起因していると感じています。

見知らぬ人と、「おしゃべりのMP」について

まずは見知らぬ人とのコミュニケーションについて。

自分はたしかに、見知らぬ人とある程度打ち解けるのは得意です。得意ですが、正直かなり気を使うタイプです。

相手の出方を疑い、相手に合わせて発話量や内容を柔軟に変更し、相手の得意な話題を広げ。ときに自分らしいコミュニケーションをして、相手に気を使わせず。そんなフェンシングのようなコミュニケーションをしてしまうタイプです。(うまく出来てるとまでは言ってない)

それ故に、コミュニケーションにおいてなかなか大きい失敗はしないのですが、疲れてしまう性格なのです。

僕は初対面の方とのコミュニケーションを 「MPを消費する行為」 と認識しています。

Clubhouseで話してる時、「友達の友達」とはじめましてするたびに、新たな出会いにワクワクすると同時に、MPを消費することに疲れている自分に毎度気付かされるのです。

意識の高く聞くモード

自分はもちろんデザイナーで、各種イベントにも登壇・参加などを繰り返し行っています。しかし、コロナ以前でさえ、イベントの2日前からは憂鬱になることが多かった。理由はその場に行くときにスイッチをオンにしなければならないためです。

たとえば、デザイナーが集まるイベントへ参加する場合。

人の話を聞く際、普段のように話半分に聞くのではなく、一つでも血肉にしなければなりません。人の話した一言をしっかりと反芻し、必ず自分の経験のようにその人の言葉を活かせるようになりたいと感じている自分にとって、この準備はコストが高いのです。

イベントの場においては、事前にある程度カレンダーが見えていました。

しかしClubhouseでは、突如凄腕の方が話を始めます。事前に数日間の準備期間があるわけではなく、唐突に始まる。

「聞く気持ち」を一日で作りきれない自分 にとって、突如始まるカジュアル意識高い系は胃もたれしてしまうのです。

突然話が始まるの?! こんなに意識の高い場で?!

「聞く気持ち」すらカンタンには準備できない自分にとって、話すのはもちろんより大きな負担となります。

発話が絡むと、前述のMP消費もかなりあります。

相手の欲するコミュニケーションをしたい自分にとって、意識の高い場所というのは自分を演じなければならない場。たとえばUXのことを聞かれようものならば、自分の知っている事例を並べ、自分の意見をいいバランスで入れ、他者の意見を紹介する "意識の高い自分" でなくてはならないのです。

意識高い人と、同じ場で話す自分は 「意識の高い自分」でなくてはならない。

そんな自分への義務感をうまく解決できず、この気持ちは「ただのイチリスナー」の状態の自分にも影響を及ぼします。結果、いつ会話を要求されるのか心の奥底で少しビクビクしながら話を聞くことになるのです。

場を乱さない美徳と、そのたびに重なるストレス。

いろいろ言ってきましたが、自分だって自由自在にたくさん話したい気持ちはとってもあります (じゃなければこんなに気持ちに負担がかかるのにイベントに参加したりしない)。

しかし、Clubhouseは複数人でコミュニケーションする場そのもの、僕は3人以上の会話では 「会話のバトン」 が大事だと強く思っています。つまり一人ずついいタイミングで話し始めて、いいタイミングで話し終わる必要があると感じています。

そしてこの思いはとても僕の中で強く、自分は例えば5人組がある場合、他の4人が2人ずつに分かれて会話していたり、他の4人が団子になって話していたりする場面において、1人そこに混ざって会話に入る意欲がほぼありません(やればできる)。なぜならば、僕が居なくとも彼らはバトン渡しを楽しそうに行っているし、バトンの流れを乱してまで、自分が干渉する意味をあまり感じないからです。

それがもし一人孤立していたら別です。バトンの流れに居ない人を見つけると、バトンの流れの中に入れられるよう自分が一肌脱いで努力する傾向があります。しかし自分がその流れに居ないことはさして気にならない。なぜならいざとなればその流れに入れるからです。またはその流れに自分が入れないコミュニティには関わる必要性を感じていないからです。

しかしこれがClubhouseには反作用となります。

自分から部屋を開いたり、一人で配信している部屋を見つけない限り、孤立解消のコミュニケーションをClubhouse上で行うことはありません。

そうなると複数人で話している環境に混ざる形が多いですが、自分はそこで割り込む必要性を感じず、「わざわざ場を乱す」ことを意識しない限り、わざわざ会話に混ざろうとしません。

「会話のバトンを、みんなが楽しく回し合ってる」のが 気持ちいい。

でも僕だって何かしら人とは話したい。身勝手な自分と、会話のバトンへの完璧主義が喧嘩する結果、どちらかの自分を抑えなければならず疲れてしまうのです。

まとめ

Clubhouse、好きです。

でもこれらの疲れを考えてしまうだけでも、グッとメンタルを削られてしまう自分も居ます。

通知を受け取ってアプリ起動を促されるたび、ため息が出てしまう自分も居ます。

そんな自分と向き合いながら、気が向いたときに気持ちの準備をして、また起動して、みんなの会話を楽しむんだと思います。

(高専生の)若手のキャリアは志を抱いて考えよ

お前誰よ?→5年くらい前に高専を卒業した、ARゲームのデザイナーです

ふと時間があるので普段思うこと、今年強く確認できたことを簡単にブログにまとめます。すごい大げさなタイトルですが、著者は高専でも割と成績低かったので大したことは書いてないです。そしてすべて個人の主義主張です。自分のブログだからいいよねと思って勝手を書きます。

最近、高専生のキャリア・将来のために動いてる人がインターネットで目立つようになっています。 僕の前職のフラー ももちろんそうでしょうし。

ただ僕はこの領域ってすごく難しいなと思ってます。

個人的なもやもや

(これは僕の偏見・主観ですが…)いつも彼らは「スーツ着て就活はダサい※」「海外には新しい世界が待ってる」「ベンチャーで刺激の多い仕事を体感しよう」と。そんなことを言ってるイメージがあります。全てまぁ気持ちはわかります。

※スーツ着て就活はダサくないと僕は思う

しかし、高専生のキャリアにとって「カジュアルな服で就活」「海外に行く」「ベンチャーで仕事する」というのは必ずしも本質をついているわけではないと思います。

例えば学生Aくんが東京のイケイケなベンチャーで1ヶ月インターンをしたとします。その会社での仕事はすごく刺激的で、そのまんまそこへ入社する。

しかし働き始めて一年経ったらどうなるか。人間は慣れます。刺激の多い仕事を選んだはずなのに刺激がなくなるでしょう。そのせいで、モチベーションが『なぜか』下がります。

結果、割と高い確率で「オレの人生でやりたいこと…これだっけ…?」と思うことがあると思います。事実僕はその一員ですし、少なくとも僕はそんな人を何人も知ってます。

本質をついてない?※ ならなぜそんなことをみんな言うの?

※ 必ずしも本質をついてないというわけでもないよ!再三だけど!

しかし僕らは彼らの言う「スーツ〜」だの「ベンチャー〜」だのはすごくいい切り込み方だとも思っています。

もしA君が普通に何も知らず高専で5年を過ごしたら?もしかしたら彼は「仕事は稼ぐためのもの」と割り切り、仕事に刺激を、楽しさを求めること自体をしなかったかもしれません。(かも、の話!必ずしもそうなるとは限らない!)

実際自分も当時の進路相談をした先生のうちのお一人に「大手企業に行っていい給料をもらいながら安定して暮らすんだ、それがいちばんの幸せで、それ以外はありえない」とまで言われましたが、僕は先生のおっしゃった「それ以外」で自分にとっての幸せを勝ち取ってる自覚があります。

僕が言いたいのは、「自分が取れる未知の選択肢を知り、自分がそれをうけてどう気持ちが動くかを知ること」がそもそも価値であると言うことです。

ベンチャーを見るのも、海外を見るのも。究極、高専からの普通の就活ではあまり取り上げられない「スーツ以外で就活する会社」を受けることでさえ、価値があるのです。

そうやってまだ見ない世界を知ることでやる気も上がるし、選択肢も広がる。彼らは「まず」高専生の将来のための一歩目としてそういった選択肢の提示に取り組んでいます。

僕の思う「本質をついた」キャリア形成。キーワードは「選び方」

しかし僕はその、選択肢を与える「だけ」のキャリア補助に、一抹のもやもやを感じているわけです。

多分、最近ネットで目立ってる人達の中でも、ほんとに真摯に彼らの人生と向き合ってる人たちは同じもやもやを抱えてるんじゃないかな。(世の中には残念ながら…略)

キャリア形成とは「自分の取れる選択肢を増やし、細分化し、そこから'選ぶ'もの」。そして僕はこの「選び方」こそ核心なんだと思っています。

スーツを着て就活して大手に行ったイケてるやつら2人の話

僕の友達の高専出身じゃない中学の同級生に、2人ほどすごく僕視点だとイケてる友達がいます。

とにかく成績が良い2人で、ぼくも中学はよく勉強してたので競うこともありました。1人は模試の東大B判定を蹴って神戸大へ。1人は京大へ行き、当時は格の違いを見せつけられたもんです。

しかし成績がいいからイケてるのではありません。

1人は大きな日本の銀行へと就職しました。

彼が僕に言ってくれたのは「僕は国連の国際金融公社といって、発展途上国のプロジェクトにお金を融資してあげられる立場になり、世界中の人が豊かに暮らせる手伝いをしたい」と言ってくれました。

そのために20代を大手銀行で過ごし、国際的なプロジェクトへの参画をすべくTOEIC・英語を毎日朝晩ずっと勉強をして。そして30で転職を目指すのだ、とも。

もう1人は、看護学部へ行き、そこそこ大きな病院で看護師になりました。

どうして看護師に?と聞くと、終末期の患者さんを看たいからと。孤独死する老人も多くなる中で、自分がその人たちの最後を幸せにしたいと。

彼女も彼女で自分の思う領域に関われるよう日々資格を取り、患者さんに向き合っています。

少なくとも僕はこの2人の話を聞いた時、素直にこう生きたいな、と感じました。

彼らの人生はなぜ、こんなにもかっこいいのか。

志があるからです。

フラーのCEO、渋谷さんがある時こんな話をしてくれました。「夢は叶えるもの。志は立てるもの。」

つまり夢には終わり、達成があるのですが、志は常に持つものということだそうです。

具体的には「年収1000万稼ぐ!」みたいなものは夢であり「常に年収が上がるよう成長し続ける!」みたいな終わりのないものが志。夢は「すんごい大きな目標」と言い換えられるでしょう。

彼らの人生には「途上国の人たちも幸せにしてあげたい」「終末期の人を幸せにしたい」と非常に社会的にも意義のある志があるのです。

その志こそが、彼らのキャリア形成において「選び方」になっているのです。

あーはいはい、で、志がないひとはどうするんですかー?

志があればかっこいい。それが社会的だともっとかっこいい。それはもはや当たり前のことです。でも持ててますか?そういうの。

僕は「あぁ、僕は志とかないな、一生誰かの夢を叶える側なのかな、どうなんだろうな?」と悩んでました。実際それが持てたのは就職して3年経ったあとです。

僕は今、 親の死を経て「人と人との縁をつなぎ、その人自身をも元気付ける、一生の思い出を作る」という志を持って、今はARゲームの会社にいます。

それまではそんな志なんて大層なものは持ってなくて。「で、お前は結局何がしたいの?」と飲み会で言われすぎてショックで仕事が数日ろくに出来なかったことさえありました。

志を立てるには、とにかく知ろう!

こればかりは「立てよう!」と思って立ててもしっくりきません。いや、一定はしっくりくると思うけど、僕はなんかもやもやしてました。

しかし行動をしないと一生志なんて持てません。 まずは知りましょう。

もちろん、自分が取れる選択肢…ベンチャーや海外、逆に大手、国内、地元企業や、はたまた芸術家、お笑い芸人…とたくさん埋めていくのもひとつ大事です。なのでとにかく新しいものを知るために挑戦しましょう。(ここが、今の高専生のキャリア応援系の人たちがまずフォーカスしてるところ)

それよりもやってほしいのが「自分の気持ちの動きを知る」ということです。

たとえば、ベンチャーをみてワクワクするのはなぜ?イケてる上司がいるから→自分もこうなれるかもしれない環境だから→自分も彼のように常に最新の技術を試していてなんでも綺麗に実装できる人になりたいから…と、「なぜ?」を繰り返して深掘りしながら知っていくのが大事です。

それは仕事に限りません。山登りが好きならそれはなぜ?親が嫌いならそれはなぜ?とにかく自分の気持ちに常に「なぜ?」を問いかけるのが、自分の気持ちを知る秘訣でしょう。

いちおう僕の場合

僕の場合は「親が死んだ瞬間は涙が出なかったのに、葬式の時に嬉し泣きをしたのはなぜ?」「学祭実行委員が自分なりにたのしかったのはなぜ?」「フラーのデザイナーを見てかっこいいと思ったのはなぜ?」の3つの別々の問いから、自分の今の志を見出しました。

親が死んだ時は…なぜ?→母の棺に花をたむけて、最期の言葉をかけてくれてる人を見たから→彼女は最期の最期まで人の縁に囲まれてたから→母とその人たちの間の、たくさんの思い出たちが温かい縁を遺してくれたから

学祭実行委員が…なぜ?→自分が作ったもので、まわりの一瞬の楽しい時間を作れたから→一瞬の楽しい時間こそが自分の人生でかけがえのない宝だから

フラーのデザイナーを…なぜ?→彼らはデザインの力を広く活用してるから→彼らがデザインの力があらゆる場面で活きるのだと信じてるから→僕もまたそれを信じていて、それを体現したいから

あらゆるものに「なぜ?」を問いかけることで、いずれ自分に必要だった観点が見つかり、いつか志が見えるのだと。そう僕は信じています。

立てるべき志とはなにか

まずは自分にとってこれだと思うものでなくてはなりません。今の自分がしっかりと「これなら僕の人生をかけるにふさわしい」と思えないものでは、結局志がないに等しいとおもいます。

そしてここで出てくるのが「己の志と社会的意義の話」です。たとえば「終末期の人を幸せに」というのは社会的意義が強く、他の人に利益がある志になっています。

ぼくは結論、志と社会的意義は別であるべきだと思っています。たとえば「歴史に名を残す偉業を成し遂げる」と言った志でも良いでしょう。キャリアを考えた時に、歴史に名を残すためにはどうすればいいか、選び方の指針になるでしょう。

しかし別の議論として、「キャリア形成」という言葉は一般に仕事における進路のための言葉として使われます。そして仕事は基本、他者への奉仕をして、対価でお金をもらうもの。

もし自分の志があまりにも社会的意義に欠けていると、仕事を選ぶ上では決定的な指針にならないかもなぁ…とは思います。

余談、夢組と叶え組、そしてキャリア形成

世界は「夢組」と「叶え組」でできている|桜林 直子(サクちゃん)|note

ぼくが好きな考え方の一つにこのようなものがある。ぼくはずーっと夢組の話をしてきているのですが、叶え組がいて初めて世の中成立するなー、と毎日思っている。

もし自分が叶え組になるのなら、半端な覚悟ではなく、相手に共感し、そして自分の力を惜しみなく貸せるだけの覚悟が必要だろうな…と思うので、それはそれですごく勇気のいる決断だとぼくは思う。

堂々と叶え組だという決断が必要であり、それもまた一つの志だなとぼくは思っています。

さいごに : ぼくが高専生のキャリアを手伝うとすれば?

志を立てるためのヒントをたくさん掘り出す人にならなれるなと思います。

きっとまずは、僕の志の話をもっとたくさんしますね。それで示唆を受けてくれるなら話が早い。そしてそのあと相手の人生や価値観のことをずーっと聞きまくる。壁打ちをすることで埋もれてた価値観をしっかり言葉にしてあげることが、「なぜ?」を突き詰めるきっかけになると思うからです。

もし必要なら手伝いますとも。まぁ僕、高専界隈から一回隠居したんで今はそんなに慕ってくれる後輩多くないけどね…笑

締め

Twitterを見てたらもやもやしたので書きました。

僕は、志は2年くらい前に持ち始めたのですが、実際それに向かって走り始めたのが転職した四ヶ月前で。

今年転職してから、圧倒的に人生が変わったなと思っています。それは志の力のおかげです。転職してハッキリと、志の持つ力がわかりました。なので年末だし今年のうちにエモくなっときました!

エモくて読みづらいのですが、誰かがこれを見てハッとしてくれたらいいなって思います。

僕も今抱いてる志をどんどんアップデートしながら、全力で走りたいと思います!やっていき