今日の鬱ノート

14時36分、図書館にいる。気分はよくない。自分に価値がないように感じる。何も能力がないように感じる。どうしてこういう人間になってしまったのだろう。
 
八方ふさがりという気分。新しい職場にい続けることも、難しいかもしれない。
なんだろう。もはや言葉も浮かんでこない。そのために、この難しさを伝えることもできない。
 
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おれには、普通のあるいは優れた生き方は難しいのだ。
普通/優れた生き方ってなんですか?と問われるだろう。そんなものはない、と言われるだろう。
それは分かっている。しかし、そういう思考や気持ちがある、ということが言える。
他者と接するときに、辛く感じる。
他者が行っていることや、「こうしてくれ」と言われることが、できない。
そういうことが多く感じる。
そのために、上記のような考え方が出てくる、のだと思う。
 
普通なんてない、と考えたとしても、この辛さは消えない。
できないことはできない。だから、難しい。
では、どうしようか。
「普通なんてない」という言葉は、この辛さへの対処策とはならない。
 
ただ、この「辛い」という感覚は、出てきたり、消えたりするということが分かっている。
だから、なんとか時間をやり過ごして、身体的・社会的・物理的な環境が変わるにつれて、
この感覚も変わっていくことに期待するのが、現段階で一番いい対処策となっている。
 
ただ、これは「辛い」という気分の対処策である。
この「辛い」という気分を作り出す要因は様々であろうが、
個人的・社会的・物理的環境が、大きな直接的要因になっていることがある。
「辛い」という気持ちを発生させる条件が繰り返せば、
「辛い」という気持ちは繰り返すことになる。
そのため、より直接的な要因に対処することも考えたい。
 
どうすればいいだろう。どうやって生きていけばいいだろう。
うつ病だろうか。発達障害だろうか。疲れるし、辛い。
まともに仕事はできそうにないのである。
上司や、カウンセラーや友人などに、「こんな仕事をすることになりました。」
という話をすると、「~さんにぴったりな感じですね。楽しそうでよかったです。」
などと、ポジティブな反応をもらった。しかし、自分に何ができるか、という不安もあった。
そして、それが現実になってきているように思う。
何もできていない、と思う。
受動的に関わることしかできない。
 
そうした自分にとって、会社の「やりたいことをやればいい」
という雰囲気は、辛い気持ちを引き起こしたりもする。
むしろ、ルールが明確になっていて、
これを繰り返していればいい、という環境の方が、
落ち着くし、疲れはしないと思う。
そのルールが、しばしば縛りになって辛さを引き起こす場合もあるけれど。
 
つまり、自分がしたいのは、自分に合った程よいルールを作って、
それを繰り返していたい、ということだ。
それをする自由は、会社にあるだろうか。
 
なんというか、少し息が詰まるような空気感もある。
何かに対しては、言ってはいけない、というような。
何かは、してはいけない、というような。
今日の会話のなかで、私の発言は、あまり誰にも引き取られることはなかった。
私の発言が響いたあと、別の話題が始まる。
年齢層やバックグラウンドに違いがあることが、その大きな要因のように感じられた。
私が話した話は、面白くないですよ、そういう話はしても仕方がないですよ、
というメッセージを感じてしまった。
 
上司も、~しちゃダメ、~はいいこと、という価値判断を行っているように見える。
なんだろう。それは、仕方のないこと。
それにデリケートになっている自分の脆さが著しいとも思う。
自分を受け入れてくれる場が欲しい。
 
ただ、会社は、かなりスタッフに自由を許してもいる。
それはいい。しかし、色々な仕事をこなしているスタッフを横目に見る。
そういったものを見ると、自分ができることはないなぁと、
無能力感を抱いてしまう。
それが続くようであれば、この会社で働き続けることは難しいかもしれない。
 
もっと色々な会社を見てもいいかもしれない。
この会社で働くこと以外の選択肢が、今はない。
それは、依存先が限定されている状態であり、
自立度が低い。
もっと依存先を増やしていくと、
安心度が、自立度が高まると思う。
 
どういう風に、増やしていけるだろうか。
当事者研究会をしたい。
 
15時3分。少し気分が回復してきた。
ただ、特にやりたいことはない。スターバックスにでも行けば、読書でもしようかという気分になる。
「やりたい」という気持ちを得るために、そうした投資が必要。
このような図書館の閲覧席では、特にやる気は湧きあがってこない。
だから、持続性がない。
 
1日につき、カフェにいる時間のうちの1時間程度しか、やる気が出ない。
そうすると、何らかの知識や技術を身につけるのは、なかなか難しい。
そうしたうえで、どうやって生きていけばいいだろうか。
下手に年齢・肩書きばかりが上がって、何もできない。
今からステータスを落としていくのは、少し難しい気持ちもする。
他者からは、「とりあえずは目標を目指してみたら」という言葉・圧力を
もらいやすい。
自分のやりたいことはない。
 
強いて言うならば、こうしたネガティブ=正直な気持ちを書き表すことが、
今唯一やりたいことかもしれない。
それは、大事なことだ。
しかし、他の人はこのことをどう評価するだろうか。
とりあえず、固有名詞を隠して、ブログにアップしてみよう。
 
 
今日はとてもネガティブで、気分は変わりうるということを差し引いても、
なかなかこれからのいい生き方を作っていくのは、難しいことだと思う。
こういう気分は、繰り返し起こる。
そして、こういう気分を引き起こしやすい社会的・物理的・個人的環境がありふれている。
そうではない環境を見つける・作ることは至難なことだ。
そして、こうした気分を繰り返しながら、生きていくことは難しいことだ。
ずっとボーっとしていたり、失敗が多くなるだろう。
そうしたことが更に、辛い気持ちを引き起こすだろう。
 
失敗を繰り返すことの覚悟は、いつも心に持っておく必要がある。
失敗して動揺したときは、そんな覚悟は忘れてしまう。
そのあとに、思い出せるようにしたい。
 
だから、この会社で働くことも、今の自分と相性がいいとは限らない。
辛い時間が多くなるようだったら、一度止めてもいい。
他の色々な場所を試してみることが大事だ。
それが、おれのこれまでできなかったこと。
 
勇気が出なくて、自分のしたいこと、言いたいことが言えないこと。
それは昔から今までずっとある問題だ。
先日も、会社に置き忘れてきたiPadがあるかどうかを聞きたかったが、
忙しそうなタイミングでは言い出せなくて、どうしようかと不安な気持ちになっていた。
あとから「そういえば」と言い出して、「高価なものなのに気にしていなかった」
風を装うことができた。それはよかった。そういう態度でいたいと考えているから。
しかし、それは、心配な気持ちがないというわけではなかった。
楽天的であれとする思考の様式はあるけれど、そうした感情の様式は身についていない。
幼稚園の頃から、とても不安になりやすい子どもだった。