スキ?キライ?

私は仕事が好きだ。

色々な幸運に恵まれて、好きが仕事になってしまったと言っても良い。そりゃあ事務作業から何から全部が全部、100%好きなわけではないけれど、人が好きで、人助けと世話焼きが好きで、話す事と書く事が得意で、それらを専門知識と掛け合わせたら今の仕事に巡り合った。

皆それが当たり前だと、30代くらいまでは思っていた。

何故好きでもない事に身を削れるのか、情熱を傾けられないのに続ける意味なんてあるのか。この会社では業界を丸ごと引っ張っていかないといけないのに、先を見据えず日々のトランザクションをこなすだけでそんな気概を持てるのか。ボチボチやりたいだけならトップクラスの会社じゃなくてもいいじゃないか。そう思っていた私は、採用面接にて数問聞いただけで興味を失う事ばかりだった。身に付けたい事についてどんな勉強をしてきたか、この半年で何に好奇心を持ったか、例えうまくいかなくても何か新しい事にトライしてみたか、仕事に対してどんなアンテナを張っているか、そんなエピソードの一つもなく、それでいて今は何もないけど将来性を買って欲しい、私にはそんな風に見えた。

ある同僚と出会った。

彼は頭が切れ、専門知識も申し分なく、吸収力や再構築力も高かった。しかし、彼は言った。「世の中には、前をお世話するか、後ろをお世話するか、仕事にはどちらかしかない。気持ちよくさせるか、嫌な事を代わりにやるかだ。そして俺たちの仕事は後者だ。誰もやりたがらないから給料が出ているんだ」。まったく同意は出来なかったけど、言っている意味は分かった。仕事はjoyか、それともdutyか。

チームに多様性が求められるようになった。

多様性とは何か。バックグラウンドが異なり、指向も異なり、目指すところも違う、それをより合わせて遠いところを目指す。~オタクの集まりではない、ワーカホリックの集まりでもない。熱い人が大きく引っ張る役割をこなし、冷めている人は冷静な目線を提供する。それぞれ大切にしている事は異なり、求める精神的報酬も異なる。異物をはじき出すのではなく、それすら取り込んでもっと先へ。そんな文化を形成する事が求められるようになった。

仕事が好きではない人と、どう接すればいいのかは、未だに良く分からない。

でも観察していて気付いた事がある。duty派、つまり仕事は義務だと思っている人たちの働きは安定しているように見える。嫌な事も、腹の中は見えないけど淡々とこなす。いちいち「これに何の意味があるんですか!?」とか言わない。決められた時間に出社し、決められた仕事をし、決められた結果を出す。

joy派、つまり仕事を喜びだと思っている人は突破力がある。新しい領域に切り込み、ゲームチェンジを引き起こす。でも、嫌な仕事があると途端にパフォーマンスが落ち、出社が遅れ、逃げ回り、その先の気付きも含めて切り捨ててしまう。取り組みは長続きせず、仕事そっちのけで好奇心に引きずられてしまう。チームには両方必要なんだな、と思えるようになった。

加えて、joy派の中には「何事も楽しめる人」が一定数いるようだ。誰が見ても汚れ仕事なのに「これだって学ぶ事はいっぱいあって面白いですよ」と笑ってくれる。duty派の中にも「仕事にプライドを持つ人」がいるようだ。「こんな事してたら後輩がつぶれます」と目を見てはっきり言ってくれる。当たり前だけど人はAかBかではなく、その間にまだらに広がっているのだ。

人と接して、自分の進む道は彼とは違うかもしれないけど、でも、彼がこうやって頑張るなら、私も頑張ろう、そう思える事がチームなのかもしれない。

成長と加齢

子供の時「若いね」と言われるのが嫌いだった。

当時下から見ていたオトナタチはしたり顔で、不遜で、自分の過ちを認めようとせず、説明責任も果たさずに「若いね」という一言でこちらを見下げているように感じた。そう言われた私は何度も食って掛かり、時にはいずれ先に死にゆく彼らを皮肉って、本気で怒らせてみたりもした。

時は流れ、私はオトナタチになった。

自覚は無かった。自分が想像していたよりも、今の自分は年齢に比べて子供に感じた。オトナになった自分はもっと分別もあり、物事ワカッテいて、より完成度が高いかと思っていた。しかし、ここにいる自分は進歩したようにも退化したようにも思えなかった。ただ毎日生きていたら今日になりました、としか言えなかった。何度も同じ失敗を繰り返した。

しかし、少しづつ自分の肉体に現れた変化が感じられた。大盛りを頼まなくなった、焼き鳥はタレより塩になった、カルビよりロースになった、食べる量が減ったのに腰回りに肉がいつの間にか付いた、時々どこかの関節が軋むようになった、脚の筋力が落ちて全速力でダッシュできなくなった、そして、その影響は次第にココロにも現れ始めた。

誰かれかまわずかみついていたのを止めた。不用意に他人を批判しなくなった。ヨノナカの色んな事は自分が思っていたよりもずっと複雑で、みんなはその中で精いっぱい生きていた。医者になったアイツは高給取りでもまったく金を使う暇がなく、役人になったアイツは9時〜5時生活かと思ったら土日も休まず働いていた。多くの人が自分自身はイイモンだと思って行動しており、よかれと思った事が裏目に出たり、誤解されたりしてた。

政治家とかや役人とか大企業とか経営者とか頭のおかしい人とか低学歴とか特定アジアだとか、誰かをまとめて見たり、レッテルを貼ったりしなくなった。どこにもイイ人もワルイ人もいる事を知った。どんなに馬鹿馬鹿しいアイディアにも興味深い点があった。例え自分の仕事を小学生が批判していてもそこに何か真理があるのではないかと一度は考えてみるようになった。


そうしたある日、ついに自分のクチからあの言葉が転がり出てしまった。
大した事じゃなかった。大学生の甥がなかなか免許を取らない、ただそれだけの事だった。


彼もバイトだサークルだと彼なりに忙しいのだろう。ただ、社会人になると休みは激減し、自由になる時間は羽を休めるために使うようになる。都内在住で今必要がなくても、産気づいた嫁や、脚の悪くなった親族や、その内色々運ぶハメになるだろう。また、仕事がひどく忙しくなる頃に、さぁ海外出張だからと自動車学校通おうなんて無理だ。金が無いとか言うが、30万くらいお前の親も、俺だって貸してやれる。ただ、無理矢理貸し付けて免許取らせても、どうせお前はなかなか返さない。それを取り立てるような面倒で気分の悪い事、誰だってしたくない。となると結局自分で取る気になるしかない。

"でも、ソウイウコトは今は分からないんだろう。やっぱり経験しないと分からないモノなのかもしれないな"

そんな想いから、色々言い訳を重ねている甥っこに「若いな」と言ってしまった。言ってから、しまったと思った。ついに言ってしまったと。でも逆にあぁこんなもんかと安心もした。子供の頃見てたオトナタチは、別に進化したイキモノじゃなかった、アンサートーカーじゃなかった。ただただ日々を積み重ねただけだったんだ。諦観にも似たこの気持ちはまだ若い君には必要無い、そんな「若いな」だった。


誰でも歳を取る。歯は抜け、毛は抜け、目は見えなくなり、耳は聞こえなくなる。そして自分の内面にも、つまり感じ方や考え方にも変化が訪れる。私もさらに変わっていくのだろう。来年まったく逆の事言っていてもなんの不思議もない。

そういえば、小学校の頃、よくおじいちゃんにバカとかクソジジイとか言ってた事を思い出した。80歳になって、ちん毛も生えてないガキにバカとかクソとか言われる気分ってどんなだろう。


あの時おじいちゃんはただ笑ってた。


そんな事を思い出し、そして、今日も日々を積み重ねている。



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