ダサいやつはなめられる

ここしばらくニュースや新聞で「国力の低下」という言葉をよく聞く。主にはGDPが下がっていることと結び付けられて出てくるのだが、ほんとにそれだけか?と思う。

日本はダサいから世界でなめられてるんじゃないか。それで相対的にこういうことになっているんじゃないか。

個人的には、東京オリンピックにまつわること、それは開会式のひどさであったり、ザハへの失礼すぎる態度であったりが、一つの転機だったんじゃないだろうかと考えている。日本のダサさをこれでもかと世界に発信した。

国内で見れば、とにかく政治がダサい。その姿を見た若い人たちが「こんなもんでいいんだな」と思い、そういう感じが全体に広がっている気がする。商品のクオリティや、化粧品カウンターでの接客、レストランでの料理の味、街を歩く人のモラルやマナー、テレビ番組のクオリティ、メーカーの矜持。いろんなものの「普通」や、「普通の人」のレベルがすごいスピードで下がっていると感じる。取り繕う気も感じられず、全部が「低いほう」に合っていき、その低さもどんどん下がっているような状況だと思う。

岸田首相はかなり批判されているが、このダサさの根本は安部が貯めに貯めたものなので、腐り切った膿を露呈して、出しに出している岸田首相はけっこうありがたい存在ではないかとも思っている。

酔っぱらいのゆくえ

私は酔っぱらいやすい。そして調子に乗りやすい。絵に描いたような酔っぱらいになる。

20代の頃は、前後不覚になり人に迷惑をかけるというような部分への反省はすごかったのだが、それでもみんなその件についてゲラゲラ笑っていたし、変わらずによく飲んでいた。飲むのが楽しかったし、みんなも楽しそうだったから。でもいつからか酔っぱらっての失態や失言がこわくなり、反省というよりもやっとした恐怖が勝るようになった。なんでだろう。

東京に引っ越したことが関係しているのか、シンプルに加齢による変化か、SNSの発達が関係しているのか、酒を飲む相手が安心できない人間なのか、詳しいことはわからないが、いつからかそうなってしまった。でも酒を出されると飲んでしまう。翌日に後悔したりするくらいなら飲まなければいいのに。そんなふうに思う。しかし出されれば出されるだけ飲んでしまう。私はそういうだらしない人間なのです。それを隠して生きているのだな。

文字化したい

相変わらず渡辺しょっぴーにはまっている。GW中に特番で東野さんと司会をするらしい。え、まじ。見なければ。そんな感じになっている。

以下、ファンブログ。

いまだに「この人のファンとかあり得る?」とけっこう新鮮に戸惑う。このいかにも芸能人な、ハイブランドの服ばっか着てるような、アクセサリーをじゃらじゃらつけているような、その方向性の感性の人を?という戸惑い。SnowManはみんなそんな感じ。だけど明るく元気なので、そういうのもありかなと思えてくる。未知との遭遇だな。

ドラマのお芝居が入口だしまた演技が見たいんだけど、それ以外を見ていると、周りの人と頼り頼られでやってる感じがいいなと思う。天才型という可能性もあるけど、見ていて、一人で考えてたらこうはならないよなって言動をしているイメージがあって、だからきっと周りに話を聞いたり、人のやっていることを研究したり、センスだけじゃなくてちゃんと労力や時間を使って、工夫をしてこの仕事に取り組んでいるんだろうなと感じる。そういう地道さが、軽そうな見た目とのギャップでぐっとくる。あとはまあシンプルに、ときどきさりげなく誰かにフォローされてるし、ときどきさりげなく誰かをフォローしてあげている。85%のダンスも誰かのフォローな気がしたりしたけど、ファンの欲目かもしれん。損得勘定とかもしっかりある感じするけど、そのうえでもこれができるのは勇気と努力だなと感じる。あと単純におもしろい。

チケット代が高い

演劇のチケット代が高騰し始めて久しいが、応援モードだった観客もぶち切れだして久しい。高騰する理由が理解できないわけではないのだが、「とはいえ来るでしょ?」って態度がむかつく。S席とは言えない環境をS席として売り、素知らぬ顔をしている感じもむかつく。前々から募っていた演劇業界に対しての不信がここにきて爆発しているが、中の人たちはこれをどのくらい正面から受け止めているのか、その手ごたえを感じないのが気持ち悪い。この気持ち悪さ、覚えがあるなと思ったら、安倍〇三に似ている気がした。つまり観客(=国民)とは別のところを見ているということだろうか。
小劇場系は工夫をしたりしてかなりがんばってくれているのを感じるが、大手が、特に東宝がやばい。映画はヒットしてるんだからここがんばってくれよと思ったりする。ホリプロは学生料金などを出しているけど、やっているのは「みなし在庫処分セール」なのでホリプロらしさを感じる。作品うんぬんより、その態度に心が離れてしまう。

劇場版ハイキュー‼ ゴミ捨て場の決戦

『劇場版ハイキュー‼ ゴミ捨て場の決戦』を観た。なんとなく自分は、こういう類の映画を観に行かずに人生を終えると思っていた。映画館で観たことのあるアニメは、ジブリと最近のスラムダンクくらいで、なんならジブリも『トトロ』と『千と千尋の神隠し』くらい。紙で読む漫画と生で観る舞台が好きだから、なかなかそこまで手が回らない。

なんで観たくなったのかというと、原作が好きだったのは間違いないが、興行成績が良かったのと新宿で大々的に広告展開をしていたからだと思う。つられた。ずっと、「ゴミ捨て場の決戦の良さは知っているので、わざわざ映画で観なくてもいい」と思っていた。

なんとなく『スラムダンク』の経験から、音が良いほうがいいだろうなと思い、IMAXにした。体育館の音は好きだし。始まって5分くらいで涙が出てきて、そのままぐずぐずと泣きながら観ていた。なにに泣いたのか。きちんと演出に泣かされたんだと思う。

スポーツの試合を映画にするとこうなるよな。ひとつの試合に詰まった想い、ひとつのプレーに詰まった時間、それがここにいま結晶になって、だけどこの先も続いていく。クライマックスがあるっちゃあるが、ないっちゃない。そもそもクライマックスみたいな試合だしね。なんせ研磨が研磨だし。でもずっと涙が溢れてくるような映画だった。終わった後、トイレに行ったら号泣したあとみたいな顔になっていた。

ハイキューのことを考えると、作品の存在も含めたまるごとでなにかを表現している感じがする。試合そのものを表現しているのかもしれないし、人生を表現しているのかもしれないし、ただただ瞬間を描いているだけかもしれないと思う。でも、観ることができてよかった。

プロがつくるもの

記事が公開されていた。高嶋政伸さんが『大奥』で、我が子に性的暴行を続ける徳川家慶を演じ、その中での暴行シーンを撮影したときのことを書かれている。芝居とはなにかということを、改めて知ることができるような文章。プロの仕事としてこういうことを知れると、自分であれこれ考えずに観ることができる。お芝居がうまい人たちの演劇を安心して観られるのと同じ。信頼をベースに、ただただ物語に身を委ねることができる。監視するような見方は疲れる。

「芝居なのだから、仕事なのだから、なにをしてもいい」というようなことは、一般人である自分自身のことを考えても「そういうものだ」と思って見過ごしてきたことが多いと思う。仕事という「義務」の意識が挟まると思考停止するような感覚。おかしいと思わずにやってしまうこと。おかしいと思わずに見てしまうこと。後悔する。恥ずかしいと思う。申し訳ないと思う。だからこれからも勉強する。社会人のプロとしてそうしなければと思う。