温度感のある景色

自分のために書きます。

病んでいる状態が安心するのかもしれない

人を信用すること、信じること、信頼することが難しい。

なぜなら自分すら信じられないから。

自分の足りなさをいつだって他人から突きつけられて、

彼らは他人だ、と思う。

じゃあどこまでは自分なのか。

自分は信じられないものだといまさっき言っていたじゃないか。

小説や詩、演劇などの芸術に触れている時の自分の感覚だけを持って生きていくことができたらいいのに。

生きていくことはただ呼吸をすることだけでは許されず、それは社会的な動物だから。どこからどこまでが社会かわからない、知らない人だらけの宇宙。それを無いものとしてしまったら私は生きられない。大好きなホワイトモカは飲めない。

 

何も考えずに生きていきたいわけでもないし、考えすぎて動けなくなって不幸になりたいわけでもない。

人が持っている刃に怯え続けたいわけでも、屈強な刃と盾を持ちたいわけでも無い。

世界最高峰とか、洗練された、情報だけに触れていたいわけでもないし、いつまでも人の噂話で笑っていたいわけでもない。

苦しいのは自分の感覚に言葉が、行動が、知識が、資本が、追いつかないこと。

 

お腹痛い。気持ちが暗い。

 

別人格を作り上げたところで、解決されないと思うけれども。

どうなることか。

私は「良いお年」を迎えたいよ。

”普通”にやっていきたい。でも”普通”になってしまいたくない。

それには多分、ずっと苦しみ続けるしか、ないんだと思う。

 

自分に、幸せになっていいよと、許すことができない。

こんな私が、人と関わっていて、会社に属して、社会に出てしまって、いいのだろうかとすら思うと、

なかなかに。

ただ、五感を目一杯使って、いきていきたいだけだったのに。

 

 

 

 

 

ーーー追記

ミュージシャンみたいね私って

いつか売れる!って信じてるミュージシャンみたい。仲間同士で俺らの作ってるものイケてるよねって言ってる人みたい。

自分の感じている違和感は正しいって信じてる。

それは社会的に「正しい」って。

私は私の真実がある。それだけでいいはずなのに、他者に強要するところまでがセットになってる。

ださいなあ。でもそれが癖だから。それを否定したらもう何にもならないよ。

女子たちへの憧れ

漠然とした憧れ

 

イケイケ女子たちを観察していた。

 

いつからかゲートを通り抜け、気づいたらそこにいた彼女たち

女の子というより「女子」。個人というより集団。

集団で意思をもっているように見える女子たち。

 

生まれから違うのかな、親が違うのかな、育て方かな、環境かな、運かな

全部であり何でもない

偶然の巡り合わせ

 

私だって「あちら側」に行けたのかな

行けないな

何だろ「絶対的な安心感」が足りない。

中学かなんかに気づいた、内部生との違い。

ここにいてもいい感。存在の安心感。

 

今日は本当にダメな日で、おまけに雨が強く降っていた。

それでも「努めて頑張ろうと努力した」なるべく健やかに、健康であれるように

それだって30分近くトイレにこもって、電車では目をぎゅっと閉じて

私は何から逃れようとしているのだろうか

将来の不安?春から働けるのか?そんなことより目の前の卒業を心配したらどうでしょう。

一日1日の積み重ねしかできないことを知っていて、それでいてあせらせる”何か”

 

どうやって私のことを幸せにしてくれるの?

なんて漫画みたいな台詞

与えられて当たり前の人たちへの憧れが、私を狂わせていくのか

 

映画をみて思った

健康じゃなきゃ狂えない

元気がなきゃ狂えない

狂ってなんぼの世界が芸術であり美しさだ

ただ消費するだけの美しさは意味がない

意味のない美しさはいらない

 

でも、女子たちは、外見が全てに見える

整った容姿と流行でお金のかかるおしゃれ

そして、同じものをまとって、同じものを食べたって、どうしたって真似できない自信。自我。

 

昨日たくさん歩いた今日たくさん笑った

人の前ではご機嫌でいたい。

それを意識しているのは大学生になってからじゃないかな?

中高の時の自分はどちらかというとご機嫌を伺う時の方が多かった気がするから。

許されたような顔しやがって。

そうやって伸び伸び生きている、ある種鈍感な?マイウェイを行く子を軽蔑して、羨ましがってもいたけれど

いつしか自分もそういう風に振る舞うようになったような気もするな

そんなことを友達を呼び出したタリーズで思った。

自分から呼び出した挙句に、眠いとか言って、机に置いてあった絵本を一冊読み聞かせした。

いやいや一冊って。途中まででもよかっただろうに。そもそも読み聞かせなくていいでしょ。(突っ込むところがありすぎる)

いやはや幸せなことですよね。

 

すごく面白いことがあってもうずっと大声で笑ってた

土曜日の渋谷、人がたくさん

そんなことも気にせずに。自分の場所のようにして。

 

でも時折、人の顔色を伺っていた自分が顔を出す

私が何かしてそういう風になってしまったなら、とか

私が何かしたことに対しては好感を持って欲しい、楽しく思って欲しい、みたいな気持ち。

それを初めて?人に言った時のことはよく覚えているから

見知った感情を使いまわしているだけなのかもしれないな。

 

 

努力という言葉を最近使わなくなったけど

そのかわりに、なんか嫌だなとか一瞬の不快感を逃さないようになった

私は自分のご機嫌をとるには甘いものを食べるか寝るのが一番だと思っているけれど

それをやりながら不快感のことを思い出し、反芻するようになった

なぜならきっとそれが「サイン」だからだ。

自分の何かが訴えている「サイン」

 

でも、「サイン」だと信じているだけなのかもしれないと思う時もあるよ

 

何が真実か何が信じているだけか

信じているだけってそんなにだめなのか脆弱なのか

倫理学を履修しなければならないな

 

大人になるってなんでも分かっていることだと思っていたし

なんでも分かるようになってからしか大人になれないと思っていたけれど

違うな

読みたい本知りたいこといまストックされている分すら吸収しきれない

それでも一個人として社会と関わらなきゃいけない時はもうすでに来ている

時間は待ってくれないよ っていつもおばあちゃんが言ってるように

だから、

だからどうしたらいいんだろうか

保留なことが多いまま日々を送らなくてはいけないし

保留だとしても未履修でも落単でも、何かしらの態度を取らないといけない

それらを恥じる必要はないけど、いつしか保留していることすら忘れてしまうのではないだろうか

漠然とした恐怖

 

でもね、しょうみ大丈夫なんだと思うんだよね 正味(すきな語感)

なんでって周りの人が生き様(あんま好きでない語感)で見せてくれるから

見せつけてくるから

それに私の何かが「反応」するはずなんだよね

 

楽なために生きているわけではないし

友達に共感されることだけが喜びというわけではないから

享楽的な出来事にストレスを逃しながら

何処か

星雲に向かって?

トンネルの向こうの緑に向かって?

進んでいるようで、吸い込まれているのかもしれないな

 

 

 

 

 

不安ってなんなんだろうね

昨日の帰りすごいやる気に満ち溢れてたのに、家に帰ったら何もやらなかったし今日も14時まで寝てた。なんで?

 

やらなきゃいけないことをやれないのは、多分怖いから。

自分を書類の上だけで測られてしまうのが怖いから。不安だから。

ほんと心理の話でしかないけど、自分が自分を信じられていないからだと思う。まあ事実能力値低いし。でも多分他の就活生だってできることはきっと同じくらいだよ。

 

怖いけど、やらなきゃ。

やるしかない。

クッと自分を前に進める力。それは多分どんなに恵まれていたってできなくて、欠乏感だけでもなくて、なんだろ、タイミング?

 

去年は演劇に希望を見出していたみたい。

今は、やっぱりどうしても執着しているかな。

だからこそその期待、未来の自分への期待を裏切りたくないし。多分できると思ってる。矛盾してるけど。

 

 

なんだろうな〜ばかなんだよな

だってどうせやることを後回しにしていることによって、時間がかけられなくなっているのは事実なのに。ばーか

頑張れって言われたって、なんなら監視されたからって、やらないと思う。背徳感。時間がなくなっていく背徳感には勝てない。

 

平成しかしらない 令和は全て知ることになる

平成も残すところあと1日らしい

今日2時間くらい天皇のドキュメンタリーを見ていた。

なんか、すごく、徳の高い人っていて、それは生まれ持ってのものと自身が積んできたものと両方あるよなあと思った。

本当に、感動した。

 

私は天皇誕生日の生まれ(つまり誕生日が天皇と一緒!)で、いつも誕生日が祝日だったから、テレビも天皇の報道でつまらなくて、っていう思い出がある。

無宗教の人が多い日本人にとっても、象徴天皇はどこか特別な存在で、どうしたって丁寧な言葉で語られる存在だ。

でもその人は戦争を指揮した、そのムードを作った、たくさんの人が「天皇バンザーイ」って死んでいった人の子供だ。

それってどんなに重いことなんだろうか。

 

退位が決まってからドキュメンタリーを見ることが多くなり、関心を持って観た。

象徴とは何か、の模索。

決して当たり前のことを形式だってやってきた人では無いということ。

というか、私と同じく、人、であること。

それが当たり前では無い立場であったということ。

 

 

ーーーー

 

お嬢様、とか、育ちがいい、とか、多分私は人よりもそれを意識して、意識させられてきた方だ。

幼稚園から私立の一貫校で育った人にとってはそれは「当たり前」で良いものでもなんでもないと中学の時に知った。”意識”している自分はある意味でレベルが低いんだなと思った。

 今の私の中にそれはそこまで重要視する項目として置かれてはいない。育ち、家の大きさ、受けてきた教育と、親の収入。社会的地位。

でも、少なからず人を構成する要素としてそれはあるだろう、しかも選べない要素、生まれ持っての変えられない要素として。

 一方で、私の中に今気になる要素として「自由」とか「ありのまま」ってワードがある。それはある意味では前者と対立するような要素であり、先天的にも後天的にも身につけられるもの。

でもそれを選ぶ時、いつも心のどこかで「本当にこれで良かったのか?」と自問自答する。本当に私がありのまま、自由でいることだけでいいんだっけ?

今の私があるのは、親とそのまた親と、その歴史の上に成り立っている自分であって、今この瞬間ばかり大切にしてしまっていいんだっけ?

 

私の母が繰り返し「どこに出しても恥ずかしくないお嬢様に育てたい」と私に言っていたことの意味

それは心の豊かさを育んで欲しかったからだと思う。

日々の暮らしを成り立たせることに必死になるのではなく、もっと別の楽しさを知ってほしい、と。

礼儀作法、古き良き習慣と、教養。品。

それらは「落ち着いていないと」つまり「自分の安全が確保されていなければ」養えないものであるから。

そして私は十二分に、安全な中で育った。

足りない足りないとずっと思って生きていたけど、確かに愛情表現が下手すぎる家族の元ではあったけれど、それでも全然十分すぎるくらいもらったと思う。

だからこそ思うことは、「それなりの生き方をしなければならない」、「私の子供世代にもこれを受け継がなきゃいけない」ということ。

 

少しずつ感覚が変化していく社会。

自然と変わっていく時代。

それが個人より早い速度なのか、遅いスピードなのかはわからないけど、そういったもの。

 

 

 

今年は年越しが二度あるみたいな感じ

区切りは人の背筋を伸ばす。新しさは人々をわくわくさせる。

 

平成最後の日 私は頬にできたにきびがかゆい

平成しか知らないんだもの

そして令和の全てを知ることになるだろう

楽しみね

おかしいね

分からなさに「愛してるよーーー」って叫ぶことしかできない

頭の中でこれだけの声がしゃべっていて、これだけ辛くて、でもその辛さを乗り越えたくてこれだけ考えているのに、身体はただ満員電車でどこの誰か知らないスーツの男に囲まれているだけ。この人たちも何か目的があってこれに乗っていて、たぶんそれとは全く違うことを考えている。

 


目に見えないものの多さよ

分からないことだらけの世界よ

 

 

 

 


「私のことどう思ってるの?」

こんなこと、電話越しに聞くなんてナンセンスだ。

「で、さとみはどうだった?」

相手を目の前にしたって、やっぱり、暴力的な問い。

言葉にしてもらわなきゃ分からないなんて、そんな傲慢なことが許されていいのかなと思いながら、それでも、不安のままに。

「ほんと悪魔みたい、小悪魔どころじゃないよ」と笑われた

 


抱きしめられながら、これでよかったのかな?と思う。

私は何が欲しかったのだろう。

でもこれだけ誠実に触れてくれる人なんて初めて。

 

 

 

 


自分で命を絶って幸せだった人

天寿を全うして不幸だった人

残されていない歴史の数々

私が笑わせた人

私が悲しませた人

その他大勢の出会うことのない人間たち

 


なにが悔しいって、何もできないことだ

何かできたとしたって、あの頃ー本当に目に見えるものしか信じられなかったあの頃ーの私を救えるなんておこがましい。

だけど、だけどどうしても、

私は「出来るようになりたい」と望む。

「もっともっと見たい」と。

愛すべき世界、捨てたもんじゃない現代社会を、現実的に生きることを望む。

ただ目の前の人を幸せにしたいから。

ただ少しだけでも心を温められたら。

 


いくら情報を収集したところで、先人に学んだところで、インフルエンサーを模倣したところで、

体験だけが真実だ。

それしか、信じられないから。

 

この状況が楽しくなっちゃうんだもんなー

全部虚構であってもいいと思うのよ。

むしろ全部嘘で、全部夢であってほしいとさえ。

 

みんな頭ばっかり良くなってどこに行きたいのよ。

頭が良くなって褒められるのはせいぜい新卒の研修期間まででは?

みんな誰のために生きてるのよ。

(みんなと言いつつ何人かの顔しか思い浮かべてない)

 

 

 

自分と同じ人間っていなくて、共通言語って本当に手からこぼれ落ちてしまうもので、

本当に悔しく苦しく、でも、なんか、”諦めたくないのよね。”

「ああこういう人間なんだ」「伝わらないんだな」って思ってしまうことは簡単で、諦めて、期待せず。そういう関わり方を「気遣い」とする場面もあると思うし、必ずしもそれだけが人の賢さとも思わなくて。

 

何が言いたいかってもっと人に期待してもいいと思うんですよね

人って簡単に傷つくし、案外簡単に感情を捨てたり、もしくは死んだりすると思ってるんですけど

それでもそれを恐れて「気遣う」ことほど失礼なことって無いと思ってて。

 

こんな自分のスタンスをどうこう言われる筋合いもなく、

そもそも自分が人とどういう風に関わるのかを言語化している人なんてわずかしかおらず、

でもすごくモヤモヤしているのでここに置いておく。

 

本当に事実は小説より奇なり、って誰が言ったの?

まじで本当それなんだが?(キレ気味)

春の京都に行くのは一度でいいんじゃ!!!なぜ一回で用事を済ませられないの?一度1週間滞在すれば済む話だったのに!(多分違う)

というわけで、今年も、なぜか、二回めの春の京都へ。

三年連続春には京都に二回行かなきゃいけない。

なんでや本当にもう。

いや、不幸中の幸いは今度は目的が少し変わったことだよね。

ちょっとずつ人は変化する。

来年は社会人なんだからこんな無茶しないぞ。

安定したい。

 

 

背徳感が私を一番高まらせるのは事実。