老人と自動注文レストラン

 私の住んでいる街には古くから自治会があり、そこが運営する会館がある。持ち回りの自治会の役員に女房がなった関係もあり、その会館が行なっている地区の老人たちの相互の連帯を少しでも広めようとする「お越しやす」という会合に顔を出すことになった。

 出席者は十数名で殆どが女性で、男性は私の他に一人だけであったが、平素ほとんど知らない人ばかりなので、近くのどこにどんな人が住んでいるのか、多少でもわかるし、集まったご婦人がたの話を聞いているだけでも、色々な町の情報が手に入り面白かった。

 そこでの話である。一人の話好きの女性が身振り、手振りまで加えて面白おかしく話していた老人の見たあるチェーン店のレストランの話が興味深かった。

 年寄りばかりの女性が三人で、若者の多いあるチェーン店のレストランへ行ったのだそうである。席について色々話をしていたが、いつまで経っても注文を取りに来ない。痺れを切らして、近くを通りかかった従業員に尋ねると、机の上にある料理の写真が載っている端末で注文するようになっていると言われ、その操作方法を教えられたのだそうである。

 そういうものかと思って画面を見ても、自分らの欲しいものが載っていない。そうしたら従業員が指で画面を払って、他の料理の写っている次の画面が出てくることを教えてくれた。その画面にも欲しいものが見当たらなかったら、さらに次々と画面を払っていくとようやく食べたい料理の載った画面が出てきた。その画面を押すと注文の品が決まるという。 

 それが済むと、次は注文の数である。席に三人座っているので見れば分かるのに、人数のボタンに3と押せと言う。それでやれやれと、あとは料理が来るのを待ちながらまた三人でおしゃべりが始まった。

 たちまち時間が経って、ようやく料理が運ばれてくる。ところが従業員が運んでくるのではなく、何段かになった台車で、前方に顔の様なものが描かれたものが料理を載せて、自動で動いて来て、客席の横に来てぴたりと止まったのであった。

 そこで客が自由に台車の棚から料理や飲み物をとり、自分達の手でテーブルに移す。その間、モタモタしていても台車はじっと止まったまま動かない。全部撮り終わったら、何もしなくても、空になった台車は黙って自分で引き返して行ってしまう。

 どうなっているのかわからないが、狭く込み入った通路を、注文通り間違えずに、障害物を避けて曲がりくねりながら、それぞれのテーブルまで運び、また元に戻る様になっているのである。当然食後の会計も全て機械が処理してしまうことになっている。

 こういうレストランは効率的でおそらく今後増えてくるであろうが、折角レストランに入ってゆっくり食事をしようと思っても、店の誰とも会話を交わすことなく、ただ黙々と注文し、運ばれて来た料理を黙々と食べ、会計まで機械で済ませる方式は、誰にも煩わされないので良いという人もいるであろうが、一人で行けば何と侘しいことであろうか。

 人手不足が進むほど、今後こういったレストランが植えてくるであろうが、果たして喜ぶべきか、悲しむべきか、次の世代が思いやられる。

 

 

 

ゴールデンウイークの河川敷

 今年もゴールデンウイークがやってきた。昔だったら、海外旅行にでも行っていたであろうところだろうが、歳を取り過ぎ、体力が衰え、足が悪くなっては、最早、海外どころか近くの散歩さえ、以前いつも行っていた所へも行けなくなり、行動範囲がずっと狭まってしまった。

 それでも、暖かい季節のゴールデンウイークで、天気も良くなり、旅行ラッシュのテレビなどを見ると、もうどうにも家の中にばかり閉じこもってはいられない。三輪の歩行補助器を使って、昨年までは朝早くからよく行っていた近くの川の河川敷の公園まで行ってみた。

 以前はこの季節になると、毎年、川を横切って多数の鯉のぼりが空に舞っていたものだったが、コロナ流行以来姿を消してしまった。それでも季節が良くなると、近年は河川敷に自家用の小さなテントを張って楽しむ人が見られるようになったので、今年はどうだろうかと思いながら現地に着いた。

 驚いたことに、今年の河原はなんと大勢に人たちで賑わっていたことであろうか。川の流れに沿ったさして大きくもない公園であるが。そこにぎっしりと言って良いぐらい、色々なテントが少なくとも二十以上は張られ 大勢の人たちで賑わっていた。

 地域の集まりなのであろうか、大勢の家族連れが一角を占拠し、一緒に飲んだり食ったりしながら、その一角では、愛玩犬を走らせたり、家族ぐるみの走り合いの競争をしたりして盛り上がっていた。

 それに続いては、小さな色々な家族用のテントが所狭しと並び、それぞれに人たちが動いていたが、まさに川に沿った過密なテント村とも言える状態であった。 川筋がいっぱいなので、少し離れたところにテントを張る人もいたし、鉄道橋の下の日陰に集まり、シートを広げて皆でバーベキュウをやっているグループもいた。

 そこへ近くのコンビニに買い出しに行っていたのであろう人が、ビニールの袋をぶら下げて堤防の階段を降りてくる姿も見られた。

 堤防の上の遊歩道では親子で自転車を楽しむ家族もいたし、高速道路の日陰になって目立たなかったが、堤防の外側の公園でも、遊具で遊ぶ子供や、ベンチで休息を取る人たちも見られた。いつも静かな河川敷の公園もこの日は思わぬ賑わいを示していた。

 日本経済の低迷で一部の人たちを除けば、物価は上がるのに給与は上がらず、その上円安で生活は一向に良くならない。多くの庶民は、折角の連休でも遠くへは行けず、せめて近くで楽しもうという人が多いのであろうか。それで、こんな場末の公園も人に溢れているのであろうか。

 あんなに過密な所で、わざわざテントを拡げるのなら、家でゆっくりしていたらと思わないでもないが、やはり過密な住宅環境の中では、せめて休日ぐらいは非日常を求めたいところだが、そうかと言っても遠くにも行けないので、過密でもせめて広々とした大空の下でのびのびして見たいのであろう。

 最近の都会の庶民の住宅は何処も狭い敷地に精一杯建てられた家ばかりで、窓を開ければ隣と見え見えになるので、大きな開口部といえば玄関ぐらいで、あとは何処も人一人出入りできないような狭い窓の家ばかりが増えている。

 昔ながらの大きな開口部のある家も道路に面した所など、シャッターを下ろしたままにしている家も多い。昔のように縁側から庭を眺められるような家はなくなった。気候が良くても、窓を開ければ、隣家からも通りからも丸見えなので、ゆっくり寛げない。

 こうした住宅事情も、混雑していても、河川敷にテントを張って、せめて外気を吸ってのびのびとして、非日常を味わいたくさせるのであろうか。

 公園はバーベキュー禁止と書かれているが、あちでもこちでやっている。後片付けさえちゃんとやって貰えれば良いのではなかろうか。せめてゴールデンウイークの時ぐらい、旅行にも行けなかった庶民たちも、オープンな河原で少しは英気を養わせてもらっても良いのではなかろうか。

 

 

 

軍備増強より積極的外交を!

 最近の日本の軍墓増強は恐ろしいほどである。どう見てもこれが戦争を放棄した平和国家の姿とは思えない。戦争をするために平和憲法を変えようとする動きさえある。

 沖縄や先島諸島には広範囲に自衛隊の基地が作られ、ミサイル基地が各地に建設され、どこからでも敵基地に対する先制攻撃も可能と言われている。当然、弾薬庫や、反撃に備えての

シェルターなども完備されるようだが、住民用のものはなく、住民に対しては島からの退避、脱出が考えられているようだが、それは後回しのようである。

 場所が先の大戦で過酷な犠牲を払わされた沖縄であるだけに、住民の反対を知りながらの政府の強行姿勢が問題となるが、民意などは全く無視され、アメリカに言われるままに、国会での議論もないままに、事が進められている。

 これらは今のところ、台湾有事に備えてと言われているが、そのために、日米韓、日米比、日米豪などの共同軍事訓練なども整備して、中国包囲網を作り、中国の太平洋への進出を抑えようと進められている。

 それに伴い、軍事費の増強も顕著で、国家予算の2%にすると言われている。武器の製造や共同開発なども拡大され、その輸出もされている。アメリカや同盟国の艦戦の修理などのメインテナンスも出来るようにし、イギリス、イタリアとの共同開発が進みつつある戦闘機の輸出も見込まれている。

 さらには主権の一部を放棄してまで、日米軍の指揮系統を統合し、アメリカ軍の命令下に自衛隊が戦わされる組織化まで進められている。いつ戦争が始まってもアメリカ軍の指揮下で自衛隊が戦わされる準備が出来上がりつつあるのである。

 ところがここで一歩身を引いて、日本の近隣の世界情勢を見てみたらどうだろう。台湾問題が盛んに取り上げられているが、日本もアメリカも、中国と台湾が一体であることは今も認めていることであり、現時点で、中国が日米などと戦争をしてまで、台湾へ武力侵攻しなければならない必然性は考え難い。

 更には、現在の日本が外国と戦争のできる国かどうかを考えてみると良い。少子高齢化で人口減少のこの国が、戦争向けの国でないことは明らかであろう。それに日本が台湾や中国を攻めなければならない必然性がないではないか。

 その上、日本は島国で戦争になって、海で周囲を遮断されれば、忽ち国民は飢え、産業は止まってしまうであろう。先の大戦で嫌というほど経験させられたことである。それに日本の長い海岸線に沿って、陸上に固定された原子力発電所がいくらも並んでいるのであろ。若狭湾の原子炉が一箇所でも破壊されれば、それだけで日本は放射性汚染でお手上げになるのではなかろうか。

 どう考えても、日本が戦争を始めて勝てる公算はないどころか、どう考えても先の戦争以上に惨めな敗戦、滅亡が待っていることは間違いないところであろう。

 アメリカにしても中国との本格的な戦争は望んでいないであろう。むしろ、軍備増強で抑止と同時に軍需産業に儲けさせ、経済の発展、世界の支配の永続化を図りたいのであろう。過去から続く歴史からアメリカの意向に従わざるを得ない部分もあろうが、それはそれとしても、そのおこぼれに預かることよりも、もっと独自の外交に力を入れて、戦争を防止し、平和を維持することに力を注ぐべきではなかろうか。

 日頃の外交努力をもっと積み上げて、隣国との平和な経済外交、友好関係を積み重ね、平和を維持して何ら損失はないのである。それどころか、隣国との友好関係、経済連携こそが共存共栄の道であることはあまりにも明らかである。

 

 

 

 

 

我が家の多言語時代

 我が家では娘が二人ともアメリカに行き、アメリカ人と結婚して、ずっとアメリカで生活し、孫たちも皆アメリカ育ちなので、家族間の会話は日本語か英語になる。孫は3人いるが、下に行くほど日本語は通じ難くなる。

 先日来ていた2番目の孫は最近日本語に興味を持っているようで、新しく出くわした日本語を丹念にメモしていた。日本語も結構喋れるようで、美容院で美容師さんとも結構日本語で話し込んでいたことを女房が聞いて来たようである。

 3人の孫たちはずっとロスアンゼルス育ちなので、ラテン系の友人も多く、スペイン語も喋れるので皆自然と3ヶ国語のスピーカーである。当然、母親である下の娘も同様ということになる。

 上の娘はニュヨークに住んでいるが、大学時代にスペイン語の専攻だったし、メキシコに留学していたこともあるし、仕事でスペイン語を使っていたこともあるので、日、英、スペイン語は達者だが、その他にも趣味?で中国語、ドイツ語なども学び、話せるらしい。

 最近は SMSなどを通じて個人的に言葉を教え合うようなシステムもあるらしく、それを通じてドイツ人を相手に、娘が日本語を教え、相手がドイツ語を教えてくれるような個人的な学習方法を利用していたとか言っていた。

 彼女の旦那はドイツ系のアメリカ人なので、英語、ドイツ語は勿論、スペイン語、フランス語も出来、中国にいたこともあるので中国語も達者だそうで、日本語もそこそこに出来るマルチランゲッジスピーカーである。

 当然我が家では、皆が集まったような時には、日本語と英語のちゃんぽんの会話になるが、皆は英語の苦手な私のことも思いばかって話してはくれるが、つい英語で話が盛り上がったり、娘や孫同士の英語の会話となるとついていけないことになる。

 女房は英語が専攻だったし、通訳のキャリアーもあり、今も英語の小説などを読んだりしているので、ついていけているようだが、英語が苦手で、おまけに耳が遠くなった私には何を言っているのか理解に苦しむ場面も出て来て、一人だけ取り残されたような感じがすることにもなる。

 世界の趨勢を見ていると、国際的な交流は今後もますます盛んになっていくであろうし、近未来は英語が共通語のような働きをするであろうが、世界の大きな流れを予見すれば、もっと先には、どうなって行くことであろうか。エスペラント語のような世界共通語の試みが復活して来るよなこともありうるかも知れない。

 

我が家のダグウッド

 ダグウッドとはハナミズキのことである。昔、日本からポトマックリバーの桜の苗木を送った返礼として、アメリカから送られて来たのが日本での始まりで、アメリカ原産でアメリヤマボウシともいうらしい。

 最近では日本でも、あちこちで、街路樹であったり、庭木であったりして、普通に見られるようになったが、私の若い頃には、ダグウッドといえば、戦後に新聞に連載されていたアメリカの漫画が有名であっったが、木については日本ではあまり知られていなかった。

 私がダグウッドを初めて見たのは、1961年アメリカへ行った時のことであった。桜と見間違うようなピンクの花が満開の大きな木がボスの家の庭の真ん中にドント立っており、周囲に枝を伸ばした姿が衆目を集めていた。

 桜とよく似た感じがして思わず何という木なのかと興味が湧き、ダグウッドという名を教えてもらったのが初めであった。漫画のダグウッドをよく知っていたので、名前はすぐに覚え、いっそう親しみを覚えるようになったものであった。

 そんな経験があったものだから、親が死んで古い家を建て直す時に、従来からの庭とは別に、芝生の庭の真ん中に赤白一本ずつのダグウッドの若木を植え、のびのびと育ててやろうと思った。例年の植木屋さんの剪定にも手を入れてもらわず、自然のままに成長させた。

 白い花の方はやがて枯れてしまったが、ピンクの花の方はスクスクと育ち、やがて満開の花を咲かせるようになり、当時はまだ珍しかったので、隣家の人にまでも「楽しませてもらっている」との言葉をもらったほどになり、密かな我が家の自慢の木となっていった。

 桜の花より少し遅れて咲き、4月終わりか5月始めまで咲いている。ゴールデンウイークに旅行に行って帰って来た時に、まだ少しでも残っていてくれないかと思ったりしたものであった。

 花は桜と似ているとも言えるが、こちらは桜と違って花は長らく枝先から離れず長持ちするし、落ちる時にも花びらが散るのではなく、元からポツリと落ちる感じである。durability(永続性、耐久性)というのがダグウッドの花言葉らしいが、逆境に耐えて花を咲かせるというイメージ、逆境に耐える愛という意味も持っているとかである。

 しかし年月は争い得ないものである。いつしかこのダグウッドも持ち主同様、老いさらばえて来て、かっては圧倒的に周囲を威圧せんばかりに咲いていた花も、今では寂しくちらほらと申し訳程度にしか咲かなくなってしまった。

 最近増えて来た近隣の家で眺められる満開のダグウドに比べると、その勢いの違いに驚かされる。持ち主と共に歳をとって衰え、今では寂しく昔の栄華を思い出させるだけになってしまっている。万物の栄枯盛衰を表しているものかと静かに眺めるよりないこの頃である。

 

 

日本の危険な道

 岸田首相の国賓待遇でのアメリカ訪問について、本人は議会での報告で「首脳会談や米議会での演説を通じ、私のメッセージを日米両国、そして世界に伝えることができた」と胸を張り、スタンディングオベーションで迎えられた米議会の演説を自慢した。

 しかし、あらかじめこの会談により、自衛隊アメリカ軍の指揮系統の見直しが決められることになっていた通り、今後、日米間の軍事同盟の強化が進み、情報でも装備でも圧倒的に優越的な立場にある米軍主導により、自衛隊が事実上、米軍の指揮統制のもとに置かれることになることは明らかである。

 国会での答弁で首相は「法令で定めている通り、総理大臣が最高指揮官として自衛隊を指揮監督することに変わりはない」と言っているが、有事の際に日本の主体的な判断をいかに担保していくかについては、具体的な説明はなされていない。

 首相の「これまでと変わらない」との発言にもかわらず、アメリカ軍が指揮し、その下で日本の自衛隊が第一線で戦う責任を負わされることになったことは明らかである。対中国のアメリカの政策にがんじがらめにされ、いざという時にはアメリカの指揮下で自衛隊が戦わされることになりそうである。

 アメリカは指揮権を行使し、兵器や弾薬は大量に供給するも、アメリカ兵の消耗は避けたいであろうし、有利とあらば攻撃はしても、不利なら逃げられる立場を確保することになるであろう。第二次世界大戦の時もマッカーサーは ”I will return” と言って、一旦アメリカへ帰って、後に攻め戻ってきたのである。米軍指揮下にある自衛隊は、ウクライナと同様、アメリカの代理戦争ををさせられることになりかねない。

 世界の動きを大局的に眺めるならば、アメリカの一極支配は終わり、BRICSなどの台頭は抑えようがなく、多極的世界になるであろうことは間違いないであろう。その世界を生き延びるためには、当面、日米同盟から逃れられなくとも、最低限、中国を始めとする諸外国との外交を強め、中立を確保し、戦争を避ける努力をすることが不可欠であろう。

 今のまま、今の路線を突き進めば、この国の未来が思いやられる。日米同盟にがんじがらめに縛り付けられて奈落の底に落ち込みかねない。少なくとも隣の大国である中国とは、もっと強力な外交による善隣関係を構築、維持するべきであろう。

 

 

 

桜と兵隊  

 春はやはり桜である。今年も桜を見るために入院させられていた病院から無理に退院させて貰って桜を見に行った。桜を見ないと春になった気分になれない。

 それほどの憧れとも言える桜であるが、すっかり忘れてしまっていたが、桜を見ると戦争を思い出して嫌な気分が戻ってくるので、長い間、花見は気が進まない年月が続いていたことをふと思い出した。

 かって桜はパッと咲いてぱっと散るところから潔い武士道と結び付けられ、そこから軍隊の象徴とされていき、旧帝國陸海軍では至る所で利用され、桜と軍隊は切っても切れない間柄となっていたものであったのである。従って戦後もその記憶が強く、軍隊がなくなってもその亡霊には桜がいつまでもまとわりついてのであった。

 例えば、大勢で花見の宴にいても、ふと幔幕の後ろからやつれた兵士が覗く気がしたり、満開の桜並木を見ると「万朶の桜の花の色・・・」という軍歌の響きと共に、隊列を組んだ兵士の亡霊たちの軍靴の響きが聞こえて来たりしたものであった。

 神社の満開の桜の下には忠魂碑があり、「出征兵士万歳」の声が聞こえ、その歓声の端に赤子を抱いた若い女性の亡霊のような姿が浮かんだりしたものであった。また、海軍兵学校の校庭を埋め尽くす様に咲いた桜が目に浮かぶと「貴様と俺とは同期の桜・・・咲いた花なら散るのは道理・・・」という歌が思い出され その先に人間魚雷「回天」が海を背景に置かれた景色が思い出されて来たものであった。

 そんなことがどれだけ続いたことであろうか。桜は私にとって長らく戦争と結びついて離れられなかったのであった。それでも、いつしか忘れていたが、もう10年以上の前であろうか、大阪城公園へ桜を見に行った時、たまたま、迷彩服を着た自衛隊の兵士が2〜3人、桜の木の下で休んでいるのに出会し、思わず昔が黄泉がえりドキとさせられたこともあった。

 幸い、その後も戦争がなかったお蔭か、戦争の影がようやく消えて桜を本当に愛でることが出来るようになったのはいつ頃からだったのであろうか。今では桜はやはり春の象徴である。もう二度と桜と軍隊や戦争結びつけて欲しくない。桜のように散って靖国神社へ逝くような世の中だけは絶対避けてほしいものである。