パフェを食べられない人のブログ

そんなことしてる場合か?

理性と情動の相田勝平――十一話と二十四話から見える父との関係を軸として――

非の打ち所のない優等生かと思いきやかっと頭に血が上って人を殴り倒してしまったり、五十嵐のためにぼろぼろ涙を零すかと思えば何を考えてるのか分からないすまし顔で平然と振る舞ったりする、そういう矛盾に満ちた相田勝平が大好きです。生きているなぁって思います。

そういう、理性的で合理的で論理的な「優等生」属性と、相反する暴力的でむっつりスケベでエゴイスティックな要素とを併せ持つ相田勝平の在り方は、やっぱり両親との、特に父との関係の中で形作られたものでもあって、そういう相田のちょっと歪なところも五十嵐との出会いによって救われているんだよなぁっていう、そういう五相が好きだなぁっていう、もうほんと百万回言われてきたような話をします。

考察の皮を被った妄想であり願望です。多分にネタバレを含みます。

かなり限定的なところしか見ていないし、○話の記述と矛盾してない?みたいな話も好きなので、何か気づいたことがあったら教えていただければ幸いです。

 あと、『アイツのBLマンガ』を読んだことがないっていう人がもしこのブログを目にしたのなら、是非とも読んでほしいなと私は思います。なんと無料で読めるんですよ。

アイツのBLマンガ | bobariee - comico(コミコ) マンガ

アイツのBLマンガ【タテヨミ】 1巻 |無料試し読みなら漫画(マンガ)・電子書籍のコミックシーモア

 

▼先行研究

なぐもさんのブログ記事「アイツのBLマンガにおける家庭環境と問題」及び「五十嵐の自尊心0問題

→これに本当に全面的に同意なので、今から書くことは、本当は全て蛇足です。特に「五十嵐の自尊心0問題」はすごくすごく大事なことが書かれているんじゃないかと私は思っていて、

五相編は五十嵐の救いの物語です。と、同時に五十嵐の一世一代の頑張り物語でもあります。

 というこの記事の結論に私も深く深く頷き続けます。そして、蛇足であることは承知の上で、五相編は相田の救いでもあり、そして五十嵐の頑張りのおかげで成り立ち得た五相編のこの後、二人のこれから先の物語に、今度は相田の頑張りがあるのではないかと、そういう話ができたらなと思います。

 

(一)相田勝平の理性的側面 優等生であること=レールの上を歩むこと

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11話より かわいい

相田勝平が優等生なのは、「よくできるいい子になってほしい」という両親の望みに応えた結果であり、相田は敷かれたレールの上で、理性的に生きてきた、ということが11話でかなり露骨に示されています。相田勝平の将来の夢が判事、法曹人であることも象徴的で、この子は判事になる、という父の言葉が、そのまま相田の一つの人生の目標になっているわけですよね。これって、相田は、自分の生き方、自分の在り方を、両親に委ねてしまっている、とも言えるのではないでしょうか。[1]

(二)レールからの逸脱としての暴力性

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11話より かわいい

相田の暴力性は、幼少期、自分を侮辱した同年代の男の子に対して初めて発露します。11話では、相田が親の敷いたレールの外で、マウントを取って殴る姿が描かれ、暴力性がレールを逸脱した行為であることがはっきり示されています。(まあ当たり前なんですけど)

続いて、父に諭されるシーンでは、「これからはこんなことしちゃダメ」「立派な人にならないとな」という言葉を聞く相田が、父の胸の勲章を見つめる姿が描かれます。これ、立派な人=父のような人=父のように社会的地位のある、社会的に認められている人、であり、自分もそうならなくてはならない、という相田の意識が示されている、と言えるのではないでしょうか?

なんていうか、立派な人、というのが内面的なことよりも、社会的承認の方に置かれた瞬間のように思いました。

 

(三)二度目の暴力 理性でコントロールできない相田の情動

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画像11話より ああ香川!

香川の台詞は「父」及び「父のように生きようとする、レールを歩む自分」への侮辱です。[2]

相田は、この侮辱に対する抗議として、「動かなくなるまで殴る」という行動に出てしまいます。

ここまで頭に血が上ってしまったのは、父のことを尊敬しているから。そして父のように生きようとすることにも誇りを持っているから。[3]けれど、この場面でここまでの暴力性が噴出してしまうところには、相田の一種の歪みがあるのではないでしょうか?

「立派な人にならないとな」という父の言葉が「胸に強く残った」にも拘わらず、相田は理性によって自分の暴力性を抑えることができません。なぜでしょう?

 

(四)相田勝平の情動 暴力性と幼稚性、エゴイズム

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左から21話、26話、54話 ああああああああ

そもそも相田って、やっぱりかなり情動的な人間ですよね。かっとなってすぐに手がでるし、割と泣くし、寝ている五十嵐をぺろぺろしてしまうし、行かないって言えよ、とか言っちゃうし、相田は、その頭の良さに反して、感情的になったときにそれをうまく言語化できず、幼くなったりエゴイスティックになったりしがち・・・・・・じゃないですか?

これも、やっぱり理性で情動をコントロールできていない、ということの表れの一つのように思います。

 

(五)二十三話~二十四話 理性と情動の狭間で

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23話 24話

23話24話では、理性と情動の間で揺れ動く思春期の相田の不安定さが描かれます。

その揺れは、「お前はどうしたいのか」「お前の欲しいものはなにか」を突きつけられることに起因するのではないでしょうか[4]

面接において、「どうしてこの高校なのか?」「やりたいことはなんなのか?」の質問をぶつけられた相田は、学校での優等生ぶりからは想像できないほどしどろもどろになってしまう。これはもちろん五十嵐のことや、予想外の緊張が原因なわけですが、これらの質問にうまく答えられないのは、相田が今まで、自分の「やりたいこと」、つまり自らの欲望や情動と向き合うことがなかったからである、とも言うことはできないでしょうか。

相田は「よくできるいいこであれ」「立派な人にならないとな」という期待を背負って、その中で「やらなきゃいけないこと」を120%達成してきた子供ですが、その反面、自分の生き方を両親の意思に委ねてしまっており、自分はどう生きたいか、を考えないままになってしまった子供[5]なのではないでしょうか?

五十嵐との出会いにより、相田はレールから逸脱したところに「楽しい」を見つけます。レールの外にも世界は存在している。五十嵐との出会いは相田にとって、親の敷いたレールの外にある自分の発見だった、とも言えます[6]

 

(六)「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」の二者択一

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24話

相田は自分の欲望が「今はただお前と一緒にいたい」であることを自覚し、面接でもそのように答えます[7]

面接のシーン、「やりたいこととやらなきゃいけないことの間で選ばなきゃいけない時もあると思うけど、どう調整するつもりか」との質問に対する相田の回答は、かなり感情的かつ極端です。これ、面接官は「選ばなきゃいけないときもある」「どう調整するのか」と尋ねているのに、相田の中では「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」どちらかしか選べないことになってしまっていますよね。

この時、相田にとっての「やりたいこと」は五十嵐と一緒にいること、「やらなきゃいけないこと」は「両親の期待に応え、立派な人になること」です。

どちらか一つを選ばないといけないのなら、と一度は「やりたいこと」=五十嵐を選んだ相田ですが、ぺろぺろを経て、関係性が変わることへの恐怖から逃げ帰ってきてしまいます。

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24話

 「家に近づくほどだんだんとはっきりしてきた」のは、直後の台詞からくみ取るならば、「僕はどうかしてたんだ(具合悪くて寝てる奴にヘンなことするとか)」ということであり、これは24話タイトルにもなっている、「間違っていました」とも重なります。さらに相田は、軍服を着た父の姿を見て、「僕は今日一体何をしてたんだ」と自分の行動を後悔するに至ります。24話タイトル、「間違っていました」は「(「やりたいこと」を選んでしまった僕の選択は)間違っていました」であり、父に対する相田の懺悔なんじゃないでしょうか。

 

(七)「やりたいこと」と「やらなきゃいけないこと」は本当に二者択一だったのか?

さて、相田は、24話を経て、「やりたいこと」=五十嵐ではなく、「やらなきゃいけないこと」=両親の期待に応え、立派な人になることを選ぶことを選択します。それは、五十嵐との出会いによって気がついた自分の中の情動や欲望ではなく、与えられたレールの上の理性の方を選ぶということでもあります。

 でも本当は、その二つって、どちらか片一方しか選べないものではなくて、どちらも選べるものだったんじゃないでしょうか。自分の情動や欲望を受け容れず、表面的な理性のみを選択しようとした相田は、やっぱりこれ以後も情動をコントロールすることができません。香川を後遺症が残るレベルに殴ってしまうし・・・・・・。一日一キスのあたりもそうじゃないですか・・・?

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交際後こそ「そうだよ」とか即答してますけど、一日一キスを申し出た段階では、多分相田自身本当に五十嵐のために仕方なくだと思い込んでるような気がします。そういうずるいところありますよね??最低30分のくだりも、まだ「自分が」30分したいんだということをちっとも認めてないので、なんとなく五十嵐のせいにしてるしね。ずるくてかわいい。

 

(八)まとめ 相田勝平はいかにして救済されるのか?

さて、そういうわけなので、私は、相田の成長及び救済は、まずは自分の情動を自分のものとして受け容れることにあったのではないかと思います。自分の「やりたいこと」「したいこと」を選ぶ、それはひいては自分の生き方を自分で選ぶ、ということでもあるはずです。そして、その上で、親の期待に応えるためではなく、自分自身のために個としての理性を獲得すること。それが、相田勝平の、相田勝平としての人生の始まりだったのではないでしょうか。

相田の人生は、五十嵐への「好き」を受け容れ、自らそれを選択したときから始まったのだと、私はそう思います。

 

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 ここに至るまでの五相の道のりが全て五十嵐の頑張りによって成り立っていたのだとすれば、ここから先の道のりは、今度は相田の頑張りによって切り拓かれなければならないのではないでしょうか。これはもう考察でもなんでもなくもはや純粋に願望ではありますが、「僕が属してる世界ではそれは受け入れがたい(26話)」という理由で一度は五十嵐を拒んだ相田が、今度は「僕が属している世界」に自分と五十嵐を受け入れてもらうために頑張る姿が私は見たい。「家族」と「五十嵐」を天秤にかけてどちらかを捨てるのではない、何もかもを選び取って力強く幸福になっていく相田勝平が見たいなと私は思います。そうやって、高校時代の五十嵐の一人孤独な頑張りに報いてほしい。

相田は父の期待に応えて「法」の道を選んだ男です。法曹人になる夢が、単なる親の敷いたレールでなく、今は相田自身の夢でもあるのだとすれば、相田は「法」の内にあって「法」を変えていく人間であるのではないでしょうか。五十嵐祐希は規範の外にあって規範に属する相田を変え、相田勝平は規範の内から規範(両親・世間)を変えていく。それは本当に救いの物語だと私は思います。

 

彼らのこれからが、彼らにとって限りなくよいものでありますように。

 

[1] ただ、相田自身もそれを不満に思っていたわけではない、というのも大事なポイントだと思います。判事の夢はおそらく今も継続している夢であるはずだし、成績に関しては相田自身のプライドの高さも大きく起因しているように思います。なぐもさんが仰っているように、あくまで相田と家族との関係は良好で、相田自身も納得ずくで、そういう生き方を選んできたわけですよね。

[2] プヘさんがprivatterに上げてくださった韓国語版の考察を参考にしました。

11話の香川と相田の話 - Privatter

[3] また、「社会的に認められている人」にならなくてはならない相田は、自分を認めない他者の声を無視することができない、とも言えるような気がします。

[4] 五十嵐のことがあって動揺しているのが一番大きいとは思いつつ・・・・・・

[5] いうて中三なんてそんなもんだよなぁ

[6] 香川との出会いと暴力もやっぱりレールからの逸脱と新たな自分の発見なのに、対香川は完全にネガ方向での発現なのが苦しい・・・・・・

[7] ここ、日本語版は差し替えがあった?のでしょうか。確かに旧訳の「友達に勉強を教えたい」は相田の優等生らしさを残した台詞のように思います。でも差し替え後の方も、まだ「やりたいこと」ときちんと向き合ったことのなかった相田の、なまの欲望がぽろっと溢れでたような感じでいいんじゃないかと思ったのですがどうでしょう・・・。韓国版確認する時間が無かった。

 

破壊と再生の『アイツの BLマンガ』何もかもが変わってしまう

『アイツのBLマンガ』の新規読者が一人でも増えたら嬉しいなぁと思いながらこれを書きます。新規読者が一人でも増えたらいいなぁと思っているので、ネタバレを極力避け、主人公楢崎勝馬のことを絶対に好きになれると確信した第一話と、そして私もまた最低になってしまった第十話のワンシーンのことにのみ固執し、(でも読み返したら第二話からもわずかに引用していました。)そして執拗に宣伝を繰り返していきたいと思います。なぜ第一話と第十話なのかというと『アイツのBLマンガ』はcomicoにて第一話~第九話まで無料で読むことができ、またレンタル券なるものでその日のうちに第十話までは読むことができるからです。待ってれば全話無料で読めるし、買うとその日のうちに全部読めるよ。あとコミックシーモアでも読めるよ。このように執拗に宣伝を繰り返します。

これは昨年12月に『アイツの BLマンガ』というwebコミックを読んで、それから何もかもがすっかり変わってしまったという話です。

www.comico.jp

www.cmoa.jp

本当は、何がどうすごいのかということを面白おかしく軽快かつ爽やかな文章で紹介し、その結果『アイツの BLマンガ』が人口に膾炙するところとなって電子書籍化やアニメ化へと繋がっていくといった華々しい結果が生み出せれば一番良いのですが、そんな名文はとても書けないし、昔から好きなものを人に紹介するのが下手くそなのでもうどうしていいのか分からない。とりあえずは私に書けることを書くつもりで、それは結局のところクソつまらない自分語り的なものになるんじゃないかと思います。(ところでまったく文脈を無視したことを書きますが、私はアニメをあまり見慣れていないので、仮に『アイツの BLマンガ』がアニメ化されたとすると、視聴にめちゃくちゃ時間がかかると思うんですよ。毎週同じ時間にアニメを観てきっちりついていくみたいなことがなかなかできないと思う。そうすると、世間が『アイツの BLマンガ』アニメで大盛り上がりしている中私だけが取り残されたような気持ちになるんじゃないかと思うと既に限りなく寂しい。)

 

さて、ええと、『アイツの BLマンガ』は121話で完結済みの韓国のwebトゥーンです。タイトルからあまりにも明らかな通り、これは商業 BLマンガです。商業の BLマンガってほとんど読んだことなかったんですけど、『アイツの BLマンガ』ってすごいタイトルじゃないですか? 潔すぎる。絶対に普段だったら読まないタイプのタイトルで、絶対に普段だったら読まないジャンルの漫画だったのに、何故あの日あの時あの場所でわざわざcomicoをダウンロードしてまで『アイツの BLマンガ』を読もうと思ったのか? なにがしかの陰謀的な、導き的な、人為的な力が働いていたとしか思えないのですが、しかしそれが運命なのだとしたら私は運命に感謝したい。今まで生きてきた人生の何か一つでも違っていたら、バタフライエフェクト的なアレで私は恐らく『アイツの BLマンガ』を読んでいなかったと思う、間違いだらけの人生でしたが今はただその全てを受け入れよう。感謝しますありがとう。よくがんばりました。全ては良かった、Es ist gut.

 

主人公楢崎勝馬のことを、絶対に好きになれると確信した第一話

 今となってはもはや「アイツのBLマンガ」が好きという気持ちを中心として私という人間が構成されているので、どうして好きになったのか、なぜ続きを買おうと思ったのかを正確に思い出すのは大変困難なのですが、改めて第一話を読み返すと、この時点でこの漫画を好きになるための種みたいなものがめちゃくちゃ埋め込まれていたんじゃないかと思います。

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主人公の楢崎勝馬が授業中にBLエロ漫画を落としてしまい、それを隣の席の学級委員長に拾われて大変に気まずい思いをする、というところから物語は始まります。そりゃあ気まずかろう。でもこの時点では、ふーんなるほどね、そういう、最悪の出会いからの恋の始まり的な、いわゆる王道ラブコメディなわけねこれは、みたいな若干舐めた態度で読んでいたような気がします。でもこれは決してそういうことではなかった。そういうことではなかったんですね。

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『アイツのBLマンガ』第一話より

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『アイツのBLマンガ』第一話より




女装シーンとともに書かれるこのモノローグにおお? と思ったことを覚えています。他の商業BLと比べてどうかみたいなことはまったく分からないのですが、冒頭で自分をゲイだと言い切る主人公、女になりたいわけじゃない、マネたいわけでもない、ただ女性の格好をしたときの自分のビジュアルが好きだ、というこのモノローグはめちゃくちゃかっこいいと思いませんか。かっこいいよ。かっこいいモノローグと共に鏡の中でかわいくなっていく楢崎勝馬! これは、何か、何か思っていたのと違うようだ……という予感がビンビンにするじゃあないですか。(余談ですがこのときの楢崎の女装シーン、腕や脚がしっかり男の筋肉かつ、その「女性らしくない」部分を隠すような服装を選んでいるというこの描写が私は本当に大変に好きです。)

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『アイツのBLマンガ』第一話より

そしてこの楢崎勝馬という主人公は、ゲイコミュニティのサイトで知り合った相手とデートすることを趣味としています。「今日は」という台詞からも分かる通り、楢崎勝馬はこれまでにもこうして女装してネットで知り合った相手とデートをしていたわけで、でもそれは決してこう、いわゆるマンガ記号的な「ビッチ」キャラであったりとか、「メンヘラ」キャラ的な描かれ方ではないんですね。(あのほら、漫画において出会いサイトを利用するキャラクターって、おじさんをばりばり手玉にとる援助交際系キャラクターだったり、メンタルヘルスになにがしかの問題を抱えている系キャラクターみたいな感じで描かれることが多くないですか? 偏見ですか?)

だって、考えてみればそれはそうなんですよ。早い段階でゲイを自覚していた楢崎勝馬は、周りの同級生達のように日常の学校生活の中で当たり前のように恋に落ちることはなかなか難しかったわけで、彼がゲイコミュニティのサイトで知り合った相手と実際に会ってみて、自分に合うかどうか、好きになれるかどうかを確かめるのはもう至極まっとうな行動で、それは楢崎勝馬が断言したとおり「健全な趣味」でしかありえない。婚活と一緒じゃん。お前は正しいよ楢崎勝馬

だけどそうは言っても楢崎勝馬は高校生だしやっぱり心配だなぁと思うじゃないですか。相手が変な男だったらどうしよう、何か嫌な思いをすることもあるんじゃないか……?

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『アイツのBLマンガ』第一話よりクソ野郎


実際第一話で出てくるこの顔だけクソ野郎は最低ですよ。何がすごいってこのクソっぷりのリアリティがマジで絶妙じゃないですか?

この、この、何? 俺は理解がありますよとでも言いたげな上から目線の能書きに苛つくし、性的「指向」と「嗜好」が混ざってるの、これあえてそう書いているんじゃないかと思っているんですけどどうでしょう。てめえはバイなんじゃなくて、ただ楢崎勝馬のかわいい女装写真を見て勃起しちゃっただけだろうが、っていう読者側からのツッコミ待ちなんじゃないですか。てめえは楢崎勝馬のかわいい女装写真を見て勃起しちゃったヤリ目最低クソ野郎だよ! さらにこの再三繰り返される女下げも的確に読者のイライラを高めにきている。極めつけは未成年への飲酒強要! 頼むから死んでくれ。

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『アイツのBLマンガ』第一話より


でも楢崎勝馬はちゃんと拒否して立ち上がれるし、このゴミ屑野郎のクソみたいな侮辱に対しても一歩も引かずに言い返せるしなんならぶん殴れる、そういう人間なんですよ楢崎勝馬は。かっこいい! かっこいいじゃないですか楢崎勝馬

第一話のこの時点で私は絶対にこの主人公のことを好きになれると確信したし、同時に第一話のここまでだけでこんなにどうしようもない人間くささを醸し出してしまうこの漫画のことをもうすっかり信用してしまったような気がします。

 

あの、もし『アイツの BLマンガ』を読んだことがなく、かつここまでこれを読み進めてくれたという奇特な人がいるのでしたら、これを読むのはもうここまでにして、今すぐ『アイツの BLマンガ』を読みに行かれるべきだと思います。こんなものを読んでいる時間がもったいない。限りある時間は『アイツの BLマンガ』を読むために使いましょう。

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そして私もまた最低になってしまった第十話のワンシーン

えっと、そういうわけで私は「アイツのBLマンガ」の主人公であるところの楢崎勝馬のことが初っぱなから大好きなんですが、私のいわゆるその、推し的な、なんていうか、そういうあれはまたちょっと別というか、それももうどうしてそうなったんだかもはやよく分からないんですけど、とにかく私の比較的真面目なタイプの物語との向き合い方ががらがらと崩れ去って何もかもがおかしくなってしまったのは第十話の相田勝平のせいでした。

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『アイツのBLマンガ』第二話より


父が偉い人、成績はトップクラス、学級委員長、無愛想で口数も少ない、融通が利かず反感を買いやすい、っていうなんだそれはマンガか? っていうぐらい記号が盛りだくさんの相田勝平はしかしやはり人間的な、あまりにも人間的な存在で、私にはもうどう考えても相田勝平や彼らが生きているとしか思えない。物語は121話で完結してしまったけれど、物語が終わったその後の時間を生きて大人になっていく彼らが絶対にいるはずなんですよ。絶対にいる。相田勝平は在ります。深夜考え事しているときなんかにふと、いや、もしかしたら彼らはマンガの中の登場人物なんじゃ……? とかいう悪魔のささやきが聞えてくると恐怖で泣きそうになる。最近あの、ルイズコピペのことをよく思い出すんですけど、ルイズコピペを読んでいると、この人もやっぱりそういう恐怖と戦っていたんじゃないかと思って、なんだか涙が出てきますよね。本当に。ルイズコピペを書いた人、どこのどなたか存じあげませんがあれは本当に名文だと私は思います。あなたの幸福と健康を祈ります。

えっと、とにかくそう、とにかく「アイツのBLマンガ」の凄まじさはそこにあるんじゃないでしょうか。どこまでも漫画的記号的に見えたキャラクターが物語が進む毎に生々しい人間性を垣間見せていく、そうして私たちはいつか彼らの実在を信じてしまう。そういう力が「アイツのBLマンガ」にはあって、でももうこういう話をするのも私はだんだん苦しいですよ。だってまるで「アイツのBLマンガ」がマンガみたいじゃないですか! やめてくれ、彼らは生きているので……。

 

えーと。十話の相田勝平に話を戻します。十話の相田勝平のために私は最低になってしまったのですが、それはどういうことかというと、私はもうばりばりに相田勝平のことを性的な目で見ているということです。

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そして何もかもおかしくなってしまった第十話



だってあの、立派な父を持ち成績はトップクラス、作中随一のフィジカルを誇る学級委員長、無愛想で口数が少なく、融通が利かなくてクラスメイトの反感を買いやすいっていう優等生記号ばきばきの相田勝平がですよ、こんな傷だらけの顔で車の中で泣いているというシチュエーションがあまりにも危うく、私はこんなものを読んでしまっていいのだろうかと思いました。こんなものを見てしまってよかったのだろうか?

これはもうエロじゃんとしか思えなかったし、でもあの、実在する高校生であるところの相田勝平にエロとか考えてしまうのは犯罪なのでは? あの、多分思ってるだけならセーフなんですけど、こうやって文章とかにしてネットに公開することはきっと何らかの法律に抵触していますよね? 少なくとも人生のコンプライアンス違反では? あの、私はあの、相田勝平にまつわる結構最低な妄想をインターネットにアップしたりしていて、あの、私はもう、ダメなんでしょうか?

他人を一方的にエロだと思うことは暴力的だと思っていたし、それはやっぱりきっと暴力です。私は自分だけはお綺麗な価値観を守って生きていけるような気がしていたし、あの、本当はあの、こう、「正しい」人として生きていきたかったんですよね本当は……。だけど十話の相田勝平をエロだと思った瞬間から私は自分がそんなに正しくないということを知ってしまったし、それはもうどうしようもないということも知ってしまったような気がします。どうしようもないよ。苦しい。

はっきり言っておきたいのですが、相田勝平はエロじゃないですよ。相田勝平は生きた一人の人間であり、苦しみ悩み、時に笑い、努力しサボり、ある時は小狡く、輝いて、血を吐きつつくり返しくり返しその朝をこえてとぶ鳥*1です。断じてセックスシンボルではない。

それなのにそれなのに相田勝平を完全にエロの目で眺めてしまうのはもうこれは私が悪い。全部相田勝平のせいだけど悪いのは私だ。

 

えっと。話がとっ散らかって着地点を見失ってしまいました。とにかくそう、そういう、価値観とか主義主張とか、大事にしてきたものは全部全部『アイツの BLマンガ』の前に溶けてしまい、それってすごいことじゃないですか? なんていうかあの、漫画に描かれる人生観に打たれたみたいなこととはちょっと違って、なんなんだろう、もうどういうわけだかわからないけど、プレ・アイツの BLマンガとポスト・アイツの BLマンガでは何もかも見える景色が変わってしまって、私はこれからどうしたらいいのかわからない。とにかくそう、とにかくそういう、とんでもない破壊力が『アイツの BLマンガ』にはあるんだということが言いたかったわけです。

すごいよ『アイツのBLマンガ』。人間としての中身がスクラップアンドビルドされてしまう総天然色の青春グラフィティー*2すぐにもあなたは迎えいれるべきではないですか?

 

後半はどう考えても書かない方が良かったのではと思いつつ、私にはもう一人でも『アイツのBLマンガ』の新規読者が増えることを祈ることしかできません。

そして彼らのこれからが、彼らにとって限りなく良いものでありますように。

 

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*1:風の谷のナウシカ』第七巻 墓の主とナウシカの問答より 私は『風の谷のナウシカ』という作品を愛していて大嫌いです。

*2:オセアニアじゃあ常識なんだよ!

見るなの禁と鬼女、「女」に付される物語ーー黒塚に喚起される私の妄想を主軸としてーー

 ああ、ここから私が書こうとしていることに、私は本当は自信がありません。私は何もかも間違っているのかもしれない、誰か絶対的に正しく偉い人が現れて私を恫喝したならば、わっと泣き出して謝ってしまいそうな気がする。でも、こういったことこそが私をずっと苦しめ続けてきたことの一つだと思えば、私はやはり書いて、考えなくてはならないのでしょう。

 書きます。

4月6日、生まれてはじめてまともに歌舞伎を観に行きました。四代目猿之助の演じる歌舞伎「黒塚」、すばらしかった。

けれども私は、歌舞伎や舞に関して、それを語るための言葉を持たないので、何がどのようによかったのかということについては書けません。私は結局のところ私のことについてしか書けませんので、黒塚を観てぼろぼろに泣いてしまうという大変個人的で情緒的なことに関して書きます。それは、結局のところ、男とか女とかにまつわるくだらない物語から抜け出そうよ、という話になるのだと思うのですが。

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日本文学における「見るなの禁」

 歌舞伎(というか元は能なのですが)「黒塚」のストーリーは、いわゆる「見るなの禁」という物語類型に則ったものとなっています。「見るなの禁」ものでメンタルをぼろぼろにしてしまう私としては、まずはここから話を始めなくてはならないでしょう。

 見るなの禁、というのは「見てはいけない」とタブーが課せられていたにも関わらず、それを破って見てしまったことにより悲劇が訪れるという民話の類型です。多くの場合、日本の神話民話における見るなの禁は、異類(鶴やサメやうぐいす)が人の女に成って男の女房(もしくは女房のように世話をしてくれる)となって暮らし、しかし彼女には一つだけ男に隠している秘密、見てくれるなと懇願する何かがある。男は一度は見ないと約束するけれども、誘惑に負けて秘密を覗き、覗かれたことで異類の姿に戻ってしまった彼女は、嘆きながら去ってゆく、という形をとります。

 言い方を変えます。日本の神話民話において、見るなの禁は、ほぼ必ず、女によって設けられ、そしてそれは常に男によって破られます。さらに、タブーを犯した男は罪に問われず、見る罪よりも、見られた恥の方が強く強調されます。*1

 この罪に問われない、ってところは正直にいってなかなかにひどい。豊玉姫の出産を知っていますか。うぐいすの里を知っていますか。うぐいすの里、マジにひどいですよ。

 (森の中に見つけた見慣れぬ立派なお屋敷を見つけた男は、屋敷の美しい女主人に頼まれて、女が町へと出かける間、屋敷の留守を預かることになる。「わたしがいないあいだ、このつぎの座敷をのぞいてくれるな」という約束を承知した男はしかし、誘惑に耐えきれず、座敷を次々と覗いてしまう。七番目の座敷には小鳥の巣。男は巣の中にある卵を一つ手に取ろうとしてあやまって取り落とし、そして二つめも、三つめも、巣に入っていた卵をすべて割ってしまう。男はぼんやりとそこに立ちつくす。)

 そのとき、さっきの女が帰って来ました。樵夫の顔を見てうらめしそうにさめざめと泣き出しました。「人間ほどあてにならぬものはない、あなたはわたしとの約束を破ってしまいました。あなたはわたしの三人の娘を殺してしまいました。娘が恋しい、ほほほけきょ」といって鳴いて、その女は一羽の鶯になってとんで行きました。樵夫は小鳥のゆくえをながめ、傍らの斧をとりのけて伸びをしました。そして気がついて見ると立派な館はなく、ただの萱の野原にぼんやり立っていたということである。(河合隼雄著『昔話と日本人の心』巻末付録より) 

ぼけっと突っ立ってんじゃねえぞダボ。いやほんとうにこの男のウスラトンカチぶりには目を見張るものがありますが、これほどはっきりとした罪を犯していて尚、禁を破ったものには何の罰も与えられていないということにはびっくりして驚きです。

 さて。私がこの日本型見るなの禁に情緒ガタガタいわされてしまうのは、ほら、やっぱり、なんていうか、ね、見られたくない女と罪の意識もなしにのぞき見る男、の構図に、そしてその図式が固定化されているという事実に、どこまでも悲しく、やりきれない思いをするからです。


多部未華子 悲しくてやりきれない

 

見ることと見られることの権力関係

 例えば、男性による「垣間見」によってその姿をのぞき見られ、容姿を確認された平安時代の女性たちのことを思う時、もしくは、「モテ」「愛され」の言葉が踊る女性向けファッション誌の表紙を見かけた時、あるいは、前に働いていた職場の男性陣が、飲みの席で女性職員の容姿に偏差値をつけていたという話を聞いた時、私は、私たちが、「かわい~い」「かわいくな~い」のラベルを貼られてずらりと自動販売機に並べられている、そんな絶望的な想像をしたものです。

今までたびたび疑問視されながら今もって改められていない慣習によれば、女性の社会的存在は男性のそれとは趣を異にしている。男性の社会的存在は彼の能力の有望性に依存している。その能力が大きく確かなものであれば、彼の存在は目だつものとなり、逆にそれが弱く不確かなものであれば、彼は存在感が薄いとされてしまう。その能力とは例えば道徳的なものであり、肉体的なものであり、感情的なものであり、経済的なものであり、性的なものであるかもしれない。しかしその力の方向は常に彼の外にある。男性の社会的存在とは、あるものに、またあるもののために、どんなことができるのかを示すことである。(中略)

 反対に女性の社会的存在は彼女の自分自身への態度をあらわし、自分に対して何がなされうるか、あるいはなされえないかを規定する。彼女の社会的存在は、その仕草、声、意見、表情、服装、選ばれた環境、趣味などのなかに示されており、彼女のおこなうことすべてが自分の社会的存在に寄与することになる。(中略)

 女性に生まれるということは、割りあてられた狭い空間のなかで男性の保護のもとに生まれるということであった。(中略)彼女は自分のすべてと自分がすることのすべてを観察しなくてはならない。なぜなら彼女が他人にどう見えるのか、結局は彼女が男性にどう映るのかということは、彼女の人生の成功に関して決定的なことであるからである。ゆえに彼女が自分だと感じているものは、実は他人が彼女だと思うことに取って代わられている。(中略)

 簡単に言えばこう言えるかもしれない。男は行動し、女は見られる。男は女を見る。女は見られている自分自身を見る。これは男女間の関係を決定するばかりでなく、女性の自分自身に対する関係をも決定してしまうだろう。彼女のなかの観察者は男であった。そして被観察者は女であった。彼女は自分自身を対象に転化させる。それも視覚の対象にである。つまりそこで彼女は光景となる。(ジョン・バージャー著 伊藤俊治訳『イメージ 視覚とメディア』第三章「「見ること」と「見られること」」より)

  見るものと見られるものの関係が、交換不可能な固定されたものである時、「見る」ことは一つの権力であり、支配であると言えるでしょう。「見る」ことは価値を判断し、評価することであり、「見られる」側にその基準を押しつけることでもあるからです。

 私に向かって、「大丈夫、まだ全然イケる」と言う男性が往々にして存在します。「イケる」って、どういう意味ですか?私の容姿もろもろが、あなたにとってセックス可能な基準をクリアしていたからといって、私にとってそれが何になるでしょう。なぜあなたは、当然のように評価する主体の座におさまって、私をジャッジしようとするのですか?

 1986年にバージャーが指摘した、男と女の見る見られるの関係は、大昔から、そして残念なことに今でも、色濃く色濃く残って私たちの関係や価値観に入り込んでしまっている、と私は思う。けれどもそれは、絶対に絶対に絶対に、「普遍的」で「自然な」関係なんかじゃないのです。(だって本当は、私たちはお互いに見て、見られている。女が男を、男が男を、女が女を。私が他人を見てジャッジする瞬間は今までも絶対にあったことで、同時に私は私のことを、他者に見られるために存在しているのではない、と強く思う。私が自分の身体を自分のものだと思うのと同じように、他者の身体はその人のもので、その人のためのものだ。見られてジャッジされることは、あんなにも悔しいことだったから、私は自分が他人の容姿を好ましい、好ましくない、と思うことが恐ろしい。「見る」ことはしばしば暴力であり、私はそれを忘れてはいけない、と思う。)

 話を見るなの禁に戻します。だから私は、男を「見る側」、女を「見られる側」に固定し、女が男から隠そうとしたものこそがその女の(恥ずべき)本質であるとして、男が暴く、そんな日本型「見るなの禁」が、そういう物語類型が生み出される背景にある価値観が、悲しくて、悔しい。

黒塚における「見るなの禁」

 さて、黒塚もまた、見るなの禁のセオリーに則った物語になっているのですが、黒塚の特異な点は、隠したかった罪を見られた岩手が、鬼の姿を現し、タブーを犯した男たちと戦う女であることではないでしょうか。また、ほとんどの見るなの禁ものが、異類が人の女と成って男のもとへやってくる押しかけ女房的な要素を含んでいるのに対し、岩手は元々は人であって、重ねた罪によって鬼へと墜ちる女であること、彼女が男の家へ行くのではなく、男たちが一夜の宿を求めて彼女の家へやってくるということも違いとして挙げることができそうです。

 人喰う鬼となってしまう前の人としての岩手の半生については、第一幕にてさらりと語られるのみですが、父の罪による流罪、夫の裏切り、そういった男たちの人生に巻き込まれて、あるいは捨て置かれて、岩手は安達ヶ原のあの寂しい廬で、老婆となるまでの長い年月を生きてきた女でした。妄想込みで言わせてもらえば、岩手は何度も何度も男に裏切られ、絶望する女だったのではないですか。なんならきっと、岩手はまだ人だったころも、見るなの禁を破られたことがあったでしょう。他の物語の異類の女のように、見られることで本来の姿へと戻ってどこかへ帰ることもできず、岩手はそこで、その場所で、裏切られ絶望したまま生きていかなくてはいけなかった。岩手が見ないでくれと願った閨の中、人間の手足がちらばり、血の海となったあの部屋は、鬼となった岩手の「本性」を表すものであると同時に、岩手が生きてきた地獄そのものではなかったか。岩手は毎夜毎夜、犯した罪の地獄の中で、絶望しながら生き続けてきたのです。

 

鬼と女とは人に見えぬぞよき

 鬼女もの、というのも一つの物語類型であります。女は、その情念から、宿業から、恐ろしい鬼へと姿を変えてしまう。花嫁は従順でしとやかな妻となるためにその角を隠され、結婚した後バリバリ自己主張するようになった女は鬼嫁と呼ばれる。女は皆、女であるが故に、その身に鬼を宿している。(でもほんとうに?)

ーー鬼と女とは人に見えぬぞよき

とは虫めづる姫君の言葉です。

 価値観の変革を自問する〈虫めづる姫君〉が、さすがに「人に見えぬ」という女の掟を破り得なかったところに、〈羞恥〉の伝統の堅牢さを見る思いがするからであり、さらには、良俗に反して生きるという、背水の陣に立つ姫君の防衛本能が、無名の鬼として生きるものの韜晦本能と重なるからで、女と鬼との反世間的抵抗は二重うつしとなって、その生きがたさを頒ち合っているのである。(『鬼の研究』馬場あき子著より)

女は美しく装って、けれども男にけっして姿を見せてはいけない。男が垣根の隙間から、中にいる女をのぞき見ることによって、恋が始まる、と物語は描き続ける。(女は美しく、かつ清純に、その上でエロくあれかし。チラリズムラッキースケベ。恥じらいを忘れるな。インスタグラムに自撮りをアップする女を5ちゃんねるの男が叩く。見せる女はいやらしく、見せぬ女は自意識過剰。溢れる表象とその堆積とが醸成する価値観から私はどこまでも逃れがたい。見せるな。そして見せろ。)

 眉を生やし、お歯黒をせず、毛虫を愛でる彼女は、平安時代の「女、かくあるべし」を振り払って振り払って生きる。彼女がそれでも「人に見えぬぞよき」というのが私は悲しい。みんなと違う彼女が平穏に彼女の人生を生きるためには、みんなと同じように姿を隠さなくてはならなかった。規範に従っても、従わなくても、女は姿を隠さなくてはならない。鬼がそうであるのと同じように。その価値観の下では、女は社会の構成員として認められてはいない。

鬼となる女、折伏する男

 男は解決脳、女は共感脳。男は理性的、女は感情的。君、女の割に理屈っぽいって言われない?ああー、始まったよ女特有の論理の飛躍。君の言いたいことはわかるけど、でもそれって感情論だよね?

 二度と。私の前で、二度とこの手のファッキンクソ妄言を吐いてみろよクソ野郎。(今まで何度もぶつけられてきて、これからもぶつけられるだろうクソ)(そもそも感情的になることの、何がそんなに悪いのか、言ってみろ。言ってみろよ)

 女は、その燃え上がるような情念によって(Der Hölle Rache kocht in meinem Herzen)鬼となりうる存在であり、女と鬼とは同様に、社会から隔絶された「人に見えぬぞよき」ものである。とされる、そのことは、例えば私にクリステヴァの「おぞましきもの」を思い起こさせる。

 クリステヴァによれば、広い意味での〈文化〉のなかには論理的整合性に向かう部分(ル・サンボリック=象徴作用)と、その彼方に向かう部分(ル・セミオティック=現記号作用)がある。狭い意味での〈文化〉の枠内にはまり切らないものは、女性であれフリークスであれユダヤ人であれ、文化のなかでは排除の対象になる。(山口昌男著「スケープゴート詩学へ」より)

もしくは、オートナー・パラダイム的価値観を象徴していると言ってもよいだろう。

 多くの文化において、意識的にせよ無意識的にせよ〈文化〉に対置される〈自然〉の概念が存在する。〈文化〉は〈ウチ〉の秩序へ、〈自然〉は〈ソト〉の混沌へと回復する傾向があると考えられ、女性が多くの社会で差別の対象となるのは、彼女らが〈自然〉に近いと考えられるからである。生物学的条件において、心理において、またシャーマン的な霊能力を発揮するという点で、女性は男性を中心としてつくりあげられた〈文化〉の規範には収まりきらない部分を保っている。この分だけ女性は〈文化〉から〈自然〉へはみだしていき、〈ウチ〉にいながらにして高い異人性を獲得していく。こうした女性の位置をシャリ―・オートナーは女性の仲介的位置と呼び、その仲介的な位置ゆえに女性は多くの社会で差別の対象になってきたと説く。(山口昌男著「スケープゴート詩学」より)

  山口昌男のこの書き方にはいっぱい気に入らないところがあるし*2、 男は「文化」(つまり政治や論理、法、文字、秩序)の側に割り当てられ、女は「自然」(神秘、感情、魔、声、混沌)の側に割り当てられているとするこういった学説をそっくりそのまま認めるのは無理筋だと私も思う。けれどもこういった「物語」は薄められて薄められて今も尚続いている呪いではないだろうか?(ナウシカ!一人の女の子であることを超えて、世界を救う女神とさせられていくあなたが私はやっぱり悲しい。)

 女を「魔女」と見てきたのも男の文化なら、「聖母」とあがめてきたのも男の文化である。男がつくり出し、女が内面化した、この女についての「神話」をうちこわさなくては、生きている女は見えてこない。男の眼に見えてこないだけではなく、女自身にさえ自分が見えてこない。あらゆる神話的なカテゴリーから生きている個人を救い出そうというのが近代主義イデオロギーであり、フェミニズムはその限りで近代思想の産物である。これは厄介な思想だが、近代を通過してしまった私たちにはもはや後戻りすることはできない。(上野千鶴子著『女は世界を救えるか』あとがきより)

さて、再び話を戻します。黒塚においては、鬼となった岩手を、法師である阿闍梨祐慶たちが折伏します。この構図に私は、男=秩序/女=混沌の図式を見てしまう。男たる阿闍梨祐慶には理があり、女岩手は人にあだなすおぞましき鬼。この二項対立を自明のものとするファッキン阿闍梨祐慶たちには、(そう、多くの見るなの禁の男たちと同じように)岩手との約束を破って閨を見たことや、岩手を殺すことへの罪の意識はまったく無いのですね。私が、私たちだけが、岩手が本当は鬼でなくて、人であることを知っている。岩手は人間だから自分の罪に苦しみ、人間だから、来世での救いを、その可能性を思うとうれしくてうれしくて、月あかりの下一人はしゃいでいたのではなかったか。見て、本質を知ることができる、それを成敗することができると信じて疑わない彼らの傲慢さよ。なぜ彼女は鬼になったのか?彼女を鬼としたものは何だったのか?おまえはそれを考えもしないけれど、けれども私は知っている。岩手を鬼にしたのは、おまえだ、おまえたちだ。

わるいのは、あなただ。

 

女生徒

女生徒

 

 2019年、私たちの安達ヶ原

 僧侶どもに祈り伏せられて、岩手がどんどん弱ってゆく。花道にばたりと倒れて、さっきは嬉しく影と戯れた木にすがりついて。塚へと封じられながら、彼女は小さく、恥ずかしそうに顔を伏せる。彼女はきっと、もう約束を違えた裕慶を恨んではいない。ただただ鬼となった身を恥じている。(あさましや恥ずかしの我が姿や。)辛かったね、苦しかったね、でももうそんなに自分を責めないでよ。鬼になっちゃったの、あなたのせいじゃないし。たくさん裏切られて、我慢して、自分も罪を重ねて、悲しいことばっかりだったよね。今もそうだよ、やっぱり悲しいことばっかりだよ。

 岩手が生きてきた地獄を私たちもまた歩いているのだから。

(男=文化/女=自然の図式が、誤った神話に過ぎないのと同じように、男=加害/女=被害の図式も同様に普遍のものでないことを私は知っている。岩手は虐げられる女であると同時に、誰かを虐げてきた女でもあったのだ。私は、私の隠す私の閨が、血に濡れていないとは思えない。虐殺の文法は何度も何度も形を変えて繰り返される。いろんなところで、いろんな誰かが、たくさんたくさん死んでいく。)(私は感傷的に過ぎるし、そしてまたセンチメンタルは何ものをも救うことができないと思うけれど。)

 

  すべてさびしさと悲傷とを焚いて

  ひとは透明な軌道をすすむ

  ラリックス ラリックス いよいよ青く

  わたくしはかっきりみちをまがる

 

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)

春と修羅 (愛蔵版詩集シリーズ)

 

 

 

*1:河合隼雄『昔話と日本人の心』「第一章 見るなの座敷」に詳しい。この章にて、河合は世界各国に存在する見るなの禁類型の民話を比較し、西洋型見るなの禁と日本型見るなの禁との差異を明らかにしている。西洋型見るなの禁は、例えば「青ひげ」のように、禁じるものが男、禁を破るのが女であり、禁を破って部屋(大抵死体がごろごろしている)へ入った女を男は殺そうとするが、他の男性協力者により女は救済され、男は死ぬという形をとるものがほとんど。女が禁じる場合、それはマリアや魔女といった超人的な存在であり、禁を破ったものはその罰を受ける、といった形をとっている。対して日本版見るなの禁はほぼ必ず、禁じるのが女、禁を破るのが男であり、「タブーを犯したものに何らの罰が与えられず、タブーを犯されたものは悲しく立ち去ってゆく」のである。

*2:まず第一に、「生物学的条件において、心理において、またシャーマン的な霊能力を発揮するという点において」、女は男の作った文化に収まりきらない部分を持っているのではなくて、そういったものが収まらないようなものとして「文化」が作り上げられている、と言った方がよいのではないの?高い異人性を獲得していく、の部分も同様に。

きっとナウシカもブラつけてなかったはず

4年前にTBSで放映されていたドラマ「おやじの背中」第2話の満島ひかりの台詞のことをずっと考えています。満島ひかり大好き。

満島ひかり演じる誠は、元ボクサーの父親役所広司をコーチに、幼い頃から父娘二人三脚で女子ボクシングでのオリンピック出場を目指す女性......だったと思います。家庭としてはもはや成り立っておらず、母は既に家を出ていて、古ぼけたボクシングジムで彼女は日夜血の滲むような努力をしていて、父親は割にクソ野郎で娘より年下の彼女?愛人?的ないかにもなかわいい女の子と付き合って?セックスをして?いる。その女の子が、誠ちゃんにって、満島ひかりにかわいいブラジャーをくれる......という状況だったのではないかと思う。ジムで、女遊び?デート?から帰ってきた父親に彼女がブチ切れるシーンのことが、私はどうしても忘れられません。

 

 「今立ち止まったら、悲しみに溺れてしまう。進まなきゃ」。風の谷のナウシカがそう言ってたんです。私、つらい時はいつもナウシカのこと考えてました。合コンの時とか。合コン誘われて、そんなの初めてだったから、将棋クラブのじいさん達んとこ行って予行演習しました。よし、絶対いける!と思って挑みました。男の人たち、私の顔見て、「何か怒ってる?」って何べんも聞きました。目つき悪いんですよ。ノーマルモードで相手のことにらんじゃうんですよ。
  それでもお酒飲んだら仲よくなれたし。わ~結構楽しいかもって思い始めた頃、あなた、部屋に入ってきました。あなた、一人一人つかまえてお説教始めました。大切な青春のこの時期に、何をへらへらしているのか、って。ボクシングなんかしなきゃよかったと思いました。
 でも、次の日、朝5時に起きて、河原の道を走ってました。生まれて初めて買ったブラジャーをあなたに捨てられた川です。つけたい…。凄くつけたい。でもこんなのつけたら、私、もう二度とリングに立てなくなる。ブラつけたらボクサー人生終わる。きっとナウシカもブラつけてなかったはず。ナウシカも合コン行けてなかったはず。
  「今立ち止まったら、悲しみに溺れてしまう。進まなきゃ」。そう思って…今日までやってきたんです!女子ボクシングなんて誰も見てないのに! 大会あっても余興扱いなのに! 前座扱いなのに!こっちは27年間、捧げてきたんだ!

 

 

4年前ドラマを観た時も、私は、ああ、私も、私もブラつけたらもうきっとリングに立てなくなる。ブラつけたら私のボクサー人生は終わると、心底そう思って、その時の私にとっての「かわいいブラジャー」は恋人ができることだったりセックスをすることだったりしたのですが、けれども私が私にとっての「かわいいブラジャー」を着けて後も、私のボクサー人生はとりあえずは終わらなかったわけです。

だけど私はやっぱり今でもブラつけたら二度とリングに立てなくなる気がしていて、そもそも私は私の立ってるリングの上で三流四流の、いやそれよりもっともっと悪いアマチュアのヘボボクサーで、こんなリングに立っててなんか意味あるのかな?さっさと降りた方が楽なんじゃないのかな?とかずっとずっとほんと最近そればかり考えますけど、でも、リングの外は真っ暗でぶっちゃけ怖くて、誰もタオル投げてくんねえし、それに、勝てなくてもボロボロでもいいからここにまだしがみついていたい気持ちも同じくらい多分あって、多分、きっと、あるんで......。

でも、とにかく、私は今でもブラつけたら私のボクサー人生終わるって思っていて、私の「かわいいブラジャー」は今はもしかしたら結婚や出産のことかもしれないし、やっぱり今でも恋人やセックスのことなのかもしれないけど、(ほんとうは、ほんとうはブラつけたってリングに立っていいはずで、かわいいブラつけてガンガン戦っていい、と思う。ブラつけたらもう戦えないというのは世の中が与えてくる強迫観念で、そんな強迫観念を与えてくる世の中はきっと良くない。けど私は今は、自分がヘボすぎることをよくよく知っているので、世の中ふざけんなとはなかなか言えず、ブラつけないことでなんとかリングに立つ資格を得たような気持ちになっているのだなきっと。だから世のみんなはブラつけてガンガン戦ってほしいよ、ブラつけて大丈夫だよ。つけたくなきゃつけなくっても別にいいよ。)とにかくとにかく私はそうやって、誰も見てねえリングにへろへろでしがみついてぴーぴー言ってる自分が、めちゃめちゃしんどそうで可哀想で、でもなんとかかんとか今日も生きててほんとうに偉いと、そう思います。

がんばろーね。ほんとうにほんとうに無理になったらその時は、ネパールへチョモランマを見に行こうな。

エロが原動力のバカな男子高校生の物語、がそろそろ辛くなってきたという話

三年くらい前までだったら楽しく読めたと思うんだけどな。こういった物語をもはや楽しめなくなってきた自分が悲しく、秋風の冷たさが切ない今日この頃です。がんがん歩くのには丁度いいので実際のところめちゃめちゃ過ごし良い季節ですね。お天気キャスターは気温が下がることを悲しそうに告げるのをやめてほしいです。

 

村上龍の『69』を読んだところ作品のテイストに反して私は大変物悲しい気持ちになりました、という話です。

 

1969年という年に、佐世保という場所で、17歳の童貞男子高校生が、バリケード封鎖やらフェスティバルやらの「若者の祭り」をブチあげる。政治的なことや思想的なこともごちゃごちゃ考えるんだけれども、その原動力は結局のところ「かわいい女の子」にモテたいということだったのだ。あの頃僕らは若くてバカだった。だけどめちゃめちゃ楽しかったよね。というのが『69』のおおよそのあらすじと言っていいのではないかと思う。

amazonレビューなんか見ると割に高評価で、まあ読みやすいし、多分作品としては面白いといっていいタイプの小説なんだと思う。思います。

 

何が悲しいのかというと、なんだろう。なんていうか、結局のところ、そうやってバカやって、あのころ俺たちは輝いていた。「モテたい」「セックスしたい」みたいな欲望に突き動かされて、でもそれこそが17歳のピュアさでもあって、キラキラした青春の一ページだった、みたいな、そういうパターンの物語って割とたくさんあると思うんですけど、でもそこに、私はいないじゃないですか。私はいません。私だけじゃなくって、生きた人間としての「女」がそこにはいないんじゃないですか?

 

『69』の中に出てくる女の子はみんなはちゃめちゃな美少女なんですね。主人公のケンが想いを寄せるのは、「「レディ・ジェーン」というニックネームを持つ、他校にも名のとどろく美少女」で、その友達の佐藤由美は、終始「妖婦アン・マーグレット」と呼ばれ、「アン・マーグレットのおっぱいは、本物のアン・マーグレットにも負けない。とても立派だ。たぶん嘘だと思うが、実家が牧畜業のイシヤマという生徒が身体検査で覗き見に成功して、佐藤のおっぱいはうちの牛より大きかった、と言ったこともある。神様、おっぱいが大きくなりますように、と幼児の頃から毎日曜日祈りを捧げたのかも知れない。」とかなりしつこめに乳房のことばかり描写される。フェスティバルのオープニングセレモニーに出演してもらうことになる長山ミエは、「クラウディア・カルディナーレ」にそっくりで、彼女は「こんな唇を自分のものとして自由にいろいろ使えるのなら」「男はみんな石炭だって食うだろう」と思わせるような魅惑的な唇をしている、らしい。

それ以外の女の子に関してはほとんど描写されない。(マスダチヨ子という中学の同級生の話が実は本当はもっと重要だったのではないか?とは思う。彼女は「パンパンの娘」で、中学時代書道部で、よく賞状をもらったりなどしていて、ヘッセが好きで、主人公にラブレターを送るんだけれども無視されてしまう。高校一年になったある日久しぶりに主人公が見かけた彼女は、髪を染めて厚化粧をして黒人兵と腕をくんで歩いていて、主人公はマスダチヨ子も黒人のちんちんをしゃぶるんだろうかなどと考え、このことが彼の政治的思想的な部分の一つの根っこにもなっているんだと思う)

結局、17歳の主人公には「かわいい女の子」しか見えていないし、それも好きな女の子以外はおっぱいか唇かしか見えていなくって、彼女たちの頭の中には微塵も興味がないんですね。「かわいくない」方の女の扱いなんて当然のごとくもっとひどい。

 

  一人が笑いを止めて、教室の入口を指差した。全員が笑うのを止めた。静まり返ってしまった。そこに、天使が立っていたからである。松井和子が、こちらを見ていたのだ。美少女は、男達の爆笑を止める力を持つ。ブスはその逆だ。爆笑の源である。

 

『69』の中には、「爆笑の源」たる「ブス」(そもそもほとんど描写もなされない)と、おっぱいちゃんと唇ちゃんと、「天使」しか女が出てこない。

あー、女って人間じゃねえのかな。え、ほんとに?

女は、男たちの青春のキラキラのエフェクトでしかなくて、しかもかわいい女の子のかわいい容姿やおっぱいやなんかだけがエフェクトたりうるみたいな……そんな……え、ほんとに?

私は、私は女だって人間だとか、ちゃんと人間扱いしろとか、どうせ男はそういう風にしか見ていないんだろとか、そういうことが言いたいわけじゃないんです。(もちろん女は人間なので、人間として接するべきです。)

こういう、エロバカ青春物語に対して、「そうそう、男って結局こうなんだよ」みたいな「だって男子高校生ってそういう生き物でしょ?」みたいな、安易な「わかる」ボタンを押す前に、ちゃんと己を振り返ってくれ。ほんとうに、ほんとうにブスは爆笑の源で、かわいい女の子は青春のキラキラエフェクトでしかなかったか?お前たちの世界には生きた人間は男しかいなかったのか?ほんとうに?今現在はどうですか?あなたの世界には男も女も生きた人間として存在していますか?

もし、万が一、そうじゃなかったとしたらそれは、私や私たち、あなたやあなた達にとって、とても、とても悲しいことではないでしょうか。違いますか?

 

それは私のお祭りではないという話

最近は、電車に乗るのが嫌になってしまったので、徒歩一時間圏内であれば歩いて移動することにしています。

この前歩いて帰っていたら、ふいに祭囃子の音が聞こえて、覗いてみたら神社でかなりしっかりしたお祭りが開催されていました。

お祭りはいいものですね。真っ暗なのに明るくて、人がたくさんいて、声が聞こえて、いろんな食べ物の匂いがして、お祭りはいいものです。

なんとはなしに焼き小籠包を買って、適当に座り込んで食べました。美味しかった。知らない人たちがたくさんたくさん楽しそうにしている。焼き小籠包を食べ終わって、帰ろうと大通りに出たら、手に手に小太鼓を持った人たちが行列を成していて、なんて呼ぶのか分からないけどふさふさした大きい何かを揺さぶっている人や、笛を吹く人らがいて、動画を撮って、また少し楽しくなって、そしてめちゃめちゃ寂しかった。それは彼らのお祭りであって私のお祭りではないからです。私には地元と呼べる地域がないので、私のお祭りはありません。そんなことは本当に別に大したことではないのですが、私にも、私のお祭りと呼べるものがあれば、そうすれば私は東京から出てそこに帰ることができるのに、それは本当に大したことではないんですけど。

渋谷のハロウィンに集まる彼らは、彼らにもお祭りが無いんじゃないですか?違うかな。

彼らにも彼らのお祭りがないので、彼らのお祭りがほしくてああして一年に一度、何もない渋谷の街へ集まるのではないかと思うととてつもなく寂しい。渋谷のハロウィンがもっともっとめちゃめちゃで楽しくて過激で陽気なものになって、お祭りを持たない人たちの立派なお祭りになればいい。そうなったら、それでもやっぱり、それは私のお祭りではないですね。

セクハラする奴全員○すウーマン

死にてえ。嘘です。

飲み会で抱きつかれたり、下着の色聞かれたり、好きな体位聞かれたりするの、めちゃめちゃめちゃめちゃ嫌でした。一方で当たり前のようにブス、ババア呼ばわりされて、笑って答えないとノリ悪いお高くとまってる扱いされ、○○大生は怖い怖いと言われて。○○女史とか呼ばれるのもお前お前絶対私私私のことを馬鹿にしているだろ?でも一番腹立ったのは、そういうのめっちゃ腹立ちますねって言ったら職場の女性に○○さんはまだ若いわねー、社会に出たらそんなのばっかりよって言われたことです。

あああああ。くそ腹立つ。腹立つ腹立つ。そんなのばかりな社会なら私はもう社会に出られないか、包丁持って社会に出た後に社会を出て刑務所に入るしかない。セクハラするやつ全員○すウーマン。

世界よ良くあれ。良くあれかし。さもなくば死を。しかしこの地獄のようなところで私は生きていかねばならない。アーメン。