私はオタクが嫌いです。
私はオタクが嫌いだ!
なんて言うと、多くの人がオタクの何が悪いんだ!趣味を楽しんで何が悪いんだ!
好きな事のない人生なんて寂しいね・・・。
などなど、あらゆる手を使ってこちらの人格を否定してくるのが最近のネットでよく見られる光景である。
まあオタクという定義そのものが曖昧になってしまった昨今、はっきり言ってオタクが嫌いだと言ったところで何を対象にしているかはわからないのだが、否定されることを過剰に恐れつつも「自分はオタクだ」と言うオタクにアイデンティティを持っている人からすると、自分の存在を否定されたような気分になるのだろう。
しかし、私が嫌いなのは別にオタクという特定の集団あるいは個人のことではない。
もしそうならば、○○のファンはマナーが悪くて嫌いだなど具体的に言いたいところではあるが、しかしそう言えないのには理由がある。
なぜならば、「オタクには定義がない」のである。
定義のないものを特定することはできないのだから、具体的に何かをいうことは不可能だ。
つまり私が嫌いなのは「オタクという概念」なのである。
もっと言えば、「オタクという概念に囚われそれを演じる人」が嫌いなのだ。
それは、にわかオタクであり、自称真のオタクであり、良識あるオタクであったり普通のオタクであったりもするけれど、各々が持つオタクとはこのようなものだと考えその基準に沿って動く人たちが嫌いなのだ。
漫画が好き?深夜アニメが好き?エロゲーが好き?ラノベが好き?
別に何が好きであろうが構わない
○○が好きだから自分はオタクで、○○が好きなオタクは「みんなやってる」から自分も後を追おうと言うものが嫌いなのだ。
逆に皆と違うからお前はオタクじゃない!オタクじゃないから自分より一段劣ると言う考え方が嫌いなのだ。
そして何より、オタクであることを様々なものの言い訳に使う人が嫌いなのだ。
我々は個々に別々の人間であり、同じ作品が好きであっても違った価値観を持っている。
当然ながら、好きな部分も嫌いな部分もあるし楽しみ方も人それぞれだ。
しかしながら、オタクという概念はそれを阻害する要素にしかならない。
オタクらしく視聴し
オタクらしくネタを探し
オタクらしく熱狂し
オタクらしい妄想をして
オタクらしいものを買う
バカバカしい・・・。
私は別にオタクであるために作品を見るわけではない。
私は作品を楽しむために見ているのだ。
登場人物がその世界で何を見て、何を考え、そしてどうするのか…時に心を重ねながら、時に離れて親兄弟のように見て、あるいはもっと離れて一つの芸術作品のようにそのバランスや構造を楽しむ事もあるだろう・・・。
昔のオタクは~などというのは現状のオタクという言葉の使われ方を考えればもう無意味である。
少なくとも今現在、オタクという言葉は作品を自由に楽しむことの弊害にしかならないと私は考える。私はただ作品が好きなだけの人でありたい。
だから私はオタクが嫌いだ。