マキシミンルールが作り出す虚構

 

ecosociopol.hatenablog.com

 

 次回予告をしておいてペペロンチーノの作り方を投稿してしまい申し訳ないと思う。過去の記事では基本的人権の有無について話をした。そこから実際にあるか無いかとは別の問題で、人々が基本的人権という「概念」を尊重することは合理的な選択であるとし、その解説を先送りにしていた。

 今回はこの疑問に答える事を目標としよう。キーワードは「マキシミンルール」と「虚構」だ。

 まずは「マキシミンルール」について説明しよう。聞きなれない言葉だと思われる。ミニマックス解と言えばピンとくる人もいるかもしれない。厳密な意味はここでは置き、おおまかに「最悪の状況を想定し、その最悪の状況において最大の利益を得られるように行動する」というルールだとする。例えば保険商品を購入する事は、病気や事故などの最悪の事態において保険金を得る事で、その状態では最大の利益を得られるという期待に基づいて行動していると言える。

 さて、このルールを用いて基本的人権という概念が(私の見解では存在しないにも関わらず)意義を持ち、存在し続ける理由を説明しよう。

 マキシミンルールは将来の不確実性と切っても切れない関係にある。何が起きるかわかっていれば、例えば病気も事故も起こらないと知っていればわざわざ最悪の事態を想定して保険商品を買うといった行為はしないだろう。或いはそれらの出来事が既知であれば、回避することもできる。しかし、実際に未来において何が起きるかを知る事はできない。だから人々は保険商品を買うのだ。

 基本的人権という概念の尊重も、全く同じ理論で説明される。各々が最悪の状況、つまり基本的人権が一切存在しない社会において落伍した場合を想定し、それは回避したいという意思が基本的人権を支えているのである。

 もしも基本的人権という概念がなければ、どんなことが起こるだろう。例えば自由権が無ければ、政府が国民を好きなように徴用してタダ働きをさせることができる。経済活動の自由がなければ職業や住む場所を選ぶことはできない。

  わかりやすく言うと、基本的人権の概念がなかった時代に逆戻りしてしまうのだ。基本的人権が尊重されていない国で生活しなければいけないとと考えてもいい。持つものであれば困らないが、持たざる者はまともに生きる事すらままならない。そして、先ほど述べたように我々は将来何が起こるかを知る事はできないという背景があるのだ。

 前述したように、基本的人権がないような社会で何か大きな失敗を犯したり、不運に苛まれてしまったりすると何が起きるか分からない。歴史を省みるに、基本的人権という概念がないと我が身に恐ろしい悲劇が降りかかりそうだと言う事は分かる。「奢れる者は久しからず」とはよく言ったもので、今が良いからといってこれからも良いとは限らない。

 そうなってくると、多くの人間がマキシミンルールから基本的人権という虚構を作り出して尊重する事は合理的な選択だと言える。いつ何が起こるかわからない世の中で取り返しのつかないような事が起きたとしても、生きていけるような仕組みを作っておこうという意思が基本的人権を支えているのだ。

 日本を含む現代の民主主義国家では基本的人権が所与のものであり、前述したような基本的人権に関する意識は希薄かもしれない。しかし、基本的人権が尊重されなくなっても困らないという人はおそらくいないだろう。我々は意識するとしないとに関わらず、憲法にしか根拠のない「虚構」である基本的人権を尊重すべきだと考えているのだ。

 今回の議論は「基本的人権の存在を示す具体的な根拠が何一つないにも関わらず、マキシミンルールによって確固たる地位を得ている」という以上の何かがあるわけではない。今回はマキシミンルールという概念について理解していただければと思う。

 マキシミンルールは政治哲学などに用いられる極めて重要な概念である。社会的な正義や公平さを考える上で欠かすことの出来ないロールズの主張に出てくるのでなんとなく知っていた人もいるかもしれない。或いは利他的な行為の根拠をマキシミンルールに求めるという事も可能である。

 暗黙の了解や道徳原理といった物の背景にマキシミンルールを見出し、それが想定する最悪のケースはそれを設定した人物ないし集団だけでなく自分にとっても最悪かどうかを判断できるようになれば、無意味な規則や圧力を気にする必要は無くなる。

 他にも仕事や保険契約、交渉など様々な場面で役に立つルールなので、ぜひ覚えておいて欲しい。

理論経済学は間違っている?(後編)

 

ecosociopol.hatenablog.com

 

 前回は理論経済学と実験経済学の乖離について具体例を紹介しながら見て行った。その上で当然抱くであろう、理論経済学は間違っているのか?という疑問について、3つの観点から否定していこうと思う。

 1つには、前回示した例はそれ自体が非現実的なゲームであるということを理解して欲しい。理論経済学のいくつかの仮定が非現実的であることと同じくらいに最後通牒ゲームも非現実的ではないだろうか。二者間で何らかのものを分配するケースなら両者に交渉の権利があるだろうし、仮にセッティングと同様の一方的な関係にしても、Bが拒否権を発動するとAの取り分もなくなるようなケースは現実にはそうそうない。

 最後通牒ゲームと異なりセッティング自体は我々の生活の中に存在しそうなゲームであっても、最初から理論経済学批判をするために数値や内容が設定されているようなケースもある。そのような実験は得てして少し数字を変えるだけで理論との乖離が証明されなくなってしまう。そこから得られる知見は、せいぜい「理論の通りに行かないような例外がない事もない」程度だ。

 一方で現実の経済現象では理論経済学によって得られた知見を応用した予測が適切に働くケースも多くある。経済学者のミルトン・フリードマンは合理的経済人などの非現実的に見える仮定についてある程度の問題を認めつつも、実際に正しい予測が出来ている以上問題はなく、それを批判している人物がより優れた予測を可能にしない限りこの批判には意味がないとしている。

 そして2つ目、経済学の理論はあくまで「モデル」の設定をしているに過ぎないことも理解して欲しい。世の中の経済的な事柄は様々な要因が絡んで起こっている。そこには「市場」の外にある数値に変換できないような要因も多く存在する。その全てを勘定に入れて経済について考えることは不可能に近い。そこで、いくつかの単純化されたモデルをベースに経済問題を考えることで、少しでも容易に経済問題を紐解くために理論経済学が存在するのだ。

 理論経済学が存在しないと、経済学は無法地帯と化すだろう。様々な経済現象に対する分析や対処は全て「ケースバイケース」となってしまう。結果として問題解決のためのアプローチや主義主張が乱立してしまい、身動きが取れなくなってしまうのだ。(実験経済学は実験をすればいいわけだから理論経済学がなくてもいいのではないかと思う人もいるかもしれないが、そうは行かない。それについては後述しよう。)

 そのような事態を防ぐために、ある程度統一された方針を与えるのが理論経済学だ。経済問題に対して理論経済学で導出されたモデルを用いつつも、モデルにおける仮定と異なる部分について適宜内容を調節することで比較的容易に経済問題に取り組むことが出来るのである。

 おそらく、理論経済学に携わる経済学者の殆どは全てのケースに適応可能なモデルの作成が殆ど不可能なことを理解している。同様に、経済学において重要とされるようなモデルが実は非現実的な仮定を孕んでいることも理解しているだろう。その上で、そのような非現実な仮定を外しつつ望ましい結果を得る事ができるような理論を作る研究も日々行われているのだ。

 経済学の講義でも序盤は非現実的な仮定をおきつつ基礎的な理論について学び、そのあとでそのような仮定を少しずつ外して考えて見るという手法が取られている。いきなり現実に限りなく近い条件を設けて経済学について考えることは難しすぎる。序盤に学んだ理論が手掛かりとなることで理解を容易にしているという点からも、非現実的な仮定に基づく経済理論にも意味があると言えるだろう。

 最後に、経済学における仮定のうち特に合理的経済人などの仮定は形而上学的な仮定であって、それを経験的に批判すること自体が不毛であるということについても言及しよう。これに関しては丁寧に説明しようと思うとかなり時間がかかるので簡単に触れようと思う。ラカトシュ・イムレという科学哲学者の論を借りると合理的経済人という仮定は理論のコアにあるもので、それを批判することは意味をなさないのだ。

 理論経済学は合理的経済人の仮定をコアにこれまで進んできた「研究プログラム」であり、仮に実験経済学が理論経済学よりも優位である事を示したいのならば、コアを批判するのではなく理論経済学が新たな予測を導かずにコアの防御に終始する「退行的研究プログラム」であり、一方の実験経済学は新たな発見や高精度の予測を可能にするような成長を伴う「前進的研究プログラム」であることを証明しなければならない。

 その証明と合理的経済人の仮定が正しいか否かということは別問題なのである。少々雑な説明になってしまったので、興味がある人はラカトシュの著作などを読んでほしい。

 以上3つの理由から理論経済学は間違っている!と断じるのは些か軽率と言えるのではないだろうか。

  また、実験経済学は実験経済学で、人を対象とした実験特有の深刻な問題を抱えている。ここでは2つに絞って見ていこう。

 1つ目は純粋な要因以外を排除することの難しさだ。あるAという事象の要因をBと考えて実験を行うときに、CやDといった余計な要因を排除しなければ正しい実験結果は得られない。あるいは、αという事象の要因がβであると予想できるような実験結果が得られたが、実際にはその実験を行った際に存在したがγが真の要因だったということもあるかもしれない。

 人間を対象とする実験では、そのような誤った実験結果を齎らしかねない要因の排除が難しい。人間が同じ問題に対してもその時の様々なコンディションによって異なる対応をすることは言うまでもない。まして、明らかに何かの実験を行なっており自分の行動が監視、記録されているような状態では通常通りの行動が観察できると考えないほうがいいだろう。実験室は我々が日頃経済活動を行っている場とは異なる特殊な環境であるという点は注意が必要である。

  2つ目は、全ての理論に対して実験が行えないという問題だ。先ほど理論経済学がないと経済学がなんでもありになってしまうと述べた上で、実験経済学も無関係ではない事についてほんの少し言及したと思う。それはまさにこの問題に関連している。

 最後通牒ゲームであったり「アレの逆説」や「エルズバーグの壺」(どちらも調べれば簡単に出てくるので各自参照してほしい)であったり、あまり大掛かりな準備を必要とせず社会に与える影響の少ないような実験は容易に行える。しかし、マクロ経済政策に関わるような理論や公共経済に関わるような理論は実験を行うにも観測対象が極めて大きく、社会に与える影響も同様に大きいため実験を行うことは実質不可能に近い。実験経済学で得られる知見は今の所程度が限られていることは注意しなければならない。

 もちろん、この2点から実験経済学はダメだ!と言うつもりもない。私は前回と今回で経済学のネガティブ・キャンペーンをしたくてこのブログを書いているわけではないのだ。最後に私が今回一番伝えたかった事を書いて終わりにしようと思う。

 これまで書いてきたように、理論経済学には様々な問題点があることが実験経済学の進歩によって明らかになってきた。しかし、一方の実験経済学にも欠点があるということも示した。この問題を論じる際に重要なのは、どちらが正しくどちらが間違っているかという観点から批判をする態度ではなく、両者を相互補完関係としお互いのより一層の成長のために相互批判を行おうという態度である。

 少なくとも全ての人間が合理的かつ個人主義的に行動するという仮定そのものが正しいと信じている人間はいない。しかしその仮定があるお陰で結果として現実の経済現象を適切に描写できるケースも多々ある。理論経済学は実験経済学から得られた知見を元により精緻な理論を組み立て、実験経済学は理論経済学ではカバーできない分野の記述を行うというのが理想的な両者の関係ではないのだろうか。理論経済学が実験経済学は車軸の両輪となることで、経済学のより一層の進歩が叶えばと思う。

 ここまで経済のみで話をしてきたが、日頃の意思決定においても理論と実践(経験)とを両立させることはきっと役に立つ筈である。複雑な物事に対処する上で一般化された理論にのみ囚われるのではなく、自らの経験のみで判断するのでもなく、その両者を動員することで最善の意思決定が行えるように気をつけて見て欲しい。

理論経済学は間違っている?(前編)

 経済学はしばしば、その理論が非現実的な仮定を置いていると批判をされる。経済学を揶揄したジョークに以下のようなものがある。

 無人島に物理学者、化学者、経済学者の3人が流れ着いた。目の前には食料の入った缶詰があるが、缶切りはない。

 3人はそれぞれこう言った。

 物理学者「缶を高いところから落とそう」

 化学者「缶を熱して膨張させよう」

 経済学者「ここに缶切りがあると仮定しよう」

 ジョークの解説は親殺しの次くらいにやってはいけない事な気がするが、ピンとこない人が殆どだと思うので解説をしよう。当然ながら無人島に缶切りなど無いが、経済学者はそんな時でさえ缶切りがあることを「仮定してしまう」というのがこのジョークのキモになっている。

 個人的にはこのジョークを考えた人は経済学について殆ど何も知らないのだろうなと思うのだが、一方で理論経済学に非現実な仮定が多くあることも事実である。市場において全てのアクターが経済的合理性に則り行動するというホモ・エコノミクス(合理的経済人)の仮定はその最たる例だと思われる。

 理論経済学の対極にいるのが、実験経済学である。実験経済学は文字どおり実験を行い、経済理論と現実の整合性について研究したり、現実での経済行動に関する統計から新たなモデルを作ったりしている。

 実験経済学と理論経済学の乖離というものは極めて興味深い。あまり経済学に興味がない人でも実験経済学と理論経済学の比較は面白いのではないかと思うので、1つ具体例を紹介したい。

 最後通牒ゲームというゲームを見てみよう。一見経済学と関係なさそうに見えるかもしれないが、ゲーム理論という経済学の一分野で扱う内容だ。

 このゲームはAとBの2人のプレイヤーで行われる。2人で100円を山分けしたいのだが、その際に両者の取り分を決める必要がある。Aは取り分の提案権を持っている。0〜100円の間でAの取り分を決定し、Bは残りを受け取る。Bは拒否権を持っている。Aの提案した額に対して拒否権を発動すると、AとBはどちらも1円たりとも貰えない。

 ここで両者のとる行動は理論上1つに絞られる。それはAが99円を提案し、Bはそれを受諾して1円だけ貰うという行動だ。簡単に解説しよう。Aはできるだけ取り分を多くしたいと思っている。そこで、理論上Bが拒否しないギリギリの額を提示することが最良の行動になってくる。

 Aが99円を提示するとBの取り分は1円だが、拒否すればBの取り分は0円になる。言うまでもないことだが1>0であり、Bはこの提案を受け入れることになる。(厳密には100円の提示も部分ゲーム完全均衡といって合理的な選択肢と言えるのだが、それを話し始めると複雑になるので割愛する)

 ここまで読んでどのように感じただろうか。理論的には間違っていないが、現実的でもないと思わないだろうか。実際にこのゲームをやってもらう実験を行うと、ほとんどのケースではAとBがおよそ半分ずつ受け取る提示がされており、50円よりもかなり多い額をAが提示するとBに拒否をされているという結果が得られる。理論上合理的に行動する人はほとんどいないのだ。(筆者はこの実験結果を見たときとても感動したのだがどうだろうか)

 少なくとも、この最後通牒ゲームの結果を見る限り理論経済学が現実性を欠いた役に立たない学問のように見えなくもない。果たして、理論経済学は間違っているのだろうか。

 少なくとも私個人は理論と実験結果の乖離を引き合いに出して理論経済学を批判することが常に適切だとは思わない。次の記事ではその理由について3つのポイントを元に解説することから始めようと思う。

エビデンスベースで議論をしよう

 「保育園落ちた日本死ね」という言葉が話題になってしばらく経ったが、当時安倍総理がこの件にどのようなコメントをしたか覚えているだろうか。

 総理はこのブログを紹介した山尾氏に対し、「匿名である以上本当かどうか確認できない」と言っている。他にもブログの内容に対し信憑性を問うようなヤジが飛んだそうだ。

 このことに対して「待機児童問題は事実である」ということを主張し安倍総理に対して怒りをあらわにしている人がちらほらいた。おそらくこの件を断片的にしか見ていないのであろう。きちんと答弁の様子を見れば、匿名のブログを引き合いに出した山尾氏に対して証拠能力の低さを指摘した後、総理はきちんと子どもを保育所に入れられなかった人がいる現状は理解しており保育士の待遇改善など対策を進めているともきちんと話している。

https://mainichi.jp/articles/20160308/ddm/005/010/067000c

 今回はメディアの話ではないので深くは掘り下げないが、このようにミスリリードをさせるような記事を書く新聞社にも問題はある。しかし、後述するように「エビデンス」に対する意識を高く持てばこのような記事によって誤解をすることもないだろう。

 タイトルにもあるように「エビデンス」という言葉が今回のテーマだ。小池百合子都知事が「エビデンスベース」という言葉を使ったところ難解な外来語の一つとして紹介されておりびっくりしたのだが、ご存知ない方のためにも一応説明しておこう。

 エビデンス(evidence)は証拠や証言という風に訳される英語だ。エビデンスベースとは「証拠に基づいた」とでも訳すのが適切だろう。

 言うまでもなく、何らかの議論をする際には具体的な証拠を用いる必要がある。証拠にかける主張は極めて稚拙だ。しかし、山尾志桜里氏は国会議員という立場でありながら話題性の高さに目をつけ匿名のブログという到底証拠とは言えないような物を議論に持ち込んでしまった。

 それに対して安倍総理が「匿名である以上本当かどうか確認できない」と返答することの何がおかしいのだろう。ヤジが飛ぶのも当然で、本来であればそんなものを引き合いに国会で議論をしようということ自体が間違っているのだ。

 しかし、安倍総理の発言は批判に晒された。おそらく待機児童問題は事実だという旨の批判をしたかったのだろうが、前述の通り総理はそのことについてきちんと認識、言及している。

 この誤解自体も、メディアの発表を鵜呑みにせずに「エビデンス」はどこにあるのかということを意識し確認していれば回避できたことだ。勿論全ての報道についてそれを行うことは難しいが、少なくとも何かを論じる際に複数の異なる記事を参照する程度のことはしても良いのではないだろうか。

 仮に総理が現状の認識について言及していなくても、安倍総理の発言は至極真っ当だとも言える。総理は匿名のブログが証拠にはならないということを指摘したわけで、それ自体は批判される要素などない。

 本来であればそれがエビデンスになり得るかどうかをきちんと踏まえた上で話を進めている安倍総理は正しく、巷で噂になっている程度の匿名ブログを引き合いに議論をしようとした山尾議員こそ批判されるべきではないだろうか。

 繰り返し述べてきたように、議論は適切な証拠がなければ成立しない。MITで医療経済学を研究しオバマケアの設計にも関わったJ・グルーバーは「オバマケアで医療費が上がった話をよく聞くが医療制度は改悪ではないか」という質問に対して「個人の意見の寄せ集めはデータではなく、エビデンスでもない」とした上で適切に収集したデータから国民全体の保険料は安くなったと説明している。

 ここからは個人的な意見になるが、偏った主張や証拠を欠いた発言はその発信者のみならずそれを鵜呑みにして拡散してしまう人間にも問題があると思う。知能の足りない人々が流布しているアンチワクチンの主張や科学的な根拠のない代替医療など人々に害を与える代物も多くある。そのような害を齎す諸々は社会の構成員がエビデンスに対する意識をきちんと持てば排除することが出来るはずだ。

 皆さんの多くは何らかのSNSを利用しているのではないだろうか。そこでの発言にいつでもエビデンスが伴っているべきだとは言わないが、少なくとも社会的な問題に触れる際には「エビデンスベース」の議論を意識して欲しい。それと共に、何らかの社会的な問題に触れた投稿をシェアする前にそれが「エビデンスベース」の議論なのかどうかをきちんと見極めることも行なって欲しいというのが私の願いである。

子連れ市議の何が問題か—議会とは、議員とは—

 毎回記事の内容が世間で中心となっている話題から遅れている気がするが、暇なときに書いているものなので許してほしい。

 遅れているとは言ったものの、先日熊本市で子供を議会に連れて来た議員がいたことは記憶に新しいのではないだろうか。これには賛否両論あったが、結果として市議は厳重注意を受けることとなった。個人的には当然の結果かと思える。

 この議員が訴えたかった問題は、当然ながら日本における子育て環境の不備だろう。当の本人も「子育てと仕事の両立に苦しむ女性の悲痛な声を可視化したかった」との発言をしている。

 しかし、今回の行動には明らかに問題がある。ここでは大きく分けて2点の問題点を指摘しようと思う。

 問題点の1つ目は今回の行動が議会における物であったということだ。議会というものは言論の府である。よって、本来であれば議会における様々な行動も言論を通した物であるべきだ。テレビのニュースなどでしばしば見る野党による妨害行為の様子が「言論の府」から大きく逸脱した物であることは聡明な読者ならお分かりだろう。

 であるとすれば、今回の市議の行動も同じく、言論の府という議会の在り方からは程遠い。問題の焦点化のために、直接行動が極めて重要な政治的手法である事は否定しない。しかし、それは議会の内部で行うことではないのだ。

 議会において子育ての問題を焦点化したいのならば、待機児童の数や問題を抱える親へのヒアリングの結果などを提示し、そこから法案の提出や予算増加の要望を提示するべきである。

 少し話は逸れるが、当然ながら議会以外の場面であれば同様の事をして良いという話ではない。たとえ今の保育環境に問題があるとしても、会議や会合、勉強会などに乳幼児を連れて来れば迷惑がかかる事は自明だ。他者に迷惑をかけるような問題の焦点化は根本的な責任が本人に無くても、風当たりを強くすることになる。

 そのような粗暴なことを少数の人が行うせいで、問題解決は遠のいてしまう。同じ問題を抱える人にとっても迷惑であり、事実今回の件では子育てに困る女性たちからも批判の声が上がっている。

 問題点の2つ目は、議員は「公人」であるということである。議員の公私混同は言うまでも無く御法度である。まして議会という公の場に公人である議員が私的な問題を直接持ち込むという事はあってはならない。

 子育ての問題はもはや社会的な問題であると言う人もいるだろう。確かに、子育てに関する問題そのものは社会的な問題である。しかし、議員一個人が自分の子供を議会に連れてくること自体は極めて私的な問題ではないだろうか。

 いくら公人とは言え個々人のプライベートは尊重されるべきだろう。しかし、先ほども述べたようにそれを公的な場面に持ち込む事は不適切だ。議員は公費から給与を得ている公務員であり、アマチュアが趣味で議員として活動している訳ではない。少なくとも渦中の議員は自らの立場について考えて行動をするべきだったのだ。

 今回の事件で議員を批判している人々は背後にある問題を隠しているという指摘があったが、それは間違っている。私を含め大多数の人間は子育てを巡る問題の存在、そしてそれを解決することの必要性を認めつつも、それとは別で具体的な行動の内容について批判をしているのだ。

 この事件を契機に問題が解決に向かえばそれで良いのだろうか。それは結果論に過ぎないのではないだろうか。問題解決のために乱暴な方法を使う事が常態化した社会は考えるだけでも恐ろしい。

 子育ての問題に限らず、もしも何らかの問題を解決したいのであればそのための手段には十分注意する必要がある。何か伝えたい事、訴えたい事があるとしても罪のない他者に不利益を与えるような行動をとってしまってはいけない。今回の事件を教訓に、我々も問題提起や問題解決の手段について十分に吟味する必要があるだろう。

小中学校における学校の割り振り

 一般に、小中学校は「学区」が決まっており、例外を除けばその学区内に住んでいる子供が該当の小中学校に通うことになる。

 今回はこの制度を変更し、成績によって学校を割り振る制度を導入すべきだという主張をしたい。

 個々人の能力に合った環境は非常に大切である。小学生が中学生の授業を受けても大半の場合きちんと内容を理解できない。これは極端な例だが、一般的に言っても教育サービスは生徒のレベルに合ったものが提供されるべきである。しかし、現状は単にそこに住んでいるからという理由で学校が決まってしまう。これは好ましくない。

 そこで、学力に応じて学校を割り当てる必要が出てくる。この制度を導入することで、それぞれの学校には大よそ同じレベルの生徒が集まることになる。各学校は生徒のレベルに合わせた教育サービスが提供できるのだ。

 もちろん、何年かで区切りをつけて再度成績による割り振りをする事が必要だ。それがなければ時間の経過とともに学力にばらつきが出てしまいかねない。

 この制度は学力の差を拡大するという反論があるかもしれないので前もって答えておこう。その指摘は概ね正しいが、それでもこの制度は現行の制度よりも良い状況をもたらすと言える。

 同じ学校に異なるレベルの生徒がいると、自ずとできる生徒とできない生徒という構造が生まれてしまう。おそらく授業はその中間にいる生徒のレベルに合わせて行われる。できる生徒は余裕を持って深く理解できる一方、できない生徒はその都度その都度追いつくのに一苦労だ。

 そのような状況が何年も続くと、最終的にできる生徒は広く深く理解し、できない生徒は基礎も含め殆どのことについてきちんと理解できていないという状況になってしまう。

 しかし、学力によって学校を振り分ければこの問題は解決される。優秀な生徒を集めた学校ではある程度早いペースで進める一方で、成績のよくなかった生徒を集めた学校ではゆっくり丁寧に授業を行うことができる。

 当然優秀な生徒を集めた学校に通っている生徒はより多くのことを学習できて、学力が上がるだろう。一方できない生徒に関しても、自分にあったペースの授業を受けることによって現行の制度下よりもきちんと授業を理解する事ができるのだ。

 恐らく両者の差はあまり埋まらないし、場合によっては広がることもあり得る。しかし、できない生徒についても現行の制度よりは絶対的な学力が向上し得るのだ。結果的に、制度導入以前よりも学力全体の底上げが可能である。

 もちろん、この制度を導入するには課題が多い。まず、共通の基準となるテストを何回実施するかを明確にしないといけない。一発勝負なのか、平均値を取るのかはよく検討される必要がある。内容についても吟味が必要である。

 また、未就学児に統一テストを受けさせることの難しさもある。1〜2年程度は学区域で決められた学校に通い、その後再度割り振りを行うかたちを取る可能性もあるが、そうする場合1〜2年を担当する教員の質が各校で均一でないといけない。

 親が子供の教育にいくら投資するかが学校の割り振りに関わってくることもあり得る。幼い頃から塾に通っている裕福な家庭の子供ばかりが良い成績を取り良い学校に行けるという状況は好ましくないだろう。本来であれば、能力のみが基準となるべきなのだ。

 このような問題はそれぞれが容易に解決できないものである。今後はこれらの問題の解決策についても考察をしていきたいと思う。

 

※ 「続きは次回」というような終わり方をした過去のブログについては鋭意後編を製作中であるのでご容赦いただきたい。

美味しいペペロンチーノ

 試験で頭を使ってもうしばらく何も考えたく無くなったので昨今研究中の美味しいペペロンチーノの作り方について書きたい。多分試験の結果も悪いし。

 パスタ、塩、ニンニク、唐辛子、オリーブオイルのみで作るパスタは案外難易度が高い。ちゃちゃっと作ろうと思えばすぐなのだが、凝るとどうも上手く行かないのだ。

 ポイントは塩の量と乳化である。いい感じの塩味をだすのはかなり難しい。お湯1Lに対して1%だと若干物足りないが、2%はかなりしょっぱい。当然1%から2%の間が適量とは思うが、これは試行錯誤を重ねるしかない。何より、一口に塩といっても種類によってしょっぱさが違う。1%以上2%未満を目安に微調整を繰り返すことになる。

 ちなみに、水1Lに塩1%だと見た目は結構な量で引いてしまうかもしれないが、実際には大してしょっぱくならないので安心してほしい。

 ニンニクと唐辛子を炒めている所に塩を入れればいいかというとそうでもない。パスタにしっかり味がつく量の塩を入れると、ニンニクは非常にしょっぱくなる。逆に、ニンニクが美味しく仕上がる分量の塩は全然足りない。パスタには塩で味をつけて、ソースは風味づけだと思ってほしい。

 乳化はそれほど難しい作業ではない。ニンニクを炒めたオリーブオイルに、パスタの茹で汁を少々いれて攪拌するだけだ。茹で汁でなければいけない。ただのお湯で乳化はできない。だいたい小さじ1杯も入れたら十分だと思う。この時塩を入れた茹で汁が入るので、ある程度ニンニクにも味がつく。

 乳化をきちんとしないと、麺とソースが絡みにくい。麺が茹で上がるのを待っている間フライパンを振るだけでいいので、忘れずにやってほしい。

 細かい話をすると、ニンニクは刻む前に包丁で潰すと風味が出やすい。唐辛子を触ってから目をこすってはいけない。これはチートだが桜エビを一緒に炒めてほんの少し醤油を垂らすと信じられないくらい美味しい。自分はイタリアンのシェフになれるのではないかと錯覚してしまうくらいには美味しい。お金に余裕がある人は、国産ニンニクと生の桜エビでつくってみてほしい。