情報は一人の物ではない

著作権自然権だ・アーティストの権利だと言っている人々は、人間が神とでも思っているのだろう。我々は互いに影響を与え合い生きている。また自然界から影響を受けることも在るし、世代を超えて影響を与えることもある。それが芸術を生む。
作者、演奏者、聞き手に差異はなく、全ての人が芸術を創造する可能性がある。その長い創造の連鎖の一部を担ったに過ぎない、一人の人間だけが権利を行使できるというのは、明らかに理不尽である。
芸術を完全にフリーにし、芸術の評価を完全に個人に委ねる事こそが、本当の意味での文化を守るということだ。

情報とは何か

当たり前だが、我々は情報を作ることはできない。人間の身体も自然界の一部なので、私たちが何かを思いついたと思っても、それは常に自然界から切り取ったものに過ぎない。一体誰が「この情報は俺のオリジナルだ」といえるのだろうか?


自然界から見れば、画家が円を描くときも、木の葉が風で偶然円を描くように転がるのと同じように、脳からの命令が筋肉に伝えられ、「偶然」円を描いたという、それだけのことに過ぎず、制作費何十億の映画も、落書きも、自然も、作られた過程に関係なくただそこにある情報でしかない。それらの情報の評価は個人の主観に委ねられる。情報は客観的に評価できないのだ。

社会が評価する芸術

著作権法というのは、芸術に無理やり「客観的価値があること」を押し付けているに等しい。芸術には主観的価値しかないのに、すべてに「平等」に権利を与えるのはおかしいのです。なぜなら、平等に権利を与えるということは、「全ての芸術(情報)に普遍的価値がある」と社会が言っているのに等しいからです。


芸術に普遍的価値なんてないです。芸術なんて受け手である個人が勝手に見て、勝手に主観的に評価すればいいのです。(勝手に評価するには、芸術がフリーでなければいけない)
その主観的な評価だけが真実なのです。

芸術の価値

楽家が、CDを売って一億稼げるのが当たり前だというのなら、同じように自然界から情報を切り取る画家も同じだけの報酬を与えられるべきだ。報酬が与えられるどころか、評価されずに死んでいった画家もいる。その画家たちには才能はなかったのか。


均一な価格による評価とは、才能によるものではなく、商業的センスによるものでしかない。そんなシステムで正当な報酬なんてありえない。つまり芸術という主観的価値があるものに対して、CDなどの均一の価格という客観的価値で評価しようとすることが、そもそも間違いなのだ。