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東大生の手帳で成績が伸びる

東大生が伝授「手帳で成績が伸びる」スゴい活用法 書き込むのは自分が取り組む内容だけではない 6/10(土) 6:02 Yahoo!ニュース 東大生が手帳の効果的な活用法を紹介します(写真: kuro3 / PIXTA) 内部進学者が大多数の高校から、東大に現役合格した松島かれんさん。そんな松島さんは、普段から手帳を効果的に使いながら、スケジュールを立てているといいます。松島さんの新著『無理せず自然に成績が上がる勉強のトリセツ 東大生の合格手帳術』を抜粋・再構成し、受験生にも、社会人にも役立つ手帳の活用法を紹介します。 【図】東大生が教える、超効果的な手帳の活用術 みなさんは、手帳にどのようにご自身の予定を書き込んでいますか? おそらく、ほとんどの方は月ごとのページに「自分が取り組むべき内容」と「その提出期限」などを書き込むと思います。 これらを書き込むのは、「あと何日後に提出しなきゃ」と一目でわかった状態で日々、物事に取り組めるという点で効果的ですよね。 ■手帳の効果的な使い方 ですが、それ以外にも上手な取り組み方があります。今回は、手帳を上手に活用して自分の力をいっそう高めてくれる方法をみなさんに共有したいと思います。 その方法とは、「1日の時間を無視して、思いついた勉強内容のすべてを書き込む」ということです。 具体的にはこのようなイメージです。 (※外部配信先では図表などの画像を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください) 例えば、学生の方であれば授業中に先生から「時間があるときにこの問題も解いてみてください」と言われたら、手帳に「数学 ◯◯ページ 練習問題」などと書き込んでいきましょう。 社会人の方であれば急に上司から「そういえば時間があるときに、今度の商談のためのこういう仕事もやっておいてね」と言われたら、手帳に「A会社の資料まとめ (今度の商談のため)」と書き込んでみましょう。 ほかにも、自宅や図書館で自習をしたり、問題集に取り組んだりしていると「この範囲、まだあまり理解できていないなぁ……」と感じることはありませんか? あるいは、本を読んでいるときに、「もう一度読まないと理解できないかもしれない……」と感じることもあるのではないでしょうか。 そんなときは、改めて教科書や本の該当範囲を読み直してみたり、もう少し難易度の低い問題集に取り組んでみたりする必要がありますよね。 ■「やるべき内容」を思いついた時に書き込む そこで、手帳に「英語教科書 ◯◯の範囲 もう一度読む」「英文法の問題集 ◯◯ の範囲を解いてみる」などと書き込んでおくのです。 このように、「取り組まなければならない内容」を思いついた瞬間に、手帳の今日のページのところに書いていきましょう。 この時、注意してほしいのは、自分のキャパシティを踏まえてタスクを書き込む必要はない、ということです。先ほども述べた通り、とにかく、1日の時間を無視して、終わらない量でもいいから書いてみることが大切なのです。そして、それを1つずつ実行していきましょう。 もちろん、このように思いついた突発的な物事は、そのすべてをその日のうちに終えられることはほぼないでしょう。ですが、それでもいいのです。 取り組みきれないタスクが出てきてしまったときには、書き込まれた内容のうち、今日優先して取り組むべきことではなかったり、あるいは取り組んだけれど、どうしても終わらなかったりした物事を、取り組みたい日のページに「書き写して」おきましょう。 具体的には、このようなイメージです。 「1日の中でできることは限られているし、別の日に書き写すなら、そもそもどうして今日のページに取り組むべき内容のすべてを書くの?」と思う方もいらっしゃるでしょう。 ですが、今日のページにすべて書き込むことには、「日常生活とタスク内容(勉強や仕事)を紐づけることができる」という大事な効果があるのです。 例えば、ふと「英語のこの問題集も取り組んでおきたいなぁ」「この範囲全然わからないから、もう一度読んでおきたいなぁ」と思ったとしても、それをすぐ実行に移したり、書き留めておかなかったりしたらどうなるでしょう。きっと数時間後には忘れてしまうはずです。 しかし、学校にいる間は授業があったり、手元に問題集がなかったり、あるいは家にいるときにはご飯を食べる時間になったり……と、「思いついた取り組むべき内容」を「その場ですぐ」実行に移せる瞬間は意外と少ないものです。 だからこそ、手帳の今日のページにとりあえず、取り組むべき内容をすべて書き込んでおくことが大切なのです。 そうすることで、取り組む内容を忘れずにいられて、 少し時間があるときに別の日のページへ書き写せたり、家に帰ってから手帳を見返す中でタスクを思い出したりすることができます。 結果、取り組むべき内容に見落としが少なくなり、自身の苦手を一歩ずつ克服しながら勉強に取り組むことができるのです。 ■取り組んだ内容には線を引く そして、この一連のプロセスの最後にもう1つ、みなさんに取り組んでみていただきたいことがあります。 それは、「取り組んだ内容には線を引く」ということです。終わった物事に、横線を引いて、終わったことを明確にしていくのです。 このようなイメージです。 ただ取り組む内容を書き込むだけでは、それが書いてあること自体に安心してしまったり、 取り組むのを先延ばしにしてしまったりしかねません。しっかりと実行に移すところまでいくことが大切なので、取り組んだことがパッと見てわかりやすいよう、線を引くことが効果的です。 また、線を引くことによる効果はほかにもあります。例えば、取り組むべき内容がいっぱいあるのに線が少なければ、「今日はまだ全然、取り組めていない!」ということに気づくことができます。反対に、取り組むべき内容のほとんどに線が引かれていたら、「今日はたくさん取り組んだ!」という達成感を得られたりします。 この気づきや、達成感によって、「次も頑張ろう」というモチベーションを生み出しやすくなり、よい緊張感の中で勉強や仕事を続けることができるのです。 もしこの記事を読んでくださっている方が何かの試験の受験をひかえた方であれば、この方法はよりいっそう効果を発揮するはずです。この方法を試すときには、試験のために必要な勉強とは何か、自分が取り組むべきことはどういうものなのか、自分自身でしっかりと考え、自身で「生み出していく」必要があるからです。 ■「やらなければならないこと」から考える 大学受験などの受験では、1~3年間と勉強する期間が長いうえ、1人ひとり取り組まなければならない勉強内容が異なります。そのため、「『自分で』取り組むべき勉強内容を見つけていく」ことが大切です。 だからこそ、自分は何をするべきなのか、できることのキャパシティから考えるのではなく、「やらなければならないこと」から考えていく発想はとても有効なのです。そして、その内容にコツコツ取り組んでいくことが、合格のためには欠かせません。 このような手帳術を活用することで、「よい緊張感」を保ち、時間とうまく付き合いながら、勉強やお仕事を頑張ってみてください。心から応援しております。 松島 かれん :現役東大生

日経テレ東大学打ち切りの背景

日経テレ東大学」を潰し、看板プロデューサーを退任に追い込んだ…テレ東株主総会・元日経記者の「告発」の迫力
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6/1(木) 6:03配信

「これは人殺しと同じだわ」

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 登録者数が100万人を突破した人気YouTubeチャンネル「日経テレ東大学」は、なぜ打ち切りとなり、番組を企画して立ち上げ、進行役の「ピラメキパンダ」を務めた高橋弘樹プロデューサーは、なぜテレビ東京を退社したのか――。

【写真】再逮捕された「美人すぎる寝屋川市議」の写真集全カット

 テレビ東京ホールディングス(東証プライム)の株主総会は6月15日に開催されるが、筆者が最も注目しているのは、香港に本社を置く米国籍アクティビスト(物言う株主)のリム・アドバイザーズ(リム社、提案株主名義はLIM JAPAN EVENT MASTER FUND)が、この点を問題視して<日本経済新聞社との共同事業運営契約の開示>などを求めて株主提案していることだ。

 「日経テレ東大学」は、「本格的な経済を身近に楽しく」をコンセプトにしたニュース情報番組で、堅いテーマを扱ってもMCを務める実業家の「ひろゆき」こと西村博之氏やイェール大学助教授の成田悠輔氏が、雑談に引き込んで面白く展開し人気を博した。

 高橋氏は、「家、ついて行ってイイですか?」「空から日本を見てみよう」「吉木りさに怒られたい」と、低予算でも切り口と面白さで勝負する“テレ東らしさ”を持つプロデューサーである。

 「ビジネス系では過去に例のない成功番組」と言われていただけに、今年3月末の配信打ち切りは本人にとっても寝耳に水だったようで、決定を告げられ「これは“人殺し”と同じだわ」と思わずつぶやき、退社に至った。

 経済の専門家だけでなく、菅義偉前首相、泉健太立憲民主党代表、松井一郎日本維新の会前代表、木原誠二内閣官房副長官といった有力政治家が登場したのは、「意識的な人々」を引き付けているこの番組の影響力を承知していたからだろう。
テレ東の天下り問題の「歪み」

 テレビ局にとって番組改編の時、「諸般の事情」で打ち切りを決めるのは日常茶飯だ。だが、「日経テレ東大学」の場合、約32%の株式を保有してテレビ東京を「天下り先」としている日経新聞OBの経営陣が、後述するような理解できない事情で打ち切りの断を下し、それにリム社が噛みついた。

 株主提案したリム社のポートフォリオ・マネージャーで日本投資責任者の松浦肇氏は、元日経記者として天下り問題の“歪み”を熟知している。日経の元上司がこう評する。

 「証券部の記者としてマーケットの問題を鋭く突く優秀な記者でした。運用会社に転じて上場企業に注文をつけていますが、発想は新聞記者と同じで“歪み”を許さない。企業統治とマーケットの監視役であるべき未上場の日経OBが、上場企業のテレ東に『会社員生活のゴール』として天下りし、説明責任や資本効率といた上場企業の基本を無視したまま、『保身の経営』に汲々としている。彼はそれが許せないんです」

 リム社のテレ東に対する株主提案は、昨年に次いで2回目である。昨年、約1%の株式を取得したリム社は、日経からの「天下り禁止」「社外取締役の選任」など7項目の株主提案を送り付けた。

 テレ東社長は50年近く日経出身者が占め続け、昨年の総会でも小孫茂会長、石川一郎社長、新実傑専務とトップ3は日経OBだった。天下り禁止の株主提案の賛成率は8・15%。否決はされたものの、「日経の矛盾」はマーケットに示せた。

 今年の提案は、冒頭の<共同事業運営契約の開示>を含む4項目の定款の一部変更と剰余金の処分を求めている。

 なぜ日経との共同事業の開示を求めるのか。リム社は「提案理由」にこう書いている。

 《(「日経テレ東大学」の)再生回数や製作本数などを鑑みるに、2022年10月~12月に約3500万円の税引き前利益を稼いだと推計できるが、提案株主がディスカウント・キャッシュフロー(DCF)方式で算定したところ、事業価値は約30億円に達した。》

 

 

日経テレ東大学」の担当役員が昇格

 そして30億円の価値あるものを捨てた背景に疑問を呈している。

 《現在も首脳陣4人が日経元幹部である。様々な分野で両者は事業を共同運営しているが、日経に有利な契約が結ばれている又は当社が契約にある権利を十分に生かしていないリスクが内在する。》

 今年は「天下り禁止」といった直截な提案はしていない。そして小孫会長は退任するものの、石川社長、新実副社長というツートップを日経OBが占める。その体制ではテレ東の利益を毀損し、それが現われているのが「日経テレ東大学」の打ち切りだ、という主張である。しかも、直近の人事で専務から昇格した新実副社長は、「日経テレ東大学」の担当者だった。

 株主提案に書き尽くしたということか、松浦氏に株主提案理由を改めて尋ねたものの、「テレビ東京ホールディングス様の企業・株主価値向上に寄与する株主提案であると自負しております」と短く答えた。

 テレビ東京は、「取締会意見」で「(株主提案が指摘する)利益及び事業価値には到底及ばない」と回答していたが、筆者が「到底及ばない根拠を示して欲しい」と質すと次のように答えた。

 「利益及び人件費を含めた費用の実態が判断の根拠です。株主提案では、3カ月で約3500万円の税引き前利益を稼いだと推計できるとしていますが、実際にそのような利益は得られていません」(広報・IR部)
日経新聞の嫉妬

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 だが、21年3月の配信からわずか2年で登録会員100万人を突破した優良コンテンツを捨て去らねばならない理由とは思えない。利益は出ているのだ。

 高橋氏は軽妙なピラメキパンダとして、番組内で「テレ東が大好き。常務になるまで会社員を続ける」と広言していた。また、テレ東を退職したプロデューサー・佐久間宣行氏、JAXA退職の宇宙飛行士・野口聡一氏、朝日新聞退職の探検家・角幡唯介氏、日経新聞退職の経済ジャーナリスト・後藤達也氏らを招いて「なんで会社を辞めたんですか?」という番組を製作している。

 安定を捨ててリスクを取るのはなぜなのか。高橋氏が「常務まで」というのは、上は日経OBの指定席だからだろうが、リスクを取るのは怖く、「でもそう“冒険”したい」と思っている視聴者=会社員の気持ちを代弁した。その高橋氏をテレ東が追い込んでしまった。損失以外の何ものでもない。

 テレ東の現経営陣を知る日経OBは、人気コンテンツの打ち切り理由をシンプルにこう語る。

 「日経新聞の嫉妬です。その圧力に上場企業としての立場を忘れたテレ東が折れた。『日経テレ東大学』は、新聞を離れ、後ろ足で砂をかけていった退職者とコラボするような番組を製作していた。それが許せなかった」

 後藤氏のことである。

 新聞・テレビという旧来型の情報プラットフォームが、やがてYouTubeなどのSNSやチャットGPTに奪われ、衰退していくのはもはや自明だ。22年4月に日経新聞を辞めた後藤達也氏は、Twitterのフォロワー数が50万人超、YouTubeのチャンネル登録数約25万人、noteの優良読者(月500円)約2万人を誇る。

 この3つのSNSを駆使して視聴者・読者に経済をわかりやすく伝え、「良いカメラを買った以外に新たな投資はない」といいつつ、note会員からだけでも月に約1000万円の収入がある。それにYouTubeや講演料なども加えると年間売り上げは2億円近いのではないか。もはや、メディアがひとつ誕生したといっていい。

 日経もテレ東も、デジタルメディアをどう採り入れるか、優良コンテンツといっていい記者をどう活用するか、そして最大のライバルとなるチャットGPTにどう対抗するかを本気で考え、改革すべき時に来ている。なのに、打ち切り理由が「嫉妬」だとすれば嘆息するしかなく、もはやメディアとしての将来性が失われているというしかない。

リポート作製〔案〕

 今年は暖冬であると言われている。身を刺すような寒さに震えたり、大雪に見舞われたりという事も聞かれない。しかしながら、インフルエンザのような冬季感染症は今年も又例年のように流行している。小中学校では学級閉鎖や学年閉鎖が続出(インフルエンザ様疾患発生報告(厚生労働相健康局)第20報)し、その感染拡大の速さは例年とかわらない。

 普通教育期の児童や生徒ともなれば、一定の治癒期間をおけば、多くがすぐに健康を取り戻す例がほとんであるが、乳幼児やお年寄りの場合は、重篤な状態に陥る例が少なからずある。高齢者にとって感染症は命に関わるものになりやすく、特に空気が乾き、気温の下がる冬季は、その危険性が高まる時期である。

 ヒトは高齢期に差しかかってくると、身体も精神も機能的な低下を来たすようになってくる。免疫機能についても同様である。それでも健康な状態での生活を続け、かなりの高齢となっても、体力面や意欲の点で大きな問題も無く暮らしている方は多い。その一方で、病気が原因となって、機能の低下が緩やかにではあるが着実に進み、やがて日常生活に様々な支障をきたすようになる方もいる。その最たる例が認知症の高齢者である。

高齢者であり、さらに認知症であるとなると、感染症に関係する危険因子はさらに増えてくる。ここでは高齢者、さらに認知症である方と冬季感染症のことを考えて見たい。

さらに認知症と呼ばれるものの中でも、特に割合の高いアルツハイマー型の認知症に限定して考えて見たい。認知症の中でもアルツハイマー認知症は全体の半分を占めているからである。(参考:

認知症について知っておきたい基礎知識 | 認知症のいろは | 相談e-65.net

https://sodan.e-65.net/basic/ninchisho/

sodan.e-65.net

 こうした認知症高齢者を受け入れる民間施設としてはグループホームが一般的である。

 今でこそどこでも見られるグループホームであるが、1980年代に福祉の先進国であるスウェーデンストックホルムで、ふつうのアパートを「老人の家」とし、認知症高齢者を24時間体制でケアすることを目指す試みがその始まりとされている。こうした体制の下で、認知症高齢者の残存能力を維持しながら、しかも家庭に近い生活空間(個室によるプライバシーへの配慮と少人数の入居者)でケアをし、認知症の重症化を遅らせるシステムとして期待されるようになった。

(参考=「看護のための最新医学講座(認知症)中山書店:監修=日野原重明 の「っグループホームでのケア」)

 このグループホームのシステムは日本にも導入され、行政が目指した整備計画を上回る設置件数となっている。今後もグループホーム認知症高齢者のケアシステムとしてますます重要視されていくだろう。

 以上のような背景から、ここでは「グループホームにおけるアルツハイマー型の認知症の方」を中心において、冬季の感染症対策を考えたい。

 論を進めるにあたって、ここでは一般的な「感染管理」の視点から始め、次に高齢者の「感染管理」の視点、さらには「認知症を伴う高齢者」の視点と、順を追って見ていく。

 (1)一般的な感染管理

 植木病院看護部の感染管理認定看護師である高濱正和氏によると、「感染管理とは組織の危機管理におけるマネジメントプロセス」であり、「想定されるリスクが起こらないように、そのリスクの原因となる事象の防止策」を講じることである。

 それはおよそ次のようなプロセスとなる。

①当該の環境においてはいかなるリスクが存在するかを検討する。

②想定されるリスクが現実のものとなったら、いかなる被害が想定されるかを目算する。

③その被害の目算に従って、現実にとる対策(リスクを抑制するための準備)に優先順位(プライオリティ)をつける。

④プライオリティに従って対策を実行する。

 以上は「リスク管理」の予防的な側面であるが、「リスク管理」はそうした予防的な視点しか持つものではなく、「リスク管理」していても「いつかは(リスク管理の網を破って)(アウトブレイクが)必ず起きる」という大前提に立って感染対策を実践することが求められる。(前出:高濱氏)

 グループホームは、大規模では無いが、入居者・スタッフを含めて、多数の人間が同じ場所にいる環境であると言える。さらに入居者の家族の出入りもあり、人的な交流はかなりのものとなる。このことはホーム内に向けた感染経路が多数存在していることを意味している。また、入居者自身は一日の大半を施設の中で過ごすのであり、居住者はその限られたスペース内で、他者との接触の高い状態に晒されている。こうした状況を考えるだけでも、一度グループホーム内の誰か一人が発症すると、容易に感染が拡大していくことが予想される。

 「『感染』が起こるには必ず『感染経路』が存在する」(前出:高濱氏)ので、まずは、感染経路を断つことを考えたい。その基本は「手洗い・うがい」と部屋の換気(そして湿度50%程度の維持)の励行であろう。これらは、インフルエンザの流行る時期は、家庭や学校で頻繁に勧められるが、グループホームでも安上りで有効な対策として重視されている。さらには不特定多数の人間が頻繁に触れる場所(ドアノブなど)を一定時間ごとに消毒するということも必要になってくるだろう。グループホームという場所でなくても、一般によく言われている予防行動を実行することに変わりは無い。

(参考=冬の感染症の予防・健康管理法について〜高齢者を注意すべきポイント〜

https://www.sagasix.jp/column/care/post-17/ 

 外部からやって来る人の多くは入居者(高齢者)の家族や同居人だろう。こうした人々が感染経路となることは珍しく無い。入居者が専ら施設の中で生活していて外部との接触はあまり無いのに対して、これら家族・同居人は外部の人の多い環境(職場や工場、学校など)に身を置いていて、感染症に罹患している可能性は十分ある。しかし、こうした人々の出入りを制限することはグループホームの趣旨から見ても適当ではなく、むしろ手洗いやアルコール消毒などに協力してもらい、感染管理に合流してもらうことが適当であろう。

 ところで、不特定多数の人間が触るために汚染されやすい場所として先ほどドアノブをあげたが、植木病院(前出:高濱氏)では感染対策として鍵を大きな感染源とみなしている。この場合は、精神科病棟(鍵による施錠が安全管理の要となっている)ではあるが、なるほど鍵ほど多くの人間が入れ替わり立ち替わり触れるものは無い。しかも、誰も鍵を洗浄したり消毒しようとしたりはしない。スタッフの指先の衛生管理が感染管理の重要項目だとしたら、これは大変注目すべき指摘である。高濱氏は「感染対策の要は手洗いと鍵の清潔保持にある」としているが、「手指衛生は重要な医療行為である」という意識改革は、手洗いや器物の清潔保持など一見地味な行為を行うことの意味を明らかにし、その実行を遵守させる効果を持つだろう。

 

(2)高齢者の「感染管理」で留意すべきこと

 高齢者は加齢とともに退行性の変化も進んでいる。「感染症に罹患しても、失禁や食欲低下などが全面に出て、非典型的な症状に見えるため、初期症状や衰弱が加齢によるものとして見逃されてしまうことが多い(「看護のための最新医学講座」(老人の医療)ー高齢者の感染症 中山出版)。これによって感染症発病の発見が遅れてしまうと、対応に遅れ、気づいた時には感染がかなり広まってしまっているということになりかねない。そこで高齢者に発熱(37.5℃以上)があった時点で、冬季感染症の流行期であれば、まずはそれを疑って経過を観察し、いつでも次の対策が打てるようにしておくのだ。

 一般の成人に比較して高齢者はウィルスや菌への耐性が弱く、容易に感染症発病に至ったり、それが重篤化する場合も多い。インフルエンザはもちろん、レジオネラ、メチシリン耐性黄色ブドウ球菌マイコプラズマなど様々な感染症になる可能性が高い。

 インフルエンザでは、高齢者の場合、肺炎を合併することが多く、死亡の危険性も高い。高齢者の場合、インフルエンザは「死に至る病」になりうるのだ。この場合、インフルエンザの予防接種の有効性が認められており(前出:「看護のための最新医学講座」(老人の医療))、高齢の入居者はもちろん、グループホームのスタッフも併せてインフルエンザワクチンを接種(インフルエンザの予防接種の効果の持続時間は約5ヶ月間なので、接種時期としては11月〜12月中旬までの実施が適当)することが求められる。山川先生はその授業の中で、職員の予防接種の徹底(患者も職員も100%の接種をめざす)とマスクの着用、あるいはアルコールによる手指衛生の保持を挙げている。

 さらには入居者である高齢者と接触の多いスタッフにあっては、「自らが感染源にならない」という意識が肝要であり、植木病院(前出:高濱氏)では職員の勤務前の症状チェックを受けるのみならず、家族など同居者の発症の場合も職場に届け出るよう求められているという。グループホーム内の予防を徹底するには、その中に入る人の外部での人的な交流やその状態にも気を配り、外部から菌やウィルスが持ち込まれることを見越していかなければならないようだ。

 そして、一旦インフルエンザが発症したと判明した時点で、全員に予防投与を施し、感染拡大と重症化の防御につとめるようにする(山川氏:授業)と行った迅速かつ思い切った対策を打つことが求められる。有効な時に有効な手段を打っておかないと、感染は瞬く間に広がってしまう。それによって高齢者が感染症で命を落としてしまうことが防げるのだ。この辺の判断は一般成人の場合よりかなりシビアなものとなるだろう。

 

(3)認知症の方の「感染管理」で留意すべきこと。

 アルツハイマー病は慢性進行病で、症状としては、認知症を中心とする精神症状すなわち記銘・記憶障害、失見当識や思考の障害が見られる。失行(運動機能が失われていないにもかかわらず、動作を遂行できない)や実行機能の障害(計画を立てる、順序立てるなど)がある(参考=前出「看護のための最新医学講座』(認知症))ため、うがいや手洗いを励行すると言っても、そのこと自体を忘れてしまったり、その動作の手順に迷ったり、なかなか実行までに至らない。あるいは感染症を発症しても、自重することが難しい場合が多く、普段と変わらない活動性を発揮して感染を広げてしまうということもある。

 そこでグループホームの中で入居者あるいは特定のグループが皆で一斉に手洗いやうがいを実行する時間を一定時間ごとに設けることが有効であろう。この時にはスタッフも一緒に参加するようにして、皆の手本となって手順を示したり、作業の手助けをしたりするべきだろう。又、感染が明らかになった高齢者については個室や別のゾーンに移動させ、健康な入居者との接触を避けるようにしなければならない。

   さて、認知症の高齢者と言っても、グループホームであるから、認知症以外の大きな(長期の入院を必要とするような)問題を抱えている訳では無いだろう。残されている諸能力を使って身体や精神を活性化させ、その症状の進行を抑えることがグループホームの役割なのである。このことはグループホームにおける感染管理においても思い出されるべきことで、入居者を明るい気持ちにさせ、より積極的に活動に向かわせることが重要である。

 感染管理だからといって、外部から訪問者が来る機会を減らしたり、入居者同士の交流や活動を制限したりということは慎むべきだろう。もちろん、そうした交流が感染症の発症を引き起こす可能性が高いことは常に留意しなければならない。しかし、グループホームは入居者にとって生活の場・安らぎの場そのものであり、学校のように罹患者が増えたから学級閉鎖や学校閉鎖のような活動停止を相手、生活の場からロックアウトするようなことは出来ない。あくまでも「グループホームに入所する高齢者が、感染管理の点から、活動や人的交流の制限など閉塞的な方向に向きやすい冬季の間でも楽しく過ごせる」ことを目指さなければならない。

  アルツハイマー認知症の人は様々な心理状態が出現し、一定の症状に焦点を当てて精神療法を行うことは難しい。むしろ支持的精神療法によって自己効力感や自尊感情を高め、結果として様々なストレスに対する耐性を上げることが望ましい。これは治療やリハビリそのものに希望を持つ事につながる(参照=「アルツハイマー認知症の精神療法」東京慈恵会医科大学 繁田雅弘 )

 こうした自尊感情の高まりを助けるには、ゲームや創作活動などの活動は様々な機会を提供してくれる。高齢者が様々な活動に取り組む中で、皆の注目を浴びたり、賞賛を得たりということが自尊感情を大いに刺激するだろう。又、スタッフからの声かけが新たな自信を呼び覚ますだろう。

 活動内容は、ゲーム性のあるもの(ボール回しやボッチャあるいは輪投げなど)、何かを製作して取り組むもの(季節に応じた飾りの作成=小さな鯉のぼりやクリスマスリースあるいは絵手紙などの製作活動)、あるいは子供がよくやるようなトランプのゲームやパズルなどを行う。

 それらの活動の合間合間にうがいや手洗いしたり、部屋の空気を入れ替えたりといった衛生を高める活動を休憩の中で行なったり、次の活動のつなぎに使い、楽しい活動に取り組む毎日の生活のリズムの中に、意識して清潔を常に保つ工夫が必要だろう。

 こうしたゲーム以外にも、この時期における清潔さの重要性を説いた上で、入居者の家族や福祉に関心を寄せるボランティアを集め、入居者と共に茶話会を開いたり、簡単なゲーム(ビンゴのような活動性の低いもの)やプレゼント交換(クリスマの時期など)を行なってもいいかもしれない。ただし、参加者は手洗いとうがいを事前に徹底し、マスクを着用してもらう。その趣旨の説明と清潔へに関心を高めてもらう話などをこの機会にするのもいいだろう。そうしたグループホームだけでは無く、各家庭でも清潔さを保ち、感染症の予防に関心を持って習慣を変えていくことが、高齢者の健康と活動を保障することに繋がるということを改めて知っていただき、グループホームの清潔の維持に協力してもらうのである。

 

 以上見てきたように、「グループホームに入所するアルツハイマー認知症の人が楽しく過ごしつつ、感染管理をする」には、入居者に冬季以外の季節と同じような活動性や社交性を保った生活を維持しなければならない。しかし、感染症予防との両立を図りながら、それを可能とするためには、徹底して清潔を保つ体制を構築し、それをスタッフが高い意識と発病への危機意識を持って労力を払って維持しなければならない。さらに入居者にも清潔への意識を養って頂き、グループホームの感染管理に協力してもらう必要があるなど、入居者の楽しい活動を保障するためには、その土台を作り上げる水面下の活動が重要だと言えるだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これはSimpleNOTEで書いた。

android端末でも使えるメモアプリ、探している。 それで使ってみようと思ったのが、このsimplenoteだ。 これまで大学のレポートをiPhoneとATOKpad使って書いてたんだけど、実際の仕事するにはGoogleの環境がこの上なく便利なのでNEXUSかこういうandroid端末でやってみようと思った。実際のところ、前みたいにATOK使わなくても端末にデフォルトで備わっているインプットで十分だと分かってきた。 今、六台ものスマホに「シンプルノート」インストールして試している。 この「シンプルノート」はサーバーを備えているので、全くの端末フリーで使える。 上の文章を書いてから久しぶりにiPodで書いている。文章を書くんだったら、やっぱりiPodだな!ホント、iPod触るたんびにそう思う。(ネット見るにはちょっと小さ過ぎる。) で、これから何を使って論文書いていくか、って、ことなんだけど、今まで気に入って使っていたATOKPadから、このsimplenoteに乗り換えても違和感全然無い。

最近は、授業の形式として、いわゆる「アクティブラーニング」が推奨され、既存の「講義」形式の授業は「古きもの」として消えつつある。

ただ、ここで確認しておきたいのは、いわゆる「講義」形式の授業の何が悪いのかということである。人によっては、「知識」を蓄えるということ(多くは「暗記」と呼ばれる)にもはや価値が無いことのように説明しているが、それは違う。それ相応の知識がしかるべき量だけ無ければ、まともな議論など出来ない。ある哲学的な命題を含んだ議論をするのなら、その命題がこれまでどのように議論されてきたかを知らなければお話にならない。あるいはある企業を評価するにしても、財務諸表の見方を知らなければ、議論のスタートに着くことも出来ない。ネットで少し調べて、「ああ、なるほどね」と納得し、議論を続けられるようなものでは無いのだ。当該の知識を時間と労力をかけて「理解」し、さらに自分なりに消化した、その知識を蓄える必要が出て来るのだ。

私が理解しているアクティブラーニングの価値は、およそ次のような文脈においてである。

それはネットの普及にはじまる。ネットが世界中に広まることで、誰もがアクセスできる「知」のデータベース的環境が出来上がる。ここで言うネットの「知」には、ネットによって容易にリアルな本が簡単に手に入ったり、リアルな本が電子書籍化することも含んでおり、ネット上のものだけを指しているのでは無い。

そのネットへのアクセスによって、それなりの知識=教育が手に入るのなら、教育の最上部に位置する大学では、どんな「教育」が手に入るのかということになる。(ここでは学生は「消費者」であり、大学側は「教育」を消費者にサプライする企業ということになる。)

アメリカの私立大学では、学費が数百万円にのぼるところがざらにあるが、それだけのお金を使わせておいて、教えてもらったことが、探せばネットで見つかりますよということになると、どうだろう?当然「金、返せ」という話になるだろう。

インターネットの普及によって、多少の努力と理解力があれば、かなりの程度の知識はフリーかそれに近い出費で獲得できる時代になったのだ。これによって、知識の金銭的な価値にインフレが起こり(知識の有り難みが消え失せ)、これまでのように「教えてあげたんだからお金頂戴」にはならないのだ。

慎重に考察すると、知識や知識の伝達の「経済的な」価値が低下してきた(希少性が薄れてきた)のであって、私たちの知的な活動に、知識や知識の蓄積が不要になったという訳では無い。その辺が、多くの場合勘違いされていて、「もはや私たちには知識を蓄えるプロセスなど不要なのだ。私たちは、その能力を創造性と協働性に特化した活動をしていればいい」という言い方が散見される。

もう一度同じような話をして恐縮だが、「知識の伝達」がこれまでのように商売のタネにならなくなったということであり、「知識の伝達」が人間の知的活動において無意味になったということではない。

そこで大学では、獲得された知識をいかに発展・熟成、あるいは現実に適用していくかという、知識とリアルが結びついたり、相互作用し合うプロセスを学生に体験させることを目指すワークショップのように授業を変えていく必要が出てきた。そうでもしないと、もはや消費者(学生)を満足させて、お金を取ることが難しくなってきたのだ。

もちろん、そのような場が活性化するには、各学生がワークショップ(授業)に臨むまでに膨大な知識を持っている必要がある。丸腰できてもらっても、議論は一向に深まらないし、チューターとして臨む教員の質問の真意も理解できないだろう。

(例えば、「幸せの王子」の中で、象徴されるものは何ですか?と問われて、「自己犠牲の精神」と断じてしまっていいのでしょうか。それは作品を殺すことになりませんか?)

 

 

ダイバーシティの重要性。

ネットの時代は、あらゆる価値観が行き交う「自由交通」の時代である。ソーシャルメディアなどを通して、ありとあらゆる価値観を目にすることになる。当然、自分の価値観との違いを感じることになり、違和感・衝突・脅威の感覚に襲われることもある。その反応の仕方は様々であるが、中には自分の価値観への閉じこもりや相手への一方的な攻撃など極端な反応を示すものも現れる。

そもそもヒトは仕事や住むところ、購入する雑誌や新聞・視聴するテレビやラジオなど一定の価値観を保障する範囲で生活していたが、ネットがその物理的あるいは経済的限界(障壁と言うのか)を取り払ってしまった。言ってしまえば、「出会わなければケンカさることも無かった」異なる階層・異なる価値観の人間が出会うようになるのだ。いわゆる「過剰接続」の時代の到来である。

そんな中でまず出来ることは「多様性」の承認である。考えの違い、価値観の違いを許容するということである。

しかしながら、この価値観の多様性(ダイバーシティ)を認めるというのはなかなか出来ることでは無い。それは常に自分の価値観を揺るがす「ノイズ」を受け入れるということだから。

今までの教育が間違いだったという件。

最近「新しい教育」というものが大受けしてる。それによると、これまでの教育は、「暗記を通した知識習得が優先され、既存の理論や考え方を疑いを抱かずに理解することが求められる」教育だったという。そして、これこらの時代の教育は知識優先のものではなく、ヒトとアイデアを共有して、それを議論を通じて発展できるものに変わらなければならないというのだ。全てが大きく変わろうとしている、歴史的なタイミング、それがまさにそうなのだと。

 

私は「またか」と思う。こんなインチキめいたビジネストークに、なぜ多くの教育者は騙されるのか。本気でその主張に同意してるのか。その根拠は何なのか。何も理解できないから、いかにも「メインストリーム」に見える声高な主張について行ってるだけではないのか。あるいは上司が言ったから羊のように従っているのか。何にせよ、私はこんなクズアイデアに付き合いたくないし、触れたくも無い。強制されるなんてもっての他だ。

 

 今までの教育が、知識優先で、考えることを二の次にしたなどと言うのは根拠の無い言いがかりだ。いかにもそういう気がするだけだ。

例えば日本の若者は以前に比べてダメになっているように言われるがとんでもない。少年の犯罪率はどんどん下がっているし、平均的な学力は上昇している。しかし、誰かが「今までの教育は知識優先で、これからの時代には通用しない」と言い出すと「さもありなん」と思う。なぜそう思うのか。大半の人間が「これまでの教育」システムにおいて、決して成功者では無かったからだ。「あなたが成功しなかったのは、あなたが努力を欠いたからだ」と言われるのと、「あなたが成功しなかったのは、これまでの教育システムに偏りや欠陥あるいは時代に合わない古さがあったからだ」と言われるのとではどちらが「快適」か。

人間は無意識に自己のエゴを守るために、自分のことを擁護してくれる意見を採用する。それが真実だろうが、何だろうが知ったことでは無い。そういうデタラメが無意識のうちに、自己の信念を形成している。

そもそも「教育」に古いも新しいものないのでは無いか。3000年も前に論じられた図形の証明問題(要は初歩論理学)に頭を悩ませ、1500年前に考え出された代数の問題が解けないでいるでは無いか。それなのに「これまでの教育は間違いだった」と言い切れる、その自信は何なのか。

私が理想とするのは、汎用な頭の持ち主(つまり自分である)でも、知的なものを志向し、それに馴染み、それを楽しむことが出来るということだ。私にとって「学習」とは散歩であり、暇つぶしであり、見物である。

それが今流行りの教育に関する教説は、「新しい教育の時流に乗らないと時代に取り残され、生き残れないぞ」と脅してくる。

しかし、違うのだ。そんな脅しを受けて、果たして何かを「学ぶ」ことが出来るのか。そんなサバイバルのための行為が「学び」だと言えるのか。

もっと身近な例をあげてみよう。中学生や高校生の頃、とっても英語が好きで堪能な子(大抵女の子)がいたものだ。始終英語を勉強し、その向上を目指している。しかし、彼女らは英語がこれからのグローバル化の時代に備えて英語を勉強してるのでは無い。彼女らはアメリカやイギリスのバンドが好きだったから、そのライフスタイルに憧れて、その憧れたものに接近するために英語を学んでいるのだ。

私はこういうのが「学び」だと思う。「深い学び」や「グローバル化の時代に生き残るために」などと小賢しいことを言ってるうちは、「学び」など存在しない。そこには経済的な利得行為があるだけで、「学び」や「文化」はその装いに過ぎない。