『ツイッターと催涙ガス: ネット時代の政治運動における強さと脆さ』。
社会運動について論じた本で何が面白かった?という話を知り合いとして楽しかったので、久々にブログ記事にしてみる。
まずは『ツイッターと催涙ガス: ネット時代の政治運動における強さと脆さ』。
インターネット使って社会運動やってる全ての人は必読と思う。ネット時代では社会運動を起こすのは容易になったのに成功させることが難しくなっているのではないか(アラブの春などみても長期的にうまくいっている例が少ない)、という問題意識で書かれた本。わりと分厚いので、忙しい人はTEDトークがあるので、こちらをみてもいいかも。
キング牧師の時代に、スプレッドシートもメールもないのに10万人もデモに動員できた(どの地区から何人来て、帰りのバスはここから出るので間に合うように乗ってほしいとか、小競り合いになるとすぐ逮捕されるので最新型のスピーカーを手配して指示が出しやすいようにしていた)の意味と、今の時代にスマホ1つで1週間で10万人動員することの意味合いは全然違うという話。
アラブの春で起きていたことの検証と、60年代のアメリカの公民権運動の対比が面白い。公民権運動における長期にわたる組織化の苦労、ローザパークスがバスの人種隔離に抗議して逮捕された最初の人だったわけではなく、適切な人物が現れるタイミングまで待つことを運動の方針として決めていたこと、などが語られていく(有名なワシントン大行進のロジを担当したベイヤード・ラスティンの映画が最近ネトフリにあってこちらも面白かった)。
それに対して、ネット時代の運動ではリーダーシップ不在であることこそが力になると誤解されており、そのことによって当初と状況が変わった際に戦術のフリーズに陥ってしまう弱点があると筆者は指摘する。
「どのような運動でも参加者間の意見の相違は避け難いが、それに対処するための意思決定の仕組みが意図的に、選択によって、あるいは運動の進化の結果として、存在しない。加えて、選挙や制度に依存する運動のあり方に対する不信と、文化的な目標としての抗議や占拠の盛り上がり(人生を肯定するスペース)が組み合わさると、人々を惹きつけた最初の戦術が繰り返し使われることになってしまう。同じ人生の肯定を求め、本当の合意の唯一の瞬間に戻る方法だからである。(p.105)」
社会運動では「参加すること」自体が魅力である。運動に加わることで人々は自分の居場所や役割、出番を得て、自分の人生が肯定されるような感覚を覚えることがある。それは強みでもあり、弱みにもなってしまう。
表面上のリーダー不在は、事実上のリーダーシップの登場を止められない。SNSによって、現代の運動では事実上のスポークスマンが生み出される。その人は運動が望むような注目は集めることができても、事実上のスポークスマンとしての運動内部での役割認知がないので、影響力を駆使しようとすると内部からの激しい、大っぴらな攻撃を受ける(過去の議論のリツートやスクショなどを蒸し返されたり、日本でもよくある)。内輪揉めは運動内の緊張、二極化を深める。また最も目立つ人々を外部からの攻撃に晒すことになる。
本書では、運動が持ちうる力として、3つの能力に注目がされる。
1. 物語の能力
いわゆるナラティブの力で、デジタルツールによって大幅に強化されるようになったのはここである。不満の救済を求めて注目を集め、より広い市民に対して自分たちの声を聞いてもらい、正当であると認めてもらい、反応してもらう能力のこと。どこで誰がどんな経験をして、なぜこのことが重要なのかを注目させる。以前はマスメディアしかなく、黙殺されていたようなことでも、今ではスマホがある。ただ検閲されたり、フェイクニュースを撒かれたりすることがあるし、最も派手な人や目立つ人、「売名行為」をメディアがピックアップし、センセーショナルに取り上げるなどの弱点もある。
売名行為が起きることそのものは論点ではなく(おそらくは防ぎようがないから、という意味だろう)そのような行為をどうコントロールし、どの方向に向け、運動の舵取りをしていくのかという戦略か論点であると筆者は述べる。
2. 打破の能力
注目を集め、はっきりした主張をし、相手の業務が通常通り行われるのを阻止したり、事業を崩壊させたり、事業の打破を長期にわたって維持する能力を指す。バス・ボイコットもそうだし、本書ではACT UPについて、大統領候補に血を表す赤いペンキを投げつけるなど”売名”行為をして注目を集めつつ、政治家や役人へのロビーも行っており、物語の能力と打破の能力のハイブリッド型として評価されている。
3. 選挙・制度の能力
選挙結果を示して、政治家や政策立案者に確実に脅威を与える能力のこと。代表性民主主義が失敗するのをみてきた人は、選挙を警戒する。あるいは積極的に選挙政治を回避する運動も出てくる。結果として金と力のある人たちが政治家をコントロールする力を増してしまう。本書ではティー・パーティーが代表者不在の組織ながら選挙に注力して成果を上げた様子について触れらている。
感想
ネットを使った社会運動の可能性と限界について、ここまで言語化してマニアックに書いている本をあまりみないので、このような論評がもっと増えたらいいなと考えている。2000年代にインターネットが好きで、社会問題に関心があった多くの人たちで、今のSNSとアクティズムの関係性を無邪気に肯定できる人はほとんどいないのではないか、と思うが、結局のところBLMの共同代表などもいっているようにリアルの地道な組織化が大事だよ、という話は多くの人たちがしているところだし、自分もやっぱりそう思う。
日本だと政権交代が少ないので「3. 選挙・制度の能力」にフォーカスすると主義主張が保守化し、大胆なことが言えなくなったり、そもそも参画しようというやる気がある人が少なくなる気もしている。1〜3の枠組み以外にも、新しい仕組みを自分たちの力で構築する(お上に頼るのではなく自分たちで共同体を創出するとか)とかは巻き込みの伸び代として大きいようにも思う。
2:打破については、『パイプライン爆破法』などで過去の運動における手荒なボイコットの歴史について触れられているけれど、日本ではドン引きされちゃう可能性が高いので、やり方を選ぶだろうな。
あと、これを書きながら思ったのは、ネット以前のやり方が結局大事(特に政治家はそんなにネット見てない)というのはもちろんそうなんだけど、ネット時代だからこそ運動体におけるリーダーシップのあり方や、センセーショリズムや運動内の極化をどう防ぐかが重要になってくるだろうなということ。一つの処方箋があるわけではないので、やりながら考えていくしかないんだろう。
気が向いたら書評シリーズ続けます。
トランスジェンダーの経験の複雑さを、どう伝えるか
長年、寄稿してきたWebメディアWezzyが閉鎖されることになったので、以前の記事をこちらに再掲します。2021年5月の記事です。
トランスジェンダーの経験の複雑さを、どう伝えるか
2018年にお茶の水女子大学がトランス 女性の受け入れを認めた直後から、SNS上を中心にトランス ジェンダー に対する誹謗中傷が続いている。「性犯罪者と区別がつかないから トランスジェンダー を女性空間から追い出すべきだ」といった主張があちこちに広まり、さらにはトランスジェンダー当事者の外見を嘲笑したり、大量のいやがらせリプライを浴びせたりといった光景がこの何年も続いている。
このような現象は日本 に限ったことではなく、英語圏や韓国 でも同様のことが起きている。2020年の冬、韓国でひとりの若者が淑明女子大学の合格通知を受け取った。彼女の夢は弁護士になり、さまざまな 社会的弱者を救うことだった。しかし大学で学びたいという彼女の願いはかなわなかった。トランスジェンダーである彼女に対して「女性のための空間に入ってくるな」「トランスジェンダー女性が自分のことを女性だと主張する根拠は飛躍」など苛烈なバッシングが行われたことが原因だ。
21もの団体が「女性の権利を脅かす性別変更に反対する」と声明を出し、彼女は入学を断念した。彼女を歓迎する女性たちもインターネットに書き込んだが、圧倒的な悪口を前に、彼女の心はボロボロになっていた。 「大学に行こうとする当たり前の目標、その中の夢さえも誰かに怪しまれる対象となった」彼女は手記にこう綴った。
「すべての人はマイノリティの側面とマジョリティの側面を多層的に積み重ね、自らのアイデンティティを確立していく。自らを常に強者と考える人は、自らが弱者でありうるということを受け入れられない。反対に、自らを常に弱者と考える人は、自らがある面において強者となりうることを忘れ、他の弱者を無視するものだ。このような考えではヘイトが再生産されるばかりだ」
同時期、韓国では性別適合手術を受けた後に除隊処分とされたピョン・ヒス下士が必死に声をあげていた。淑明女子大への入学を諦めた彼女にピョンは手紙を送った。
「 私たち皆、お互い頑張りましょう。死なないようにしましょう。必ず生き残ってこの社会が変わるのを一緒に見たいです 」
しかし、その一年後にピョンは遺体となって発見された。
このような韓国での悲劇は、日本でも起きかねない。(トランスジェンダーと防犯について関心のある方は、 仲岡しゅん弁護士の寄稿を参照ください )。
立法の過程で否定されたトランスフォビア
トランスジェンダーへの誤情報を流して、政争の具にしようと企む人も現れている。
今春には自民党内で開かれた勉強会で、党のLGBT政策のアドバイザーを務めるシスジェンダー男性の繁内幸治氏は「性同一性なのか、性自認なのか、選挙の争点にすべきだ」と語った。繁内氏はジェンダー・アイデンティティの訳語として自民党提出のLGBT理解増進法案では性同一性、野党案では性自認が採用されていることにふれて「性自認とは、今この瞬間に自分が女だと言えば、女ということになってしまうものだ」「私が女だといえば、女湯に入れなくてはいけない、それを拒めないのが野党案だ」と自説を展開した。
性自認も、性同一性も、ともにジェンダー・アイデンティティの訳語であって違いはない。カレーライスとライスカレーが同じなのと一緒である。
この事態に対し、GID〔性同一性障害〕学会理事長の中塚幹也教授は「『性自認』も『その時点での自称』というような軽いものではありません」と明確に否定した。結局、自民党の特命委員会も繁内氏の言動には同調しなかった。
むしろ最終的に与野党で合意した法案では、性同一性と性自認が同じ意味であることが明示され、ジェンダー・アイデンティティの訳語としては、当初自民党が採用していた性同一性ではなく、性自認が採用されることにもなった。性自認のほうが、自治体施策などですでに広範囲に使われていたことなどが背景にある。
法案は努力義務を掲げるのみで、実効性については疑問が残るものの、こうして実態にもとづいた議論で政策の意思決定がなされたことに、ひとたび安堵のため息をついた。しかし、日頃フェミニズム運動を支持しているわけでもなさそうな保守勢力が「女性の権利のために」と唐突に言いはじめる様子には恐怖心も覚えた。このような状況を受け入れることはできない(追記:この記事を用意している最中に、山谷えり子議員がトランスジェンダーのトイレ利用などに触れて「ばかげている」と発言した。性教育に反対し、セックスを推奨するからと中高生への子宮頸がんワクチン接種に反対し、夫婦別姓にも反対している彼女が「女性の安全」を持ち出すことのおかしさに多くの人が気がつくことを願う)。
0.5%の命を守るために
最新の自治体調査によれば、トランスジェンダーの割合は人口の0.5%である。圧倒的多数の非当事者はトランスジェンダーを知らず、一緒に週末を過ごした経験ももたない。トランスジェンダーがなにに困り、どう臨機応変にやりくりしているのかを人々は知らない。用を足すたびに警備員を呼ばれることがないよう工夫していることを知らない。すでにうまくやれている多くの場面があることも知らない。知らないのにトランスジェンダーの尊厳を認めて、互いが共存することは困難であると、99.5%の側にいるシスジェンダーの人間が決めつけ排除しようとしている。
シスジェンダー中心的な社会で、当事者たちは苦労しながらなんとかやっているのに、そこでの経験や知恵は無効化されている。
たとえばトイレ。当事者の実態を知らない人たちは、トランスジェンダーのトイレ利用について「手術していないなら女子トイレを使うべきでない(手術しているならよい)」とか「犯罪者と見分けがつかない」などと述べがちだ。 しかし、性別適合手術そのものは外見に影響しないので、実際には手術を受けて戸籍を女性へと変更したあとにも女子トイレを使えないトランスジェンダーがいる。かと思えば、手術を受けなくても女子トイレを使えるトランス女性もいる。私のように「だれでもトイレ」が落ち着くという当事者もいれば、「だれでもトイレは嫌だ」という当事者もいる。
教室から遠く離れた「だれでもトイレ」を使うよう指定されたトランス女子の生徒を、同級生が「こっち」と手を引き、教室前にある女子トイレに連れていったという事例を耳にすることもある。
人間である以上は、迷うこともある。拒絶されることへの不安もある。友達が背中を押してくれることもある。シスジェンダー中心的に作られた社会においては、このような複雑さこそがトランスジェンダーが社会的存在であることの証でもある。
複雑である経験や、そこにあらわれている知恵を、価値のあるものとして尊重する人が増えたならトランスジェンダー差別は和らいでいくのではないか。
ハッシュタグで「トランス差別に反対します」とつぶやくことは意思表示として重要だけれど、人々が圧倒的にトランスジェンダーの生に無知であることへの薬にはならない。
5月中旬より、私は仲間たちと有志で「トランスジェンダーのリアル」という無料冊子を1万部作成するためのクラウドファンディングを立ち上げている。この冊子は、トランスジェンダーについて知らない人たちへの啓発を目的として作るものだが、私にとっては別の意味もある。差別の惨状に胸をいためているシスジェンダーの人たちに、ハッシュタグでつぶやく以外にできることを具体的に提示したかったのだ。
「トランスジェンダー を排除するのはおかしいのではないか」とか「差別はよくないからなくしたい」と思っている人でも、ネット上の心ない書き込みにどう対抗していいのかわからないとか、そもそもトランスジェンダーについて知らないといったケースは多い。そんなとき自分の学びを深めることができて、友達に手渡しができる冊子があれば、もう少し「複雑なものを複雑なまま」受け止められる人が増えるのではないかと思う。冊子をまわりに広めるというアクションに、ぜひたくさんの人に参加してほしい。
「トランスジェンダーが求めているのは、ペニスのある人が女湯に入れる社会なんでしょう」という曲解や嘲笑はとてもわかりやすい。そうではない運動を、ハッシュタグの外側で作りたい。
デフレ化する「LGBTフレンドリー」~電通過労死事件とエリート・ゲイ写真から考える「働きやすい職場」
長年、寄稿してきたWebメディアWezzyが閉鎖されることになったので、以前の記事をこちらに再掲します。2016年11月の記事です。2010年代のLGBTブームが経済主導かつジェンダーの視点不在で進んだことへの批判の記録のひとつとして。Wezzy編集部の金子あきらさん、ありがとうございました。
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デフレ化する「LGBTフレンドリー」~電通過労死事件とエリート・ゲイ写真から考える「働きやすい職場」
先日、 LGBT と職場環境について考える都内の イベント 「Work With Pride2016」の中で、 電通 が「LGBTの働きやすい職場」としてゴールド賞を表彰されたというニュースをみて、アタマを抱えた。電通といえば、20代の新入社員だった高橋まつりさんが、 長 時間労働 と パワハラ ・ セクハラ の末に過労自殺したことで世間をにぎわせている。
電通は1991年にも入社後1年5カ月の 男性 社員が過労自殺した「電通事件」が起きていて、今回の事件は、過去の教訓を活かしきれなかった結果とも言われる。 高橋まつりさんの事件を知った翌日、私は、とある女子大の労働福祉の授業で、講師を務めることになっていた。テーマは「LGBTと労働福祉」。近年、若者の間ではLGBTに対する興味や関心は非常に高い。一方で、女性 ・男性というオーソドックスな枠組みにおける差別や抑圧についての関心は、LGBT人気に比べるとそこまで白熱していない。
教室を満員にうめつくした女子学生たちを見ながら、 本当は、と私は思った。本当は、LGBTだけではなくて ジェンダー の問題について、若者や女性であることについて、ここにいるみんなと一緒に考えたい。目の前にいる学生たちは、亡くなった高橋さんと同世代で、若者・女性というマイノリティ当事者たちそのものだとしか思えなかったのだ。 LGBTについて学ぶことも大切だけれど、それは、自分たち自身について振り返ることや、女性や男性について改めて考え、問い直すこととセットでなくては意味がない。これまで、LGBTの運動の中では「マイノリティにとって生きやすい 社会 は、みんなが生きやすい社会」という考え方が大切にされてきた。逆に言えば、今だれもが「みんなにとって働きやすい社会」を求めている中で、LGBTについてのみ表面的に扱って終わりにするなら、私が話す意味はないのだとも思った。 そんな中で起きた、電通の「LGBTの働きやすい職場」表彰は、正直いって、かなりうんざりした。
念のため書いておくと、「ゴールド賞」をもらったのは電通だけではなく、全体で53の 企業 ・企業グループ・団体だった。そして、この53という数字も、私のように日本で トランスジェンダー として暮らしている身としては「あまりにも多すぎる」ように思った。後述するように、LGBTの中でもトランスジェンダーの人々は不安定な就労状況に置かれやすい。非正規雇用や無職の割合が高く、正社員の場合にもトイレ利用やカミングアウトの範囲など、どう周囲と折り合いをつけるかが常にテーマとなりがちだ。
「働きやすい職場」として満点をあげられる職場がそんなにたくさんあれば、私たちは、今こうやって生きていない。 ここで起きている現象とは、ようするに 「 LGBT にも働きやすい」「LGBT フレンドリー」という考え方が企業に花を持たせるためのものに値下げされている 、ということなのだろう。トランスジェンダーや、日々長時間労働をしている人たちは、一体どこにいったのだろうか。「働きやすさ」はすべての人のためのものではなかったのか。
職場でのLGBT施策は、たしかに必要
昨今、さまざまな企業で「LGBTの働きやすい職場環境」についての取り組みが始まっている。日本中、どこの職場にもLGBTの社員は存在するだろうし、自分を押し殺して就労することは、その人のメンタルヘルスを悪化させ、就労意欲や業績やらを削ぐ。それなら少しでもマイノリティの人間が働きやすくなるように社内制度を見直し、社内での理解を促進したほうが、企業にとっても労働者にとってもメリットがある。つまり「LGBTが働きやすい職場環境」への取り組みは、誰にとっても重要なテーマであることには間違いない。
これらの変化は、ボトムアップ式――つまり、社員のカミングアウトや突き上げ等による地道な変容としてあらわれることもあれば、組織としてトップダウン的に行われることもある。私の知人は、男性として生きることへの違和感に耐えきれず、ある朝突然女性の格好をして出社した経験を持つ。凍りついた同僚たちが何も言えない中で、沈黙をやぶったのは、上司の「おれもまだ理解はできないが、今日こいつがこうして来るのにどれだけ勇気と覚悟がいったかぐらい分かる。仲間なら、それにこたえるべきじゃないのか」という一言だった。このような突き上げ型にせよ、人事主導のダイバーシティ推進プロジェクトにせよ、正面から多様性の問題をきちんと扱おうとすれば、当事者や周囲の人たちの声がきちんと聞かれる場を作り、地道な取り組みを重ねていくしかない。担当者はどうしたらよいか分からず困惑することも多々あるだろう。
その意味で、冒頭のような「LGBTと職場環境について考えるイベント」が大々的に開かれ、大企業からも多数エントリーがあり、会場を600人以上が埋め尽くしたということは第一義的には、本当に素晴らしいことだと言える。
そんな中で、ゴールド賞の乱発かつ、あきらかなブラック企業までもが「LGBTの働きやすい企業」にランクインという現象が起きてしまったのは、これは「このような報酬でもないと、企業担当者が内部で報われないだろう」「他の企業が追従しないだろう」というイベント主催側の思惑も垣間見える。一定の路線さえクリアできれば、「他のイシュー」には目をつぶって構わないという姿勢や、一種の“正しさ”がそこにはあるのだろう。
つまるところは、ジェンダーの問題
しかし「LGBTフレンドリー」がデフレ化していった末に待っているのは、担当者と末端の当事者たちの疲弊ではないだろうか。学校でも、職場でも、どこのコミュニティでも「多様性の尊重」というのは、常にプロセスであってゴールはない。いつも異なる人々から新たな問題提起がある中で、仲間たちと手探りで模索していくしかないのだ。中途半端に「やったふり」ができ、企業が表彰されるようなシステムであるなら、当事者は声をあげにくくなるし、担当者がラディカルな変革をすることの障害になりうる。
おそらく職場における最もラディカルな変革とは、トランスジェンダーの社員の扱いになるだろう。ゲイやレズビアン、バイセクシュアルといった性的指向のちがいは、基本的には外見からは分からない。異性愛を前提とする会話や、差別的な言動の改善、福利厚生における不公平感などを見直すことで、職場環境はおおむね改善されるだろう。その一方、トランスジェンダーの場合には考えなくてはいけないことは日常的にたくさんあり、対応は個別・手探りにならざるを得ない。外見の性別が男性にも女性にも完全には見えにくかったり、トイレや更衣室の利用にあたってみんなが納得するためには数年以上の経過を必要だったりする場合もある(改修工事だっているかもしれない)。LGBTの中にもこのような差異があることに自覚的でないと、なかなかLGBTをめぐるダイバーシティ施策の話題は難しい。
※主催側の依頼により写真は削除しました。
一方で、こちらは「Work With Pride2016」会場で飾られる予定だった大手一流企業に勤め るゲイのサラリーマンたちの写真だ。予告なしに入れられた「The Gay Elite」や大企業の名 前のロゴ(念のためボカシをいれてみた)が、SNSで反発を巻き起こしたために、当日はロゴ抜 きで展示された。みんなの職場の多様性について考えてもらう趣旨とは裏腹に、スーツ姿の男 たちのみで構成された写真からは「男性のジェンダー規範から外れない限りは、ゲイであった としても問題なく働ける」というメッセージも滲み出ているように著者には思えた。百歩ゆず って「スーツの男だけ」の写真を許容できたとしても「ところで社会規範に合致する/あるい は“使える”ゲイもいるんですよ」というマイノリティ内での階層化がされているのは、なんな のだろう。すべての人が尊厳を持って働ける環境があるかどうかと、だれに市場価値があるのかは、別の話題だろうに。
職場における「性」をめぐるダイバーシティを考えるとき、結局のところ問題になるのはジェンダーなのではないだろうか。女であることや、男の記号になじめないことこそが職場での働きかたを大きく左右している。
1980年代のイギリスにおいて、ストライキを行う炭鉱労働者と同性愛者との連帯を描いた映画『パレードへようこそ』に、こんなシーンがある。炭鉱の町をはじめて訪れたゲイ男性が「政府や警察にいじめられているあなたがた炭鉱労働者は、まさに僕たち性的少数者と同じ状況にいます」とスピーチをして、労働者たちから不評を買うのだ。なぜなら、当時のイギリスにおいて、LGBTであることは「底辺」を意味したからだ。炭鉱労働者にとって、自分たちがLGBTと同列で語られることは少なからずショッキングなことだった。
ひるがえって2016年。いまやLGBTの運動の側が、過労死した電通の新入社員の側に「私たちも同じ人間だ」ということを確認しないといけない段階に来ているのかもしれない。性的指向だけではなく、ジェンダーや学歴、正規雇用なのか非正規雇用なのか、どのような職場で働いているのか――様々なことへの眼差しがないと「LGBTが働きやすい職場は、みんなが働きやすい」と無邪気には言えないだろう。
あらゆる問題についていっぺんに解決することはできないし、ゴールなんてどこにもない。さまざまな違いがある中で、こまやかなことを考え続けていくプロセスのことだけが多様性の尊重なのだろう、同じ人間として。
性の多様性について個別対応ではなくみんなで学んだほうがいい理由
性の多様性について悩んでいる子への個別対応だけでは不十分で、みんなで学んだ方が良いわけは「当事者の子どもがカミングアウトの相手として最も選ぶのは同級生だから」というのが大きい。
これは「いのちリスペクト。ホワイトリボン・キャンペーン」が2013年に実施したLGBT学生生活実態調査からの抜粋だが、高校卒業までにだれかにカミングアウトしたというLGBT当事者が相手に選んであるのは圧倒的に同級生だ。
つまり、カミングアウトは教師の知らないところで、子どもたちの間で生じている。
知識がない場合、カミングアウトされた生徒が周囲に言いふらして広めてしまう(いわゆるアウティング)が起きる可能性は大きい。実際によく起きている。
アウティングは悪意があって起きるわけではなく、多くの場合には「知識がない」から起きるので、子どもが意図せず加害者側になってしまうのでは気の毒だ。これは子どもの責任というより、教えない大人に問題がある。
力になれるのは友人のあなた
ときどき授業に呼ばれて、性の多様性について話すことがある。
メッセージとしては次のことを伝えている。
・悩んでいる人の力になれるのは友達
・あなたがLGBTQを茶化していたら、友達が無理して笑っているかもしれない
・もし打ち明けられたことを一人で抱えるのがつらかったらLINE相談をつかおう。だれでもつかっていい。
子どもに性の多様性について教えるのは早すぎるとか、子どもには理解できないなんて意見をときどき耳にするが、そんなことはない。子どもたちはすでにYouTubeなどでLGBT当事者を知っていたり、教員が知らないところで友達からカミングアウトを受けていたりする。
中学生の反応を一部紹介すると、こんな感じだ。
・自分が面白いと思ってやっていたことが、友達の信頼を失うことだとわかった。失礼な言葉をもう使わない
・私も友人にバイセクシュアルだと言われたことがあります。授業を受けてより理解が深まってよかったです
私の授業は、保護者見学可にしてもらうことが多い。ほとんどの保護者が「今の子は大切なことを学べていい」と語る。
近年、高校では精神疾患について数十年ぶりに教えることになった。小中学校でも近く扱う方向で話が進んでいるらしい。ガンは死ぬ病気ではないと教えるようにもなった。性の多様性についても当たり前になってほしい。
参考までに、以前友人らと作った中学生向けの動画を貼ってみる。ちなみにLGBTの授業じゃなくて性の多様性の授業という言い方をすることが、実践者の間では定着しつつある。
LGBTについて学ぶだと自分と関係ないだれかのこと/当事者探し的な発想になる。
性の多様性について学ぶのは自分や友達みんなについて学ぶことで、このふたつは子どもたちに与えるイメージが全然違う。
家族や学校がLGBTQに受容的であることの大切さ
LGBTユース向けの「いのちの電話」を運営しているトレバープロジェクトが2023年版の全国調査を実施した。
相変わらず若年当事者の希死念慮や自殺を試みる割合は高いが、LGBTQに肯定的な環境があることによってやや改善されることも示されている。特に家族や学校が受容的であることで改善されている。
まずこちらはLGBTQユースのうち過去1年に自殺を試みた割合を示したチャート。
家族や学校がLGBTQについて受容的であるかどうかがユースの命に直結することがよくわかる。それに比べると、オンラインの影響は少なめ。
トランス/ノンバイナリーの若者にフォーカスした比較もあり、やはり学校や家庭での受容により、直近1年で自殺を試みた割合が改善している。こちらはコミュニティイベントやオンラインスペースへのアクセスでの変化は特に見られなかった。
代名詞を尊重してくれる家族かどうかでも影響がある。
家族全員が代名詞を尊重している場合はそうでない場合に比べて、トランスやノンバイナリーの若者が自殺を試みる割合が大幅に改善されている。
どんな家に生まれるか、どんな学校に行くかは子どもたちは自分で選べない。多くのユースが受容的ではない環境で頑張っている。私も子ども時代には、受容的とは言えない環境にいたし、多くの当事者が同じだろう。
ひとりで当事者が頑張るのではなく、少しでも一緒に考えてくれる人が増えてほしい。
やっぱ愛ダホの活動を終えます
毎年5月17日の「多様な性にYESの日(IDAHOT)」にあわせて全国各地でキャンペーンを呼びかけてきた「やっぱ愛ダホ!idaho-net.」が来月で活動を終えることになりました。来週末に「やっぱ愛ダホ!」クロージングイベントを開催します。よかったらきてください。申込者にはアーカイブ配信もあります(期間限定)。
以下、発起人による回想
2007年に「やっぱ愛ダホ!idaho-net」は、mixiで集めた「多様な性にYES」をテーマにしたメッセージをひたすら代わりに街で読み上げるという無謀なスタイルにより始まりました。このスタイルは当時20歳だった私が「駅前でアクションをしてみたいけど自分ではスピーチが考えつかない」から「集めちゃおう」と思って始めたもので、意外とウケてしまい、数年のうちに浜松や福岡、名古屋、神戸、仙台など様々なエリアに広がりました。
また「集めたメッセージの展示」は、顔出しが難しい地方都市のメンバーにもウケてしまい、メッセージ展は青森や山梨などで開催されてきました。
5月17日=LGBT嫌悪に反対する国際デーのアクション自体は2006年に尾辻かな子さんたちが中心で新宿で大々的に行われていたのですが、07年は尾辻さんが参院選に出馬してそれどころではないというので予定が空白になり、その空白のおかげで今日に至るという感じ。
akaboshiさんが私たちのアクションをYouTube配信してくれたのもでかいですね。
「メッセージ読むだけなら、うちでもできるやん」「20歳の子達がやってるなら、自分たちもできるでしょ」と各地の人に思ってもらえたんだと思います。3人いればできると称してたし、実際に3人いればできるアクションだったし。
楽しかったこと
ボランティアでマイクを回していくから「あの人誰だっけ」みたいな人が途中でマイクを握ってたり、知らない言語で何かを話して去っていく方がいたり(多分感動的を言ってくれていたんだと信じている)、距離を保ちながらじっとこちらをみている高校生が最後らへんでぐしゃぐしゃになった紙を渡してきて「いつか私も胸を張っていきたい」ってそこに書いてあったり、それをその子の前でマイクで読んだり、去年じっとみてたなぁって人が今年になってマイクで話す側になったり、感動的なことはたくさんありました。
途中ケンカした人もいたけど、去年仲直りしました。笑
毎年ずっと同じメッセージを寄せてくれている人もいたなぁ。
クローズの理由
「やっぱ愛ダホ」が担ってきた役割=地方でのLGBT運動の活性化が達成されたから、というのが主な理由です。2010年前後では東京や大阪、札幌、名古屋といった大都市では活動があっても地方都市でアクションをすることは今よりずっとハードルが高いと思われてました。「やっぱ愛ダホ」は「できるんじゃね」と思わせる役割を果たしてきたのですが、2023年現在では地方でのパレードやプライドイベントも珍しいものではなくなってきたので、「やっぱ愛ダホ」は組織としてのミッションを達成したのではと考えました。昨年ぐらいからクローズについて考えはじめ、これまで関わってきた方たちとも意見を交換し、解散の合意になりました(今後も5月17日にそれぞれの地域でIDAHOに合わせたアクションは続いていきます)。
これまでいろんな運動団体に関わってきたけれど「団体の役割を果たせたので解散する」という平和的なクローズをしたことがないので、ちょっと震えました。
ネット環境の変遷
クローズの背景には、2007年から比較してネットの状況が変わったこともあります。活動を始めたときにはLGBTQコミュニティへの注目度は低く、ある意味「荒らされにくい」状況だったからこそ知らない人にマイクを渡し、自分が共感しないメッセージであったとしても代わりに読んでいく関係が成立したのですが、20年代に同じことをしてくことが難しいだろうと判断しました。トランスヘイトの盛り上がりもそうですが、誰かが「宇多田ヒカルです」と言ったとしても正誤の判断のしようがないし、そもそも性善説で作られたアクションの設計自体が、今のインターネットには合わないと考えるようになってきました。表現の自由を保証するためにはSMSで二段階認証しないといけないのでは。でも、そこまでしたくないよね、などなど。表現の自由をベースにしたプラットフォーム型の運動は、注目されすぎない方がうまくいくのかもしんないですね。
最後に
私は20歳に新宿駅の街頭に立ったときからアクティビストになったと思っているし、「やっぱ愛ダホ」は自分の青春そのものなので、めちゃくちゃこのアクションには思い入れを持ってきました。今回、役割を終えてクローズするのは感慨深いし、関わってくれた人たちには本当に感謝しかないです。
36歳の自分が今後「集めたメッセージを全部読む」「知らない人にマイクを渡す」みたいな、いかにも若者が考えるような活動を再びやる日が来るかどうかはわかりませんが、運動ってああやってやるんだなって「やっぱ愛ダホ」を通じて学んだ気がします。
知らない人を信じて巻き込んでいって、リスクをとって自分の手でマイクを握り、ここにはいない誰かのことを思うこと。アクティビズムの中での最も美しい、たくさんの感動的な場面を一緒に作ってくれた仲間たち、本当にありがとうございました。
橋本愛さんのコラム/対立ではなく共闘を
文春に掲載された橋本愛さんのコラムが話題になっている。
橋本さんは先日、トランスジェンダーに関連するSNSの投稿を撤回・謝罪して話題になった。「学びの機会をくださり、本当にありがとうございます」と投稿したのが3月15日で、この半月の間にかなり勉強されたのだろう。
文春のコラムでは、LGBT理解増進法ができたら女湯が危険に〜という言説が事実に基づいていないこと、そもそもトランスの人たちがどのような日常生活を送っているのか、といったことに言及されている。
トランスの約半数が性被害経験があることにも触れられていた。よく短時間でこんなに学ばれたものだと驚いた。そう、トランスの権利擁護を行う人が性犯罪に無関心だというのはよくある誤解である(トランスは性犯罪にあっても相談窓口でも無理解にさらされる脆弱な集団であり、そこにつけ込む加害者もいる・・)。
対立ではなく共闘を
コラムの中で、橋本さんは次のように書いている。
「不平等な社会構造を変えるために、互いの権利を保障するために、私たちは対立するのではなく、共闘すべきではないだろうか」
これは本当にその通りだなと思って、女優を生業にしている方から「共闘」という言葉が飛び出してきた意外性もあって、とても嬉しかった。
結論から言えば、「女性の権利とトランスの権利、どちらを犠牲にすべきか」などという問いを立てて、お互いの対立を煽っている人たちは、最初から女性の権利にもトランスの権利にも関心のない人間だ。数年前から言っているが、百田尚樹や山口敬之が「トランスを認めると女性の〜」と口にしている時点でおかしいのだ。トランスの話をするより前に、あなたがた、先にすることあるでしょう。
オールジェンダートイレと授乳室
先月、台湾に行く機会があった。台湾には、性別友善厠所(いわゆるオールジェンダートイレ)が広まってきている。性別友善厠所は見た目が典型男女じゃない人、子育て中の家族、障害者と異性介助者の組み合わせ、外見じゃわからない障害の人、コスプレイヤー、プライバシーのない男子トイレが嫌な人にやさしくて、女子トイレの長蛇の列問題も緩和するトイレだと説明がされている。
いろんなタイプがあるが、例えば下記はその一例。
入り口が扉でなくカーテンで、中に人がいるかわかりやすい。
こちらは座る個室
バリアフリーおよび子どもづれ個室
立つ用の個室もある。最初に見たときは衝撃だった。
私はトランスジェンダーの当事者で(当事者の中にもいろいろな人がいるが)男女でわかれたトイレが使いにくく感じるので、台湾での滞在中には不安が多少解消して助かった。
性別友善厠所をどう設置するかの研究も行われているようだ。各個室に緊急時の通報ボタンがあるとか、性別友善厠所の意義について説明をすることとか、いろんな議論があるっぽい。
ちなみに上記の建物では、異性と用を出したくない人は別の場所に男女別トイレがあった。普段トイレを探して歩いている私のようなタイプにとっては、これまでのトイレが良いという人も「あなたも歩いて探しましょう」という感じでよい。マイノリティばっか歩かされないのがいい。
気がついたのは授乳室もその辺にたくさんあること!駅やら観光名所やら、いろんなところに授乳室がたくさんある!ということは、日本ではこれまで授乳室が必要なのに困っていた人がたくさんいた、ということだ。
松山空港に着くと、オールジェンダートイレが早速出迎えてくれたが、この空港にはベビーやキッズ向けの設備も充実していることでも知られている。
授乳室も性別友善厠所も全然ない日本で、(トランスじゃない)女性とトランスの権利があたかも対立するものかのように極右に煽られていることの惨めさが身に染みた。
権利獲得はパイの奪い合いではないのに、なぜそのように信じてしまう人が多いのか。やっぱり権利についてきちんと学ぶ機会もないからかもしれない。
(*なお、トランスが全員性別友善厠所をつかうべしみたいな議論をしたい人はこれを読んでください。ここではそういう議論はしません)