自由の敵に自由を与えるな

たまにメモを書くかも

多元的無知とゲーム理論とトイレットペーパー

非モテ非コミュの半引きこもりなのでコロナが流行しようがしまいが週末の過ごし方は普段と大差ないのですが、いつものごとくだらっとネットを眺めていると以下のような趣旨のつぶやきが目に入ってきました。

トイレットペーパーをあわてて買っている人の大半は「デマであることは理性的に十分に理解しつつも、他の人に買い占められて品切れになると困るから買う」であり、こうした「自分は社会の過ちに気づきつつも、損失や孤立を恐れて結果的に他の人々と同様に過ちに加担する」現象を、心理学の用語で多元的無知と呼ぶ。

(その後に、そのような状況を産むナッシュ均衡等のゲーム理論的な背景についての説明が続くが省略)

多元的無知については単純に"裸の王様"的な状態のことかなと浅く理解していましたが、確かに社会の他のプレーヤー達がどう動くか、それによる損得はどうなるか、などを織り込んだ上で(あえて誤った)選択をするという動的な意志決定の流れなので、ゲーム理論的なジレンマとして扱うべき範疇の問題でもありますね。

そう考えると、トイレットペーパー不足のデマに乗らないことが本当に正解なのか、ということもいささか議論の余地はありそうです。欠乏しそうな製品の性質や生産量消費量はどんなものか、他のプレーヤーはどう動くか。仮に自分も他のプレーヤー達も十分に賢いとしても、あえて目先の損失を避けるために愚かな選択肢を選ばざるを得ない状況に陥っていないか(いわゆる囚人のジレンマ的状況)、とか。

意地悪く自己利益を優先して考えれば、「表向きは"こんなデマに騙されるな!"と上からの説教をして他者の購買行動を牽制しつつ、裏ではこっそりかつ速やかに購入して自前の備蓄を増やしておく」あたりが戦略的にはベターなのかもな、と。ESSとまではいわないが、何が安定的な戦略なんでしょうね。

もちろん中期〜長期的にはデマに乗らないことが正解だとしても、われわれは長期的にはみな死んでいるし、便意を長期的に我慢するなど不可能事ですし。今を生きる定命の者としては、短期の目先の損得も同様に重く考えなければならないのですから。

まぁ本来なら、そういうありがちなジレンマ状況に陥る可能性をトップが事前に予測して、前もって回避のための手当てをしておくのが"先手先手の対応"というものなのでしょうけれど。

はてダ終了につき移行

はてなダイアリー(以下はてダ)の終了に伴って全記事がブログへ自動移行されるのはちょっと面白くないので、一部記事だけ移行してはてダは消そうかなということで開設したブログです。

まぁ移行するほどの記事は元々ないのですが、わずかながらぶくまやトラバのついた記事もあったため、一応。移行に際して気になる文言等を調整したりしましたが、大意に変更はないはずです。

あと、私は主にはてブのユーザーなのですが、はてブの100文字で書き足りない事項やメモがあれば、気が向けばこちらに書くかもしれません。といっても、はてダも元々10年近く放置した状態だったため、更新される可能性は低いです。

アリーテ三原則

  1. 女性キャラは社会構造および規範に批判的でなければならない。
  2. 女性キャラは賢くなければならない。ただし、第一条に反する場合は、この限りではない。
  3. 前掲第一条および第二条に反しない限りにおいて、女性キャラは常に主体的かつ行動的でなければならない。

今後、漫画・アニメ・ラノベ・ゲーム等の女性キャラはこの三原則を順守すべきものとする。

モデルと粒度と陰謀論

人間の脳みそなんてたかが知れたものなので、世界や他者を総体のまま理解するなんてことはできるわけもなく、普通は適度な抽象化(単純化)によりそれらをモデル化し、そのモデル越しに対象を眺めていくわけです。意識するしないにかかわらず。

なので、いわゆる"わら人形論法"*1をあんまり批判しすぎるのも天に唾するようでどうかと思いますが、それでもモデルを作ったりモデルを批判するのにもそれなりの作法というものはあるでしょう。その一つに粒度*2の扱いがあります。

粒度に注意する

オッカムの剃刀と呼ばれる有名な箴言があります。「必要以上に多くの実体を仮定するべきでない」というやつ。あくまで「必要以上に」であって、必要なものまで切り落としたらダメなわけですが、対象が同じでもモデルの粒度によって、モデルにどの要素が必要でどれが不要かはおのずと異なってきます*3

モデルの粒度や精度、あるいは抽象度、言い換えればモデルのよって立つ枠組みに関する合意を欠いた議論はかみ合わない不毛なものになってしまいがちです。が、この"合意を得る"という営為は非常に人間的・政治的なものであったりもするわけで、論争がヒートアップするともっとも駆け引きの材料にされがちな部分だったりします。

ある粒度では十分適合するモデルも別の粒度で見ると全然ダメなんてのはままあることなので、粒度に関する合意を少しまぜっ返して優位な土俵を設定しようとしたり、あるいはそのモデルの粒度上切り捨てても問題ないはずの要素を「それを捨てるなんてとんでもない!」とぜんぜん粒度の異なる話を持ち出して叩いたり。まぁこういう具体例を出さないたとえ話もわら人形な感じではあるんですがw

陰謀論とモデルの粒度

陰謀論はよく批判されるようにモデルの単純化ですが、オッカムの剃刀的視点で見るとむしろ要素は増えています。通常の要素に加えて"闇の勢力""政府の走狗"などの新たな要素が追加されるわけですから。

なのになぜモデル総体としては単純化するのかというと、新しく追加される要素(闇の勢力とか)が既存の要素に比べて巨大・強力すぎて、既存の要素の存在がかすんでしまうからです。

これは言い換えれば粒度の問題でもあります。粒度の異なる巨大な要素を新たに追加したためにモデル総体の粒度が変わってしまい、これまで重要だった要素が無視してもよいささいな要素となってしまうわけです。そしてモデル全体としては新たに追加した要素ばかりが存在感を持つ単純な構造へと変わってしまう。

*1:

ja.wikipedia.org

*2:あるいは抽象度と呼ぶべき?

*3:日常生活の範囲では無視しても何の問題もない要素が、ごくミクロな範囲では無視できなかったりとか

狼少年の寓意

イソップ寓話集の有名な話に狼少年の寓話がありまして、その内容および寓意はみなさんご存じのとおりですが。

この話、じつはもう一つの寓意があるのでは、と思うようになりました。すなわち、「根拠のないでたらめでも、ずっと言いつづけていればそのうちたまたま現実となることもある」、と。

たとえば地震予知地震の多い地域で「数ヶ月以内に震度3程度の地震が起こる」なんて予測を根拠なくでたらめに唱えたとしても、かなりの確率で的中しそうですね。さらに期間や規模をあいまいにして「数年以内に中規模以上の~」などとすれば、もう十中八九は当たる素晴らしい予測となりそうです。たとえ大した根拠もなく唱えたとしても。

つまり、その予測が本当に正しいものだったか判断するためには、単に現実と符合したというだけでなく、予測の精度*1、その事象の確率的起きやすさ、予測にいたる推論の合理性、これまで出した予測の的中率、などが本来なら検証されなければならないはずです。

そういう検証なしに結果だけを見て「予測が現実となった、彼/彼女の理論は正しかった」なんて早合点してしまうと、あっさりとトンデモや陰謀論に取り込まれてしまいます。

最近気になるのは「私はこうなることを○年も前から予測し警告していた」系の社会批評です*2。政治評論家やエコノミストに多い気がします。これも、中には本当に合理的な推論により何年も先の未来を的中させた例もあるかと思いますが、実際は「あいまいな予言を飽きずに何年間もずっと言いつづけていたら、最近になってたまたま現状にあてはまった」という例が相当数ある気がします。そして、たまたま当たったという結果によって、彼/彼女の他の持論まで検証もなく正当化されてしまったり。

*1:5W1Hがあいまいではないか、具体性に乏しくないか、など

*2:「私は人一倍敏感なので早くから異変に気づいたが、一般大衆はまるで鈍感で、ゆっくりと煮られるゆで蛙のように未だに気づいていない」なんて衆愚論とセットになりがち

平賀源内と金玉均の墓碑文

私の知るかぎりではまったく縁もゆかりも無い二人ですが、墓碑文が

平賀源内 - Wikipedia

杉田玄白の手になる墓碑には、

 「嗟非常人、好非常事、行是非常、何死非常」(ああ非常の人、非常のことを好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)

とあり、当時最先端を走っていた玄白をしてこの墓碑を書かしめる才能が伺われる。

金玉均 - Wikipedia

墓碑には朴泳孝の撰文、大院君の孫 李 呵O(イ・ジュンヨン)書で以下が刻まれている。  

 「嗚呼、抱非常之才、遇非常之時、無非常之功、有非常之死..(以下略)」( ああ 大変な時期に たぐいまれなる才を抱き 大きな功績を残せず 無情の死..)

と、不思議にスタイルが似ています。

  1. まったくの偶然
  2. 共通の元ネタがある
  3. 後者は前者のパクリ(時代的に逆はありえないので)

本命2番で対抗1番かな、と思いますが、ちょっと共通の元ネタが思いつきません。あるとしたら中国古典でしょうけれど。

保守主義・伝統主義

保守主義というか伝統主義についてきちんと学びたいな、と思いつつ、魂が怠惰wなのでほったらかしになっています。たぶん先人が同じようなことを(より詳細により賢く)考えているだろうけど、とりあえず日ごろ考えていたことをメモ。

ある共同体がいくつかの伝統を継承しており、これらの伝統は、以下の4つに分類できるものとする。

  • 有益
  • やや有益(他にもっと有益なやり方がある)
  • やや有害(共同体にとって致命的なほどではない)
  • 有害(共同体にとって致命的なほどに)

また、共同体の性質として以下を仮定する。

  • 共同体は基本的に伝統を継承する
  • 共同体は、ある伝統が有害である/もっと有益な方法があると見直したときは、その伝統を廃止/変更する
  • この見直しは毎年ある確率pで行われる(共同体の革新性向)
  • この見直しが正しい確率はqである(共同体の知性)
  • 致命的に有害な伝統が一定期間続くと、共同体は崩壊する
  • 伝統の改廃は記録される(歴史の記録)

ま、そうとう大ざっぱですが。とくに「個々の伝統の益害は時代によって変わるんじゃねーの」というあたりが面倒なので抜けてます。

で、この共同体がある程度の長期にわたって持続しているとすると、

  • どんな共同体でも致命的に有害な伝統は廃止されているはず(さもなくば共同体が崩壊していたはず)
  • ただし、比較的新しくできた伝統は致命的に有害である可能性はありうる(まだ共同体を崩壊させるほどに長く続いていないため)
  • 保守的な共同体(pが低い)の場合、やや有害な伝統でも維持され続ける可能性がある(qの高さにもよるが)
  • 革新的な共同体(pが高い)の場合、やや有益~有益な伝統まで廃止/変更されている、あるいはこの先廃止/変更される可能性が高い(これもqの高さによるが)
  • 歴史の長い共同体ほど、有害な伝統について過去にダメ出しされている可能性が高い

初期または現状の条件とp・qの組み合わせで色々バリエーションはありそうですが。q(知性)が低くかつ現状が十分良いのならp(革新性向)は低い方が無難…とか。

まぁ、長々書いて何が言いたかったかというと、

  • 長い期間継承されてきた伝統には致命的な害が無いことは確実だが、かならずしも有益とは限らない(やや有害かも、あるいはより有益なやり方があるかも)
  • 比較的新しい伝統は、致命的に有害であっても歴史の審判を受けるには期間が短すぎて残ってしまっている可能性もある
  • "伝統が有益である"というのは先祖が伝統をブラッシュアップし続けてきたことが前提なのだから、伝統の変更を許容しない保守主義は自己矛盾ではないか
  • 人間の知性をどの程度信頼するかが保革の対立点の一つ(衆愚論と啓蒙思想とか)

という、当たり前のことなんですが。