教育と、教育のための教育

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

 

という山本五十六の言葉を、最近よく反芻している。最初の一文しか知らなかったけど。

 

3年勤めたアルバイトで新しい人に仕事を教えていたときも、いま自分が新入社員として受けている研修でも、同じようなことを思う。

 

教育って、一番大切なことのはずなのに、その教える人によって「質」に偏りがありすぎるんじゃないかと。

 

たとえば、私はまずお手本を見せて、次は助言しながらやってみてもらって、なにか分からないことはないか聞く。そしたら最後は自分だけでやってみてもらう。で、ちゃんと出来たら褒めるし、その上で任せる。そういう風にしていた。中でも大事にしていたのは、動作の一つ一つについてなるべく「なぜその動作をするのか」という理由を説明すること。目的の為の手段なんだと、ちゃんと教えてあげること。そうすれば定着しやすくなるし、ケアレスミスも予防できる。

 

「スイッチ押して」じゃなくて、「このスイッチを押すと、電気が消えます。なので、暗くしたいときはスイッチを押してください。」みたいな。

こういう風に教えてくれる人はいるし、そういう人に教わったことは比較的早く上達していく気がする。だから、私もそのように教える。

 

なんで業務マニュアルはあるのに、教える為のマニュアルはないんだろうか。誰が教育したとしても一定の効果が見込めるような、教育のための教育があればいいのになと思う。あるところにはあるんだろうし、教えるにもコストがかかるとはいえ、それが末端まで普及してくれたら一番いいのになあ。

 

人は変えられないので、自分はよりよい教育をできるようにしよう。教育のための、自分なりの哲学を持とう。そんなことを思った研修期間中のある日。

ぼくもういかなきゃなんない

ぼくもういかなきゃなんない

すぐいかなきゃなんない

どこへいくのかわからないけど

さくらなみきのしたをとおって

おおどおりをしんごうでわたって

いつもながめてるやまをめじるしに

ひとりでいかなきゃなんない

すぐいかなきゃなんない

どうしてなのかしらないけど

おかあさんごめんなさい

おとうさんにやさしくしてあげて

ぼくすききらいいわずになんでもたべる

ほんもいまよりたくさんよむとおもう

よるになればほしをみる

ひるはいろんなひととはなしをする

そしてきっといちばんすきなものをみつける

みつけたらたいせつにしてしぬまでいきる

だからとおくにいてもさびしくないよ

ぼくもういかなきゃなんない

 

(出典:谷川俊太郎「さようなら」)

 

 

最近、ずっとこんな気持ちでいる。

全国どこに行くのかわからない配属先、いつか出ていかなきゃならないこの家、いつかするかもしれない結婚、いつか顔を見るかもしれない子供、そういうことをずっと考えている。

 

不思議と、こういう時にこそ自分が見えてくる。自分が何を好きなのか、自分がどういう人間なのか、理解できる。そんな気がする。