スーツのオーダーに行って来た

先日、スーツのオーダーに行ってきた。グローバルスタイルという名の店だ。普段スーツ着用の義務はない職種なので、必要ないという考えもよぎったが、これまで何度かトライしていたオーダーシャツで、オーダーメイドに対して好印象を抱き、いつかスーツも作ってみたいとおもっていた。

予約していけばいいとは思ったのだが、時間に縛られる感じが嫌で飛び込みでお店へ。思った通りだったが、お客様がいっぱいで待ってもらうことになるとのこと。その時間、1時間半から2時間。一緒にきた連れの希望もあり本屋で時間を潰す。

伝えておいた電話に連絡があり、お店へ。



接客については、あまり良い印象ではなかった。店内がセールで賑わっていたのが理由なのかもしれないし、スーツに対してほとんど知識がない状態でオーダーしに行っているということも関係してるのか、ほとんど問題がなく、「ふつう」に流れ作業のように終わってしまった。流れに乗ってしまい、可能なオプションについての説明を受けていなかったということが後でわかったのだ。ここが唯一、不満に思ったところ。
Webサイトにオプションの説明はある。しかし、店頭での説明は行われなかった。裏地、ボタンなどはどれにするかを選ばなくてはいけないので選んだが、それ以外のオプションは説明と言えるものではなかった。

ベストが存在する意味は、正直知りませんでした。
ベストの衿が有るもの無いものがあるが、衿が有るもののその衿の存在理由なんて知らなかった。
本切羽の袖口の役割も知りませんでした。

初めてオーダーしにきた客に少しばかりのウンチクぐらい語って欲しかったというのが正直なところ。

ミケランジェロ」というハンドメイド縫製という 最高峰グレードのものでお願いしたのだが、いわゆるパターンオーダーにすぎないので、どこまで着心地、動きやすさにつながってくるのかわからない。だが、こういったものを 追加料金で行うということは、それ以外のものは明らかに仕立てレベルが落ちるということになるだろうから、その店でできる最高のものをお願いしたいと言う思いがあった。

生地については、ピンからキリまであり、セールで安い表示になっているものは、選択幅が狭く、ウール100ではなかったりするらしい。(もちろん別にそれが悪いということではない)
私の今回の目的は、 なるべく体に合ったスーツを良い仕立てで作る。オーソドックスで地味だが普通すぎるのは嫌なので、少しだけ上品にしたい、というものだった。
また、頻繁に着用するものでもないので、まずは年間通じて着られるもの、
多くのシーンに対応できるものとして、ネイビー色を選んだ。
無地だとあまりにもふつうなので細めのストライプの織り柄が入った生地を選んだ。
ベストも一緒に頼んで10万でお釣りがくるぐらいでした。
もうちょっとオプション追加しても良かったかなと思った。

納期は随分先になるらしいが、楽しみである。


スーツは、これまで間に合わせで購入した礼服を除けばたった1着しか持っていなかった。
25年以上も前に購入したものだ。サイズもぶかぶかでしかもダブルのスーツだ。
サイズ表記を見てみたら48とある。袖丈や肩幅は許容範囲だが、お腹も出ていないウエスト76センチの私が着るようなサイズではない。
このスーツは、某百貨店で購入したのだが、売上のために、サイズが合ってなのに、無知な私に、
袖丈、肩幅が許容範囲なので売りつけたのだろう。私もスーツが必要になったから買いに行っているので「そんなものなのか」という認識だったのだが、よくよく考えたら、バカだなと思う。

Francesco smalto
スーツはとても上品なものです。しかし、上述のようにサイズが合ってないのでダメです。問題外。



芭蕉の宇宙観

私が芭蕉の俳句に興味を抱くのは、彼の俳句に親近感を感じるからである。どういった部分でそのように感じるのか。
それは、自然をあるがままに体験し素直に描写するという凡庸な作業にも似た俳句詠みから、次第にその綴られた記録としてのコトバの役割から、より大きな内観的なイマジネーション空間が静かにそして滔滔と溢れ出すような宇宙的なまなざしを感じるからである。
私は、俳句には興味が薄いが、芭蕉の俳句には強い関心を抱く。この宇宙的なまなざしがなければ、彼らしさを感じないと言い切っても良いぐらいなのである。

宇宙的な、と言ってしまえばなんだか大げさなようでもあり、同時に陳腐なように受け取ってしまう人もいるかもしれないが、私が言いたいのは、様々な出来事を全て自分のイマジネーション空間の中で動的に展開できるような、瞑想的とでも言ったら良いのだろうか、ダイナミックな時間的、空間的な蠢きの中に、自分の存在とそれをまなざす俯瞰的視点を持ち合わせた複眼的な時空間設定ができる意識を持ち合わせた存在、それが芭蕉だと言いたいのだ。

具体的で説明的。的確でわかりやすいこと。そんなことを俳句には求めはしない。少なくとも芭蕉の俳句には!

出来事に対応したことばーーーそんな単純な表現なら、芭蕉でなくとも良いのだ。
蝉の声をきいて、「やかましい」と表意、表現するだけなら、子供にだってできる。事実、そんな程度の俳句が多いし、言いまわしの妙や時代のセンスとやらで俳句を詠み、俳句を語る者の何と多いことか。

学者にしたって、せいぜい「歴史」的な解釈どまりだ。

せめて芭蕉の句を語るのなら、「哲学」を持ち合わせていなければ、その醍醐味は味わえないと心せよ。

不易流行

この哲学的概念の創出された意義が理解されているのだろうか。

ああ、流行ばかりに関心が行く現代社会のあさはかさよ。

芭蕉の句 (日付不明)

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

今日テレビを見ていて、この句に再び出会った。
いや、新たに出会ったと言ったほうが良いだろうか。
動物を使った慣用句を紹介していた一連の流れの中で、
この句が、映像とともに私の眼前に現れた。
日が沈む様を背景に「ひぐらし」がさみしそうにないていた。

閑かさや岩にしみ入る蝉の声

蝉の声とは言うけれど、蝉にも種類がある。

以前、この句についての解釈を書いてみたことがあるが、
その際に調べて知ったことは、ニイニイゼミだったという説。
だから、今日のこのTVでの映像がとても面白いと思ったのだ。
実際、詠み手は、蜩のことを念に置いていたのかもしれない
などと観じた。
それほどまでに、「閑かさ」が、しっくりと感じられた映像と音だったのである。

蝉の中には、激しく鳴くものもある。
また、不思議なリズム・節まわしとでも言ったらよいのか、
そういった鳴き声を発するものもある。
鳴き声にもさまざまな違いがある蝉の種のなかにあって、
蜩は、暮れかけた時刻に、しずかに、やさしく、昼間の熱気を下降させる。
そんなイメージを感じさせるように鳴く。
蜩の鳴き声には、下降するイメージと静かさ、ある種の冷たさというものが感じられるのだ。

ただ一点、私には、「岩に染み入る」という表現にだけは、蜩は合っていないのではないかと感じる。
「岩」とすることで、冷たさの感が一層増しているようにも思うのだが、
それゆえに「染み入る」という表現が持つ「じわっ」としたニュアンスが損なわれているという感は否めない。
もしも岩が冷たいのならば、それはおそらくはじめからつめたいのではないか。
蜩の鳴く声が岩に染み入るのではなくなってしまうのではないか―そんな気がするのだ。
たしかに岩の冷たさがそこにあって蜩の声がその冷たさへ導き引き立てるというのなら的を射ていると思う。

冷たさ=閑かさ とするなら蜩も面白い。
だがその場合は、岩に染み入るというよりは、「地に降りる」というイメージになるだろう。
詠み手はその場に身を置いて、まさにその場でこの句を詠んだのだろうか。
はたまた時を置いて詠んだのか。
この時間差をもって「体験」を推敲することも、句を詠む醍醐味なのだとも思う。

私は、「後者」を選ぶだろう。
なぜならたとえ蝉が蜩であったとて、この句においては、単に「蝉」としたところに
句を詠みつづる楽しさを見出そうとするものだから。

念願だった小林正観さんの顔を拝む

今の時代はとても便利ですね。
ビデオ映像で時間をずらして過去の記録を観ることができるから。

私は思想・哲学に興味があり、そういった類の本をたくさん読んできました。
聖書や仏教関連の本、哲学書、その研究書など、学者しか読まないものもお金を貯めては大きな書店に買いに行き、目を通しました。理解度という意味ではなんとも言えませんが、 とてつもなく興味があり、知りたいという思いがとても強かったのです。知りたいことを先生や先輩、師匠などに、「教えてもらえば」簡単なことです。しかし、若かった私は「自分で考える」ということをしたかったのです。わからないことを教えてもらうだけでは満足ができなかった。だから自分でわからないことをなんとかしてわかるという感覚にまでもっていくことをめざしました。
今、どうでしょうか? はっきりいってどちらでもよくなっています。何となくはじめからわかっていたのです。実は直観的にわかっていたのです。 私の中では、このブログの名前になっている「equal」ということが、まずわたしの頭にポンと出てきました。
そのアイデアが出てから20年ほどたっていますが、 私が興味を持った本は、そのアイデアの再発見の道程でした。
このブログで書いていることは、その道程で無理して?書いたこと、何事かをなそうとして書いたのですが、自分の中では完成度が低いと感じてましたので、いつかは本でも書いてみたいと思いつつも、そういった状態でとどまってしまいました。 やがて結婚し、3人の子が生まれ、日々を生きていますが、後悔はありません。いつ死んでもいいという心理状態にまできました。(無駄死にはしたくはないですが・・・笑)

いつのころからか、小林正観さんの本に出会いました。3年ほど前でしょうか。結構たくさん本をそろえています。正観さんのお話は、とても分かりやすく、「ああ、これが私の求めている境地だ」と感じたものです。

その当時は、まだ正観さんは生きておられたのですが、いつかはお顔を拝見したいなという思いがありました。でも引っ込み思案な私は、行動することができませんでした。

しばらくして、購入した書籍の文面で、目が見えなくなっていること、入院している事などを知りました。そして、また次の書籍では、お亡くなりになったことを知りました。

最後の本を読んでから、しばらくたって、息子の高校入学時に、私の財布を彼に譲り、自分の財布を購入することになったのですが、この時に正観さんが書籍で書いておられた財布に桁数の多い金額が書かれた紙を入れておくと財布がその金額を覚えていて、金運があがるということを思い出し、ここが実践時だとおもったので、妻にお願いしてお金を10万程用意してもらい財布に入れました。
徐々にお金は減り始めました。(笑)一か月程度経っています。

で、今は?(これを書いている現在は)財布に5丁(兆)円入っています。(笑)

いきさつは忘れてしまいましたが、正観さんの本を「小林正観」というキーワードで、Amazonで探していたのかもしれません。すると、正観さんの顔が描かれたお札が出てきました。
あっ!面白そうと思ったのです。
さっそく注文しようとカートに入れたと思います。
でも何か不満におもったのでしょうか?(自分の心理状態がよく思い出せません)
送料が気に入らなかったのか(笑)

他のところでも売っているのではないかなどと思い
新たにネット検索をしてみました。
いくつか候補が出てきたのですが、
私が選んだのは、「ありがとう書店」でした。
選んだ理由は、クレジット決済ができることでした。実際はPayPalを介してのクレジット決済なのですが、
とにかくクレジット決済ができることがポイントでした。
仕事の関係で銀行振り込みやコンビニ決済は時間の制約上できないと考えていました
(そんなことはないはずなのですが)
だから「ありがとう書店」を選んだのです。

1丁(兆)円、2丁(兆)円、3丁(兆)円セットがあったので、カートに入れました。
あと、講演会のCDがたくさんあったので、一つ選ぼうと物色していると、DVDがあるではありませんか!
正観さんの貴重な映像があることを知ったからにはこれを買わないわけにはいきません。
「見方道で楽しむ大豊作人生」というタイトルのもので、講演会は2000年11月3日とあります。
これを書いている今、(DVDを観終わった後なのですが)
パッケージを見るとイチゴの敷き詰められた写真が背景になっているのですが、
イチゴ(一期)一会とひらめきました。
正観さんのダジャレに感化されたのかもしれません(笑)

脱線しましたが、
とにかくDVDとお札を注文しました。
注文を入れた翌日だったかそのさらに次の日だったか?
明け方の夢で正観さんのお札の夢を見たのです。イラストのお顔がはっきりと出てきたので覚えています。
それが届くのを楽しみにしていたのです。それでもって半分意識が起きかけてきていたのですが、ああそろそろ届くのだな、楽しみだな、とか、講演会CDで、358とイラストで書かれたものがあり、初めはそれを買うつもりでしたし、金運アップのことをやはり心に思っていたので358の数字のことなどをイメージしていたりして、夢うつつの間で感じながら、発送メールが入っていないかチェックしようと、体を起こしてiPhoneを開きました。

そして時間に目をやった時に、「ドクン!」と胸がなり、少しお尻が浮きました。
なんと時刻は「3:58」だったのです。

実は私は、主にデジタル時計なのですが、時刻を観たときによく数字が揃っているのです。
11:11とか22:22とか 
また私の誕生日も昭和44年8月8日とか、
私の息子は1と9の数字ですべて構成されているとか
七夕生まれの親戚がいたり
1と5の数字で構成されている子供がいたり
なんだか数字が揃っているのです。
別にそれがどうってことはないのですが、
今回の「358」には、驚いてしまったのです。

その日の午前中だったでしょうか、1本の電話が。
「ありがとう書店」からでした。
すごく丁寧な言葉づかいが印象的な店長さんからでした。
決済方法についての確認でした。
どうやらPayPal決済がお店にとってはじめてだったらしく、
他の決済方法をすすめたかったのかもしれませんが
「はじめて」ということばを聞いたので、
はじめてならこのままPayPal決済のほうがいいと思いました。
(私自身は以前ほかの商品の購入でPaypal決済をしたことがあったので問題ないとおもっていましたので)
と、まあこんないきさつがあり
注文していた品が届きました。

そのなかには「プレゼント」が入っていました。
「水野南北 開運の極意」という小さな冊子でした。
これもありがたく読ませていただきました。

でもって本題の正観さんのDVDですが、
まあ、正観さんのお姿が楽しそうでした。
自分のダジャレで自分が笑うということがたびたびあり、
そこがまた面白い。
お話の内容は本で読ませていただいたことと同じ内容もありましたが、
お話の空気感は本では味わえませんし、
話がジャンプする面白さも本では味わえません。
姿も見えないし、
やはり映像で観ることができるのはすごいことです。

神仏の存在、輪廻転生、自分の人生は自分のシナリオ通りということを否定することができないということ、また
「ありがとう」ということばのスゴイ力は
自分の30年の研究成果としての概念を覆す「悟り」であったということでした。

わたしのまわりで、何かいいことが起こっていると感じています。
わたしの今の気持ちを素直に書きたくなり、書いてみました。

忘れていましたね。
ありがとう書店の店長さん、どうもありがとうございました。

原発についての議論 現実的な対応とは?

核のゴミ処理コストはなぜか無視されるよね。

現実的って何だろうね? 
実際のところ、「火力発電で対応するのが現実的」ってもんだろう。
タダで手に入る情報だけで考えているつもりの残念な人は
「反原発」と聞いても、それがどういった意味で主張されているかどうするかを考えていないよね。
実際は、「代替案はすでに出されている」し、
みんな頑張っているよ。
ただ自分が見聞きする(関心のある)こと、手持ちの情報だけで考えようとするひとは
そういった代替案にも目がいかないし、
タダで手に入るネットからの情報やテレビの情報で、
資源がないとか、コストの側面からし原発が現実的であるとかの発言を信じちゃうんだよな。

だいたい、
理想が現実化する世の中を目指さなくて
どうして世の中が良くなるのよ。

現実がひどいから理想(こんな社会を作ろうよ)を掲げ努力するんだろ?

現実的に対処するってことは、
原発をやめるとしっかり明言し、廃炉の方向で物事をすすめ、
火力や風力、水力総動員で電力確保することだろう。
火力発電をコンバインドサイクル方式に切り替えること
現在の電力会社から仕事を奪わず、彼らに仕事を保証し、
態度変更をさせること。
原発停止後には、それまで原発が出してしまった廃棄物を安全に管理することも忘れてはならない。
これが「現実的」というものです。
原発をとるか代替案をとるかの二者択一ではなく、
代替案の一者の中に、廃炉―廃棄物管理のステップを組み込むことだ。

民意ということについてもしっかり考えなければならないよね。
「株主」の意見だけで「民意」なのか?
株主とて経営に参加しているのだから、民意ですらないよ。

金がなくても生きてはいけるが
放射能にさらされたら生きては行けないのだよ。
何か新しいことを始めるための借金は大いにやればいい、
しかしどうしようもないことにダラダラとお金を使わないでいただきたい。

廃炉にしてからの対応だけでも大変なのに
再稼働なんて、非現実的だよ。
経済的にも、将来の見通しとしても。
そんなことを言っている政治家はただの「スピーカー」にすぎない。

マップヘイターからマップラバーへ、そしてマップクリエイターへ

人間を地図好きと地図ぎらいに分類するとしたら、福岡ハカセは間違いなく地図好きである。マップラバー。子どもの頃から、開くと最初に島の地図が載っているような物語に心が躍った。内向的で全然アウトドアー派ではないので、空想の中だけで旅をする。アームチェアー・トラベラー。その旅程を俯瞰し、出発点と目的地を見極め、自分の位置を定位したい。そういう志向がマップラバーである。駅やデパートに行くとまずは案内板。現在地が定まらないと行動が開始できない。現在地の赤い点が消えかけているといらいらする。
福岡伸一『やわらかな生命』p179 地図のない道 (文藝春秋社)

さて、自分はどうだったかを問うてみた。いまはどちらかというとマップラバーか。でもかつてはマップヘイターであったような気がする。そもそも、今行っているように思ったことをわざわざ記述するという行為そのものがマップラバー的な行動といえるのではないか。このような行動は、私の場合、大人になってから行うようになったものである。子どもの頃は、勉強は嫌いではなかったしそこそこ出来たほうであるが、どちらかというと体を動かしていることのほうが好きであった。今から思えば、子どもの時期にもっと勉強を積めば、世間的にも認められることがあったかもしれない(笑)

だが、そうはならなかった。それはなぜか。それこそがマップヘイターであったことのあかしなのだが、先がわかりすぎることがきらいであった自分がいたのだ。そもそも、目標をたてて行動することが大嫌い。予想通りになることの何がおもしろいのか。生理的にわかりきったことをあたりまえにおこなうことを避けていた。こんな自分だったから、いろんな苦労があった。人がつくったマップが嫌いだった。みんなが無批判に行っていることを同じようにやることが嫌だった。そのおかげで村八分にされたことがあった。ちいさくて特殊な世界の内部ではあったが。

だが、大人になり仕事をし子育てをしていく中で社会というものを学ぶと、そんな自分がマップヘイターからマップラバー化している自分がいる。福岡ハカセの主題とは真逆の方向に向いているようなのだ。これはどういうことか。


ちなみに自分の場合、小さいころは、デパートの中で目的の物を見つけ出すのに、案内図などは必要なかったし、それがないと不安なんてことはなかった。なぜか簡単に目的地にたどりつけたのである。自分の場合はいったいどんなことをしていたのか。自己分析すると、デパートをまず3次元的な空間としてとらえ頭の中に保持しつつ自分の動きをたどっていたようである。いつも自分がどっちの方向に向いてるかわかっていた。何のことはない3D地図を自己内部に思い描いていただけである。時間はかかっても。自分の中では、「迷ってはいない」のだ。デパートの中に目的の場所があるということにウソがなければ、迷うことなく「そこ」に到達できるのである。

おそらくなのだが、地図なしで彷徨ったおのれの経験を、子孫へ受け渡していきたいという欲求ではじめたのだろう。
「地図というものの重要性」は、書いてある見取り図にあるということよりも、そこから何が得られるかということよりも、地図を残そうという行為の中に、マップラバーの本当の楽しみがある―そんなことが頭をよぎった。
「マップ・クリエイター」道なき道を行くもの、地図なき僻地で奮闘するもの、絵のない絵本、言葉のない詩集等々。
そこに人生をかける楽しみがある。

「原発、なくならないかなぁ。」と思っている。

なぜ原発をなくしたいのか。
あぶないから。

ほかの方法はあるのだ。

そこにしがみついている理由は安全性云々ではなく
経済的な理由。
原発によって生計を立てている人たちの
働き口の問題なのだよ。

なぜ、これを議論しないのか。
原発村で生活していた人たちは、
原発=悪
という考えが強まって大きなうねりとなり
村を解体され、村を追い出されようとしている。
本気で原発をなくそうとし、
村を解体するつもりなら、
そこで働いている人たちの行き場を提供すればよい。

ところで
原発は「低コスト」で「クリーンエネルギー」というコピーを聞いたことはないだろうか。
これは、実は詐欺的フレーズだ。
なぜ、詐欺的なのか。
それは、
原発」という大掛かりな産業システムを説明せず、
一部分的で局所的、すなわち、ちいさな一部分のみを説明するだけだからだ。
この「問題」というものに対する視点操作、対象化操作を行っているからなのだ。

放射性廃棄物の処理について考えてみるがよい。
ほかの発電方式とは異なり、
発電後に出てくる放射性廃棄物は、行き場がない。
処理場を誘致しそこに運び地層処理するという処理プロセスは
第一に、ゴミが自然に帰らないという意味においてはゴミの不法投棄である。
第二に、それを埋めるば所、輸送コスト、管理コストは、原子力発電という方式にセットされているコストである。
第三に、場所的占有を増加させる一方であり、処分ですらなく、歯止めの利かない増殖性を秘めている。
第四に、処分場を人けがない場所、過疎化した地方の村や島に求め、自然豊かな(エネルギーの貯蔵庫といってもいい)場所を破壊することである。

そもそも放射能汚染は程度の問題なのではない。
放射能の値がどうのこうので、稼働するしないを決定してはいけないし、
「電力不足」という恫喝で心理操作をし、その稼働を決定してはならないものである。
導火線に火が付いてしまっているのだ。
電力不足・放射能測定にばかり注意が向けられてしまい
根本的な大問題の放射性廃棄物の処理プロセスについてはぐらかされている。
これこそ地上を汚染するのだ。

さっさと原発から他の発電方式に変えて
原発村の人たちを、放射性廃棄物の処理場建設予定地に移住させてあげたらいい。
再出発する人達の行き場が必要なのだ。
新しい産業、新しい技術が、新しい経済と人々の暮らしを支えるのではないのか。