Twitterの闇に溺れる前に、今すぐ見切りをつけよう!
久しぶりに何か文章を書きたくなったので、このブログで書くことにします。
今回話題にするのは、タイトルにある通り、Twitterについてです。
私自身、Twitterは10年以上使ったSNSでした。とは言っても、一日に多くて4、5回開くような頻度で、所謂ツイ廃と呼ばれる人たちに比べるとライトユーザーの部類だったと思います。
私自身、昔はTwitterは好きでした。当時は、SNSというモノ自体が少なく、受動的に多種な情報を提供してくれる場はとても新鮮でした。2ch等の掲示板は自らそこに赴きトピックスを見つける手間があるので、Twitterのお手軽さは革新的だったと思います。
かつては好きだったTwitterですが、体感、5年くらい前から風向きが変わった気がします。Twitterがユーザーに提供するサジェスト機能が明らかに先鋭化されました。それにより、タイムラインにはよりセンセーショナルなツイートが表示されるようになりました。また、コロナ禍の影響で時間を持て余す人が増えたせいか(知らんけど)、それとも、この先鋭化された機能により今まで交わることがなかった人種のツイートがタイムラインに表示されるようになっただけなのか、原因はわかりませんが、使用している年齢層がかなり幅広くなったように感じました。
その結果、何が起こったか。面白くもない、ただ不愉快なだけの妬み、僻み、不満のツイートがタイムラインに強制的に表示されるようになりました。勿論、Twitterからのオススメツイートは非表示にすることはできますが、仕様上の問題で、少し気を抜くとうっかりこれらのツイートを目にしてしまいます。フォロワーが低賃金や育児や旦那の悪口を頻繁に呟くような魔物だと、似たようなツイートが否応なしに目に入るようになりました。一度誤ってそれらのツイートを開いてしまうと最悪です。「このツイートに興味が無い」を選択したり、そのアカウントを一つ一つブロックしても、ゾンビのように無限に似たツイートがサジェストされるのです。センセーショナルなツイートというものはどうしても不愉快なものになりがちなので、Twitter社の、より多くのユーザーをTwitterに依存させるという戦略がある以上、こうなってしまうことは必然でした。
問題なのは、ユーザーに、Twitter社に扇動されているという自覚が乏しい人が多い点と、所謂社会の底辺がTwitterのユーザー層に多いことでした。底辺たちは、Twitter社の掌の上で、お互いの傷の舐め合いや足の引っ張り合いを始めて、Twitterに依存していきました。まともな神経を持っている人は、底辺との関りを嫌がり、Twitterなんて開いていません。
ここまでのTwitterに対する私の悪口を読んで不快な思いをしたユーザーがいるとするならば、その人こそおそらく、Twitterに依存する社会の底辺でしょうね(笑)
さて、最早底辺の掃きだめとなってしまったTwitterの民度は、これ以上下がりようがないと思われていました。
しかし、その期待は悪い意味で裏切られました。
詐欺師が台頭し始めたのです。
以前からTwitterには詐欺師は多く存在していました。今や日本人の50%が利用していると言われているこのSNSは、詐欺師にとっては夢のようなツールです。なぜなら、絶望的なまでのバカが多いので、打率が高いのです(笑) 「言いたいことを言う」だけの場所なのに、そこに知識や真実性を求めるような知能レベルのユーザーが跋扈しているので、元々詐欺とTwitterは親和性が非常に高かったのです。反マスク界隈、ゴムマスク界隈なんかが良い例ですね。Twitter民のような社会の底辺は、金も友人も知識も技術も学歴も誇れるものがないくせに、プライドだけは山のように高いので、騙されていることを指摘されてもその論理についていけないばかりか、信じているものを馬鹿にされたと逆切れする始末です。詐欺師も、大漁でさぞかし楽しかったでしょうね(笑)
そのような状況にさらに拍車をかけたのが、TwitterがXとなり新たに設けた、インプレッション(簡単に説明すると閲覧数)を広告収入にしてユーザーに分配する仕組みでした。インプレッションを稼ぐために、よりセンセーショナルなツイートをすることを、より多くの人が意識的に考えるようになりました。例えそれが100%の嘘でも、インプレッションさえ稼ぐことができたら、カネになれば貧乏人の彼らにとってはなんでもいいのです。特定の業者や詐欺師だけでなく、より多くの一般的なユーザーも、彼らと同じような注目の浴び方を考えるようになったのです。
この現象が顕著に表れていたのが、2024年1月1日の能登半島の地震です。地震が起きてから1時間もせずに、嘘のSOSツイートや、募金詐欺のツイートが出回りました。そのあまりの迅速さに、私は本当に驚きました。これらの悪質なデマを広げるほうにも問題があります。Twitterは詐欺師の巣窟であるという事実に気付いていれば、拡散する前に気付くはずです。Twitterユーザーは頭が弱い、というかあまりにも弱すぎるので、日常的に意図された嘘で溢れかえっていることに気付かず、知らず知らずのうちに詐欺師たちを助けているのです。
もし何かの間違いでこの記事を読んだTwitterユーザーがいるならば、いますぐにでもTwitterの使用をやめることをお勧めします。
「すでにそこで人間関係が出来上がっているから、今更やめることはできない…」
仮にそんな思いを抱えているなら、今すぐ捨てましょう。朱に交われば赤くなる、という諺があるように、底辺と関わっても底辺になり、底辺に染まるだけです。
特に若い人は、情弱のジジイババアが跋扈するこんな「穢れ」からは、早く関係を断ち切った方が賢明です。
デジモンゴーストゲーム感想
久々のアニメとかドラマの感想です。
最近は凄く良い物語にいくつか出会えたんですけど、感想文をまとめるにしては(私が書かなければならない文量が)あまりにも重かったので躊躇していたんですよね。
そんなところ、丁度いい文量で書けそうないい題材が見つかったので書いてみようと思います。
今回感想を書くのはデジモンゴーストゲームです。
現在進行形で放送中のデジモンの最新作です。
以前からタイトルは知っていたんですけど、基本的に初代以降のデジモンは好きになれなかった(02も含む。テイマーズだけ見ていない)ので、あんまり期待していなかったんですよね。「まあ、見て見るか」という気持ちでテレビをつけてみて偶々目にした話が「歪ンダ愛」だったんですけど、シナリオの完成度が凄く高くて、思わず魅入ってしまいました。
それから次の週は「飢餓屋敷」だったんですけど、これもまた完成度が高い話で、「今作のデジモンはなんか違うゾ!!」と思い最初から配信サイトで見てみました。結果、最近観たどのアニメ(というかあまりアニメ自体最近はあんまり見ないんだけども)の中で一番面白かったです!
好きなところは細かいところを上げればきりが無いのですが、中でも一番は、”デジモン愛”が伝わるところですね。一話一話のシナリオの完成度が高いのは、デジモンが単なる怪奇現象を引き起こすための舞台装置として扱われて終わりではなく、「このデジモンはどういう生き物なのか」っていうところまで一つ一つ丁寧に描写してくれているので、かなり奥行きののある世界観が出来上がっていると思います。
また、この作品は、いい意味で”慣習”を打ち破ってくれます。
例えば、デジモンや人間の「死」に関する描写です
個の作品では、割とデジモンに人間が殺されることは珍しくはありません。そのため、バトルやシナリオの展開に常に緊張感を与えてくれます。デジヴァイスが発するバリアで主人公たちだけはデジモンの催眠攻撃とうにはかからない、といったような主人公特権もありません。凶悪なデジモンに対しては、一歩間違えれば主人公たちでも命を落としてしまいます。そのため、失敗してはいけないという緊張感が自然と与えられる内容になっているんですね。
また、デジモンという生き物は(どのシリーズでも共通して)戦いに敗れるとデジタマに戻るのですが、主人公たちはそれを「生まれ変わっても同じ個体じゃない」と認識し、デジタマに戻ることを死だと認識しています。そのため、暴れているからという理由でむやみにデジモンを殺生することを主人公たちは拒みます。
この手の…というかアニメ作品全般って、ことなかれ主義というか、こういう、現実世界の実害みたいなものを描写するのを極力忌避する傾向があります。そのため、良く分からない魔法の力で全部実害は無かったことになっていました、みたいな展開で誤魔化して終わるパターンが多いのですが、このアニメは、主人公たちの視点から(←ココ重要)、そういった汚い部分がどのような意味を持つかと言うことを丁寧に描写してくれるので、細部にリアリティを感じることができる内容になっていると思います。
一部からはこの作品は不評らしいです。不評の中でも最も大きな声は、「全部が日常回で倒すべき巨悪が見えない(目的が分からない)」ということです。
確かに一理あると思います。
全体の中でどこに向かっているかということは、丁寧にこの作品を追い続けた人や、若干の理解力がある人じゃないと難しいかもしれないです。
この作品が向かっている大きな目的は、現時点では主に二つあると思います。
①ガンマモンの成長
②人間とデジモンの共存
土の話も、この二つの要素のうちどちらか片方は必ず入ってきます。
おそらく、ガンマモンの成長を通じて、人間とデジモンがお互いにどのような関係であるべきかということを模索するのが最終目標なのではないかと思います。
これまでの話の積み重ねで、デジモンと人間はお互いに危害を及ぼしあう可能性を秘めているので、共存がかなり難しいことだということはわかります。一方、ヒロと出会ったおかげで、最初は生まれたばかりの赤ん坊のようだったガンマモンが段々と成長したりと、デジモンと人間が関わる中で生まれる新しい絆や力と言ったプラスの面もあります。
こうした関係性の良いところと悪いところ、色々な面を主人公たちが見て感じて、最終的にどうなりたいか、そのためにはどうするべきかという結論を出すのではないでしょうか?
分かりにくいと思う方がいたら、よかったらこの視点から物語を見てみると、少し楽しめるようになるかもしません。
『天気の子』の感想
流行から少し外れたこの時期に、話題の『天気の子』を観てみました。その感想をここに書こうと思います。
物語の感想と言うのは「良い」とか「悪い」とか単純に決めることはできないですよね。作品として観客を物語の世界に引き込ませる力があるかどうかの「良い」「悪い」であったり、作品としての完成度は高いけれども筆者のメッセージ性が自分と一致するかしないかという視点での「良い」「悪い」であったりと、人それぞれの基準の中の「良い」「悪い」があると思います。
今回は、できるだけここら辺の違いを明確化・・・しないで駄々洩れ型の感想を書いていこうと思います。
悪いと思ったところ
1.最初が退屈
最初が退屈です。
物語のヒロインとなる女の子が鳥居をくぐって、幻想的な世界を舞う映像が流れます。絵を楽しむという意味では全然飽きないのですが、一方、物語の中で何が起こっているのか全く理解できないためじれったく感じました。「何々?何が起きているの?」と観客を焦らすために最初に意味が良く分からない映像を持ってくるということは、映像作品においてはよくあることです。実際に、私は「過去の話か現在か未来か分からないけれども、何か凄いことが起きているんだな」とちょっと期待しながらそのシーンは鑑賞しました。しかし、とにかく長い!!何分くらいかは分からないけれども、本当に長く感じました。ワクワクは次第にイライラへ。「早く次のフェーズに移行してくれ」と掌を開いたり閉じたりニギニギしながら鑑賞しました。
そして、そのシーンが終わると、全く関係の無い船のシーンへ。さっきまで登場していた女の子とは無関係のシーンに移り、ここからは主人公の男の子の視点で物語が描かれることになります。そして、田舎から来た主人公のアルバイト探しの話がしばらく続きます。どうして男の子はネカフェ生活をしながらでも都会でアルバイト先を探しているのか、などの主人公の背景や考えていることが全く分からないまま、ひたすら未成年者のバイト先探しの厳しい現実が描かれます。なぜ主人公がそのような行動をとっているのか分からないまま主人公の行動をひたすら観察し続けなければならないことは、少しだけ苦行だなと思ってしまいました。
「俺は東京で夢をかなえてBIGになるんだ!!」とか「田舎の閉鎖的社会の虐待的な環境から抜け出すんだ!!」とか、なんでもいいから理由が説明されているだけで、積極的に物語に感情移入するための機会を得ることができるのにな~、と思っていました。
2.物語の世界のルールがよく分からない
『天気の子』のヒロインの女の子には、天気を操作する能力があります。
この能力に関する設定が良く分からない(笑)
そのため、話の中で起きていることの意味というものを理解しながら鑑賞することができないところがありました。
ヒロインは天気を操る能力を持っていますが、その代償として天に生贄として拉致される運命を辿らなければなりませんでした。
しかし、「能力を使いすぎた代償として生贄にならなければならなかったのか、それとも時間経過によるものなのか」「生贄になった人物はその後どうなるのか」といったルールが分からないまま話が進んでいきます(最後まで説明はありませんでした)。そして、クライマックスの方で、生贄として天に上ったヒロインを主人公が迎えに行く展開があるのですが、その展開についても、「ヒロインが能力を得るきっかけとなった鳥居をくぐればヒロインに会いに行ける」「そこに行けばヒロインを連れ戻すことができるかもしれない」というルールが示されないまま、主人公は必死になって鳥居を目指します。警察を巻き込んでの大混乱を起こしてまで必死になって鳥居を目指しますが、そもそも鳥居をくぐれば何かが変わるという可能性が作中で示唆されているわけでもなく、また、今すぐにくぐらなければならない理由が示されているわけでもないので、ただ迷惑な少年に思えてしまいました。タイムリミットがないなら、警察で事情聴取をしてからでもよくないか…?
まあ、こんな事情もあって、迷子になった心境で視聴している時間も短くはなかったです。
3. 就活に恨みでもあるのか、新海さん?
登場人物の一人が就活に苦戦するシーンが描かれます。
このシーン、まったく、驚くほど物語の本筋と関係ないんです(笑)
比較的、ストーリーの本筋とは関係の無い余計な要素は入れない映画だと思いますが、それだけに、就活の話の突拍子の無さが際立つ(笑) 『君の名は。』でもなんかぶっこんだように就活の話がでてきましたが、新海監督は就活に関して何か思うところがよほどあるのでしょうか?
良いと思ったところ
1. 絵がとにかく綺麗
いやぁ、絵がきれいって本当に正義。
だって、序盤で冗長でイライラすると思った展開も、絵がきれいだとなんだかんだ観てしまいましたからね。
兎に角、本当にきれいです。
(しかし、花火の描写とかはちょっとクドいように感じました。「凄いだろ?」って見せつけられているように感じてしまった)
2. 物語的には納得できるラストだと思った
多くの人は、世界中の人々の幸せはおろか、自分たちが所属している国の政治にも興味が無いと思います。興味があるのは自分の身の回りの幸せだけです。広い視野で物事を考えている、『風と共に去りぬ』のメラニー・ハミルトンのような人物も世の中にはいますが、そういった思考も結局のところ、他人の問題にも自分の問題と共通のテーマを持つことに気付いているから至ることです。人間、やはり自分や自分の身の回りの人の幸せから優先順位をつけて考えていくのではないでしょうか。
そういう意味で、自分たちの幸せをとったラストは合理的だと思います。
ずっと物語は恋愛を中心に進んでいました。恋愛というものは個人的な問題です。個人的な幸せを築こうと考えている人物に、世界がどうとかいう話をしたところで、当事者からすれば「へー、あっそ」と思ってしかるべきだと思います。
良いとか悪いとか関係なく、ただ思ったこと
1. 銃はさすがに
鉄の塊なので、おもちゃと勘違いできるほど軽くないと思います(笑)
2. 「俺たちのこと、放っておいてくれよ!!」
作者の意図とは関係なしに、実はこれが、作中で一番根が深い問題だと思いました。
ヒロインは一年前に親が死んでから弟と二人で生活しています。生活費は、ヒロインが自らの年齢を偽って行っていたバイトで賄っていました。しかし、本来ならば二人は保護施設に引き取られなければならないはずなのですが、施設に入ると弟と離れ離れになる可能性があることを懸念してヒロインはそれを拒否しています。ヒロインとその弟は今の生活に不満を抱いてはいないようです。離れ離れにしようとする大人たちは悪としてヒロインたちからは捉えられていました。
主人公は「何も俺たちのことを知らない癖に」と言って、放っておいてくれと言っていました。
しかし、主人公の問題もそうですが、彼らに本当に必要なことは、愛のある大人からの積極的な介入だと思いました。
最終的にヒロインとその弟がどのようなところでどのような生活をしているのか、そこらへんはハッキリとは触れられていなかったと私は記憶しています。
彼女らが幸せになるのには大人の愛ある介入が絶対に必要なのです。しかし…そこに重点を置いていた話ではないので、そのあたりを描く必要も尺も無かったと思います。なんかハッピーエンドっぽい空気を醸し出していたラストですが、あの事件の後に何が起きて現在彼女たちがハッピーになったのか、気になるところです。
3. 島から逃げた主人公の気持ち
主人公は「絶対に戻りたくない」という決意のもとに上京してきました。16歳ながら。なぜ、ネカフェ難民なんて境遇に陥りながらも故郷に戻りたくないのか、ついにはホームレスと同様の目に遭って命の危険まで感じる事件に遭遇しながらも故郷に戻りたくないのか。
その理由は作中で語られます。その理由とは、主人公はとある島の出身で、晴れを追いかけていたら東京に流れ着いたとのこと。
いや、納得できねー!!
私も田舎の故郷から脱出したくてしょうがないteenagerを送っていたので、島という閉鎖的な人間関係が形成されやすい土地に住んでいた主人公の気持ちも、予想することはできます。だからこそ、なんとなく光を追いかけていたからとかじゃなくて、もっとちゃんとした動機を知りたかったなぁと個人的に思いました。
4. 新宿はそんな街じゃないよ!!
新宿に来た主人公が都会人から冷たくあしらわれる描写が多かったです。
確かに東京は使い方を間違えると恐い街です。しかし、あまり作中の描写のように、露骨に弱い者虐めをするような人はあまりいないかも?私は田舎にも東京にも住んでいたことがありますが、作中のDQN店員は田舎のドン・キホーテとかの方が近いかも(笑) 心の中では何を思っているのか知りませんが、都会の方が、少なくとも表面上は紳士な対応を心掛けている人の割合は高いと思います。
主人公に暴力を振るうモブキャラがいました。確かに新宿ってそんなイメージですが、ああいう商売をしている人たちって、割と死んだ目をして街中を歩いている人とか多くて、中学生に因縁をつけて喧嘩を売るような体力が残っている人ってあまりいない気がします(笑) まあ、割と主人公の方が勝手に熱くなっていた側面もあるので、さすがにキレるかもしれませんが汗
まー、アレですよ。ラノベとかでも「へい、そこの綺麗なねーちゃん!!」と絡むDQNが恐い人物のテンプレートとして描かれることが多いですが、私はそのような人物はかえって恐いと思いません。本当に恐れるべきは、善意を装って近付く者たちです
Σ( ̄ロ ̄lll)ガーン
論文を書くことと小説を書くことは似ているのではないか
先日友人と話している中で、日本語と英語の違いについての話題に移りました。
そこで出た話としては、日本人の論文は余計な情報がアリの巣のように張り巡らされていて、英国圏の人たちは翻訳するのを嫌うそうです。
英語圏(と言っても大雑把ですが)の論文とは、主張とそれを裏付ける論拠のみを書くもので、余計な情報は書いてはいけないそうです。日本人の書いた論文というのは、量が多く余計な情報も多い傾向になりがちだとかなんとか。
私自身が日本人と英国圏の人たちの論文を比較したわけではないので「その通りだ!!」と言うことはできませんが、小説や映画のストーリーに関して、英語圏のものと日本のものとでも同じ傾向がみられるなと思ったので、妙に納得してしまいました。
英語圏の映画で、そのような意味で「よくできているな~」と痛感したのは、『ハリーポッターと秘密の部屋』です。「人はどんな能力を持っているのかで決まるのではなく、どんな選択をしたかで決まるのじゃ」というダンブルドア先生の最後の台詞に代表されるテーマ性は、秘密の部屋の事件でのハリーが経験を通して非常に説得力があるものになっていたと思います。また、全編通しての謎解き要素も、真相は「マルフォイの父親がトムリドルの日記を使ってダンブルドアを退任させようとした」というシンプルなものですが、そこから起きる様々な現象がハリー視点からはまさに謎とスリルで、頭空っぽにして観ているだけでも緊張感と爽快感があり楽しかったです。
一方、日本の映画は、どちらかというと流れに任せて進んでいくようなものが多いですね。テーマ性を主張するために必要な展開と心理描写を計算して設計されているような物語はあまり観たことがないかもしれません。あくまでも個人的な感想。
一部の文芸評論家からカルト的な人気を誇る三島由紀夫の小説も、確かに文章の表現自体は才覚があるのかもしれないですが、「ストーリー」という観点からすると…まあ、あまり言ってしまうと過激派から殺されるかもしれないので黙っておきますが笑
あくまでも個人的な感想になりますが、日本の小説や映画は連想ゲーム的に描かれているものが多いような気がします。
日本と英国圏でこのような違いがあると仮定して、なぜそのような違いが生まれてしまうのか、その理由を推測してみて二つ思いつきました。
一つは言語構造の問題。
英語は合理的な言語です。たった20ちょっとのアルファベットを使い、その文字列の並びで言語を表現するという発想自体、非常に数学的だと思います。また、一文ずつのルールもはっきりしていますよね。品詞ごとの言葉の役割や、カンマの位置による意味の解釈の違いがはっきりしています。日本語の文章で「文脈から判断して」と言われるときには「文章全体の雰囲気とか意味から判断して」という意味合いで取られることが多いですが、英語の指示語の内容などは論理的に「絶対にコレしかない」と言える根拠があります。さらに、現在完了形などの、時間の関係を表すのに便利な概念が簡単に使えてしまいます。
She has come back to Japan.
というと「彼女は日本に帰ってきて今現在日本にいる」という意味になります。自然な日本語に直すと「彼女は日本に帰ってきた」になりますが、これでは話題に関係ない昔の話なのか今と関係がある話なのか判断できません。
色々書きましたが、英語が優れているというのはなく、特徴の違いです。英語という言語を使う限り、無意識にも言語構造に伴う思考様式を使う人間はしているのです。”明晰”という言葉が似合う、白黒はっきりさせることを好むような言語なので、その言語使って考えた小説もまた、数学的な設計のされ方をするのかなと思います。
また、もう一つの思いついた理由としては、宗教の問題。
日本の小説や映画は”テーマ性”という最終的に描くべき着地点が無いものが多いように見えます。その理由として考えたものが、宗教の違いです。
カトリックの聖書について、私は、それを一文も読んだことが無い人と比べると知識はありますが、知っている人からすると、知らないレベルです。
そんなレベルで分かったような口を利くのも恥ずかしいのですが、聖書に書いてある”昔話”って、かなりテーマ性が強いんですよね。それは「人間は○○とあるべき!!」というような命令ではなく、過去にいつか誰かが経験した苦しみなどが描かれており、それが教義的にどういった解釈を持つのかという判断は各々が考えます。
こういった、人生哲学の教材となるようなものが、生活の中で存在しているかしていないかでも、思考様式は変わってくるのかなと思います。
アレコレ書き、英語をほめたたえるような内容になりましたが、必ずしも英語の方が勝っていると思っているわけではありません。あくまでも、特徴の違いとしてこういう理由があるのかな、というレベルの話です。
また、英語圏の小説なり物語が”正しい”という風にも思いません。それがもし、日本で受け入れられないのであれば、日本で求められている形の小説なり物語というモノがあるはずです。簡単に言ってしまうと、読者はかならずしも物語の中に論理性を求めているわけではないということですね。
私個人としてはそういうものがあったほうが楽しいと感じます。しかし、私が楽しいから全員が楽しい、というわけではないんですね。人間、同じように手や足を持っていますが、考えていることやその前提となっている者がまるきり違うことなんて、よくあることです。自分の中の「当たり前」を押し付けるのは良くないなと思います。
兎に角歌が多いインド映画を「悪い」とも言えないですしね。
では。
「ルドルフとイッパイアッテナ」の感想
amazon primeの観放題のヴィデオに登録されていたので視聴。
今回、友人から教えてもらったことがきっかけで視聴に至ったのですが、以前から存在は知っていました。ポケモンの監督繋がりで。
この映画の内容は一言で表すと、人間の都合で翻弄される猫の運命の物語、です笑
おそらく、話の中で最も描きたかったものは、飼い猫だったルドルフが外の世界で他の猫の助けも借りながら自立していく過程だと思います。実際、その点は面白かったかなと思います。
最初は外の世界で乞食をするやり方すらわからず、喧嘩も弱くてビビリで、住所も分からないほど無知なルドルフが、イッパイアッテナから人間の文字の読み書きを教わり、その知識を生かしてイッパイアッテナのピンチを救ったり、勝ち目のないような喧嘩に挑んだり、家に帰るために東京から岐阜まで移動したりと、心が打たれ強くなり生きる技術も確かに身に着けたのかなと思いました。
反面、この物語の着地点があまりにも人間の勝手で済まされます。良くも悪くも笑。
なんか、ネコがあまりにも人間の近い生き物として描かれているので、いたたまれなくなります。人間に近いと思った理由として、文字の読み書きができることは勿論なんですけど、思考回路がそのまま人間…イッパイアッテナは「教養が無いやつめ」っていうようなことを何度か口にします。猫の世界に”教養”という概念があるということは、普通なら考えにくいです。
現実的ではないからダメ、という話ではありません。
猫が人間の思考様式に近いから、ネコの形をした人間の話を観ているようで、ラストの展開があまりにも辛すぎるのです。
そんなラストの展開は、家に帰ってきたルドルフだったが、その家には既に新しい猫がいたということ。しかも、その猫はルドルフと一緒の毛の色をしており、また、目の光彩の色もルドルフと似ています。しかも、名前までルドルフと一緒でした。
そう、前の飼い主は、失踪したルドルフの替わりを買ったのです。(しかも、失踪後も、家の窓が開いており、ネコが簡単に脱出できるようになっている状態笑)。二匹は飼えないということなので、ルドルフは自らそっと身を退きました。
これ、人間で状況を考えたら辛すぎますよね。
孤児院から養子縁組をして入った家の子供が迷子になって、やっとも思いで家に帰ってきたら、自分そっくりの子供が新たに孤児院から引き取られていたっていう。
「私が受けてきた愛情って一体…」という、人間の自信の根幹に関わる問題だと思います。
しかし、まだまだこれだけでは終わりません。
ルドルフが家に帰るために旅をしている間、イッパイアッテナは、自分を捨てた飼い主に会うためにアメリカに行こうとしていました。しかし、実は元の家に飼い主がお金持ちになって戻ってきており、イッパイアッテナはまたその飼い主と一緒に暮らすことに。そしてイッパイアッテナとルドルフは、愉快な仲間たちと一緒に美味しいご飯を食べて仲良く暮らしてめでたしめでたし…
じゃ、ねーんだよ💢
いやぁさ、個人的に一番問題ありだと思うのがイッパイアッテナの飼い主。
この飼い主、アメリカのアパート(?)に猫を連れていけないっていう理由でイッパイアッテナを捨てました。そして、イッパイアッテナが一人でも生きていけるように文字の読み書きを教えたのです。
いや、違うだろ!!
お前のすることは猫に字を教えることじゃなくて、預かり先を見つけることだよ💢
(字を教えるよりも簡単だと思うんだけどな)
んで、自分の都合で猫を野に放っておきながら、自分の都合でまた飼い始めるって言うクズっぷり。
これも、人間に置き換えて考えると分かると思います。
海外に転勤する両親が「お前には知識を与える。これからは一人で生きろ」って言って家を追い出してくるのと一緒。良いとか悪いとかを超越して、サイコパシーが高すぎてビビります笑
まあ、ここら辺の、別に話の本筋でやりたかったこととは違うんでしょうから、別に言及しなくてもいいところなのかな~と思います。
しかし、ね~。
猫の話だって考えると気にならないんですけど、人間の話のように考えると、「本当にそれでいいのかお前ら!!」と言ってしまいたくなりますね(笑)
それと、現実問題、親の都合で生んでおきながら「生んでやった」と感謝の押し売りをしてくる毒親や、後先考えずに子供を生んで邪魔になって虐待する親などは別に珍しくないので、そういう現実問題と照らし合わせて考えると捨て猫たちの事情と通じるものがあって、キツい話だなーと思います。
細かいことを言ってしまうと、ルドルフは確かに周りの力を借りてストレス耐性や協調性、それと、乞食という一つの技術を身に着けたかもしれませんが、本当に自立できたのかなと不安に思うところもあります。自分で自分の環境を操作できない状況下に置かれていますからね。こういう小手先の技術は、自分が置かれた状況を認識した上でこそ精神的にも実益的にも役に立ちます。「なんで自分は野良をしているんだろう?」という根本的な問題が分からないのに野良をしていても、また人間の都合で捨てられたり拾われたりしたら、そのたびに希望を抱いたり絶望したりしますよね。
人間社会だとこういうときに、決まって努力神話を持ち出す人間がいますよね。「お前が不幸なのは、お前の努力が足りないからだ」っていう論調。
なんか、想像なんですけど、イッパイアッテナも飼い主から努力神話を信仰するように催眠をかけられたのかなと思ってしまいました。「絶望は愚か者の言葉だ」「頑張れ」と。いや、イッパイアッテナが辛い苦しいのは全部お前が原因だよ笑
どうでもいい話だけどな・・・
努力と言う字は「女」に「又」に「力」、に「力」を足して「努力」。つまり、出産のことだよ。
出産のときの「ふんっ!!」と踏ん張る力で解決できることは、出産だけだよ。
努力神話大嫌い。
「数字で具体的に説明して!!」
この間、抽象性っていう言葉に関する記事を書きました。本記事もそれに関連したこと
「数字で具体的に表して」っていう言葉にふと違和感を覚えました。なぜなら、数字こそ抽象的な概念だと思ったから。
んで、やっぱりこういうときは英語で意味を調べてみるといいと思って検索してみたところ。
existing in a material or physical form; not abstract
(訳)物質的、あるいは物理的に形成されたモノの中に存在していること
この定義から考えると、やっぱちょっと違うのかな~と。
正しい言い方をするなら「定量的なデータを示して」とかになるのかなぁとか(間違っているかも)
Show me exmaples of quantitive data.
を直訳した形になるんだけど、会っているかどうかも分からない(-_-;)
システムって何だろう?
システムって何だろうなってふと思いました。
みんな大好きwikipediaからの引用↓
システム(system)は、相互に影響を及ぼしあう要素から構成される、まとまりや仕組みの全体。一般性の高い概念であるため、文脈に応じて系、体系、制度、方式、機構、組織といった多種の言葉に該当する
う~ん、ぶっちゃけ、良く分からない!!笑
先日もちょっと日記で話した通り、日本語には海外の言葉をそのまま輸入して、伝言ゲームみたいにして”何となく”で理解が世間に浸透している単語があります。
ここで、正確な定義について考えるために、英語サイトで意味を調べてみましょう。
無許可でURLを張るけど、こんな↓サイトや
https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/system
こんな↓サイトを調べてみたりした。
https://www.merriam-webster.com/dictionary/system
他にも色々なサイトがあるので、興味を持った方は調べてみてください!!
自分が納得しやすいように簡単な言葉で置き換えると
・相互作用することにより物事を成し遂げているモノの集合体。モノは人だったり物だったり言語だったりと、色々ある。
という意味なのかなと思います。
そして、多分なんですけど、相互作用というのは、「Aが○○したらBが□□する」tというような取り決めが明確なのではないでしょうか。例えば、選挙においては「票の数が○○なら議席数は□□」という風な明確な取り決めがありますよね。また、「議席数が□□ならばその党には△円の政党助成金が下りる」と言ったように、様々な取り決めの下”得票数”や”議席数”、”助成金”といったある集合体の構成要素は直接的、間接的にも影響を及ぼしあいますよね。このような集合体こそが、システムなんじゃないのかなと思います。
また、これは(”も”?)個人的な推測になりますが、先述したシステムの中の”取り決め”というのは、物理的な法則性や数学的な普遍性ではなく、人間が定めたことである必要があるのかなと思います。
コンピュータのシステムなんてわかりやすい例のかなと思ったりします。
print("Hello")
と打ち込むと"Hello"という文字が出力されるのは、そうなるように人間が設計したからですよね。実際、「htgroonibotnros」という適当な文字列を入力すれば"Hello"と出力されるように設計することだってできてしまいます。
そう考えてみると、システムっていう概念は偉大な発明品だと思います。
プログラミングをちょっとやったことがある方ならピンとくる話かもしれませんが、プログラミングのときにバグやエラーが発生したとき、システムをうまく活用すれば原因を比較的短時間で究明することができます。これって、プログラムがあるシステムの中の明確な取り決めの下に動いているからこそ可能なんですよね。
人間の組織でも「システム」という単語をよく耳にします。(とういうより、コッチの方が先行しているのかも)
システムを、メリットとデメリットを理解しつつ構築していけば、人間の組織においても問題の原因の究明をしやすくなると思います。プログラミングのデバッグ作業のように。
まあ、ここからはちょっと愚痴的な内容になります。
「日本の企業が凋落した」と言われていますけど、それって実力が落ちたのではなく、システムの本質を理解していないツケが回ってきたのかなとも思います。ほら、日本の企業って、割と人治制度が多いので。
「爺は現役を退いて能力のある若者に決断権を」という意見を耳にすることがありますが、それは賽の目を投げるような考え方だと思う。つまり、ギャンブル。意志決定の際に、プロセスをシステム化しないで個の人間の力量に依存している点では同じだし、「能力のある」というのを誰が判断するの?という観点から考えると、人治政治というシステム笑は変わっていないんじゃないかなと思います。
「それに比べて外資系の企業は…」とは言いません。外資系の企業でもうまくいっていないところは五万とあるので笑
ただ、アメリカ軍なんて、意志決定のプロセスにもかなり細分化されたシステムがあります。どこの機関が情報取集をして、その情報をどこが受け取ってどういう分析をして、どんな情報が最終的に上の方に上がっていくのか…最終的な決断はやはりトップの人間に任されることになりますが、それに至るまでの過程はシステム化されています。
軍事国家のアメリカがそれなりに上手くいっているのは、やはりこういうところに強みがあるからではないのかな、と思います。