新渡戸稲造『修養』を緩く読む

新渡戸稲造『修養』(たちばな出版)を見ながら、およそ1日1ページを目標に緩い言葉づかいにするブログ。

59-60第二章 若い人の進路 進路を決めるタイミング

59-60 第二章 若い人の進路

若者が進路を決めるタイミング

 

 


孔子

「われ十有五にして学に志す」と言ってる。

どういうふうに学問をしようと思ったかは

わからないけれど、

孔子が初めて進路を考えて決めた年齢が

15歳なのだということは、はっかりわかる。

 


今の人も、

たいていは15歳にもなれば

曲がりなりにも進路を決める。

 


僕は孔子のことは詳しくないけれど、

この一句でみると孔子

早熟の人ではなかったことがわかる。

 

 

 

ほかにも

伝わってる話によると

孔子の頭は大きくて長くて、

頭を2つ重ねたような形だったんだそうだ。

実際に本当かどうか僕にはわからないけれど、

頭が大きくて長い人は、成熟がおそくなりやすい。

 


孔子本人の話した言い伝えからもそうだし、

頭についてこう伝えられてることをみても、

孔子

幼い子どものうちから才能が目立つタイプの人ではなかったのだろう。

 

 

 

15歳といえば、

今の人なら尋常小学校を卒業し、

中学の2、3年級に進んでいる年頃だ。

(※100年前の話。令和日本ならば中学3年や、高校1年。ブログ主)

 


将来自分はどんな学問を研究し、

どんな職業で身を立てるということは、

ほぼ決定するべきときだ。

もう少したてば中学校も卒業して

高等学校に入る。

(※100年前の話。令和日本ならば高校卒業後の進路を決めるとき。ブログ主)

 


同校に入って、

将来の方針を定め、何部を選ぶということも

決めなくてはならない。

たとえまた高等学校に入らずして、

すぐに専門学校に入るにしても

将来の方向を決定する必要が

目の前にせまってくる。

 


つまり

15歳という年齢は、

今の時代の我々のごとき一般人といえども

志を立てないといけないタイミングで、

また、たいていは

決まっている頃なのだろう。

 

 

 

 


こう話すと、

 


「私たちのような一般人が進路を決めるのは

孔子のような聖人が

『学に志す』とおっしゃったのとは

違うんじゃないでしょうか?」

 


と言う人がいるかもしれない。

それは、たしかに違ったでしょう。

内容は同じはずないと思う。

 

 

 

しかし、

進路を決めるという

ステップをふむことについては、

決して違ったことがない。

 


一般人と聖人とは

立てる志の内容については

高い、低い、多少の違いがあるけれど

志を立てるということだけについていえば

この2者に違いはないと思う。

 

 

 

 

 

 

 


ただし

立てた目標を

いよいよ、やりきるぞというときに

偉人と一般人の違いが

はっきりとでてくる。

 

 

 

一般人は、

志は立てたものの

まだまだずっと、ぐらついて動く。

 


普通でないすごい人は

どんなことが起きても動かない。

 

 

 

 

 

『言志録(げんしろく)』という

江戸時代の有名な自己啓発の本にも

こういうふうに書いてある。


「くだらないことを考えたり

外からの刺激に動かされたりするのは

自分の志が確立していないからだ。

ひとつの志が強かったら

悪い考えはどこかへ逃げてしまう。

それは、

きれいな水がこんこんと湧きでると

近くにある汚ないところの水が

混じってこないようなものだ。」

 

 

参考

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57-58 大いに伸びる青年は、元気をためる

57-58

大いに伸びる青年は、元気をためる

 


「人間が世渡りするには、

スラリとして、

付き合いやすくなければならない。

 

多少の悪いことをすることで、

人の気持ちに寄り添うことができ、

世渡りのヒケツを学ぶものだ」

と言う人がいる。

 


このような間違った思い込みは、

かなり広くやられている。


しかし、これは人の弱点につけ込み

低レベルな交際をさせようとする心だ。

 

 


円満円滑とかいえば聞こえは良いが、

実は

自分の本当の力を

ダメにして捨ててしまって、

そのとき、その場合に都合のよいようなことばかりして、

「酒を飲め」と言われれば「いいね」、

「たまには悪い場所にも行け」と言われれば「それもいいだろう」というように、

たとえ最初に自分で思って決めたわけではないにしても、人についていって

だんだんと深みに落ちていく。

 

そうやって

仲良し円満と安心しているうちに、

いつしか自分の最優先のペースは

崩れ落ちてしまって、

いざというときに自分を守ってくれる居場所がなくなる。

円満に世渡りしながらやってると思っているが、

その人の品性は

すでにとっくの前に堕落しつつあると思う。

 


もちろん、

いらない場面で頑固に主張することを

ほめてはいない。

 

だが、

世の人と笑い興じているときにも、

いつも区画を大切にして、

「ここまではいい。いくら入ってきてもよい。

しかしここから中は許さない。

一歩でもこの中に侵入したなら許さないぞ」という、

強いところがなくてはならない。

 

全力をつくして守るべき

自分のスペースを忘れてはならない。

 

 

 


悪いことも

少しはした方がいいなどという

誤解に陥らない人はならば、

 

当然、人とぶつかることがあるかもしれない。

人と会うときに

一時的に窮屈に感じられるかもしれない。

しかしその窮屈を我慢して、

自分に勝って、

エネルギーをたくわえてやったなら、

後々必ず、大きく伸びるだろう。

 


八方美人な世渡りの仕方は

機転が効いて

人にも好かれ、

いっとき都合がよくもあろうが、

永久に大きく発展できるためのポイントにならない。

将来やることがたくさんあるだろうと

希望と目標をもつ人の取るべき方法ではない。

 


自分はこれから未来に

やることがたくさんあって

だから、まさに若者なんだと認める人は、

普段から元気の貯蓄に

心がけなければならない。

 


青年時代は一生のうち

もっとも愉快な時代。

子どもは

「早く大きくなって青年になりたい」と思い、

老人は

「引き返して、

また青年生活を繰り返したい」とうらやむ。

それというのも、上で書いた理由で当然だし、

おかしいことなどない。

 

 

 

ところが、

青年時代のことを

単に楽しい時代とだけ考えるのは

ものすごい間違いだ。

 


植物の花が勢いよく咲き誇る季節が

もっとも美しい季節ということについては

みんなが賛成する。

けれども、この季節のことを

単に景色がきれいなだけの時と思うのは

間違いだ。

 


植物が花ひらく時は、

実をむすぶためのステップだ。

 


人の青年時代、

それはまさに

なしとげることにあらわれるはずの

思想と元気が

成熟しようとするタイミングだ。

 

花開くときは、

うるわしく勢いがあるとともに

虫もつき、

風雨にもいちばんダメージを受けやすいときだ。

 


それと同じく、

青年時代はもっとも愉快であるとともに、

またもっとも危険のあるときだ。

悪いことをしないように

もっとも慎むべきときである。

 

 

 

参考

 

 

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55-56 おそるべき元気の乱用

何年か前に亡くなられた

お酒の愛好家、西村捨三さんは

最近では指折りの、偉い人だったと思う。

 

僕がもっとも尊敬していた、一人です。

 

 

 

去年ワシントンで過ごしていたとき、

公使館まで、

小村公使に会いに行ったことがある。

 

そのとき僕は

いつものとおり、

「最近で、

あなたが最も偉いと思う人は、

誰ですか?」と尋ねた。

 

侯爵は少しのあいだ頭を傾けてから、

「やっぱり(大久保公は別にして)、

伊藤公、大隈伯等だろうな」と語ってらっしゃいました。

 

 

 

僕は、

「西村捨三さんをご存知ですか?」

ときいたら

 

小村伯は手を打って

「西村君は偉い!

これはたしかに現代の偉い人だ」と

感心されたことがある。

 

 

 

西村氏が偉いと言っているのは

僕一人ではない。

 

それなのに、その西村氏は

60歳以下で廃人と同様の人になってしまった。

 

天から預かった生まれながらの偉いところを

充分に発揮することができなかった。

 

これは言うまでもなく

酒を飲みすぎて倒れたからで、

その英才も、元気を乱用したから

充分に発揮することができなかったのだ。

 

 

青年は、

将来にやるべき

大きな希望と

抱負を持っている。

これを見越して、

元気を保存しないといけない。

 

大切な元気を

めちゃくちゃに使いまくったら

元気を失うだけでなく、

乱用するときに

悪い知識をおぼえて、

永久の大ダメージが絶対にある。

 

 

元気をめちゃくちゃな使い方して

悪いことをするのは、

ただただそのときだけのことと思いがち

だけど、

これのために、そのあとは

いつもこの悪いことが

深く頭脳にスタンプされて、

 

悪い知恵となり

本を読むときも、

人と話しているときも、

その悪いことが思い出されて目の前についてまわる。

例えば、頭脳の内に汚いスタンプを押したようなもので、

いったん覚えた悪い知識の印象は

永久に、ぬぐいさることができない。

 

 

参考

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54-55 青年は元気を貯めろ

4.青年の第四の特性
青年は元気を貯めろ

 

次に青年の特性としてあげることは

エネルギー(元気)がたくさんあることだ。

元気のない人は、

若くても、もう老いぼれたのと同じ。

青年とは言えない。

 

 

前にも言ったように、

青年はいつも

将来やるべき希望抱負を

たくさんもっている。

 

これをやりとげて目的に達しようとすれば、

元気、つまり勇気が

必要になってくる。

 

「ああ自分のぶんは終わった」と

途中で挫折するような人は、

決して青年とは言えない。

 

お金を失った人は、

また働けば得られることがある。

 

名誉を損なった人は、

謹慎して回復することがある。

 

しかし勇気を失った人は

再び起ち上がる時がないと

ゲーテが教えた。

 

勇気は老人を若返らせる。

 

七度倒れて八度起き上がる勇気ある人、

そういう人が将来のある人だ。

 

 

 

 

 

 

元気はこのように大切だ。

だから、

充分に節約して使わなければならない。

 

それなのに

青年の間はこれを間違ってとらえて、

むやみやたらに元気を乱用することが、

元気があるってことだと

思っている人がいる。

 

例えば誰かが

異性と遊びながらどっかほっつき歩いてるとか、

それとか

オール徹夜して呑んでいたとか聞くと

元気旺盛なんだみたいに思っている。

 

ところがこれは大きな間違いで、

自然

(下層自然でない…まあ、自然に上下の区別なんておかしいけれど。このことは後日として)

に対して負った借金は

後になって必ず返さなくてはならない。

 

 

返すどころではない、高い利子がつく。

 

 

 

 

   僕の知っている有力な実業家に

「ワガハイは

食べ物などなんでもかまわぬ。

必要があれば石でも噛む。」と言って

石をガリガリやって、

自分は元気なんだとやった人がいる。

 

その後、注意して見たら、

その人の歯は総入れ歯となっていた。

 

こんな元気はまるで狂気の沙汰で、

真の元気ではないと思う。

 

 

 

 

要するに

精神的に自然でないものは、

一種のカラ元気だ。

その時だけ

いかにも元気そうに見えるけれど、

その報いは、

いつかきっと、

自分の身にふりかかってくる。

 

 

 

そんなわけで

 

青年は元気がなければならないし、

その元気も充分に貯めて、

無駄使いしないようにして、

一方で

必要な時に

元気を役立つように使うことを

心がけなければならない。

 

 

 

 

参考

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

 

 

 

53 淡白と無礼を誤解するな

淡泊と無礼を誤解するな

子供らしい自然な感じがないのは
日本国民の大きな欠点だ。
だから僕は
我が日本人がシンプリシティーを養い
それぞれ若くなって、
先々に伸びてゆく余地を
作りたいと思う。

青年は淡泊でなければならない
それを誤解して、
無礼でよいのかと思う人がいる。

 

年上の人の前に出ても
ろくに挨拶もせず、
あぐらをかいたりして、
「オイ、君……」
みたいなことと変わらないような
無礼な接し方をしようとする人がいる。
人を見下して軽く扱えば
それで自分が高くなるかのように
考えている人がいる。

 

そして世間はこれを
淡泊だと誤解している。

 

淡泊というのは、
色気なく、さっぱりとした、
心の性質。
その心で人と付き合えば、
動作がひとりでに
大体のマナーや礼儀正しさにかなう。

 

礼儀がなってないのは淡泊とは言わない。
粗野だ。
その間には大きな差がある。
慎重な人であれば、
人を大切にして礼儀正しくするものだ。

参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

 

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

 

 

 

50〜52 青年はさっぱりと淡泊でいよう

3  青年の第三特性

青年はさっぱりと淡泊でいよう

青年は
淡泊(シンプル)でなければならない。
自然に従って開けっ放して
拗ねたところなく すらすらとして
少しもひがみがない必要がある。

青年のうちは天性で淡泊な人もいる。
また、若いときには淡泊だった人が
年寄りになるに従って、
世の風や荒波にもまれて
シンプルさを失う人もいる。

権力のある人の前に出たり、
地位のある人に接したりすると
心にもないお世辞を述べて
お辞儀ばかりする人もいる。
これは地位権力に
何かを求めているので、
その相手によって少しなりとも
利益をせしめようとしている
欲から来るのだ。

青年は
世の中に求めるところが少ない
名誉とか出世とか、
ちまちました小欲がない。

もし欲があるならば、
それは偉大な欲である。
したがって、
人に「はい。はい。」と言って
機嫌をとろうともしなければ、
秘密とすることもない。

空海濶(てんくうかいかつ)
なんのわだかまりもない。

最も、このシンプルということも
考え方でいろいろになる。
僕はシンプルということには
二通りあって
頭のシンプルなのと
心のシンプルなのがあると思う。

頭はいつまでも単純では困る。
日に日に文化発展しなくてはならない。
ここにいるシンプルというのは
後の意味
すなわち心のシンプルなことを
指すのである。


悲しいことに
僕はこの点についても
日本人が西洋人に劣っていると
言わなければならない。

むかし日露戦争当時
アメリカから
ケナンという通信員が
来ていたことがある。
彼は大のロシア通であるとともに、
また大のロシア嫌いで
僕もときどき会って
彼と話したことがある。
ある日の夜、
彼は、
日本とロシアのふたつの国を比べて、
面白い話をした。

彼の話によると、
「私はかつてロシアにいた頃
    中流以下の人から
    よく夕飯をご一緒にと招かれた。
    その時の料理がいかに粗末で
    美味くなくとも、
    主人の方は決して
    食事が粗末なことについて
    少しも言い訳などしない。
    主人の待遇は
    いかにもシンプルで飾り気がなく、
    本当の気持ちを私に見せてくれた。
    だから食事が美味しくなくても、
    とても旨く愉快だと感じた。

    ところが日本に来てから
    ディナーの案内を受けるとどうか。
  『まことにお粗末様です。
      お口に合わないでしょうが。』
    と長々しい挨拶を聞かされる。
    ところが食堂に入ってみると
    実に立派な食事で
    食べきれないほど用意してある。
    ところが。
    さて会話はとなると
    淡泊に打ちとけたところがなく
    何も得ることがない。
    今しがた言い訳をしていたのとは
    全く違っている。
    懇談すると言い出したくせに
    打ちとけない。
    これは
    日本人が自分をへりくだる場合だから、
    差し支えないようなものの、
    さて、
    こうなると日本人の言うことは、
    飾り立てた嘘があって信用できない。
    口で言うことが、
    腹の中で思っていることかどうか
    疑わしい。
 

    そうかといって
    私はごちそうの自慢をしろと
    勧めているわけではない。
    客を歓迎する方法は
    食べ物よりも
    シンプルに打ちとけた交際が
    必要ということだ。
   

    たとえ自分が褒められても、
    それが果たして
    日本人の本当の気持ちから
    出たことなのか。
    それとも、ただ単に
    人前でお世辞を言っただけなのか
    分からないなら
    愉快ではない。
    従って珍しい高級料理を並べて
    ごちそうされるけれど
    本当に愉快な気持ちで
    心の中を見せてもらったことは
    まだ一度もない。

 

    私は日本国家と国民に
    とても共感しているが、
    日本人に対して
   どうも親しみの観念が起こらないです。」

と通信員ケナンは語ったことがある。
本当に残念なことではあるが
実際、日本人には
淡泊(シンプル)の点が
欠けている。

 


参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)

49〜50 青年は不必要な知識を貪るな

青年は不必要な知識を貪るな


「青年は
何もかも知らなければならない。
知識を得るためには
世間の悪を知ることもある。
世間を知るためには、
少しぐらいの悪を知るのもやむを得ない」

などと教えたがる者がいる。

しかし僕は、そんなこと信じない!

世間の悪いところを知るなんて、
決して真の知識を得る道ではない。

哲学者に聞くと、知識にも
品格とステータスがあるのだそうだ。

仏教には
未那識(まなしき)と
阿頼耶識(あらやしき)というのがある。
両方とも知識という意味だ。

阿頼耶識(あらやしき)は
蔵識(ぞうしき)とか種子識(しゅししき)とも
呼ぶ。

阿頼耶識(あらやしき)のほうが、
未那識(まなしき)よりも品位が高く、
力のあるものなのだ。

同じ知識といっても、このような階級の違いがある。
知識を得る方法によっても品位は変わる。

いくら、
青年は知識を吸収しなければならないと言っても
悪い知識は取っ払うのが妥当なのだ。
子供らしくて悪知恵がないからといって
青年として少しも差し支えることはない。

人情を知るならば、高尚な人情。
世間の事情を見るならば、
健全な事情を知るのがよい。

悪知恵まで受け付けるのは
かえって青年がその資格を失うきっかけだ。
すでに年寄りに進む近道だ。

ゲーテの『ファウスト』でも、
無用の知識のことを
「人は知らなくとも善いことを知り、
知らねばならぬものをかえって知らぬ」
と言ってある。

このように、僕たちは
不必要な知識にうんざりしているものなのだ。

そんなことも考えずに
無用、いや、むしろ有害な知識を振り回し、
見なくてもよい 縁の下を覗いて

「うわぁ、あすこにクモの巣が引っかかっている。
こっちには犬のフンがある」
とかなんとか言って、
すごいだろう、社会通だろうなどと
得意になっているくらいなら、
いっそ知らぬが仏だ。

青年は誰がなんと言おうと
有害なことを知る必要はない。


参考:『修養』新渡戸稲造(たちばな出版)

修養 (タチバナ教養文庫)

修養 (タチバナ教養文庫)