文の練習 

文について練習しながら考えるためにブログを書きます。 書かれることの大半はフィクションです。

或る経済人の遺姿

 

 むかし故郷にありし頃は、犂とり簣にないて、霖雨には小麦の蝶に化せんを怖れ、旱りにはまた苗代水の足らざるをかこちけるが、世のみだれゆくさまをなげきて、負気なくも国家の憂をおのが憂とせしより住みなれし草の庵を立出で、西の都に赴きし(雨夜譚、はしがきより)

 

 私感ながら、今の世は窮屈だと思います。思ったことができぬから窮屈なのではありません。蜻蛉のように飛べたらと考え、それが出来ないからと言って息苦しくなりはしないです。窮屈は、本音を言う人があまりに少ないから、互いに目配せし過ぎているから、面白いことがあまり起きそうに無いなという所感から来ています。それで、自然、ミーハーの魂から幕末維新に目が行きました。とはいえ、きったはったの緊迫を得て見たいのとは違います。そういうのは映画の方が面白いです。私が昔へ戻って知りたいのは、本音をぶちまけて出世し、近代日本の屋台骨を作り上げた男の生き様でございます。例えば、渋沢栄一という人が居ました。彼が希有なのは、最後まで分を弁えないで世の為に生きよう努めようとしたところでしょう。農と商の分を越え出、士に成り、官になり、いくつも会社を起こし、ひとつの場所に留まりませんでした。さらに、

 

 ゆずりおく このまごころの ひとつをば なからむのちの かたみともみよ(同上)

 

 と、雨夜譚のはしがきの末に置かれた短歌に、渋沢はあの本の意義を込めました。こう言って良ければ、あれは彼の遺書で、時代をも越え出て、我々に語りかけるように見えます。世のため人のためにとてなししわざにはあらず、と謙遜しますが、それは嘘です。著書、「論語と算盤」では世のため人のため、千慮を尽くして節介を焼いた人ですから。そこで私は、例の窮屈を取り払う為に、最も遠慮のなかった男の遺書を気晴らしに読もうとするのです。

 

  

 巻之一より

 

 渋沢は裕福な農商の家に生まれました。父親は、婿入りした人間で家への義務を並より感じていた為か、渋沢を厳しく育てました。六歳の自分から句読を教え、『大学』から『中庸』、『論語』まで読ませ、さらに塾へやり、読書の修行をさせました。なぜ、農家商人の父親が渋沢に勉強させたのでしょう。それが通例だったのか、彼の人格から来るものだったかわかりません。ともかく渋沢の通った塾は、世間に新しく、文の暗記暗唱より、「数多の書物を通読させて、自然と働きをつけて、ここはかくいう意味、ここはこう言う義理と、自身に考えが生ずるに任せるという風」の方針を採りました。斯くして、「本を読みながら歩行いて、ふと、溝の中へ落ちて、春着の衣装を大層汚して、大きに母親に叱られ」てしまうほどの読書好きが生まれたのであります。しかし、家業についてはなはだ厳重の父親は、十五になった渋沢に向かって、「儒者になる所存でもあるまい」、「モウ今までのように昼夜読書三昧では困る、農業にも、商売にも、心を用いなければ、一家の益にはたたぬ」と言いました。その農業というのは、麦を作ったり、藍を作ったり、養蚕業をするもので、商売というのは、自家製はもちろん、他人の作ったものまで買入れて、藍玉に製造して、信州や上州、秩父の紺屋に送って、追々に勘定を取る、掛売商売でありました。渋沢は父の不在に、彼の祖父について見習いをするよう命ぜられましたが、耄碌の爺に随行するのを恥ずかしがり、買い付けを一人でやらせてもらいました。その様子が面白いので、そのまま書き写します。

 

 「いくらかの金子を祖父から受取って、それを胴巻に入れて、着物の八ツ口の処から腹に結び、祖父に別れて横瀬村から新野村にいって、藍を買いに来たと吹聴したけれども、その頃、自分はまだ鳶口髷の子供だから、自から人が軽侮して信用しなかった。しかし自分はこれまで、幾度も父に随行して、藍の買入れ方を見て居たから、これは肥料がすくないとか、これは肥料が〆粕でないとか、あるいは乾燥が悪いからいけないとか、茎の切り方がわるいとか、下葉が枯って居るとか、まるで医者の病を診察するようなことをいうのを聞き覚えて居て、口真似ぐらいはなんでもないゆえ、一々弁じた処が、人々が大きに驚いて、妙ナ子供が来たといって、かえって珍しがって相手になったから、ついに新野村ばかりで、都合二十一軒の藍をことごとく買ってしまった。」

 

 それから、熱心に農業と藍の商売を勉強する父親に感化されて、渋沢も共にその事に力を入れて、一方の助けをするようになりました。藍の買付では父を見事に真似て上手くいった渋沢ですが、江戸へ出て、実家の硯箱を新調して帰って来た時には、その高価なのを責められ、「自分の意に任せて取扱うようでは、つまりドンナ事をするかも知れぬという掛念が強い」と注意されました。この時渋沢は父親の方正厳格に、慈愛が薄いと感じるも、回顧するに当たっては自分の心得違いと反省しています。また、渋沢の性格の一端を知るに、病の姉のもとへ祈祷しに来た修験道に向かって、年号の質問をして間違えさせ、満座を白けさせるということをやってのけたことが書いてありますが、道理を重んじ、大胆にも迷信を排する人のようです。

 さて、渋沢が十七の頃には、家は一角の財産をなして、質取り金貸しもしていました。彼の村にも、領主がおり、御用達との名目で婚姻等の際には金を借りるということがありました。ある時渋沢の家でも五百両を引受けねばならぬということがあって、父の代わりに御用伺いに遣られた渋沢は、そこで身分の不平等を実感いたします。つまり、代官の言い渡した調達をその場で引受けずに一度持ち帰ると申し出ると、代官は嘲笑半分に、「殊に御用を達せば、追々身柄も好くなり、世間に対して名目にもなることだ」、「緩慢な事は承知せぬ」と脅し、「直に承知したという挨拶をしろ」と渋沢に迫ったのでした。結局、渋沢は折れず、「貴様はつまらぬ男だ」と嘲弄を受けながらも話を持ち帰ります。その道半ば、「その時に始めて幕府の政事が善くないという感じ」が起こるのです。その訳も、渋沢の直接の言葉がよく説明すると思うので、まま、引用します。少し長いですが悪しからず。

 

 「何故かというに、人はその財産を銘々自身で守るべきは勿論の事、また人の世に交際する上には、智愚賢不肖によりて、尊卑の差別も生ずべきはずである。ゆえに賢者は人に尊敬せられ、不肖者は卑下せらるるのは必然のことで、いやしくもやや智能を有する限りは、誰にも会得の出来る極めてみやすい道理である。しかるに今岡部の領主は、当然の年貢を取りながら返済もせぬ金員を、用金とか何とか名を付けて取り立てて、その上、人を軽蔑嘲弄して、貸したものでも取返すように、命示するという道理は、そもそもどこから生じたものであろうか、察するに彼の代官は、言語といい動作といい、決して知識のある人とは思われぬ。かような人物が人を軽蔑するというのは、一体すべて官を世々するという、徳川政治から左様になったので、もはや弊政の極度に陥ったのである、と思ったについて、深く考えて見ると、自分もこの先き今日のように百姓をして居ると、彼らのような、いわばまず虫螻同様の、智恵分別もないものに軽蔑せられねばならぬ、さてさて残念千万なことである。これは何でも百姓は罷めたい、余りといえば馬鹿馬鹿しい話だ、ということが心に浮かんだのは、すなわちこの代官所から帰りがけに、自問自答した話で、今でも能く覚えて居ります。」

 

 また、帰って父に申し付けても、宥めすかされるので、渋沢の念虜は胸中にますます蟠るのでした。

 さて、ペルリが来航して、いよいよ世の中が騒がしくなって来たに合わせて、国家談義というのも増えました。渋沢の中で、「百姓というものは、実に馬鹿馬鹿しいという意念」が増長し、また、平生彼が誦読した歴史諸書の千古の英雄豪傑が自分の友達のような念慮が生じて来たということです。私も、時勢に合わせて、渋沢が師であり、友であるような心持ちでいるのですが、万人に共通の心情でしょうか。一方で、商売の方もしっかりやっていたようで、藍の作人にむけて、買付の側から懸賞を行って質の向上を奨励するといった工夫しました。しかしながら、やはり世間に遊学交流したい渋沢の思いは募るばかりで、家の商事を粗略にしては困るという父の反対を押し切って江戸へ出ました。海保の塾あるいは撃剣家の塾に入って、才能・芸術ある者を友達味方としました。彼が二十三の頃には、坂下門外の変を機に志士の捕縛が相次ぎました。渋沢は、その様子を知ろうと、読書の師である尾高の弟、長七郎を京都に偵察に遣りました。京都の様子を知り、世間の騒ぎを聞くにつけ次第に、尊王攘夷の心が芽生えて、このときは頭で考えたものに過ぎなかったが、塾の人らなどと話をするうちに、いよいよ彼は本気になりました。攘夷となれば、大罪人であるので、家に迷惑をかけぬよう、父親に勘当を申し出ることにしました。渋沢の言い分は、天下が乱れれば、農民といって安居してられない、乱世に処する覚悟があるということだが、父親は、分限を越えて非望を企てるよりも、根が農民に生まれたのだからどこまでも本文を守れと言う。身分の位置を転ずるのは了見違いと制止する。しかし渋沢も退かず、国が陸沈するような場合になったと見ても、己れは農民だから微しも関係せぬといって傍観して居られましょうか、何事も知らぬならばそれまでのこと、いやしくも知った以上は、国民の本分として安心は出来ぬことであろうと思われます、と反論する。もはや、百姓町人と武家の差別はない、仰せの分限を守るのは当然至極だが、人世の事は常に処すると変に処するとの間において、自から差別を生じて同一に論定することは出来ますまい、などと問答をくり返したようです。もはや、渋沢と彼の父親との間には隔世の感がはっきりしていました。渋沢は変化に応じんとする心に嘘がつけません。最後には父親の方が折れて、勝手にしろといい、ただし、勘当はしない、「この上はモウ決してその方の挙動にはかれこれ是非は言わぬから、この末の行為に能く注意して、あくまでも道理を踏み違えずに一片の誠意を貫いて仁人義士といわれることが出来たなら、その死生と幸不幸とにかかわらず、おれはこれを満足に思う」と訓戒を与えました。この言葉は、ずっと渋沢の耳の底にあり、話をするに落涙の種であったほど心に響いたようでした。

 暇乞いをした渋沢は江戸へ出て同士に交わり、さあ攘夷を起こそうと気持ちを高めるが、百姓一揆と同じに見なされる、無謀だから見送るべしと長七郎が身を挺して反対するので、はじめは気持ちが収まらなかったが、次第に冷静を弁えて、企てを止めることにしました。その後は、身分を浪士とか書生に変じ、機を待つということになります。

 

 巻之一検討終わり。

 

秩序

 はじめに

 

 人が寄り集まって生活を営み始めると、はじめは種々の混乱や予期せぬことへの対応に追われるのだろうが、やがて生活の反復と模倣によって彼らの生活に秩序が生まれる。ところが、やがて秩序にとって自らの勘定に入れ難い存在が秩序そのものの中から生まれでてくる。少なくとも教会から見れば、ブルジョワもそうしたものの一つであった。ところで、B.グレトゥイゼンの論文、『教会とブルジョワジー』は主に十八世紀におけるキリスト教会によるブルジョワへの批判とその反駁資料からブルジョワという特定の自意識を持つ社会層を描き出すことを試みている。以下、いくつかの本文中の引用とグレトゥイゼン本人による記述から、ブルジョワ精神を考える。

 

 i) 教会は何故ブルジョワの中に強欲を見いだしたか。                                                       

 

 「利己心と蓄財欲がこれら(商人、銀行家、徴税請負人、事業家を指す)の魂」(トマサン神父)

 「誰もが自分と家族の生計に必要なものしか入手し、所有しないなら世界中を見渡しても貧民などないはずである」(不明)

 と、教会はまずブルジョワの強欲を責めた。責めの的は、事業の末にブルジョワが得た報酬であり、誰の目にも明らかだった物的な結果、財産を強欲の徴としたようだ。しかし、

 「もちろん神学者は商業を絶やすまいとして、妥当な限界はないものかと探った」(グレトゥイゼン)

  事業そのものを禁止する訳にも行かなかった。しかし、財を得過ぎているように見えたのだ。しかし、それではブルジョワ達は、何と比べて財が超過だというのだろうか。実際、ブルジョワは怠惰のままに財を得ているのではないとうことは、神父達の目にも明らかだった。

  「やせるほどの勉強、身をさいなむ心労、食事や休息にまでついてまわるひっきりなしの緊張。疲れをいやす暇もない。面倒なことの起こらない日は一日もなく、成功は不安なしには訪れない。[…]大体の場合、よほどうるさく言われなければ顔も見せず、混沌たる事業の中に埋没している。こんなに多忙な隠者がどこにいよう。こんなに疲れる隠遁生活がどこの僧院にあろう。[…]これ以上きつい生活はできないし、これ以上平穏ならざる毎日もない。」(クロワゼ神父)

  今の感覚で言えば、純粋な働き者である彼が、一定以上の報酬を得るのは当然に思われる。もちろん、現代においても正当な報酬というものを考慮するのは容易ではなかろうが。ところで、これほどに働くブルジョワを教会は「役立たず」と判じる。一体どうして?

  「残念ながら、何もない人の生活と少なくとも同程度に役立たずであろう。当人になんの得にもならないはずだから。」(同上)

  つまり、批判の拠り所は、彼らが他人のために働いたに過ぎないということにある。これは蓄財の批判と相反せぬか。しかし、神父のうちでは同様に罪である。なぜなら、労働する当人が祝福され天国へ召されることが第一義的に重要であり、自らの分の祝福を犠牲にして、多大の時間を労働に捧げる人は神と己との関係を軽視していることになるからだ。彼の労働は祝福に必要な行為の限度を超えているのだ。さらに、そうした活動を経て必要以上の財を成すことは二重に悪であるように感ぜられるのだ。しかし、必要以上とは!ここでもまた、一人の個人にとっての必要分という想定が、今度は労働の結果の限度を画定しているように見える。教会秩序の中の個人主義とでもいうべきだろうか。秩序の中ではいつでも、労働においても蓄財においても個人の分というのが範囲を決められているのだ。分を弁えざる者、いかに労働しようとも救いには預からず、労働の結果が目に余れば強欲と看做される。

 ii) ブルジョワの確信はどこにあったか

  「神は聖書で富に対する軽蔑をたえず鼓舞され、恐怖をそそる比喩で富のいまわしい結果を示され、商業的な大事業の第一の動因たる貪欲さこそすべての悪の源であると宣言されているのだから、巨万の富をためて商業を国家の栄光のために流通させるという目的で人間をお作りになったのではない。神が個人と社会を創造されたのはご自身の栄光のためだ」(プリジャン)

  教会は神の栄光を引きながら、事業家の貪欲さを断罪している。貪欲さが事業家の原動力の一つ足るのは認めねばならないが、貪欲そのものは非難されるべきだろうか。非難の根拠はまたしても、教会が予め想定する個人主義であるようだ。莫大の富を見て、それが人間よりも尊重されているように見えたのだろう。金を殖やすことに心血注ぐ人を、人より金を目的に行動する強盗に見立てる。しかし、

  「進取の気象に富むあの商人は、金を儲けながら、自分の国の繁栄を増した、神の栄光のために働いたとは思わないだろうか。国の繁栄をもたらすのは商業の精神だ、と彼はくり返すはずである。」(グレトゥイゼン)

  自分の住むごく限られた周囲を眺めているだけで良いというのでは、事業は拡大しない。教会においては統一的な風景であったはずのヨーロッパ世界のうちに、当時の事業家の目は国境を見ていたのである。神の栄光を預かるのも、祝福を受けるのも第一に国、という考えが芽生えつつあった。だから、自然、国境を行き交う通商が生まれる。彼にとっての隣人とはよその国の商売相手である。『金利の論理』にもまた、その意義が述べられる。

  「[…]貿易も産業もない一部の地方の状態と、商業の精神が農業を花咲かせるあらゆる技術を鼓舞している別の地方の状態とをくらべてみるだけでよい。一方にはなかば未開な習俗と、全般的な無気力、才能の無視、万人の困窮とその結果たる種々の悪徳、きわめて軽い租税ときわめて困難なその取り立てが見られよう。もう一方には驚異的な活力と、日に日に増加する人口、市民のあらゆる階級にみなぎる開化した習俗、右でも左でも資本をどんどん増やしてゆく産業、国家の必要のためにたえず新たに提供される莫大な援助と、時には言われる前に財布の紐がほどかれるほどの易々たる徴税が見られよう」(金利の論理、1780)

  これは結果から見たブルジョワの活動意義だが、ここでも国家やその枠の中におる人々がどれほど豊かになったのかということが、価値の指標になっており、教会の倫理を規定する個人主義と対置される。さて、国家を富ますことが、ブルジョワの栄光だったとしてもそれは抽象的な概念だったのであろうか。ただ一人のブルジョワが国家全体を豊かにしたということはないのであり、彼自身の働きと国の栄光を直接結びつけるのは飛躍がある。彼の栄光を喝采したのは、彼の事業によって決定される領域の内側にいた人々である。

  「私の言う商人この身分は、もっとも古い貴族の家柄をも高尚な感情をも排除しませんがーとは、識見、天分、事業において他にまさり、資産によって国富をふやす人のことです。[…]この国の物資やマニュファクチュアの製品を満載したこの人の船は、遠い異国の産物をさがしにゆきます。この人に仕え、この人に情報をもたらし、この人の代わりに執行する代理人は世界のいたるところにいます。この人の飛脚はヨーロッパ中にその命令をもってゆき、流通手形に記載されたこの人の名前は、資産を運びまきちらして、それを循環させ増殖させます。この人は命令し、推薦し、保護します」(マルセイユ文芸アカデミー、ギュイ会長の演説, 1755)

  これをブルジョワ自身の正確な言葉としてはとらえられぬが、少なくとも、フランスの大商業地マルセイユの文芸家代表をして語られる言葉には、当時の肯定的なブルジョワ観を伝えている。いわく、大ブルジョワは自らの名において、「命令し、推薦し、保護する」という。文芸会長がこう表現するとき、彼は商人を古来の王に喩えてはいないか。王の目、王の耳と古くから言ったものだが、彼の支配する地には彼があたかも遍在しているようである。それは、単に統制をもってなされるのではなく、彼の命令を受け取る人々の「旦那さん」への称賛と喝采によって実現する。別の名を信用と言うが、ブルジョワの署名を担った手紙や手形は、彼が現前せずとも命令と信用を形作る。命令と信用は、雇用された人々の仕事あるいは取引の実現によって機能し、その実在性が確かめられる。その都度、事業に関わる多数者によって確認される権威を、栄光と言う。エコノミーという言葉が、オイコノミアとして語られていたとき、それは家政を意味していた。家政の長は、家に遍く命令を行き渡らせ、同時に家の運営によって得られた資源を配分したが、彼にその権限が与えられていたのは彼の支配する家から承認を得ていたからである。この、単方向でない関係の上に家政の長はいた。ブルジョワが、事業の長であることの栄光を拡大して捉え、国の家政を担っていたと確信していても不思議はない。つまり、新しく生まれた国の方も大方彼らの働きを支持していたのである。

 iii) 秩序の外

 ブルジョワは秩序の外側にいた、とはどういうことか。

 「周知のように、神は各人の天職を『永遠の昔から按配され』、或る者を僧院に、他の者を俗世に、この人を教会に、あの人を結婚に、或る者を法服に、他の者を軍隊に、この人を名誉ある職務に、あの人を商いや手を使う職業、と予定された」(メスポリエ)

  職業召命観のことである。教会が知っている、つまり既存の職業に収まって、分をわきまえて仕事をする人間は、神の調和に逸脱しない。

  「だが、近代のこの大商人は神の召命など受けないように見えるかもしれない。彼がたずさわる職業は、神の摂理がきめた秩序の外のどこか別な場所に彼を位置づけるように見えるかもしれない」(グレトゥイゼン)

  それは、ブルジョワたちが、職をまたぎ、階級を越えて上昇する存在だからだ。自分の収まっているべき場所に見向きもしない。そんなことをしている暇はない。そして、自分たちが、旧い秩序の外にいると自覚した彼らを定義づけるのは彼ら自身である。

  「大商人はさまざまな価値を設けるだろう。立派に事業しているものと成功しなかった者を区別するであろう」(同上)

  「一定の暮らし方を自分に課し、新たな秩序を生み出し、自分の道徳を作りあげ、自分自身とこの世で自分が果たす使命の理想、自分固有の理想を形成するだろう」(同上)

  ブルジョワを先の見えない未来へと押しやる動きは、摂理が決めた狭い範囲内に生活を限定するべきだと説教する教会への、不断の挑戦に他ならない。旧い秩序の外で自己を確定せんと欲する意志が、彼らをブルジョワ足らしめる。それは野心か。ここから少し長い引用になるがご寛容頂きたい。

  「ブルジョワは、人類の壊敗の昔ながらのしるしを新しい形で宿す単なる野心家、罪の子にすぎないのか。いや、そうではない。少なくとも当人はそうであることを知らないだろう。ブルジョワは野心的だが、まったくやましいところはない。義務として野心的なのだ。彼の掟は前進すること。日々これ前進することである。だから、このブルジョワの生活ではあらゆることがきわめて規則的に営まれる。一時の華々しい成功を収める鉄面皮の宮廷人のような往時の野心家の面影はどこにもない。[…]これが罪人なのか。堕落した男なのか。自尊心の誘惑に負ける腐敗した人間なのか。しかし、ブルジョワが偉くなろうとするのは、成り上がりたがるのは、子どもたちのためではないのか。これが最大の論拠である。ブルジョワは子どもの前で自分自身を正当化する。富の誘惑を云々されると、神の摂理が富者の手に置いた救いの手段を十分に生かさないとか、施しをあまりしないとか責めたてられると、彼は子どもに訴える。[…]私には子どもがあります。子どものためには全財産が必要なのです。[…]ブルジョワは一家の父であり、自分の責任を自覚している。子どもに将来祝福されるには、存命中も隣人に敬われるには、自分が慎重でなければならない。彼に落ち度があることをどうやって証明するのか。罪人の悔恨をどうやって呼び覚すのか。ブルジョワは家族のために働いている。自己の階級のために働いている。やましいことはないではないか。」(同上)

  ブルジョワは、秩序の外に放り出された。だから、彼を祝福するのはもはや寄与の神ではない。彼の子どもであり、彼の家族である。会社であり、社会である。やがて、彼にそれらを与えた神に信仰を捧げるかもしれないが、その逆はない。教会の批判した、ブルジョワの個人主義的貪欲は、実は家族に似た拡大してゆく同心円の中心であったので、批判を完了することができなかったのではないか。つまり、ブルジョワだけ批判しても、ブルジョワの活動のほとんどを取りこぼす。ブルジョワもまた、自らの栄光を喝采するべきは足下から広がる我が領域と心得ていた。

 

  最後に、学問の世界があまりに無遠慮にやってのける後味の悪い結末の描写を、それでも私が請け負うのは、未来への期待のためである。上述のように、旧い秩序と戦って、おおまかに言って勝利したと見えるブルジョワも、残りの全ての人がブルジョワになれるわけではないと考えていた。彼らの道徳や規律は、その他大勢の人々には適用されない。代わりに、宗教と秩序を与えていればよいと結論したのである。それが、ブルジョワの家政を自ずから限定してしまうことを彼らは知らなかったのだろう。

 

  参考文献:『ブルジョワ精神の起源』,Bグレトゥイゼン 野沢協 訳 、『王国と栄光』,ジョルジュ・アガンベン 高桑和巳 訳

蓮實重彦

 

 最後になるかもしれない蓮實重彦の講演をほぼ中央、一番前の席で聞いていた。もしや、味を占めて、これからは講演依頼を受けるようになるのかもしれないが、日本で最も権威づいた建物において日本で最も批判精神に富むご高齢のライフワークに関する独り舞台を見ることはもうなさそうだ。だからかしら、観客への感謝の辞を終え、格好いいコレージュの教授を真似て演台の卓を右手中指の関節で小突いて、講堂の拍手を攫って彼が舞台を降りたとき、不覚にも涙が落ちそうになった。ああ、これでもう終わりかと思った。あの女学生達のように走り寄って握手でも求めればよかったろうか。普段、そういうミーハー精神が私のうちに溢れているのは認める。しかし、僕は、つい僕といってしまったが、私は彼が立つのと反対側の扉から出て、受付を任されていた仏文科の友達に会釈して、講堂を出て自転車に跨がり、逃げるようにして学校を出た。彼を畏れたというよりは、一方的に譲り受けたつもりになっている形無き宝物をこっそり家へ持ち帰って眺めたい気分だった。その時には誰と話をして共有したいとも思わなかった。だから、帰って家族にその内容を話した訳でもない。ただ、クソ面白かった、とだけ言って、口数少なく食事した。それよりも、必死に、受け取った何かが別物に変じてしまわないうちに身体にしみ込ませようとしていた。だから、次の日は上野公園を散歩したが、連れに対して口ぶりとか切り口を必死にまねてみようとしたし、その次の日は、ともかくゼミのため必要のあったレジュメの形式を、講演で配られた資料に似せようと一日中パソコンに向かった。おかげで、余談だが、引用符の知識が増大した。しかし、芸とはこういうものだと今では確信している。三島由紀夫は武士道に比して、芸道は死なぬと言った。しかし、不謹慎ながら、蓮實重彦が死ねば、蓮實重彦の芸道は確かに死ぬのである。それを彼は自覚していたはずだ。だから、信条を曲げても大学の講演に出たのだと思っている。一方で、私は蓮實重彦には決して成れないということを自覚しなければならない。その代わり、芸への関わり方は、学ぶつもりがあればきっと学べるのである。たとえ師が隣におらずとも、相応の覚悟と鍛錬があれば、弟子は自任できるものである。このことこそが、文字やメディアを通して広がる、無形の世界、時に学や知と呼ばれる領域の素敵なところではないか。大学に入って四年目にして漸く想い至った感慨である。さて、私に芸を成すことはできるだろうか。今は、全く芸と呼ぶべきものからほど遠いところに手持ち無沙汰で立っているに過ぎないことへの焦りがあるのみであるが、一方で、私にどのような芸が為せるのか、という期待が私を突き動かすようだ。

走り書き1

 

「社会と、気軽に繋がっている[ように思える]為の道具を断とうとしている。SNS・携帯・等々。モバイル、とは«何を»持ち運ぶことを可能にしているのか。連絡の取りやすさである。しかし、なぜ、連絡の取りやすさが価値を持つのか。間を持たせる為だろうか。[不安という言葉はあまりに多くのことを説明したような気にさせるので、気に入らない。精神に関わる形容詞の多くは、結局何も説明しない]

 余りにも[連絡は]頻繁に過ぎるように思う。人の行動や価値観は、目にし、耳にするものに多分に影響を受けるだろうが、余りにも交流し過ぎると、思いもしない考えの色がついてしまうものだ。それらを個性というのかもしれないが、私[…]
 適宜補足した。私が、携帯電話を手放すための自己正当化の文である。それは途中で切れている。続きはきっと、[はそんな個性は要らない]といった趣旨のものになっただろう。拗ねているだけといえばそうだが、拗ね者として自分の定義をしたい場合は、結局こういう論旨になるのだ。しかし、そんなこと以上に、もっと追求してみたいところは、連絡の簡便がどうして価値を持つのかということだ。そこへ、例によって取引あるいは所有の関係を以て説明することもできるだろう。流通の便宜は計られることが、人類の長らくの祈願であり、それは今でもどこかで祈られていることでもある。また、所有は、明確な権利関係で表現することが難しくなってきたから、色々の形をとって人の満足を目指す。

「はしり舞 蘭陵王は顔が優し過ぎたので、獣のお面を被った」
日本の伝統舞踊の授業で、気になったところをメモした。はしり舞そのものは、授業をよく聞いていなかったので、忘れたが、「戦争に際して、優顔を隠す為に獣の面を被る王様」の姿が、想像してみるとおもしろくてメモを取った。私が想像する蘭陵王の関わる戦争は、非常に肉感を伴っている。相手の顔が見える戦いだ。しかし、戦場に鏡は持ち込まぬし、相手から見てこちらが優顔だというのは、相手を油断させることはあっても、相手の力を勢いづかせることはなかろうと思う。一方、お面を被ったからといって、相手の士気をさげるかと言えば、所詮はお面に、過去の特別に恐ろしい記憶と結びつきでもしない限り、恐怖することはなかろう。そもそも、王は先陣切って敵に身を曝すことは少ない。では、なぜ、「優顔」を隠す面を被る必要があったのか。ひとつ想像してみるに、戦場も一種の劇場であったからと答えてみるのはどうか。王にとって戦場はいつも、味方からも含めて、見られる自分も考慮に入れて振る舞う場であったということだ。相手を殺すか自分が死ぬかという刃の触れ合う間際の、自意識の入り込む余地の無いやりとりは、どちらかといえば、末端の兵が担う仕事である。王の役割は、もっと劇的であらねばならない。そういう考えがあったのではないか。ところが、そんな王様に死と頻繁に接する、芸どころではない兵たちが素直に従ったのかという疑問が新たに生じる。お面を被ったふざけた王様の為に死ねるかということだ。もちろん、素直に従わない場合もあったろうし、中間管理職のような武将がよく働いたのかもしれない。

しかし、昔、儀礼と宗教と権威と個々の内面が重ねて結びついていた時には、お面を被った王が畏れ多く見えることもありえる話ではある。

 「戦うことを決意しさえすればよい」

前述のメモの裏に書かれている。これしか書いていないので、なんとも余白を無駄遣いした。どういう経緯で書いたかも覚えていない。やはり、固有名詞が登場せず、短いメモは、時が経てばただの言葉になってしまう。文としての、存在は希薄だ。つまり、何を受け継いで、何を引き渡したかったかが不明である。しかし、上に書いたことと結びつけてみると、生死を賭ける戦と、死なない演劇が等価な緊張関係を持ちえる場合の答えになるかもしれない。それは、上のメモに則って言えば、「戦うことを決意しさえすればよい」ということになる。別の言い方では、死から一番遠い王様が「死ぬ可能性を引き受ける」ことで死に最も近い兵士と対等の関係を得、命と義の取引が行われる。この議論は三島の武士道と芸道の論に色々を負っているので、いずれ引用し直して考えたい。さて、孫子の時代においても、まだ戦術が占われていたが、占いに失敗した演劇の主役はどうなったであろうか。恐らく、つまり負けた王達は戦場では死なずとも、死に待たれていたに違いない。打ち首や切腹、ギロチンの可能性は常に王の演劇に緊張感を持たせる舞台装置であり、彼らを無数の死に曝された魂と取引を担保する証書だったかもしれない。

天麩羅

 

西宮に帰るとほとんど必ず寄る、近所の天ぷら屋がある。そこの天ぷらを祖父は大変好いていて、一緒に行く。店の看板は「天がゆ」という。達筆過ぎて、「ゆ」が「い」に見え、祖父は「天がい」と呼ぶ。私は、末尾を「ゆ」と「い」の間で発音している。少し前まで、大阪伊勢丹への出店準備のために休業していたが、近く営業を再開したのでこの度の帰省に際して再び出向いた。
帰省した翌日、古びて湿気を含んだ店の木戸を久々に開くと客で溢れ、天ぷらを食うのはまたに持ち越された。その所為で妹が好物のエビ天を食い逃したのは、関西では「間んが悪い」という。友人と晩飯を食う約束をしていたらしい。次の日になって、再び来店した甲斐あって、すっと天ぷらにありつけた。店に御任せのコースを二人前注文する。職人が揚げ始める前に、私が「油を少なくして揚げることはできますか?」と聞いた質問が的を射なかったようだが、「いい衣は油を吸わへんので、胃にはもたれへんですよ」と自慢げに気遣ってくれた。東京にいる反動で、薄い天ぷらへの関心が変に高くなっていたのだが、それは胃よりも天ぷらの質の違いを気にしてのことだった。御通しが来て、つついているうち、さくさくと、海老やたけのこや空豆が揚がってくる。東京に多い、濃いきつね色のものと違って白い。衣も、控えめである。したがって、包まれている方の味がよくわかる。衣はあくまで、具を揚げるための補助に徹する。衣に主張はない。人によっては頼りないかもしらんが、かえって、仰々しくなく奇麗だと思う。手術を経て重たいもんを受けつけないはずの祖父の胃にさえ、おとなしく食われていく。時に塩、時に天つゆで味付けする。塩は複数種あり、私は梅や紫蘇を乾燥したのが細かく刻まれて混ざっているのが好きだ。職人は素材を揚げるたびに、お勧めの味付けを教えてくれる。お好きなのんでどうぞ、という時もある。勧めに素直に従う時もあれば、なんにもつけないで食べる時もある。たとえば揚がるとすぐに、海老はしっぽの先まで食う。祖父は、レモンを絞り、天つゆをつけて身だけを食う。揚げ物の間で、すりおろし大根を口へ放り込む。胃もたれしないように。そういうどうでもいいようなことをときどき祖父へ教える。外の傷以外は、滅多に体を悪くしない彼に取っては些細な健康の情報を仕入れる必要が無かったのだろう。第一、大根おろしが、油による胃もたれを本当に緩和するかどうかは私も知らない。気休めだ。ところで、こういう、ちょっとしたこと以外は店では会話はしない。職人の調子で天ぷらが揚がって出てくるので会話をしても、途切れ途切れになる。それが分かっているので、会話をしても弾ませるというよりは天から天へ間を繋ぐ感じで話す。もともと祖父も私も口数が多い方ではないし。そういえば、広島で、「元祖つけ麺」屋に連れて行ってもらった。そこでは会話が厳禁でさえある。知らず、何度か連れに話しかけようとして困った顔をされた時は、何か悪いことでもしたかと思った。いや、予め教えてくれなかった方も人が悪い。ともあれ、そういう店は高い鮨へ行けばどうか知らないが、あまり見かけない。飯が提供する価値のうちの補助的な役割に成り下がっているような店が多い。これを飯屋と呼んでいいかどうか。店の雰囲気をこそ味わうようなカフェはそれでいい。しかし飯屋はぜひ食事を提供することにまず心血注いで欲しい。他は二の次でよい。さすがに、卓にゴキブリ捕獲の用品があるのはどうかと思うが。失礼、上野の定食屋の話です。ともあれ、その天ぷら屋は近場の店にして、飯を心ゆくまで味わえる。さて、かき揚げまでくると、最後はお粥さんと漬け物、味噌汁で〆るのだ。大概の場合は既に満腹を通り越しており、祖父のかき揚げはそのまま家で帰りを待つ祖母のお土産になった。食ったのは妹だったが。

 

  天がゆ

 

「文」 一、

 

「文」

 

 

 一、

 文について、はじめに、何度でも立ち向かわねばならず、また出来る限り誠実であろうと思う問題について記す。誰にも要請されていないのに、文を書くとはどういうことか。あるいは、誰にも要請されていないのに書かねばならない文とはどういうものか。生まれ出ることを待っている文があるのだろうか。功利を説く文章は、文そのものは求められていないように見える。そういう文章は要約と翻訳に向いており、人に伝達することにもまた向いている。それらは誰かの何らかの為の手段として用いられるものである。だから、目的次第ではよく流通するだろう。もちろん、どのような文もそれ自体で自立することはない。ほんの僅かでも他者へ向かっていかない文など見向きもされない。流動性がなく、その時点では価値が無しと判じられても仕方ない。ということはやはり、文が誰にも要請されていない事態というのは稀であるといえる。それにも関わらず、要請はいつでも明瞭とは限らないし、要請を受けて書かれた文が要請にちょうどよく応えるとも限らず、まったく別の意図で書かれた文がとある要請にこれ以上無くうまく応える場合もある。では、このことは読み手に依存した、機会の問題を言うのであろうか。あらゆる文は、自らの意味や価値を余すこと無く救い取ってくれる読み手を待っているといえるだろうか。あるいは、書き手に依存した、意志の問題を言うのであろうか。意志が文として形を得るのを待っているのだろうか。書き手なしの文もまた、ほとんど存在し得ない。しかし、以上のことはどこまでいっても読み手や書き手の話であり、文が固有に抱える問題というものに関わっていない。文の固有の問題とは、つまり、これこれの文が生まれる原因が文そのものに依存している場合などのことを言う。いやはや、先に「どのような文も自立しない」とか「文は書き手なしには存在しない」と書いたばかりだから、滑稽な問いに見える。しかしこの問いは、特定の始めと終わりを持つ、文について言及しているわけではない。そういう文は、文章と呼ぶことにして文から区別したいとも思っている。文章においては、先に掲げたように、読み手と書き手が先行してしまうだろう。つまり、文章と人との関係は意思伝達とかテーマの読み込みの問題に比重が置かれるので、人が文章との関わり方について強い決定権をもつように見えるからだ。決定が意識に上っているかどうかは関係ない。ところが、文は人に先んじている。文があらゆる仕方で別の文に引き継がれてゆくとき、文はそれ自体に固有の運動原理を持っていると私は錯覚する。文が運動する、振動するように確信できる瞬間がある。読み手であろうが書き手であろうが、私の存在には関知せずに存在し得ている文というものが間違いなくあり、私はそれを眺めているに過ぎない、と思う瞬間がある。固有の文はそういう感覚をもたらす。実際には私が感動しているに過ぎないが、その感動の仕方というのが、文章によって表現された物語や人格、喜怒哀楽という全体的なもの、まとまりをもった対象に遭遇した時のものとは違う。それよりも、ここにもお前がいたか、というような文との対峙、もしくは再会によって得られる感慨である。せいぜい、文字によって支えられることしかできない脆弱な存在である文の素となるもの、つまり新たな文に引き継がれるべき前の文が、形姿を変えて、あるいはそのまま私の目の前にやってきたときにはえも言われぬ感慨を受ける。(文における継承が始まる前には、それはどんな姿をしていただろう?分かっているのは、今回、「文」として述べたことは映画の一瞬間であれ、日常の生活であれ当てはまるようだ。だから、文の形を取る前は、街角のタバコ屋の婆さんの、貧乏学生に小銭を負けてやる気遣いの形をとっていたかもしれない。)そのことは、書き付けられたものか、話された言葉であるかは、一時的には問われない。しかし、わたしはいつでもその文に向かいたいので、自ら書付けておくよう心がけ、わたしの知らない文を誰かが書き付けることを期待し、どこかで書き留められたものに出会すのを好むのである。