弁護士法人フィクショナル・公式ブログ(架空)

架空の国の架空の弁護士によるブログ

「あたしンちNEXT」配信情報が出た

あたしンち」の新作アニメ「あたしンちNEXT」が、6月から5か月連続配信される。

しかも、原作準拠の新エピソードとのこと!

 

最新のwebコマーシャルを見る限り、橘家の面々のキャストも続投するっぽい(お父さん役の緒方さんもきっと続投…だよね?!)

 

たったの5話しか配信されないとは!

 

 四大国民的長寿アニメのサザエさんドラえもんちびまる子ちゃんクレヨンしんちゃん

あたしンち」こそ、次なる一角を担う最有力候補だったと思うのだが……。

 

しかし、「あたしンち」はこれで良いのかもしれない。

他の「四天王」は、不老長寿と引き換えに、原作にあったはずの「毒気」をすっかり取り払ってしまったと思う。

本来の「顔」を失い、「家族向けほのぼの作品」として、 原作者亡き今もあてもなく彷徨い続ける様は、さながらゾンビのようでもある(懸命に作品を世に送り出し続けている制作陣各位には申し訳ないけれど)。

もうかれこれ10数年は観なくなったし、今はまた変わっているかもしれないので、あまり無責任なことも言えないのだが。

 

せめて「あたしンち」だけでも、単なる「ごく普通の良い家族」にならず、馬鹿馬鹿しくて面白い、あのテイストを維持して欲しいと思う。

 

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振り幅が凄過ぎる【三善晃】

三善晃は、ドイツのヘンツェと並んで、私の好きな現代音楽作家だ。

 

両者とも、最先端の前衛グループとは一線を画し、アカデミックな派閥(と言うと何だか聞こえは悪いが)からの支持が特に厚かった人物だ。

 

ごく一部の過激派からは「悪しき権威の象徴」のごとく敵対視され、アカデミックな界隈からは神様のごとく崇拝された。

 

しかしながら、三善晃の作品に関しては、国内でこそ極めて評価が高いものの、国際的な知名度は低かったようだ。

 

あまつさえ、亡くなってから早十年。

その難解な作品群は、日本国内の合唱や吹奏楽界隈の人たちにこそ未だ馴染みはあるようだが、あとは日本国内のプロ奏者がごくたまに取り上げる程度だ(海外の有名な一流ソリストやオーケストラが三善作品を取り上げた話など、少なくとも私は聞いたことがない)。

 

演奏が難し過ぎるうえに、シリアス・晦渋な作品で一般知名度も低く、チケットの売上げも期待できないからだろう。

実にもったいない。

 

レクイエムなど途方もない傑作だと思うのだが。

 

また、非常に珍しいのだが、三善晃は一般的な意味での「わかりやすい」名作も残している。

 

高畑勲の熱烈オファーによって実現した、アニメ「赤毛のアン」のOPとEDである。

 

赤毛のアン」の監督を務めた高畑勲は、プロデューサーらの反対を押し切り、現代音楽界の重鎮・三善晃への依頼に強く拘ったという。

(ちなみに、高畑勲三善晃も、同世代の東大仏文科卒という共通点がある)

 

亡者の慟哭と絶叫をそのまま音楽にしたようなレクイエムに対し、夢見る少女の心の躍動と目眩く花畑が広がるような「赤毛のアン」の世界。

 

振り幅が凄過ぎる。

とても同じ作曲家が書いたとは信じられない!

 

「レクイエム」

www.nicozon.net

 

「きこえるかしら」

www.youtube.com

 

「さめない夢」

www.youtube.com

求償とか損益相殺とか免責とか

交通事故その他何らかの事故の加害者側について。

加害者側の場合、求償とか損益相殺の問題には注意する必要がある。

交通事故その他何らかの事故の場合、加害者は後で保険への求償ができる場合が多い。

あるいは、わざわざ求償せずとも、保険が被害者へ直接支給されるケースも多々あるので、確認を怠らないようにする必要がある。

あと、被害者側が保険から既に補償を受領済みの場合もあるので、この点のチェックも必須である。

この辺りはごく一般的な話だ。

 

通常の事故と異なる注意を要するのが、労災である。

労災保険から既に補償されている費目については、使用者の賠償義務は免責される(労基法84条2項)。

また、意外と知らない弁護士も多いのだが、被災者が労災申請をしていない等、労災保険から補償されていないケースであっても、補償相当の事案であれば、使用者の賠償義務はその分免責される(労基法84条1項)。

つまり、使用者側としては、労災に関して何らかの法的責任を負う場合、労災保険の支給の有無に関係なく、労災保険で補償されるべき金額については、必ず全額免責されるということだ。

求償の問題ではない、労災独自の考え方なので、注意する必要がある。

「これ書きますか?」

手形法では、手形に記載する内容に関し、以下の4つに大別して考える。

・必要的記載事項

・有益的記載事項

・無益的記載事項

・有害的記載事項

の4つだ。

 

有り体に言えば

・「絶対に書かないとダメ!」

・「書いたら有効(有利)」

・「書いても意味ない」

・「絶対に書いちゃダメ!」

である。

 

手形に限らず、その他の法律文書を書くときも、これを意識する法律家は多いと思う。

上記4つの他に強いて加えるなら、「書いたら不利」もある(※)。

 

(※厳密なことを言うと、本来「有益的記載事項」とは、有利・不利を問題にする概念ではない。有利・不利問わず、記載することで何らかの効力が発生する事項を意味する。)

 

一般化するとこんな感じか。

①「絶対に書かないとダメ!」

②「書いたら有利」

③「書いても意味ない」

④「書いたら不利」

⑤「絶対に書いちゃダメ!」

 

このうち①と⑤は比較的分かりやすい。

というか、法律ではっきり定められているので、あまり議論の余地がない。

 

①「絶対に書かないとダメ!」

例えば、個人根保証契約については、書面(又は電磁的方法)により極度額について定めなければ、契約は無効となってしまう(民法465条の2第2項、同3項、446条2項、同3項。令和2年民法改正による変更。)。

また、裁判所に提出する訴状においては、請求原因を遺漏なく記載しなければならない(民訴法134条2項2号)。遺漏がある場合には、裁判長が補正を命じ(同137条1項)、これに従わないと、訴状却下となってしまう(同2項)。

 

⑤「絶対に書いちゃダメ!」

侮辱、名誉毀損、脅迫、威力・偽計業務妨害(例:犯罪予告等)に該当するような文言を記載することは、それ自体が犯罪を構成してしまいアウトである。当たり前だけど。

 

これらについてはあまり議論の余地はない。

弁護士複数人体制で仕事していて問題になるのは、大半が②~④だ。

同じ事柄であっても、弁護士によって「書いたら有利」、「書いても意味ない」、「書いたら不利」の判断が分かれることがある。

「そんなことあるの?」と思われるかもしれない。

それがあるのだ。

一つの事柄について、その意味合いは複数の切り口から評価できるし、複数の法律が適用されることがあるからだ。

 

前置きが長くなってしまうが、例えば、発注者が施工業者への報酬支払を拒否しているケースを考えてみよう。

発注者と施工業者との間で、基本契約が締結された後、継続的な取引関係が築かれ、何度も個別契約が締結された事案だ。

基本契約を書面で交わした後、個別契約の発注に際しては契約書は交わされなかった。

よくあるケースだ。

個別契約に関する相互の認識の食い違いにより、報酬不払いが発生しているのだ。

 

この種のケースでは、往々にして、発注者と施工業者との間に、施工・監理者等の第三者が介入している。

施工・監理者が発注者の要望を聞いて、施工業者に色々と作業指示を出すのだ。

このやりとりの過程で、行き違いが生じることがある。

 

上記のようなケースでは、施工業者は、発注者が施工・監理者を使者として、個別契約を締結したなどと主張することがある。

使者とは、独自に判断権を持たない「伝書鳩」のような存在をさす法律用語だ。

発注者が決定した事柄を、機械的に伝達する立場でしかないということだ。

施工業者としては、発注者の使者である施工・監理者の指示に従って対応した(個別契約を締結した)のだから、約束通り報酬を払ってくれ、というわけである。

 

発注者本人としては

「発注者が素人であるのに対し、施工・監理者は専門家なんだから単なる伝書鳩なわけがないだろう!」

と主張したいようだ。

発注者から依頼を受けた弁護士としては、この主張を書面に書くべきだろうか?

(長い前置き終了)

 

・弁護士Aの意見

専門家が単なる伝書鳩なわけないんだから、施工・監理者が使者であるという主張をつぶすためには、発注者本人の言い分は②「書いたら有利」な事情だ。

 

・弁護士Bの意見

④「書いたら不利」になるかもしれない。

「発注者が素人」で「施工・監理者は専門家」ということは、発注者は施工・監理者の専門的な判断を期待して、様々な取次ぎを任せたことを意味する。

一定の法律行為(契約締結等)について代理権があったと認定されてしまう可能性がある。

そうすると、越権行為が行われても、施工業者としては知りようがなかったとして、表見代理民法110条)を主張されてしまう(施工業者が主張するとおりに個別契約の締結が認定され、報酬を全額支払わなければならなくなる)のではないか。

 

・弁護士Cの意見

③「書いても意味ない」でしょう。

結局のところ、本件では、個々の工事内容や報酬設定について、発注者が承諾していたかどうかが問題になる。

単に、施工・監理者から、必要十分な取り次ぎがなされなかったため、個々の工事内容やその必要性は認識できなかったし、報酬についても自分のあずかり知らないところで勝手に話しが進んでしまったなどと主張すれば、反論としては十分でしょう。

「発注者が素人」だとか、「施工・監理者は専門家」という事情は、記載する必要がありません。

 

・・・・・・

 

書き出すとキリがないので、この辺でやめておきます。

 

あとついでに書いておくと、③「書いても意味ない」というのも、法的な意味合いだけでなく、営業的な意味合いで問題になることが多々ある。

法的には書いたところで何の意味もないが、書いたら「よくぞ言ってくれた!」という具合に依頼者の溜飲を下げる効果が期待できる場合がある。

先ほどのケースでも、弁護士Aは「依頼者が喜ぶんだから、書こう!」と食い下がることが考えられるわけです。

(この後、弁護士Bが「法的に意味のない主張を延々と書くと、裁判官への印象が悪いですぞ!」「④「書いたら不利」ですぞ!」と諫める様子が容易に想像できる。。。)

とうとう聴かずじまい

フジコ・ヘミング氏が亡くなったとのこと。

享年92歳。波乱のご生涯だったそうで。

ご冥福をお祈りいたします。

 

氏の演奏はとうとう聴かずじまいだった。

 

氏のドキュメンタリーがNHKで放送されて反響を呼び、例のラカンパネラのCDが大ヒットしたのは1999年頃。

 

他方、私がクラシック音楽沼にハマったのは2002年頃。

トスカニーニ指揮NBC交響楽団が演奏するベートーヴェンのライブ録音を聴いてからだ。

 

今にして思うとこれが良くなかったのかもしれない。

しょっぱなに出会った音楽家があまりに偉大すぎたのだ。

トスカニーニを聴いた後では、さしものカラヤン先生のベートーヴェンですら「ふにゃ◯ん」にしか聴こえなかった(当時の私には)。

それでも当初は「自分の耳はおかしいのかな?」などと自問したものだ。

 

そんな折、またしても良くない出会いがあった。

有名な音楽評論家の宇野功芳の著作だ。

宇野もカラヤンをクソ味噌に貶していたのだ。

あの独特で扇情的な文体・殺し文句に当てられた私は「カラヤンがダメだと思った自分は、なかなか良い耳を持っているぞ!」などと傲慢にも誤解してしまった。

 

タチの悪い量産型日本人クラシックファンの誕生である。

ゴリゴリの懐古・本場・権威志向になってしまったのだ。

 

量産型クラシックファンの間では、フジコ・ヘミングの名は蛇蝎の如く嫌われていた。

今でも嫌われていると思う。

曰く、何処の馬の骨とも知れない、古臭い、自分勝手な演奏をする素人っぽい演奏家として。

 

私はこうした情報を鵜呑みにして、氏の演奏に触れることを避け続けてしまった。

ひょっとすると、勿体無いことをしてしまったのかもしれない。

 

今では、トスカニーニ宇野功芳の呪縛・洗脳からは解放されつつあるように感じる。

しかし、これは自由の獲得などではなくて、単に新たな宗教・情報に囚われ始めただけのことなのかもしれない。

バルトークにまつわるガセネタ

バルトークのピアノのための組曲Op.14 Sz.62 BB70を聴きながら帰宅。

 

久しぶりに聴く作品だ。

先日バルトークについてブログに書いたことから、思い出して聴いてみようと思った次第。

 

気になって本作についてネット検索してみると、「えっ!?嘘でしょ!?」と気になる記述が、複数のサイトで散見された。

 

いわく

①「第2楽章:スケルツォ 12音列を用いた下降形の冒頭」

だとか

②本作の2曲目に「十二音技法が使用されている」

だとか。

 

※問題の2曲目

youtu.be

 

結論から言うと、いずれも真っ赤な嘘、完全なるガセネタだ。

 

譜例を確認するのが手っ取り早い。

まず、冒頭1〜4小節目の音列。

12音どころか11音しか書かれていないし、最後の2音はオクターブ違いなので、実質10音しか使われていない。DとG♭が出てこない。

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次の5〜8小節目も同様に実質10音しか使われていない。DとB♭が出てこない。曲が始まってここまででDは一度も出てこない。

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ちなみに、続く9〜12小節目も13〜16小節目も下降音形だが、いずれも実質10音しか使われていない。

 

ということで

①「第2楽章:スケルツォ 12音列を用いた下降形の冒頭」

は完全なるガセである。

 

続いて

②本作の2曲目に「十二音技法が使用されている」

について

 

たしかに、17〜20小節目、21〜24小節目は、いずれも上昇音形の12音列が用いられている。

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しかし

「12音列が出てくる」

すなわち

「十二音技法が使用されている」

とはならない。

 

一般的に、十二音技法の場合、まず特定の12音列が設定され、そのヴァリアントでもって曲全体を構築していく。

単に部分的に12音列が出てきたからといって、その12音列が曲全体の構成の鍵を握っているのでなければ、「十二音技法が使用されている」とは言えない。

もし、この曲に「十二音技法が使用されている」と考えるのであれば、リストの「ファウスト交響曲」やリヒャルト・シュトラウスの「ツァラトゥストラはかく語りき」についても、 「十二音技法が使用されている」と認めなければならない。

ファウスト」の第一楽章の第一主題には12音が出てくるし、「ツァラトゥストラ」の「科学について」のフガートにも12音が出てくるからだ。

これは一般的な理解・感覚に反する。

 

というわけで

②本作の2曲目に「十二音技法が使用されている」

もガセネタである。

アニメ映画を観た連休

諸事情により、この連休は旅行に行けず。

アニメ映画をアマプラで視聴。

一本目はコナンのイカー街の亡霊

二本目は本日サブスク解禁の鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

コナンは原作・アニメ・映画、いずれも遠ざかって久しい。

イカー〜は、劇場公開された2002年から実に22年ぶりに視聴する。

冷笑的な灰原さんの台詞回しや、ステレオタイプに過ぎるエリート二世三世の子供達の意地悪なキャラ設定など、やや鼻につく面もなくはない。

だが、やっぱり面白い。

仮想空間だから、主要キャラを殺すのも、自殺させるのも、ホームズやモリアーティを出すのも、変身も何でもあり。

推理モノの禁じ手を連発しながら、冷めるような展開にならず、ちゃんと面白い。

厭世的な世界観から始まりながら、未来への希望を感じさせるメッセージ色が強い。

しかしながら、映画公開の2年後に当の脚本家が自殺してしまったというのが何とも……。

ゲゲゲの謎も面白かったなぁ。

こちらも人間の醜悪さを徹底的に描きながら、僅かに残されたヒューマニズムへの期待と希望を感じさせる作品だ。

それにしても、小説・映画・漫画・アニメの場合、グロ・ダークでも、ちゃんと商業的に成功して評価される。

対するに、音楽の場合、グロ・ダークなのは商業的には完全に御法度だ。

なぜだろう?

ほとんどの人が音楽なんかに興味ないからなんだろうな、きっと。

気持ちを奮い立たせるための享楽、一時的な慰み物に過ぎないんでしょうな。

バルトークなんか、グロ・ダークでサイコオカルトな作風で活動してたけど、クラシックのお堅い世界ですら干されたくらいだからなぁ。

ところで、そんな彼の一番怖い作品は、渡米して極貧生活を経た後、久々の委嘱に狂喜して書き上げた「管弦楽のための協奏曲」だと思う。

完全にイッちゃった人が、残された生命力を振り絞って、あんなアメリカン・シティライクな娯楽作を作ってしまったのだ。

彼の創作歴・人柄を知ったうえで聴くと、何とも言えない気持ちになる怖〜い作品だ。

しかしながら、本作は彼一番の人気作だったりする。

陽キャアメリカ人達は、あの作品の表面的な輝かしさとエネルギーに惹かれたんでしょう。

あの作品の本当の怖さなんて知らないだろうし、バルトークの人となりにも、これっぽちも興味なんてなかっただろうしね。

本作がウケた後、ほどなくしてバルトークは死んじゃうし。

なんとも皮肉なもんですなぁ。