自分は、所謂お茶目に見られることに成功しました。

そこにシビれる憧れる。あの軽やかさと芯の強さ。




大好き→軽くて芯の強い人。パスタで言うとアルデンテ。
好き→自意識をこじらせて揺らぎまくってるような人。
麺で言うと小諸そばの盛り蕎麦。
普通→?


俺が欲しいのはあんたのソレだよ。
寄越せ。
なんてことを思っていた。


………………………………………………………


一昨年の夏くらいに書きかけでケータイ保存してた文章。
ふと思い出して、続きというか、もう全然繋がっちゃいないけど書こうと思う。
自意識はまるで拭えちゃいない。




最近、好きだった人が知り合いと付き合い出すという漫画みたいな展開に遭遇して、
まあもう一週間経つしそろそろ笑い話になる頃合いなんだけど随分痛かった。
でも、そういう風に自分に「可能性がない」ことを突き付けられた途端に確かに興味がなくなるのは、
一体どういうことだろう。
「本気」じゃなかったということなんだろうか。
いや、そうじゃない。
本気や真摯さというのは、結局その瞬間、それに没入している間の自分にとってのみの「真実」で、
それはいつかは過ぎ去るということ。
けれどそれが過ぎ去った後で、過ぎ去ったということを理由に「嘘だった」ということはできない。
それは卑怯だ。
だから俺は胸を張って本気で好きだったと言うけれど、
今はそれ程の思い入れがないことも認める。
一方で、異性愛的な好意、異性をパートナーとして獲得したいという欲望は、
可能性に対する期待値と言い換えることができる気もしている。
つまり、相手が「手に入りそう」と思えればこそ、欲望は刺激されるんじゃないか。
だから、その可能性がないと知らされた途端にそれは萎む。
結局は好意と言ったって絶対的なものでなく、
他のすべての価値と同様に相対性に汚されている。
損得勘定に規定されてる。

そのことについてはまた別に嘆くとして、ここではもっと具体的な悲劇を想定して嘆きたい。
というのは、仮に俺がのび太であるとして、
しずかちゃんが出来杉くんと付き合うのならば分かる。
最初から土俵が違ったのだと諦めが付く。
そもそも勝負を挑もうとしたことが筋違いであったのだと。


しずかちゃん「わたし、出来杉さんと付き合ってるの」
俺「ぁ、そうなんだ〜!おめでとう^^」


みたいな。
いやもうグゥの音も出ねぇすから勝手にしろよごめんなさいでしたみたいな。
そういう「女子力高め」な人が「イケメン」と付き合うのは何と言うか論理的に分かる。
それは殆ど自然の摂理だ。
反論の仕様がない。
けれど、男なんてクソだ死んでしまえ、自分は男なんか要らんのだと
公言する人を、であるが故になお異性愛的な意味で魅力を感じてしまった時に(それ自体侮辱である)、
その人が俺ではない誰か別の男と付き合ったりした場合の絶望は、
その比ではないだろうと思う。
結局その人にとって「男」という一般性ではなく、「俺」という特殊性が拒まれたということであり、
また俺ではない誰かの特殊性ならば受け容れられたということであるから。

スネ夫「悪いなのび太、僕あの子と付き合ってんだ」
俺「ぇ、あ、は?ぇ、何が、ちょ、あ?いや、ぇ、はぁ、ちょ、いやいや、ぇ、何が?ア?」


みたいになる。
それで、そうした事態が実際に起こり得る確率は決して低くはない。
故に、その時の絶望を先取りしてシミュレーションしておきたく書いてみたけど、
やはり死にたい以外の感想が出てこないな。
ファック承認欲求。

脱資本主義スーパーニートって肩書の名刺をカレンダー切り抜いて手書きでつくった

政治っつうのはつまり食欲の問題で
文学っつうのはつまり性欲の問題なんじゃね?
なんてふと思って
だから俺は今腹が減ってるから
やっぱり政治に無関心じゃ居られないんだけど
でもあの子とヤリたいなんて思ったらやっぱり
もう少し教養というか
ロマンティシズムに耽らなくちゃいけないのかな
なんて思うと死ぬほどめんどくさくて
「お前はなにもわかってない」
って歌詞を口ずさむ俺が
果たして何を「わかって」んのかなんて
相変わらず青臭い中二嗜好で
昔色々あったあの人が今も元気に鬱やってたりしたら救われるな
って思って覗いたブログは随分垢抜けていて
一人置いてかれた気になったりするのは
本当に自己都合なナルシシズム
傷口に塩振ったら誰か焼いて食ってくれなんて思うけどダメだ
この肉は腐ってる
腐ってる

ひたすら遊ぶハタラキもせず

いやあハタラキもせずに青春延長戦死ぬまでやってるつもりですか?
と言われてもやめらんねぇのが旅!ってやつですね。






という訳で火曜の朝に突発的にバイトを止めた勢いのままにチャリで西へ下り、
現在は広島は尾道に来ています。
海が見える山の上の入り組んだ道の途中にある、今にも崩れ落ちそうな旧い家。
皹の入った煉瓦、あるいは錆びたトタン屋根。
そういう「終り」を感じさせつつもそこにあるものに惹かれる。
まあ端的に言って幼年期の俺にトトロが及ぼした影響は思いの外大きかったと申しましょうか、
呪術師ハヤオ・Mに掛けられた呪いは大人になっても、否、大人になればこそ
解けないものなのであります。
子供はたぶん、何も失っていないのだろう。
子供はただ、「これから失う可能性」だけを持って生きている。
それは裏を返せばまだ何も手に入れていない、
「これから手に入れる可能性」だけを持って生きているということでもある。
だから子供は過去を見ない。
自分が赤子の頃を思い出してみても仕様がない。
子供は未来だけを見ている。
やりたいこと。
なりたいもの。
行きたい場所。
可能性を現実とするその場所を求めて生きている。
子供にとってはだから、歴史的な遺物というものは価値がないのだろう。
自分を振り返れば分かるが、中学や高校の修学旅行で行った神社仏閣には何の興味も湧かなかった。
子供はそれよりもゲームやアニメの中に表現されるハイ・テクで未来的な
「都市」的景観に惹かれるのだと思う。
それは、それこそは「自分たち」がこれから築き上げてゆく景色だからだ。
今まで地球上のどこにも存在しなかった景色だからだ。
自分たちの可能性は、そこでこそ試されるべきだと固く信ずる為だ。




しかし大人は違う。
大人にとっては、未来というのはもう殆ど何の意味も成さない。
未来というのは自分があとどれくらいでこの世から消えるかという予測の 尺度に用いられるか、
さもなくば空虚な言葉遊びに過ぎない。
もはや誰もアリの美徳を内面化できないし、
キリギリスを笑えない。
個人の努力では、現実には手に負えないことが多過ぎると知ってしまった為だ。
可能性は、可能性というだけでは最早価値を持たない。
可能性があるという、そのことの「意味」を考えずには居られない。
そして、得られる結論は殆どの場合考える前から決まってしまっている。




さて、それではどう生きようか。
何もかも無意味なのだとしたら今すぐ死んだ方がいいのか。
そもそも意味とは何だ。
無意味とは。
結局誰かがそれを決めているだけじゃないかと言うのなら、
自分でそれを決めることだってできるだろう。
意味があることに価値を見出だしても、
無意味であることに価値を見出だしてもいい。
逆もまた然りだ。
だから悩みというのは実はあってないようなものなのだ。
抽象のレベルで、人はそれほど悩んでいない。
少なくとも俺は。
想像力の及ぶ範囲で、確かに俺は自由なのだから。
ルールは恣意的に決められる。
解釈は無限に組み合わせられる。
問題は、そう問題は、「現実」の環境に対して、
俺の想像力が遮断されているという状況にある。
つまり、生きる意味があろうがなかろうがそれが何であろうが俺は
それを自由に手に取って生きていくことができる。
けれど、俺の想像力は俺の身体性に依存している。
身体を維持しないことには、想像力を働かせられない。
そして身体を維持する為には、想像力をねじ曲げて社会の誂えたルールに
則って「労働」に勤しむことが最も手っ取り早く、かつ現実的な選択肢としてある。
ここにこそ問題がある。
つまり自分が無価値と思うものに、他ならぬ「自分自身の価値」を保つ為に
従服せねばならぬという塗炭。
これこそが、まさに個人の生にとって耐え難き痛苦をもたらす。
そうした苦痛に耐え兼ねればこそ、
個人は「人生に意味(価値)などない」という冷笑を用いることによって
それでも「生き」ようとする。
つまり虚無主義者の虚無は、真実の虚無ではなく、
むしろ内面に宿らせた豊潤な世界を、外界からの圧力によって潰してしまわない為の、
精一杯の虚勢、言うなれば鎧であると言える。
その鎧をどう外して他者と「真実の」交流をしていくかということについてのみ
世人は口喧しいが、そうした鎧を着込むことで真実生命を保っている人間も居る。
それを「イケ好かない」と断罪することは、
呼吸器を用いて生きている人に「それは自然でないから今すぐ機械を停めろ」
と言っているに等しい暴力だと俺は思う。
だから、自意識を拗らせたんなら誰に何と言われようと最後まで拗らせ続ければいいと思うよ。

自慰について。

うっかりツイッター
mixiにオナニーについての哲学的考察日記なんか書いてましたよ(てへぺろ)
みたいなことを書いたら読みたいと言って頂けて、
それが社交辞令でもなんだかやっぱりおお有難い、
では後ほどブログに転載しますねと言った手前、
やはりここは素直にmixiを開いてオナ日記を転載するのが
責務なのであるけれど、ちょっとmixi黒歴史感に
今の俺の精神状態では耐えられそうにないので、
元気になって転載できるその日まで、
「今」の俺が考える自慰についての新たな文章を
読んでお待ち頂きたいみたいなそんな臆病な自尊心が綴る文章がこちら。


まあ確実に言ってることはそんな変わらない。
童貞じゃなくなったってそれで世界は変わらないし、
地震津波原発の爆発や今もどっかで起こってる戦争だって、
「世界を変える」ことはなかった。
そういう中で日常を唾棄しながら生きる。
非日常の悲惨に喘ぐ人々を尻目に日常を唾棄して生きる。
自分は絶対に「そっち側」に行くつもりなどないのに、
そうして日常の退屈を嘆いて生きる。
これは自慰というよりむしろレイプなのでは。


なんてことを思うけれどしかし。
日常が紛れもなく「退屈なもの」であるというその事実は重い。
俺の全存在を押し潰しそうなほどに重い。
何をやっても結局繰り返しに思われてしまう。
寝て起きて働いて寝て起きて働いて寝て起きて働く。
そうした「制度化された」生活の中に
「生きる喜び」を見出すのは俺にはひどく困難だ。
むしろ生きてるだけで死にたくなる。
もしもそうする以外に、生きる方法がないのであれば。
だからこんな風に自慰に耽る。
そこには成長がないという。
もっと他者を見詰めろという。
言葉を交わせという。
自分を省みろという。
けれど。
その果てに理想化された人間の像自体が、
単に「社会」に最適化されたプログラムなんじゃないのか。
その像を自らの脳内にインストールして
奴隷の幸福を味わう以外に、
この世界には本当に何もないのか。
ここではないどこかという可能性は。
そこを目指す熱量を幼いと笑って居れば事足りるのか。
そうして腹を満たすのか。
おまえらは。
俺は。
どうなんだ。
ちくしょう。

強さとか弱さとか。

最近、というか殆ど物心ついて以来ずっと考えてきたことが、
つまりは「強さと弱さ」についての問いであったのだと、最近気付いた。
何が強さで、何が弱さで、といった哲学的な議論には興味はない。
いや、それは少し強がりだ。
実際のところ興味はある。
できればそれを突き詰めたい。
けれどそんな悠長な時間はないのだ、
と割り切ってしまう程度には俺は怠惰で、現実主義的なのだろう。
個人が哲学的探究に勤しむ間にも、
世界中で悲劇が進行している。
自分が出遭う悲劇もあれば、出遭わない悲劇もある。
誰かの悲劇に一々共感はしていられない。
精神的余裕も時間もカネもやる気もない。
だから考えたい。
考えたいことは、唯一つ。
それらの悲劇が「人間の」生活空間で起こる以上は、
つまり社会において悲劇が起こる限りにおいて、
それは「政治的」な帰結であるということ。
この原理的な事実に照らして、
強者と弱者の政治的関係について考えたい。
ここはブログだから、誰にも遠慮せずに書く。
「見られるべき自己像」という勝手に妄想した理想に遠慮して、
賢しらぶったり、変に冷笑的になったりもしない。
好きなものは好きで、嫌いなものは嫌いだと、
考えたいことを考えたくて、考えたくないことは考えたくないと書く。
理想があるなら理想があると、素直に書く。
これは一つのリハビリだ。
日常に埋もれて鈍磨した感受性を、
俺はこうして文章を書くことで磨き直したいつもりで居る。
それが唯一の目的なら、
誰にも、自分自身にも、遠慮なんかしてる場合じゃない。


そういう訳で、ちゃんと文章を書いてみようと思う。
今まで逃げ続けてきたことにちゃんと向き合おうと思う。
人生に一つくらい、言い訳せずに立ち向かえるようなものを持ったっていいだろうと思った。
ツイッターにもURL載せたし、今までよりはもしかしたら見てくれる人も増えるかも知れない。
だから、誰にも遠慮なんかしないけれど、
リーダビリティ、可読性ということについては、
これは何よりも念頭に置いて書く。
そうでなければ意味はないのだから。
では、本論。


まずは理想について。
これをはっきり断っておかないと、
いつまでもぐるぐると耽美的に思索に耽るのみで
一向に有意な議論を展開できない。
だから理想ということを言えば、
それは強者も弱者も居ない世界が実現できるなら一番いい。
けれどこれでは理想が余りにも抽象的で、何ら意味を持たない。
実現の為に努力しようのない理想は、理想としての価値がない。
かと言って、「強者」「弱者」というカテゴライズを自明のものとし、
それを前提とした世界観で物事を語るというのは、
今現に存在している「強者」「弱者」という頸木(くびき)を再生産し、
現状を追認することになってしまい、自由とは程遠い。
強者と弱者という関係は、常に流動的であり、
その瞬間瞬間の関係の内に浮かび上がっては消えてゆく泡のようなもの、
であると個人的には思う。
と言うより、そう捉えた方が確かに「弱者」は救われる。
誰だって、自分が絶対的弱者であるなどとは思いたくない。
自らの置かれた弱者的位置付けは、この社会における政治的関係の帰結であり、
それは自らが政治的能力を身に付けることによっていつでも改変可能であると、
自分には他者に対して相対的優位な立ち位置につく能力があるのだと、信じたい。
そうでなければ生きていけはしないだろう。
少なくとも、「社会」の内においては。
だからこそ、時に弱者はあらゆる「言葉」で以て
強者によって組み敷かれた「強者/弱者」という関係性を破壊しようと努める。
秩序を無秩序に還元しようと努める。
そうした営みは決して無駄ではないし、
そうした努力によって得られた新たな知見、視座というものの価値も計り知れない。
しかし「そうは言っても」。
そうは言っても、俺にはやはりこの世には強者と弱者が存在しているように思えてならない。
その関係は明らかに自明ではないし、政治的で、恣意的だ。
だからこそ覆す必要がある。
そうした秩序が誰かを追い込むのであれば、
そんなものは破壊されるべきだ。
けれども。
自分が「強者」にカテゴライズされた時、
それでもその秩序を「破壊する」側に回れるかどうか。
これが、俺が俺自身に問いたい、最も基本的な命題である。          (つづく)

そんな奴、目の前にいたら本当にブッ殺してやる/君が死んだら、悲しくてやってられません

映画「ヒミズ」を観た。




中学生の頃に観たら死んでたなぁ、と思う。
親なんてマジでぶっ殺したかったし早く家出たかったし
学校行きたくなかったし死にたかったし。
今となっての笑い話も、
当時はまさに生き死にの問題。
だけれど大分、遠くに来てしまったなあと実感。


常に選択コマンドは「逃げる」の一択で生きてきた。
それでも、立ち向かう勇気もない癖に
我慢したり留まったり耐えたりする臆病よりはマシだと思った。
どうせ耐えられやしない癖に。
いずれ自分が壊れる癖に。
それでも「いつか」「誰かが」救いに来てくれるとでも思ってんだろうか。
アホらし。
そういう奴らの臆病よりは、
俺は遥かにマシだと思った。
何なら誇ってやったっていい。
誰にも俺を、臆病者とは笑わせない。
少なくとも、俺は今まで自力で俺を救ってきた。
自力で自分を救おうとしたから、
誰かが助けてくれたんだ。
きっと今居る友達も、
だから俺と付き合ってくれてるんだと信じたい。
俺は、彼らが自分で生きてるから、
彼らと居たいと思うんだ。
生かされてることにも気付かずに、
ただ生かされてるだけの奴はクズだ。
そこに感情は生まれない。
憤りも感動も味わうことなく死ぬんだ。
自力で生きてやしないから、
どんな物事にも無頓着で。
何をしたって実感がなくて。
俺はそれだけは、嫌だ。
俺の意思で生まれたんじゃないならせめて、
俺の意思で納得して死ねなきゃ割に合わない。
生まれさせられて、生かされて、
最後は殺されるだなんて真っ平だ。
だから俺は子を生まない。
生命を次代に繋ぐことが尊いとは思わない。
そんなことの為に生まれてきた訳じゃない。
俺はただ、俺が納得して生きられればそれでいい。
誰を救いたい訳でも誰を殺したい訳でもない。
ただ、俺は今俺が生きてるってことに、納得をしたいんだ。
それだけ。



そういうことを、思い出した。
ずっと忘れていたような気がする。
東京からも家族からも社会からも、
俺は随分遠くに来たつもりで、
逃げ果(おお)せたつもりで、
その実ここは地続きだった。
たかが600k東へ行けばそこは東京。
家族が居て帰る部屋があって友達が居て探せば仕事もあるだろう。
どこでだって生きていける。
どこもここと変わらない。
ここにはここの生活があって、
そこにはそこの生活があるんだ。
そしてどこでだって、俺はちゃんと生活していくんだ。
どこまで逃げてもきりがない。
でも、何に立ち向かえばいいのかもわからない。
それを時代の所為にしてばかりもいられない。
自分のケツは自分で拭きたいと、
いつだって望みはシンプルな筈なのに。




ヒミズを観た感想を書こうとして
取り留めのないことばかり書いてしまった。
けれど直接感想を書くよりも、
こういう文章を書きたい気持ちになった
と言った方がもしかしたら感想は伝わるかも知れない。
いや伝わんないか。




原作のヒミズは、
読んだ時期もあって中の中、
良くて中の上といったくらいの
俺にとって「ふつう」の作品だった。
だからむしろ映画の方が期待していた。
元より原作の「再現」なんてものを
映画に期待して観に行くようなことはしない。
原作を映画にするのなら、
そこには必然性がなくてはならない。
つまり何故小説は小説のままではいけないのか。
何故漫画は漫画のままではいけないのか。
何故「映画」にする必要があるのか。
原作のストーリーをただ映像でなぞるだけなら、
頭の中で働かせた想像力の方がはるかに美しくコストも安い。
わざわざ映画を観に行く必要はない。
CDを聴いていれば済むのに何故ライヴに行くのか。
小説を読んでれば済むのに何故映画をみるのか。
それはつまりそこに「ライヴでしか味わえない感動」、
「映画でしか見れない景色」を求めているからだろう。
要するに「付加価値」を求めてる。
その付加価値を観客にどう感じさせるかというのが
原作付きの映画の使命であり存在意義だろう。
だから、
わざわざ映画を観て「原作と違う!」と
文句を垂れることほど無粋なことはない。
当たり前だろう、原作と違うものが観たくて行ってるんだから。
少なくとも俺はそう。


そういう意味で、
この「映画」ヒミズは俺としては非常に楽しめた。
原作の設定を素材として、
上手く一つの映画(料理)として仕上げたと思う。
もちろん、その際に余分と感じる具材や、
火加減の強弱というものもあった。
けれど全体としては良かったと思う。
これが初の園子温作品鑑賞ということで、
殴ったり殴られたり刺したり泣かれたり泣いたり
と言ったビジュアル面での「痛さ」を
少し覚悟して観に行ったけれど、
ヒミズ」ではそれらは無難なレベルに収まっていたと思う。
それよりも、ラスト手前で
二階堂ふみ演じる茶沢さん(原作とは別人。でも、それがみたかった)
が、染谷将太演じる住田に
「君が死んだら、悲しくてやってられません」
というシーンがあって、
不覚にも俺はここで泣いてしまった。
一緒に行こうと言っていた友達は
免許の教習で来れなくなり、
一人で来ていたことをいいことに号泣した。
他の観客の迷惑にならないように、鼻はすすらないように。




泣いた、だけでは余りに安易で
その安易さを手放しで礼賛できるほどには
俺は大人でも社会適合的でもないので
後ほどウザッたらしくこの「涙」の理由について
言い訳を連ねたい気分がありますが
とりあえずまだ昼食ってないので今日はここまで。






余談に見せ掛けて実はこれが一番言いたかったことなんだけど、
ヒミズ二階堂ふみの魅力は、
個人的に害虫(=最盛期)の宮崎あおいをはるかに凌ぐ。
染谷将太の冷たい熱演も良かった。

無力

がんばってとか元気を出してとか明日があるなんて言葉をいくら並べても現実に絶望している人には無力どころか有害だと思うから、そういうことを知っているつもりの俺はただ沈黙するしかなくて、それが俺なりの「思いやり」ということなのだけれど、でもそれは、きっと「臆病」の裏返しなのだろうな。




言葉が何の役に立つというのだろう。
好きな人一人、救えやしない。