文章を生み出す能力について

 大学最後の夏休み、わたしは高校生の頃以来である「自分の考えや気持ちを記録すること」を目的としたブログを数年ぶりに開設することにした。今回、改めてそうすることに決めたは、友人のブログを読んで、ひどく羨ましく思ったからだ。いいなあ、わたしもこんな文章が書けたらなあ、と。

 

 この「羨ましい」という感情は、昔からわたしの原動力になっている。例えば、そう、わたしはいつだって過去の自分の書いた文章を羨ましく思ってきた。

 

 小学六年生前後から高校三年生までモバゲーやGREEJUGEMやFC2、Alfooやナノなどを利用し、媒体を変えつつもコンスタントに日記を書き続けていた。記録癖があるためその殆どのブログを消さずに残しており、今でもたまに読み返すことがある(想像しうる限りの全ての黒歴史という黒歴史がたっぷりと詰め込まれているので、勿論非公開に設定してある)。

 また、わたしは中学1年生の頃から本格的に創作サイトを運営し始めていて、たまに感想を貰っては承認欲求が満たされていた。今まで書いてきた小説はかなり短いものからある程度文量の多いものを合わせて、100以上はある。自分の経験や考え、感情と密接に関係したものばかりなので、中学生の頃の小説であっても「いつ・どこで・どういう気持ちで書いたか」を思い出せるものが殆どだ。

 わたしは自身の過去のブログや小説を懐古の情に浸りたくなる度に読み返していて、その度に心から「いいなあ」と思ってしまう。ちゃんちゃらおかしな話だが、どんなに内容が稚拙であっても、「もう今のわたしには到底書けない素敵な」文章ばかりだと感じてしまうからだ。そして、それは紛れも無い事実だ。昔のわたしは、もう、この世界のどこにも存在していない。

 

 創作活動をして他人に評価をしてもらった経験もあって、かつてのわたしは傲慢にも、自分は自分の考え方や感じ方を言語化することが得意だと、そう思い込んでいたし、正直な話、その思い込みは大学に入るまで続いていた。

 一方で、わたしには自分の生み出す文章は極めて平凡であるという自覚があった。しかし、自覚があったからこそ、自分の憧れる人の言葉を吸収し、確実に自分の一部にしてやるという貪欲さがあった。

 わたしの中で「言語化が得意である」という自信と、「自分の文章は平凡である」という自覚は矛盾せず存在していたので、自覚が遅れてしまっていたのだ。大学に入り、井の中の蛙だったわたしは現実を知った。まだまだ圧倒的に精進が足りない、と。

 しかし、それでもわたしは未だに過去の自分の文章を読んで、「いいなあ」と思う。「羨ましいなあ」と感じる。きっとこのちゃちな文章でさえも、将来のわたしは羨ましく思うのだろう。そう思うと、ほんの少しだけ得意な気持ちになる。

 

 ありがたくも、最低限以上の文章を生み出す能力を授かって生まれてきた。でも、せっかくだから、昔の自分に負けないような、昔のわたしが読んでも同じように、あるいはそれ以上に「いいなあ」と思われる文章を生み出すことが出来ればと思う。

 そのためにも、退化してしまわないように、ある程度の頻度でブログを書いていきたいと考えている(とはいえ、飽き性なので長期に渡り継続的に更新できる自信はあまりない)。Twitterでは文章能力向上に限界があるし、安易なその場しのぎの言葉で経験やそれに伴う感情を完結させてしまいたくない。

 

 ちなみに象の墓場というブログのタイトルは、わたしのだいすきなディズニー映画のライオンキングの劇中の台詞から取った。現実には存在しない、都市伝説だとおとなになってから知った。

 ふと思いついた単語なので、現実世界での使用方法を確かめてみようと思いネットで検索をかけてみると、一番に楡周平さんの「象の墓場」という小説が登場した。一度も読んだことはないが、何れ読めたらと思っている。

象の墓場 (光文社文庫)

象の墓場 (光文社文庫)