働くということ

働くとどんな良いことがあるかというと、ズバリ、お金が貰えて勉強にもなるということです。

 

学生のときはお金を払い続けないと勉強することが難しいです。

なので、学生というのはどうしても学ぶ期間が限られてしまう。もっと学びたくてもいつか卒業式を迎えることになります。

 

だから、もし学びたい分野の仕事を見つけたら、ぜひやってみるべきです。自給自足で無限に勉強できます。

 

経済の輪のなかで生活を維持しつつ、まさに最前線から多くを経験することができるのです。

 

仕事いっても、純粋に学術的な研究施設ほど、高度なスキルが必要で最低限の収入しか貰えなかったりしますが、そこはまあ努力次第です。

 

コミュニティに抱く幻想

ネットにあるコミュニティの一生という作品は、コミュニティがいかにして凡庸になるかを説明している。

その作品では、凡庸なる者の手によりコミュニティは凡庸になると暗に示しているが、僕はそうではない、と思う。

コミュニティ、集団とは何だろうか。

 

 

 

当たり前のことだが、集団の有する能力は全て構成員の能力であり、本来は集団自体のものではないし、集団自体には何の属性も無い。

したがって、異なるスキルを持つ構成員が増えれば、必然的に集団の能力も変わっていく。

しかしそれでは集団を定義することはできない。個人ですら常に変化するものであり、その集団もまた常に構成員を入れ替えるのなら、集団はそもそも変化するものと受け入れる他ないからだ。

 

では、集団として、人の集まりを見るという事に意味があるのだろうか。

僕が思うに、何らかのきっかけで集団に属することになった時、誰しもがその時いたメンバーによる能力の複合こそがその集団の価値なのだと錯覚するのだ。

 

ただし、実際には錯覚ではなく、その時点では本当のことだから厄介なのだ。

そして、構成員が増えれば、その価値がより強大になり、逆に構成員が減れば価値が下がると思ってしまう。

この楽しさを、過ごしやすさを、喜怒哀楽の流れを永遠に、と思う。

 

だから、しばらくして、ある時ふと全く別の価値を持つ集団となっている事に気付くのだろう。

そして自分自身も変わっていることに気づく。

その時、その場所に残るか去るか、決める事になる。

いずれを選んでも、過去にその場所に見出した価値とは決別せざるを得ない。

 

とはいえ、そんな目にあうのなら最初から集団などとは関わらないでいよう、と思っても無駄だろう。

個人もまた集団の最小単位であり、あなたはあなた自身に対しても何らかの価値を見出しているからである。

 

個人もまた変わるのだから、結局、自己認識のズレは埋めることが出来ない。それにより生ずる葛藤も、変化に気付かないように心がけて蓋をすることはできても、無くすことはできない。

 

ここで翻って、個人ですら集団の幻想から逃れられないなら、むしろ集団自体あっても無くても同じで必要ないではないか、と考えられる。

 

逆説的に言えば、むしろ個人の無常さを補うための存在が集団であると言える。

集団の変化の速度で言えば、より構成員が多いほど、変化も緩やかだと信じたくなる。友達、家族、社会、、、と言ったように。

 

社会の多重構造は、ある意味では、そういった無常の現実を、よりスケールの大きなものを常なるものとして見出すことで、心の安定を図ろうとする作用によるものなのかもしれない。

 

実際は、構成員が同じ人である以上、変化の速度も個人と変わらないのだが。

 

家族も地域も学校も部活も会社も国ですらも、全てのスケールに対して言えることで、集団そのものに抱いた幻想といずれは向き合わなくてはならなくなる日が来る。

 

この現象は人が人である以上生じうるものだ。

もしこれを回避しようと試みるなら、その方法の一つは不変の存在となることである。

しかし、仮に医学の進歩で不老を獲得し、社会の進歩で老衰以外の死を退けられたとしても、それは不滅の存在であり、不変ではない。

結局、自然が常に変化するものである以上、不変にはなれない。

 

 

 

もう一つは、自然そのものを不変の依代とすることである。変化そのものを常なるものとして受け入れることで、多重構造の幻想から抜け出すことができる。

 

言ってしまえば、詭弁であり戯言だが、要は変わることを受け入れる他ないということである。

思い出が幻想だとしても、その瞬間においては真実であり、過去に確かに存在したものなのだから、ゼロではない。それでいいではないか。