繊細なミュージカル 『レ・ミゼラブル』

 

 

 

小学校の頃、銀の燭台のエピソードを道徳の教科書で読み、

「ああ無情」というタイトルの子供向け書籍を読んで以来。

 

大河小説を2時間半に圧縮しているから、テンポがよい。

(ただし、原作小説では当然ながらはるかに複雑なようだ)

 

ミュージカルの形式、実はそれほど個人的に相性がわるくない。

「ダンサーインザダーク」も、「ラ・ラ・ランド」もフェイバリット。

 

主人公ジャン・バルジャンを演じるヒュー・ジャックマンが素晴らしい。

単なる聖人というわけではない、葛藤がありながら正しくあろうとする姿が心を打つ。

ある意味ではテンポのための「ご都合主義」の連続だが、

(1日でコゼットたちが深い恋に落ちたり、ここぞ、というとき追いかけてくる警部と再会したり)

そこに生き生きとした息吹を吹き込むのが、感情を繊細に表現する演技のディテールだ。

 

よく観ると、ミュージカルのイメージにありがちな、おおげさで大味な動きをしながら歌うなどといった演技はあまりしていない。
とても繊細で、表情やちょっとした動きで語るような演技の方に、目がいった。

 

このあたりは、舞台のミュージカルと、映画のミュージカルの違いかもしれない。
個人的には、「嘘っぽくならない歌×演技」という演出への学びが大きい。

 

同じメロディが何度も反復されるのも面白いと思った。

それでいて違う歌詞が載る、明るさや暗さも変わる。

それは、もしかしたらミュージカルではよくある手法なのかもしれないが、

人生そのものの、反復性のようなものを反映しているようにも感じた。

 

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ヴィクトル・ユゴーの原作をフランス語でミュージカル化したものを、さらに演劇プロデューサーのキャメロン・マッキントッシュらがロンドンでミュージカルにしたという経緯があるとのこと。

 

フランス革命の知識があった方がよい、とても「地域性」が高い映画でありながら、
同時に、英語圏どころかアジアやアフリカなど世界中へと拡大していく「普遍性」が高い物語。

 

貧困がもう一度拡大し、あれほど希求した人権への意識が希薄化した21世紀にこそ、

残したいと思う。

そして、この時代からこその、あのラストシーンなのではないか、と思った。

「時計仕掛けのオレンジ」は、暴力を暴力で包み続ける

 

はじめて観た。

スタンリー・キューブリックのSFには「2001年宇宙の旅」の印象があったから、

これほどドライブ感に溢れた映画だと知らなかった。

 

前半で描かれるのは、主人公アレックスの、圧倒的な暴力。

劇場で20年以上上映禁止になったのもうなずける、

特定の人たちに高揚感を与えるであろうおそろしいものだ。

特に、「雨に歌えば」を歌いながらリンチとレイプを行うシーン。

ギャップのある音楽と画を組み合わせる、映像の技法「対位法」が使われている。

その暴力は、その陽気な楽曲のように屈折がない、素直なもの。

けれど、徹頭徹尾、胸糞が悪いもの。

ここまで留保なく暴力を描く映画は、おそらく今の時代ますます見つけにくくなっているだろう。

 

近未来を描いたアートディレクションや、

力強さのあるカメラワークは、スタイリッシュ。

だから、ますます危険なのだ。

アレックスの暴力さえスタイリッシュに見えてしまう、危険さがあるのだ。

 

しかし、その単調な暴力がメタ的に別の暴力に包み込まれるのが、後半からだ。

全体主義を意識している国家の暴力。

人間性を洗脳によって制御できると信じる科学の暴力。

アレックスの暴力への、かつての仲間やホームレス、作家たちの仕返しの暴力。

そういった暴力の多重構造が生まれ、ますます物語はドライブ感を増していく。

 

暴力を包む暴力、というメタ構造こそ、この映画のポイントなのだと感じた。

その暴力のメタ的な構造こそ、原初的な暴力からスタートして

文明が「発展」していくことでつくられていく構造であるようにも思える。

 

そして、その国家の暴力によって、

結局彼の暴力性の有無は二次的な問題になってしまうラストは印象的だ。

けれど、確実に、アレックスが受けた暴力は彼を破綻させた。それが表情からわかる。

 

いったい、どの暴力が「まし」なのか。

行使している対象が罰せられない暴力、罰せられる暴力の違いはどこにあるのか。

答えも、提案もないのが、いっそ清々しい。


そして、果たして、機械的に暴力衝動が制御できるようになった人間は善人なのか。

この魅力的なテーマは伊藤計劃の「ハーモニー」を彷彿とさせる。

 

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

ハーモニー〔新版〕 (ハヤカワ文庫JA)

 

 

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有名な話のようだが、

「時計仕掛けのオレンジ」の原作には、映画の先に触れた21章が存在する。

映画は20章までを扱っているが、21章では主人公アレックスが更生するという。

21章を用意した、原作者の気持ちも個人的にはよくわかる。

普段は、その世界観で生きているから。

けれど、同時に20章までの要素で芸術的に映画を完成させた監督の気持ちもよくわかる。

 

人は「時計仕掛けのオレンジ」が20章で終わる価値観か、21章まである価値観か、

どちらかを選ぶことができる

劇中の神父がいうように、

選ぶ自由があることが、人間の条件なのだろう。

 

レイモンド・カーヴァー「出かけるって女たちに言ってくるよ」 「大聖堂」

 

少しずつ、このレイモンド・カーヴァー村上春樹が翻訳した

短編集「ぼくが電話をかけている場所」を読んでいる。

裏には105円というレシートが貼ってある。ずっと前に買った短編集だ。

 

今日読んだのは、「出かけるって女たちに言ってくるくるよ」

「大聖堂」の二篇。

どちらも、壮絶だった。

 

強烈にレイモンド・カーヴァーの短編集から感じるのは、

読後感をどうデザインするか」という感覚。

断ち切られるように、けれどこのタイミングしかないというところで物語が終わる。

その読後感は、おそらくなかなか味わない。

複雑だが、とてもよくできた感覚だ。

大いに余白を残す。その残し方が絶妙とでもいおうか。

 

「出かけるって女たちに言ってくるよ」は、

一見平穏で、明るいアメリカを感じさせるような場面が続いて、

暴力によって物語は断ち切られる。

その暴力は、まるでビールを飲むような描写とも差がなく、おおげささがなく表現される。

そこに、「暴力とは偏在的なものなのだ」という説得力を感じる。

暴力はどこにだって潜んでいるし、表層的な明るさで消し去ることもできない。むしろ、平穏は暴力を助長さえするのかもしれない。

そうやって、終盤に至るまでの平穏な描写にさえ、不穏さを遡求的に見出してしまう。

 

「大聖堂」は、他者がある種の了解に至るような物語。

つつみかくすことのない語り手の差別的な意識はなかなか強烈だ。

露悪的といってもいいし、人によっては痛快とえ感じるだろう。

盲人は言った。「テレビは二台持ってますよ。カラー・テレビと、昔ながらの白黒を一台ずつね。おかしいことに僕はテレビをつけるとなると、まあ、しょっちゅうつけてるわけだけど、きまってカラーの方をつけちゃうんだな。いつもそうなんだな。いつもそうなんだ。おかしいね」

それについていったいどう言えばいいのか、私にはわからなかった。言うべきことがまるで何もないのだ。感想無し。

 

 

こうした延々続くディスコミニケーションの描写は巧みで、
遮る壁の厚さを強く感じるものになっている。

だからこそ、彼らがある同じ境地へと達する瞬間へと運ぶ物語の力も、また強烈に感じる。

なぜそこに至ってしまったのか、もしかしたら登場人物たちでさえもわかっていないし、読み手もわからない、けれど、確かに「至ってしまった」という説得力がある。

その不可解さとカタルシスの間の、読後感。

 

おそらく、個別の小説の読後感を説明するとそういった感じになる。

特にこの二篇については、共通していえるのは、

相反する感情をないまぜにして絶妙なバランスになった瞬間に放り出す絶妙さ。

 

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カーヴァーの短編は、こんなイメージに近い。

自分のなかにある見たくない埃が積もっている小さな部屋。

自分でさえも、そんな部屋があることを忘れていた部屋。

それを静かに開けて見せる。

見覚えのある物が置かれている。

ただし、それが何の部屋かははっきりとは教えてもらえないし、分からない。

居心地がわるさもふくめて、居心地がいい。そんな部屋だ。

 

 

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

頼むから静かにしてくれ〈1〉 (村上春樹翻訳ライブラリー)

 

 

 

現在入手しやすいのはこちらのシリーズのようだ。

まだ読んでいない作品がたくさんあるのは嬉しい。

 

サマータイムマシンブルース

 

 

 

モラトリアムを謳歌している大学生たち。

彼らが突如、タイムマシンに出会ったことではじまる、

大げさじゃないSFコメディ。

以下、ネタバレはほぼ無し。

 

以前、本広監督が何かの本の対談でしていた

「最もしたいことができた映画」といった旨の話が

印象に残っていたことが、アマゾンプライムのスクロールで手を止めた理由だ。

そのとき、彼の話で対比されていたのは、踊る大捜査線のシリーズだった。

 

巧みな脚本で楽しめた。

原作はヨーロッパ企画という劇団の作品。

演劇が原作の「キサラギ」や「ラヂオの時間」などは好きなので、

おそらく好みだろうと思って観たが、やはり好みだった。

 

序盤は正直退屈に思ってしまったのと、軽いノリがきつかったが、

中盤以降、どんどん出来事が連鎖していくあたりからひきこまれた。

まるで、方程式を解いていくような印象がある。

 

冷静に考えればタイムトラベルものにありがちな矛盾もある気がするのだが、

それはあっけらかんとした、勢いのある演技や演出のテンポ感で気にさせないようにしている。

そう考えると、少しアホっぽい大学サークル員たちという登場人物の設定は、よくできている。

さらにいえば、そんな設定が、決してタイムマシンを大それたこと

(金儲けや権力の掌握・・・)などに使わないという、話のスケール感の制御にも

つながっている。なるほどと思う。

 

出演者は、今観ると豪華。

瑛太上野樹里が主演級だが、ムロツヨシ真木よう子も目立つ脇役で活躍している。

(どれくらい本気か不明なものの)続編の計画もあるそうだが、

この出演者たちをもう一度集めるのはなかなかヘビーだろう。

 

この映画では、若手だった彼らの、一夏のきらめきが観れる。

写真が印象的なモチーフになっているのだが、これは、

その「きらめき」を強調する役割を果たしているようにも見える。

あとから振り返ると貴重な瞬間を閉じ込めるタイムカプセルのような、写真という存在。

そう考えると、バカバカしくて騒々しいのに、どこか儚さを称えた映画なような気もする。

 

  

 

曲がれ!スプーン

曲がれ!スプーン

 

 

 

幕が上がる

幕が上がる

 

 

この監督の、他の演劇関連の作品も機会があれば観てみよう。

 

これからブログを更新するにあたって。

これから、あらためてブログを更新していこうと思う。

ブログをする理由は、いろいろあるが、

二つほど理由に触れたいと思う。


アウトプットを前提としたインプットは、吸収力が高い

ここでいうインプットとは、大雑把にいえば、本を読む、映画を観る、イベントへ行くといった、情報やコンテンツを摂取すること。

 

以前は、かなりの頻度でブログを書いていた。

残滓のようなものがここにも少し残っているが、それはごく一部。

もっとたくさん書いていたし、一時期は、相当のめり込んで、

1日のかなりの部分をブログに費やしていた時期さえあった。

それが、社会人になり、忙しさもあったと思うが、どちらかというと

怠惰な気持ちからブログから離れてしまった。

終盤の頃は、人に見せる気持ちもかなり薄まっていたことも背景としてある。

 

ブログを書いていた頃の自分を思い出すと、本や映画、イベントなどに対しての

インプットが相当前のめりだった。

「これをブログに書くのならどう書こう」

「引用するならどこを引用しよう」

「このコンテンツに対しどう自分の意見を言おう」

そういったことを考えていた。少し切迫感もあっただろう。

 

それは、プレッシャーでもあったが、どちらかといえばよい面が大きかったと思う。

なんとか目の前のものからブログに書き得るものを引き出そうと考えると、

「吸収力」が向上する。

自然と必死になる。

だから、あの頃に読んだもの、観たものは、自分の糧になっている感覚が強い。

 

年を取り、この必死さは努力で維持すべきものなのではないかと思うようになった。

もちろん、あれ以来のアウトプットを前提としないインプットでも、自分なりに真剣ではあった。

だが、水が低いところへ流れるように、いつしか、問題意識をあまり持たず、

受動的にコンテンツを消費するようになっていったと思う。

そういうときは、読み終わった/見終わった瞬間、そのコンテンツを忘れてしまう。

そして、「自分の中にコンテンツを留まらせて考える」分量が

低くなってしまったと思う。

そうした自分への漠然した不安もあって、もう一度、アウトプットをブログで行い、

インプットを自然と熱量をもってできるようにしようと考えた。

 

自分の輪郭を揺らし、柔軟性を高めたい


このnoteでは、25歳で性格が固まってしまうという話があった。

https://note.mu/okaki_tabetai/n/n0a784b08b1b2

「だいたい25歳あたりから自分の歩き方がわかるから進む道を譲らなくなる。結果として柔軟性が無くなり、自分を形作る価値観の再編ができない」のではないか。そしてわたしの理論では性格というのは濃縮される。価値観の再編ができないままどんどん濃くなっていく。

 

実感としても、頷ける部分が多い。
これを自分自身の話として考えたとき、

ある程度当てはまるのではという思いとともに、恐ろしさを感じる。

 

ただ、25歳で固まったままになる人と、

それに抗う人や成長することができる人もいると思う。それもまぎれもない実感だ。

このnoteの執筆者も、その見えない固定化の力に抗おうとしているのだろう。


性格が固まることは、自分自身の輪郭が明確化してしまうことと言えるだろう。

その輪郭を、揺らしていくような何かが必要なのだと思う。


そのためには、例えば、先に述べたような前のめりなインプットがある。

どんどんインプットしていくことは、他者の価値観にどんどん触れること。

自分の価値観が揺さぶられ、他者の価値観の有用な部分を

自分の中に取り入れることができる(あるいは取り入れざるをえなくなる)だろう。


また、その「何か」として、「自分が何を考えているのか」を可視化するようなアウトプットもある。

つまり、こうやって文章を書くということ。

それによって、自分の考えがどれくらい独りよがりなものか、あるいは固定化してしまったものなのか、なども見えてくる。

そして、少なくとも文章のなかでは、その偏りを調整していくことができるだろう。

それは、(矛盾するようだが)矯正的な柔軟性の確保だ。

 

自分の輪郭を揺れを可視化し、それを大きくしていくこと。

それがブログを書こうと思っている理由のひとつだ。

 

とはいえ、気軽に書いていきたい

結局、気負いすぎることもよくない。

理想が高すぎたり、完璧を目指してしまったりすると、

それとのギャップですべてを投げ出したくなってしまいがちだ。

楽しむ感覚を持ち続けられるレベルで続けたいと思う。

 

 

 

 

 

ルート225 (新潮文庫)

ルート225 (新潮文庫)

主人公の女の子の性格がひねくれすぎていて正直読むのがつらかった。
おそらく、リアルによく書けているからこそ、だ。
不器用な愛情の発露を表現してるにしては、不快すぎる。
志村貴子の表紙がなかったら読み通せなかったかもしれない。
ただ、どこか放り出されたようなエンディングは、少し時間が経ってみるとわるくない。