六根清浄で徒然・・・
人間の感度をあげる方法
この頃、美意識とかセンスとかの概念をビジネスに取り入れることが流行りみたいですね。
たしかにビジネスでもセンスや好き嫌いが合わない人とは一緒にビジネスやるのが難しかったりします。
そんなとき、ふと言葉が出てきました。
それが
六根清浄(ろっこんしょうじょう)
これが浮かぶ時点でキモいかもですが笑
六根とは、それに加え第六感とも言える意識の根幹で
①眼根(視覚)② 耳根(聴覚) ③鼻根(嗅覚) ④舌根(味覚) ⑤身根(触覚) ⑥意根(意識) のことだそうです。
◼︎辞書;六根は人間の認識の根幹である。それが我欲などの執着にまみれていては、正しい道(八正道)を往くことはかなわない。そのため執着を断ち、心を清らかな状態にすることを言う。
●私;おやおや、なんかこれってビジネスでよく言われる「フィルタリング」とか「前提条件に齟齬がある」ときに出てくる「客観的視点に立つ」「前提条件をおかない」「いちど、整理するためにマインドフルネス」みたいな感覚に近くないですか??
◼︎辞書;そのため不浄なものを見ない、聞かない、嗅がない、味わわない、触れない、感じないために俗世との接触を絶つことが行なわれた(山ごもりなど)。「六根浄」ともいう。
●私;おいおい、いよいよもって「マインドフルネス」「リトリート」「メンタルケア」「エクササイズ」などのメンタルケアに近い話もあれば、自然に親しむとか「ツーリズム」的な話に近くなってきてないですか??
昔から、どうやら日本人はこういう感性で生きてきたんでしょうね。
だから感性を研ぎ澄ましておいて「妖怪」やら「カミさま」みたいな考え方が浮かんできたんでしょうか。
こういうイメージする力も、いまのビジネスでは「クリエイティビティ」と言われています。
まさに鳥獣戯画に代表されるように、日本の美意識とかいう話もさることながら、こういう「リフレッシュ」する考え方が日本のモノづくりにも繋がっているのではと思いました。
そういうことで、私も六根清浄しないとなあ笑
また近々、滝行でも行ってくるか~!!
常若で徒然・・・
最近、あつい!
そして外を歩くのがつらい。。
いつも思いますが、そろそろ衣替えをするべきか否か迷います。。
そして、一年が経つのが早すぎる気がいたします。
慣れたと思ったら、また年末、、、
こんな人生、そろそろ固めていかないとと思う日々です。。
さあ、雑談はさておき、神道には「常若(とこわか)」という言葉があります。
これは若々しく生命力に満ち溢れた状態を尊び、いつまで新しくあろうという意味の言葉だそうです。
私なんかは、人生とこわか、、
それでは成長がなくダメですが、自分も人も絶対に逃げられない壁があります。
それは時の流れを止めること。
絶対の真理はあるものはいつかは死ぬことです。
ただ若い人って若いんですよね。なにがって「心」が。。
自分の「魂」を常に燃焼して若い人に接している。
常に新しいことにチャレンジしている人には尊敬の念を抱くことが多々あります。
神道において「魂」とは何かといえば、人はみな生まれ育つ土地の氏神様(産土神様)と、父母をはじめとする祖先から御魂を分け頂いてこの世に生まれると考えられているようです。
簡単にいうと、地元と先祖ということでしょうか?
神道は清く・明く・直く・正しく、変わらずにあることが人の生きるべき道であり、道とは簡単に言うと自己との対話による自己修練と言うことができると思います。
それこそ「かんながらの道」というもの。。
これはビジネスでも教育でも一緒のような気がします。
特に、私の後輩のゼミに行くことがあるんですが本当にそれを感じます。
ひとりひとりに対して、真正面から何度も伝えていかないといけません。
でも同じ内容でも、その時の雰囲気や感情の状態で言葉を変えたりしていく必要があります。
本当に人を指導すると言うことは難しいです。
こういうときに、ライブとかやってる人間はその場の空気感や雰囲気に合わせることがうまいのかもしれません。
そういうときに大事なのが、いい意味でも悪い意味でも「過去の成功体験」に引っ張られないことが必要になってくるんだと思います。
「人はすなわち天下(あめのした)の神物(みたまもの)なり
心神(わがたましい)を傷ましむるなかれ」とあります。
生きていると様々なことがありますが、自分の目を濁らせることなく、曇らせることなく、澄んだ鏡の様に常に客観的な視点で自分の偏見なく見ることが、明るく生き生きと生きることにつながる。
これが「常若を通じた神道」のエッセンスなのかもと思います。
「わが心清め清めてよく見れば まことは神も我が心なり」
これは、禅の考え方にも似ているような気がします。
「自灯明」という言葉などは正に、そういうことなのではないでしょうか。
心理学でも相手の態度は自分の鏡というようなことも言えるというのが立証されているようです。
そういう意味では、偏見だらけの私はもう一度自己を見つめなおして心と人を見る目を「常に若く」していくことが成功のコツなのかもしれません。
ビジネスでも、その1年の積み重ねが100年企業を作ることに繋がっている気がします。
それにしても、いい言葉です!
当たるも八卦で徒然・・・
「えい!それっ! ・・・あなたの運命がみえました。」
こんな怪しい占い師のことを想像できると思います。
また、よく辻立ちで占いをやっている人が思いつくと思います。
こちら
【当たるも八卦当たらぬも八卦】
占いは的中することもあるし、外れることもある。
これ、当たるのも当たらぬのも本人次第ともとれますし、占い自体信じれるものではないとも取れるかと思います。
この八卦というのは易占いからきております。
簡単に解説しますと、八個の世界を構成している要素でして、乾(天)・兌(沢)・離(火)・震(雷)・巽(風)・坎(水)・艮(山)・坤(地)の八種類です。
これの構成は陰と陽で構成されており、中国の考え方になります。
じつはこの易経というもの、昔は帝王が納めるものとして学ばれてきました。
ですので、占いではなく実は教養書であり、帝王学なんですね。
そして、この占いジャンルというものは私的には人間が本来持っている動物的直観を現出するための道具でありちょっとカルト的にいうと予知本能など本能を顕在化させるための手段。
と捉えています。
だから、私は占いに当たるも外れるもないのではないか。こう思います。
そしてこれ、易経の本のなかにものっているんですが「人を易経で占う時は、状況や背景などの詳細をしっかり把握すること」
つまりカウンセリングやコンサルティングの類のことをきちんとしたうえで、第3者的に分析をしっかりするようにと言ってるんです。
なので易経というものは「帝王学にのっとって、人間の直感や本能に根差した内容を顕在化させ、カウンセリングやコンサルティングを行う」というふうにとらえています。
こう考えると、易経のこの「当たるも八卦 当たらぬも八卦」というものは、実は「全部正解だけど、自分の解釈の仕方で当たるも外れるもありまっせ。だから占う側の資質も問われるし、占われる側もしっかり見なはれや」ということなんかもしれません。
実際に私も少し易占いできますし、しているときもあります。
興味ある方は簡単にできる方法もありますので、やってみてもいいかもしれません。
うつつで徒然・・・
うつつで徒然・・・
わたし、人生を夢うつつで生きております。。
そんな人間が一体なにを書いているのか。
そんな思いで書いておりますが、このうつつということばはどういう意味があるんでしょうか??
うつつ【現】
① (夢に対して)目がさめている状態。現実。 「夢か-か幻か」
② 正常な心の状態。正気。本心。 「 -にかえる」
③ (「夢うつつ」の形で使われることから誤って)夢見心地。半覚醒。 「『…、お吸物が冷めます。』と言ふのを-に聞きながら/多情多恨 紅葉」
④ (死に対して)生きている状態。 「 -にありしやうにてありと見て/更級」
これ、おつつともいうようです。
正気と本心というのと目が覚めている状態を表してるんですね。
だから「夢うつつ」というと正常な心の状態と夢のなかのような幻想との間に立つような心境のことをいうんでしょうね。
これ強烈な修羅場や必死の時「その時には記憶がありませんでした」っていうときあるんですが、まさにその状態。
あと人がゾーンに入ると、同じように自分がやっているのが外で見えたりするようです。
私も何度か経験があります。
どういう時かというと、座禅を組んでいる時になったときがあります。
近々でいうと花園大学で毎週座禅会をやっているときに行かせて頂いたことがあるんですが、そこで半眼といって目をすこ~しだけ明けながら座禅をするんです。
そのとき、恐ろしく頭がクリアになって部屋全体が手に取るように見える、また自分が上から座禅を見下ろしてる状況になったことがあります。
これが正に「完全に集中している状態」で「夢うつつ状態」なんでしょうね。
あと、もう一個「ゆめうつつ」状態になたときがあります。
これはあんまりよくないほうで、締め切りがすごく多くてやることもすごく多い。
精神的にもすごく追い込まれて、良く寝れない状態で疲労困憊・・・
このときに、白昼夢のような状況や幻聴に近いものが見えたりした状態の時がありました。
(こちらは、何度もあまり経験したくありませんが・・・)
これもゆめうつつ状態だったでしょう。
いずれにせよ、このような状態のときに「次元の違い」みたいなものを見ることができました。
本当にいまの次元以外の次元以外にトランスするような感覚。。
きっと現代でも昔でも変わらずあったんでしょうね。
鷺取りで徒然・・・
鷺取りで徒然・・・
やっとこの話ができます。
鷺とり
これ、こうかいて「さぎとり」と読みます。
これはまずは、こちらをご覧頂きたい。
YouTubeですが、桂枝雀の『鷺取り』です。
https://www.youtube.com/watch?v=L_Z0Ndyx5pc&t=1425s
これは落語の奥深さを私に教えてくれたといっても過言ではないです。
さて、鷺取りですがwikiでは
鷺とり(さぎとり)
古典落語の演目の一つ。元は上方落語の演目。東京では雁釣り(かりつり)、雁とり(かりとり)。
『鷺とり』『雁釣り』は、金銭目的で鳥を捕まえようとして失敗した男の起こす騒動を描いた噺。1791年(寛政3年)に出版された笑話本『鳩灌雑話』の「鷺」「鷺の次」が直接の原話とみられるが、ストーリーや描写が似通う民話が日本各地に残っており、これは現在も絵本等で『鴨とり権兵衛』等の題で広く知られる
こちら、上方の初代桂春団治や2代目桂枝雀など、東京の6代目三遊亭圓窓などが有名のようですが本当に名人と言われる方の鷺取りはすごいです。
なにが凄いかというのはこれですね私は特に後半が好きで、要はさぎを取ろうと思って失敗して鷺が寝たふりして一斉に起きて飛ぶんですが鷺がそう考えるわけないのに「ほうほう」とあたかも動物が考えているかのように引き込まれてしまうんです。
そして引き付けるだけ引き付けた瞬間に「ばあ!」と一気に飛び立つ。
そのさまが本当に人が鷺に引っ張られて飛ぶわけないのに「おお!」と思って信じてしまう。
これもすごい。
さらにそのあと、「えらいやっちゃ!えらいやっちゃ!」とみんなが踊り狂うんですが、そのさまも本当に面白そうに踊っているさまが頭でイメージできちゃうんです。
この全て冷静に考えたら「そんなことないやろ」と思うんですが、それを思わせないのがこの落語の凄さだと感じました。。
これ、前にうちのスタッフとも落語の人とも話したんですが落語は講演に非常に役立つエッセンスがあるんでしょうねと思いました。おそらく講談も講演に役立つと思います。
じゃあ浪曲はなんだと。
これはおそらく「プレゼン」ではないかと。
そして「綾小路きみまろさんの独演会」は「双方向ディスカッション」や「ワークショップの際の司会進行」に役立つのではなかろうかと。
ここらへんもいろいろ調べていきたいと思います。
なにせ、落語はすごい!
私も勉強して講演や研修に使いたいと思いました。
鬢付けで徒然・・・
鬢付けで徒然・・・
あ〜どすこいどすこい
相撲甚句の掛け声と共にこちらやってまいりました鬢付けでございます。
今日はお相撲さまや芸舞妓さんしか今は使っていない鬢付けでいってみたいと思います。
鬢付け
主に日本髪で、髪を固めたり乱れを防いだりするのに用いる固練りの油。木蝋(もくろう)・菜種油・香料などを練ってつくる。固油(かたあぶら)。
というものです。
もともとの起こりは、武士が髭(ひげ)を整えるために木蝋と松脂を溶かして練り合わせたものが使用されたことが起こりとされています。
一昔前のポマード(このことばさえ、いまの人には死語でしょうが・・・)か、現代のワックスのようなものですね。
これ、お相撲さんの鬢付けは香木が使われているようでなんともいい香りの理由はこれが理由のようです。
この相撲というもの、いまも昔も神事ということはご存知かもしれませんが詳しく知っておられますか?
こちらwikiさまより
元龜2年(725年)に諸国が凶作に見舞われ、聖武天皇は伊勢神宮をはじめ21社に神明加護の祈願を行った。すると翌年は豊作になったため、諸社において相撲を奉納したという。
その後、神社における祭事においては、相撲、舞楽、流鏑馬、競馬(くらべうま)などが行われるようになる。
これらの祭事は、天下泰平・子孫繁栄・五穀豊穣・大漁等を願うことも多く、そこでは、占いとしての意味も持つ場合もあり、二者のどちらが勝つかにより、五穀豊穣や豊漁を占う。
そのため、勝負の多くは1勝1敗で決着するようになっている。和歌山県、愛媛県大三島の一人角力の神事を行っている神社では稲の霊と相撲し霊が勝つと豊作となるため常に負けるものなどもある。場合によっては、不作、不漁のおそれがある土地の力士に対しては、あえて勝ちを譲ることもある。
また、土中の邪気を払う意味の儀礼である四股は重視され、神事相撲の多くではこの所作が重要視されている。
これのうちの一つである上賀茂神社での烏丸相撲を見たことがあります。
非常に最初から最後まで厳かなんですが、途中の子供たちの相撲は非常にほほえましく神事のなかでも最初はこんなものだったのかなと思いました。
こちら、最後のところに五穀豊穣を願って神様に価値を譲る、もしくは一勝一敗でおわるようになっています。
こんなところにも日本の和の精神が大事にされているんでしょうね。
また、世界の神様と違って日本の神様は降りてきて人間と相撲を取るぐらい身近な存在だったんですね。
これ、また妖怪の時にも話しますが非常に自然(神)と人間が近い存在なんだと。
いまの世の中はどうでしょうか。
なかなか「神」を感じる瞬間やまさか相撲を取るようなところまでいかないですよね。
人ばかり相手にしている人は、特にもう少し身近に「神」や「先祖」を感じてみる機会を持つのもいいんではないでしょうかね。
そんなことを鬢付けを見てふと思いました。
蘭奢待で徒然・・・
■蘭奢待で徒然・・・
日本には香道という文化があります。
こちら香りを楽しむことを「聞く」と読みます。
こちらは足利義政の時代、時代でいうと銀閣寺が作られた時期にはじまり隆盛を極めたといわれています。
文化の先生とお話するとき「日本文化が広がったのはどの時代か」ということを話する際、この足利義政の時代は必ず出てきます。
なぜかというと、この足利義政さんが政治にあまり興味なく(というか悩まなければならないことが多すぎて、困りまくって精神的に参っていたのかもしれません)もっぱら文化をたしなむ方だったからかもしれません。
そのなかで花開いたのがこの香道ですが、その「聞く」のは簡単に言いますと特殊な木を燃やしてその香りを楽しむのですが「一番すばらしい」といわれているのが、この蘭奢待という木になります。
蘭奢待
らんじゃたい
正倉院中倉に伝世する香木。聖武(しょうむ)天皇によって蘭奢待と命名されたと伝わる。銘文中に東大寺の名が含まれるところから、別名東大寺、また黄熟香(おうじゅくこう)とも称する。名香六一種のうち第一の名香として、香道では奇宝とし、聞香(もんこう)では返し十度の作法を伝える。足利義政(あしかがよしまさ)、織田信長らが、この沈香(じんこう)を切り取った話は有名で、また正親町(おおぎまち)天皇は「聖代の余薫」と歌った。信長に下賜された小片は京都・泉涌(せんにゅう)寺と尾張一宮(おわりいちのみや)に寄進され、千利休(せんのりきゅう)も、この香の聞香者である。[猪熊兼勝]
聖武天皇から、、、海外の人にとっては途方も話です。
そもそもこの時代から残っているものって。
しかもずっと一番をキープし続けているというのは、本当にえげつないことだと思います。
芸能人だったら明石家さんまさんが数百年生きているような感じですね。。
また、この聞き方は「返し十度」の方法を用いて楽しむと・・・
どこを調べても出てきません。
これ、家元やごく少数の人しか聞き方を知っている人もいないようなもののようです。
また、これを持った人間は天下人や天皇などしか味わうことのできないものだとのことです。
さあ、どんな香りなんでしょうか。
でもきっとその香りを楽しむと数百年の時代を味わうことができるんでしょうね。
香りというと、私たちにもそれぞれの時代に味わった香りを思い出します。
例えば母校の香り、実家の香り、また彼女や付き合っていた人の香水の香りなど、、
うちの大学のゼミなんかだと「田んぼの香り」なんか思い出すかもしれません。
そういう香りは自分のその時にいた時代なども思い出すような気がして一気に中学やその当時の青春時代に戻る気がします。
またアロマテラピーの先生などは、それで性格調査やいまの状態などを見ることも出来るようです。
(*いちどやりましたが、なかなか当たっておりまして感動した覚えがあります。)
実は書道でもその字を書くことで性格などを見ることもできる(筆跡鑑定など)ようです。
まだまだ、私たちのあたまだけでなく「五感」もっと「第六感」をしっかり使うことで新しいものを生み出していくことができそうでワクワクしますね。