聖なるコスメ、聖なる日常

美しくなるアイテム、コスメ。コスメから森羅万象をみつめます。

肌と精神 ②

 酷い肌トラブルが治った三人目の話になると、やはり1998年までさかのぼる。

 

 この前のブログで、師匠とライターの女性が、アトピー性皮膚炎を食事で治そうという記事にとりかかったところ、医師から急性アトピー性皮膚炎という診断が下される酷い症状になったとつづった。

 

 私はそれがうらやましかった。

 

 短期的に見ると、アトピー性皮膚炎は状態が悪いもの、とみなされる。しかし、違う物差しに持ち替えれば、皮膚から毒が出ている、内臓をきれいにしている状態ともとれる。

 私は、解毒したかった。

 

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 師匠曰く、「私の小さい頃は、朝にパンを食べることがステイタス、みたいな空気があったのよ。和食よりも洋食の方がもてはやされていたしね」。いまならば愛する我が子だからこそ、玄米おにぎりとお味噌汁を出すだろう。ところが当時、師匠の子ども時分の高度経済成長期には、それは古臭い、昔ながらのまずしい食事と映った。ハンバーグやビフテキに野菜のバターソテーを添え、バターロールを出す方が、庶民とは違うのよ、という空気を醸したのだ。ハード系で自家発酵のパンなど日本では普及していない頃で、給食のクオリティも、いまの子どもたちとは比較にならない。

 さらに彼女は、化粧品で肌が真っ黒になってしまったことがある。いわゆる黒皮病の被害者だったからこそ、オーガニックコスメという概念をこの日本で花開かせた。

 

 片や、ライターの女性は、ケーキバイキングが大好きだった。多くの場合、ケーキバイキングに行くと、ふつうにケーキセットを頼んだ方が良かった、胸やけしたという感想になるものだが、大の甘党は違う。ケーキセットの物足りなさを、ケーキバイキングが充足する。

 

 日々の消化で出しきれなかったものが毒。それが蓄積して、しまいには皮膚に症状が現れる。東洋医学の心得のある人はこれを「コップに溢れた水」とも表現する。

 

 私にも蓄積された毒がある。

 

 学生時代から山本益弘氏の本をガイドに食べ歩きをし、フランスでレストランの現場で修行した女性の料理教室などに通い、23歳では「ソムリエの資格など取らないと約束してほしい(*)と高名なワインのバイヤーさんから手ほどきを受け、高じてフレンチレストランの企画として就職。実力派のソムリエたちとそこで実力を磨くソムリエたちがいる現場でサービスも勤めた。私の一人暮らしのアパートのキッチンでは、フランス帰りのシェフや、シェフ見習いたちが腕をふるった。

 そのような現場にいると「休みにあそこ(あるレストラン)に行ってきたんですよ」なんてスーシェフに気軽に言おうものなら、「魚のソースはなにでできてた?」と聞かれる。答えられないと、「行く価値ねえーな」と一蹴される。無事になんとか答えられると「どんな味がした?傲慢な味はしなかったか(そのレストランのシェフは、才に走り過ぎて仲間たちから厭われていた。もちろん嫉妬まじりだ)」と味覚の向こう側の感触さえ聞かれる。ありきたりの「心のこもった味が」なんて言おうものなら「ふん、どっかのテレビとか雑誌で言うようなことだ。お前の答えはないのか」とまた一蹴。

 一流の料理人、サービスを目指す現場だから、たとえ手取りが16万円のペーペーでも、銀座の一流レストランで、ランチのコースとそれに合わせたワインを注文する。明らかに同業者と分かるから、店側もそれなりの対応をする。ソムリエの男性が、料理とワインを懇切丁寧に説明してくれたり、食後酒をご馳走してくれたり。身銭を切って席についている二十代前半の女性たちが皆、一様に真剣な目つきでその話に聞き入り、お皿の上で繊細な美味しさを放つ料理、ワイングラスに注がれたワインの輝きを味わう。

 社長や有名人の腕にまきつきながら来店する女性の横顔よりも、一流になりたいと時間もお金も削って研鑽する若い女性のすっぴん、同僚たちのそれが、私には美しく映った。

 転職してからも、私の過去にそのような経験があり、いまだにおいしいものが好き!ということを知る方々から美味しいものをご馳走になっていたし、仲間や友人とも会食の機会は多い。かと思えば、朝はコンビニで手巻き寿司の納豆と冷やし中華、スイーツを買って、新聞や雑誌、メールなどに目を通していた。

 

 ということで、私の食歴は、いまだに私にとって輝かしいものだ。ところが、品川の食養内科で診てもらった時、こう断言される。

 「あなたは、もう一生分のフレンチのコースを食べました。いまのように、週に数回はレストランに行くなんてとんでもない。それにお酒は、一週間に一度、お猪口一杯程度でいい。明らかに飲み過ぎです」。

 

 物事には、ハレとケというものがある。祭りはハレの場、ふだんの日はケの場。美食はハレの場の、味覚の芸術。ハレの食事ばかりして、ケの食事には手を抜く。質の良い材料でつくられているからといって、栄養の摂り過ぎである。食べ過ぎという毒だ。

 

 毒が溜まったことが生理痛の原因ではないか…? 解毒すれば、この生理痛は解消するのではないか。

 

 という背景から二人に羨望を抱いた私は、「よし!」とまずは生活に使うものを変えた。

 食事を変えるには、予定の入れ方や、ライフスタイルの変更、周囲の理解が必要で、早急にはできなかった。後々気づくことになるのは、食事内容をすぐに変えられない根本原因が、自分がなにを食べて満足し、おいしいと感じるかという嗜好だということだ。二人ほどのっぴきならないアトピー性皮膚炎にでもならない限り、食生活の急激な変更などできようもない。

 それでも、外食は自然食を志向したものにし、朝のご飯やスイーツは自然食のお店で買ったものにした。

 

 さて、私は手始めに買い置きしていた合成界面活性剤をすべて捨てた。

 台所、お風呂場、トイレ、窓など場所ごとにあった掃除用品。シャンプー、リンス、ボディソープ、歯磨き粉、香水、メイクアップグッズ、基礎化粧品などで、合成界面活性剤が使われているもの、また、合成着色料、合成防腐剤など、いわゆる「オーガニックコスメ」でNGが出ている、出そうな物はすべて。 自分が悪いと思っているものを、誰かにあげるわけにはいかない。とにかく捨てた。もちろん食べ物も、それまで「少しずつ変えよう」としていたものを根こそぎ変えた。 冷蔵庫やガスコンロの下にあった調味料や小麦粉、乾物、お菓子。買い置きしていたもの、まだ残っているもの。 すべてを捨てて、変えた。

 

 そのような妻を、新婚の夫は苦々しくみつめた。

 

 私たち夫婦は二人とも、小さな広告代理店に勤めていた。職場結婚だ。

 私は、環境やオーガニックコスメなどの企画を社内で進めたかったが、社長の理解が得られず、揉めていた。その会社の取締役である夫は、社長に追随する形をとった。

 地球との共生やオーガニックコスメのことは生き方に及ぶ。仕事だと切り離して考えたくない。二人の生活を始めてから雷に打たれたように価値観を転換した私に、夫は戸惑った。

 

 新興宗教にはまったばかりの信者のように、私は熱に浮かされていた。直観して行動する。それは正しいかもしれない。ただその直観から行動に至るための知識は、洗脳のように植え付けられたばかりの青臭いもので、血肉にはなっていなかった。

 

  1998年、1999年の頃の日本のビジネスシーンでは、環境問題など金にならないとされ、どこかの宗教かと疑われた。日本における「オーガニックコスメ」というカタカナの言葉は日の目を見ておらず、はあ?なにそれ?というかんじ。学生時代の友人たちに話すと「オーガニックコスメ?地球環境にいい化粧品?ありえないよね」ときっぱり。北海道の僻地に住む母でさえ「環境にやさしいなんて儲からないっしょ」と断言する始末である。

 私のあの熱を帯びた行動に、夫や18歳来の友人たち、加えて母までもが冷めた視線を向けるのは当然のことだ。

 

 結婚して半年。

 妻が「オーガニックなライフスタイル」という新興宗教にはまり、新婚家庭は暗礁に乗り上げた。熱に浮かされ、直観でする行動を認めろと言い募る妻と、その妻をどうさとせば良いのか戸惑う夫と。

 夫は、埋められない溝を見ないことにした。休日は、家のゲーム部屋にひきこもり、ゲーム三昧をすることにしたのだ。平日はお風呂に入って寝るだけだから、これで妻と過ごさずに済む。

 朝と夜の通勤時間が、私に与えられた彼へのプレゼンの時間だった。

 地球と共生することの素晴らしさ、消費するだけの経済ではなく、包括的な見地から循環する経済の一つになること…云々。彼が納得するわけはなかった。所詮、知識からの言葉である。納得しようもない。

 妻と別れようと思っていたわけでもない夫は、とりあえず自分の安全な場所、妻から地球にやさしい生活提案の波状攻撃を受けないところを確保した。

 一方、私は、会社でも家でも「お前、頭がおかしいんじゃないの?」と理解を得られず、次第に消耗し、友人の家に避難した。別居したのだ。別居すると、彼が私に会おうとしてくれるために、かえって向き合って話す時間が取れた。

 

 寝食は別で、二人で会う時はアポイントを取る。そのような日々が続いた。

 仕事が終わった後で食事をしたり、日曜日に珈琲を飲んだり。別居する時よりも穏やかに向き合う時間を過ごすことになった。

 

 ある日、夫が腕に包帯を巻いてきた。首は黄色い汁が出ている。かゆそうだ。聞けば、医師から急性アトピー性皮膚炎という診断がくだされたという。 

 

 夫に、師匠とライターの女性とまったく同じ症状が出た。

   おかしい…。なぜ彼に?

 

 彼の平日は、三食、外食だ。朝はコンビニ、昼はランチセット、夜は接待かつき合いで飲む。その生活を十年余り続けている。半年前に私と結婚してからも、私も働いているためまったく変わっていなかったし、別居してからは、休日も外食かコンビニ弁当だろう。料理のできない人だった。

 日々使うトイレタリーが良質なものだからといってそこまで変わるものだろうか。

  

 もしかすると、食事も、コスメも関係ない…?

 

 もしかして、私が「このままの生活を続けていたら、病気になる。いまだって半病人みたいなもの。それを自覚していないだけ」という言葉が、彼の精神の深い部分に届いたか。

 やはり、別居中とはいえ夫婦。三々九度を交わし、互いの故郷と東京で三度も披露宴を執り行っただけのことはある。深いつながりがあるのか!?

 

 私は、嬉々として夫に表われた急性のアトピー性皮膚炎を受け容れ、ぜひ治そう、と彼に持ちかけた。ところが夫にしてみれば、「アトピー性皮膚炎を食べ物で治そう」という記事に着手した途端に、自分たちがアトピー性皮膚炎になってそれを治した、なんていう話は、マユツバもの。到底受け入れられない。

「仕事があるから、お前の言うようにやって、余計に酷くなったら困る」と言う。 これまで蓄積した毒があるなら、その総量がどれほどのものか分からない以上、彼曰くの「私のやり方」(自然食、粗食のことを指している)で、毒が一気に出て、人前に出られなかったら困る、と。

 

 そう話す彼のワイシャツのえりぐり、袖口が、彼の皮膚から染み出た体液で濡れている。彼は、皮膚科医に通い始め、ステロイド剤を塗り始めた。

 酷くはないけれど、なかなか良くはならない。

 彼の急性アトピー性皮膚炎は長引いた。少なくとも、師匠やライターの女性のようにみるみる悪くなり、みるみる良くなる、という治り方ではなかった。

 

 結婚して一年後、私たちは離婚届を提出した。

 彼の急性アトピー性皮膚炎の症状がその後どうなったのか。私はそれにつき合うことはできなかった。

  

 数年後、彼から呼び出される。

「新しい彼女ができたんよ。まずはお前に言っておかなければと思って」と言う。

 周囲からの信頼が厚い彼らしい。律儀なことだ。

 

 気づけば、彼の肌がきれいに治っている。

 彼の肌を治したのは、新しい彼女だった。

 

  (*)当時、ワインのソムリエの資格を取るのが、若い女性の間で流行っていた。特にスチュワーデスさん(「CA」ではまだない)に。日本にワインを普及した功績を評価される、とある百貨店のバイヤーである彼は、知識をそらんじることが、本当にワインを愛することではない。ブドウの品種、産地、生産者、味をそらんじること、資格を取って分かったつもりになること、ワインのエキスパートだと周囲に知らしめること。それらはすべてワインを愛することからかけ離れてしまうことだ。ワインをサービスすることは、ワインへの愛を分かち合うことではないだろうか。と話した。

 

 

 

 

 

肌と精神①

   

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    医師からの診断は、急性アトピー性皮膚炎。

 黄色い汁が出て悪臭も放たれるほど酷い肌トラブルに見舞われ、治っていったケースを目のあたりにしたのは、五名。

 だからまったくアテにはならないが、参考に。

 考察が浅い部分、間違っていると思われるものは教えてほしい。さらに、過程を見ているということは身内であるから、考察という言葉に重みをもたないことも承知しながら、敢えて使う。

 

 五名のうち一名は、いわゆるオーガニックコスメの草分け。私の師匠である。

 彼女と、ライターの女性が、同時期に急性アトピー性皮膚炎になった。二人は、アトピー性皮膚炎を食事で治そう、という記事にとりかかっていたところで発症。

 

 師匠は、身体全体の皮膚がどろどろになり、黄色い汁が出てきて、包帯を巻かなければならない状態となった。足の裏も同じ状態で、歩くのが痛い。皮膚が溶けるようににじみ出る黄色い液からは悪臭もする。師匠に次いで、ライターの女性も同じよう症状を発症。師匠ほど酷くはないが、腕に包帯を巻いている。

 

 アトピー性皮膚炎を食べ物ので治そう、という記事に取りかかったら、肌トラブルに見舞われる。

 これはいったいなんだろう。

 

 精神の深い部分、魂に近いあたりと、具象化の末端である肉体が交信しているかのようだ。

 魂に近い、深い部分が、「アトピー性皮膚炎と食事の関連性についてやっと表層意識が気づいたようだな」と確信して、「よし。じゃあ、これまで溜めていた毒を出そう」と肉体に伝え、肉体が応じたのではないか。

 

 「こうなったら、本当に食べ物で治すわよ」と師匠。

 二人は、自分たちの書いている記事の通りに、あれこれと試して、半年もせずに通常の状況に復帰した。

 彼女らの治し方は、当時としては先進的で、いまや一部で常識のものである。

 合成化学物質を敬遠し、自然食・粗食を心がける。師匠は外食も控えた。なぜなら、外食産業の現場で使われる合成界面活性剤は、洗浄した後でも、食器に付着している可能性が高いからだ。

「外と内の境目があやふやになっている。その皮膚を治そうとしているのに、合成界面活性剤なんて」と師匠。

 彼女は、ぐちゃぐちゃに溶けたような肌となった腕に包帯を巻いて、汁がにじみでてきているところをいたわるようにそっと触りながら言った。

 

 当時は、今のように「食べ物が皮膚に影響する」という考えは一般的ではなかった。 なにしろ「君たちマスコミ(*)が、こういうことを無責任に書くから、困るんだ」とアトピー性皮膚炎の権威といわれる皮膚科医に叱られたほどである。

 一般では、「食べ物が肌に影響する」と考えるよりも、「そうやって考え過ぎる方が良くないのよ。なんにもしなくても、ほら、私の肌はきれいでしょう?」と言う方が説得力のあった時代だ。

 皮膚科を敬遠するのは、周囲からすると「どうかしている」「宗教にでも入っているの?」といわれかねない状況だった。

 

(*)私たちがたずさわっていたメディアは、マスではないのだが、情報に関わっているとそう言われることがままある。

松居一代さんの悲しみと船越英一郎氏の男っぷり ~感情という水といかにつきあうか~

  すると、律法学者やパリサイ人たちが、姦淫(かんいん)をしている時につかまえられた女をひっぱってきて、中に立たせた上、イエスに言った、「先生、この女は姦淫の場でつかまえられました。モーセは律法の中で、こういう女を石で打ち殺せと命じましたが、あなたはどう思いますか」。彼らがそう言ったのは、イエスをためして、訴える口実を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に何か書いておられた。彼らが問い続けるので、イエスは身を起こして彼らに言われた、「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げてよい」(『聖書 口語訳』(日本聖書協会ヨハネによる福音書 第八章三から七より抜粋)

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  不倫は不道徳。

 と相手を責める松居一代さんは、律法学者やパリサイ人と同じだ。これには全く共感できない。しかし、そこに彼女の本音が透けて見えるのがかわいらしく、つい応援したくなる。

 なりふりを構えないほど、船越氏のことが、好きで好きで仕方ない。 だから自分以外の女の人に手を触れるなんて許せない。「あなたが不在でもあなたを思っているのに。 あなたは、私がいない時にほかの女といたのね」そう思えば口惜しくて仕方ない。

 愛する人が不倫をした。 それが不道徳だからと嘆く女はいない。 好きな人が愛を向けてくれないから悲しいのだ。 悲しくて恨むか、悲しくて怒るか、悲しさに溺れてしまうか。  

 松居さんは、悲しみの感情を発奮材料として使い、孤軍奮闘中。

 感情を無視したり、抑え込んだりせず、渦巻く感情をエネルギーに変える松居さんのスタイルは、いまどきだ。 ぜひ感情の流れを上手に使いながら、歩んでほしい。

 「みっともない」「相手をも引き込む修羅の道」と一蹴するのは簡単だ。 だが、そう口にする人は、愛する人を吹っ切るために、ほかならぬ自分のために権利を主張し、テレビや雑誌を手玉にとる勇気はあるだろうか。 「いやそんなことをする必要を感じないから」とクールを決め込みながら感情をなおざりにするのではないだろうか。

 

 感情は水。 コントロールしようと臨めば、洪水に見舞われる。 さもなくば、枯渇を招き豊かな生態系を失う。失ってからの復活は難しい。いかに水を知り、距離を置くか。機を敏に見る知性とある種のユーモアが必要になる。

 

 男性からすると、松居さんの大荒れぶりは「いやいや他人事ではないな。 大変だ」となるのだろう。

 群馬・桐生が郷里の友は、「あの松居一代っていう人は、なんだってあんなに個人的なことを垂れ流しにするのかね」と言った。 珍しくワイドショーネタを振ってくるなと思いきや、「うちの旦那が、なんだ、これはって観てたんだよ」と。さらに「こういうのは男がひたすら謝っておけばいい話なのにさー」と締めくくった。さすが、名にし負うカカア天下の群馬。 すらっと大胆に解決法を告げる。

 

 高度成長期の頃、自然は搾取するものだった。 が、時代は変わり、自然と共存共栄を心がけなければ、人類が地球で存続できるか怪しいという懸念を人々は抱くようになった。 地元にお金を落とすためにダムを作ったり、コンクリートで川岸を固めるのは古くなった。 ダムを作らずとも自然エネルギーやフリーエネルギーがあるし、コンクリートよりも、直根性の潜在自然植生の木の繁茂する生態系を守った方が護岸に役立つ。ということを、手痛い出費と自然破壊から解を得た。

 

  同時に、男性と女性のあり方も変わった。

 ちょっと前まで、浮気は男の甲斐性。 男が外で遊ぼうと、「うちの大切な人、返してくださいね」とにっこり笑う妻は「見事!」とさえいわれた。 妻のプライドを踏みにじり、愛情を搾取しても許されたのだ。 ところが今はそれが様変わりしている最中。 相手の立場になって物を考えて、妻との共存共栄を図る時代となっている。

 多くの男にさほどの経済力が見込めないということもあるし、そもそも経済というのは外貨を獲得するだけなのか、という根本の問いが立っている。 根本への問い直しは、常識を揺らす。ともに夫婦の常識も一緒に揺れる。 私たちはその一端を、船越夫妻に見ているのかもしれない。

 不思議なもので松居さんが騒ぐほどに、船越氏の株は上がる。 NHKが船越氏を引き続き使いますというと、多くの男性がほっと胸をなでおろす。 ヒステリックな妻の言動に振り回されない職場がなければ、男はどこで生きろというのだ? というところか。 多くの男性陣が、明日は我が身、と船越氏を応援する。

 松居さんは、自分を飾っていない。自分の見映えなんてどうだっていい。捨て身の勝負だ。 彼女の捨て身は、船越氏へのラヴレター。そこまでするほどいい男なの?と船越氏を見直してしまう。バイアグラを使っていてもハゲていてもいいじゃん。 きっと、素敵なんだろうとさえ思えてくる。

 

 感情的になるな。というのは公の場での暗黙の了解である。しかし、人の感情は湧くものだ。 その感情を気づきもせず放っておけば腐ってしまう。 かといって好き勝手に噴出させていいわけはない。 感情は揺れ動き、一時として止まらない。 感情の清らな流れをいかにつくるか。 うるおいのある感情は心身を美しくする。

 

 感情を抑える時と、ほとばしらせる時と。 いかに緩急をつけるかが課題だ。

 

 松居さんは、今だ!とばかりに感情をほとばしらせている。  彼女ばかりの利益ではなく、彼女と同じように傷つく女性を癒すきっかけになるといい。 不倫にまつわる財産分与などの問題は、刑事ではなく民事だ。 男性が外で経済を獲得する、その土台を培った女性をどうみるか。NHKで番組を持てるような船越氏になるまでに、松居さんがどのように貢献したのか。 夫婦間の問題だからこそ男性側のモラル、倫理が問われる。

 男性だ、女性だ、といってはいるが、夫の不貞をぐっとこらえた世代の女性や、その世代の価値観をひきずっている人のなかには、松居さんの動きを軽蔑するむきがある。 自分が我慢してきたのだから、相手にも我慢させる。 その抑制は見えない堰となり、感情の表出を妨げる。

   YouTubeで船越氏の露悪をしたり、ボランティア活動をしたり。愛する人への思いを断ちきろうと彼女は必死だ。 その必死さをただみっともないと一蹴するなら、果たして自分はみっともないくらいに人を愛したことはあるか、と自問してはいかがだろう。

 

 船越氏の動向が楽しみだ。ほかの女性に生命線を求めるか、それとも切れかけたものを修復するか。

 前者はありきたりだ。 船越氏には是非後者を選んでほしい。 より深い愛を紡ぎながら、世間が「あの夫婦は難局を超えた」と腑に落せば、新たな夫婦像としておもしろがる人は多いだろう。 そちらの方が、企業活動のPRに貢献するはずだ。

 誰もが間違いを犯すし、みっともないことをする。いいではないか、だから私たちは生きているのだ。 大切なのは、間違いやみっともないことを指摘して誰かを貶めようとする一人に自分がならないこと。 そんな時間があるなら、自分や周囲への愛を深める時間に充てたい。

 

  

コスメの光と影

 

 このブログを読む数少ない方から、「じゃあどんなコスメがお勧めなの」と訊ねられる。「次こそは、具体的なコスメの名前を出さなくちゃ。その触感(テクスチャ)も書いてね」とも。

 そういうリクエストは、とてもうれしい。 生業では日々それをやっている。

 ただ、このブログで、お勧めとして商品名は出さない。 それは多くのサイトでやっているし、「そんなことには意味がない」なんて言っておきながら、「(えへへ)でね、じつはこれがいいんですよ」とばかりに商品を紹介してしまっては、言葉が軽くなる。

 

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 映画、テレビ、雑誌、ネット。もちろん情報はコントロールされている。

 巧妙に都合の悪いことは隠されながら、美しい言葉が羅列されているコスメの世界。 この世界では言葉さえもメイクが必要だ。 時には、有機的な、多くの種が共存共栄する柔らかな土から生えた野生の言葉があっていい。たまには、「なんか言いたいこと言っているな、しかもコスメでPRなし!?」というブログが、この世界の片隅にあっていい。

 たとえば、界面活性剤フリー、オイルフリー。簡単な洗顔でOKとするファンデーション。 あれ? ちょっと待って。その微細な粒子、本当に落ちているのだろうか。 落ちきらずに肌トラブルの原因になってはいないか。 UVケアで、紫外線吸収剤、紫外線散乱剤よりベターとされる酸化チタンは、肌にのせていいのか、ということは、再考したい。 リスクを承知で肌荒れを隠したい、日焼けを避けたい時は仕方ないだろうが。

  

 2011年3月11日の原発事故以降、「御用学者」という言葉が飛び出し、メディアへの見方に変化が生まれた。 資本主義社会における学者は、既得権益にへいこらしなくてはならないという痴態が露わになった。 ニュース番組は、テレビ局の上の意向なしに報道などできない。 「国民のために」と善意からの発言を繰り返すキャスターは降板させられてしまう。 かくしていまは提灯持ちがうまい芸人にキャスターという役が振り分けられている。近頃とみにそういうことを目のあたりにする私たちは、幸運なのかもしれない。 薄々は勘付いていたけれど、直視したくなかった現実があからさまだ。

 おかげで、「テレビはあんまり観ないんです」と言ってももう変人扱いされない世の中となった。新聞もどんなバイアスがかかっているのかを熟知しながら読まないと、情報のデトックスに時間がかかるし、 ネットの検索上位にひっかかるものを真に受けてはマズイ。そう気をつける人が増えた。 増えたといっても大部分ではないから、先に気づいたなら、より先を見据えられる。

 

 時代の波は、私たちに情報の取捨選択への洗練をより促す。

 

 ネットで、コスメを売っているサイトばかりから情報を取っていては、「コスメを買う」だけで終わる。「コスメを選ぶ人」だけで終わってしまうのはツマラナイ。 ①コスメを時には使うけれど、②手作りという選択がある。さらにいえば➂いらない時だってある。のように、もっともっと奥座敷に向かわなければ、生命力を謳歌することを忘れて、ただ物を消費するだけの存在になってしまう。

 

 森羅万象に陰陽があるとするなら、コスメにも光の当たる点とそうではない点がある。

 行政と司法、立法の三権分立さえ危うい2017年現在の日本では、報道機関の自立はほぼない。やはりコスメもジャーナリスティックには切れない事情があるのだが、 それがコスメ産業全体にとって良いとは思えない。コスメの露悪もされてはいないが、コスメの奥行きを多くの女性に示せてもいない。

 コスメメーカーのなかには、自分たちの不利益となることも誠実に伝えて、使い手の知識をまず深めてもらいたいと考える社長や開発者がいる。ただ、メーカーはあくまでメーカーだ。物を売るという直接的な利益がある。その利益は、コスメの真なる価値を伝えるには呪いとなる。

 食べて消化し排泄するのとはわけが違う、肌につけるコスメには、もっと大きな価値がある。その価値は、コスメメーカーでさえ気づいていないし、到底言えないことだ。

 

 コスメはコスモ。 化粧品は、自分の内なる宇宙につながる一つの手段である。 内なる宇宙は果て無く続き、やがては外なる宇宙へと広がる。 その手段を、大枚をはたきながら、失いたくはない。

 

 かつては「自然派」がうたい文句だった。とある筋に言わせると、人の手で合成してつくった化学成分も、自然のものから抽出したから「自然派」となる。 いまは「オーガニック」がうたい文句である。有機認証が取れた植物から抽出した成分です、ということでオーガニック。 ええ?いったいなにがオーガニックなのだろうか。 フタを開ければどこの国の有機認証の基準も甘いし、その植物をどうやって抽出したかも不明である。99%抽出した媒体液の危険成分は残留していない、そういう証拠があるといわれても、肌に危険とされる合成溶剤で抽出した植物を敬遠したい女性は多いだろう。もっというと、成分のなかの、下位の配合にある成分がオーガニックだとしたら、多くを占めるほかの成分はどうなのかという疑問も湧く。 

 まあそれでも。「オーガニックといってはいけない!」と言論統制されているよりはましだ。メーカー側の表現に惑うなら非があるのは自分の方。面白がってコスメは選びたい。実際、コスメの売り文句にはツッコミどころが満載だ。

 現実世界には多くのトラップが潜み、そのありかと仕組みを知るほどに、現実は退屈とはほど遠いと実感する。無知と未経験の代償を払いながら、私たちは生きている。

  光だけを見ては誤る。とはいえ、未熟なうちは、闇はただただ怖い。闇を愉しむには眼力と直観力を養わなくては。

 

 メディアも、科学者も、メーカーも、言っていることに一理ある。 ではその一理はどこにあるのか。どんな事実を隠して、その理を説いているのか。 そもそも自分はどんな理を求めているのか。 「いまきれいでさえいたらいい」「いま気持ち良ければそれで」と考える理だってある。刹那の美しさと、永遠の美しさ。選ぶ自由が私たちにはあり、私たちの周りには、さまざまに時を重ねる大人の女性があまたいる。望む望まないに関わらず、彼女らが歩んだ跡を私たちは継ぐ。

 さて私たちは、後続になにを渡してあげられるだろう。

 たとえ自分とは異なる意見であっても、多様な発言を自由にできる素地くらいは渡したい。

 

 

草間彌生と天使のコスメ

 

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(2017年6月玉川上水付近にて)

 

 

    安定を求めるのは悪魔である。と、前衛芸術家の草間彌生さん。

 安定を求めるのが悪魔であるなら、不安定さに身を委ねるのは天使ということになる。不安で、惑う心が安定を求める。その心細い気持ちの、どこが悪魔なの?と訊ねたくなる。

 さらに草間彌生さんは「物乞いをしてでも自分のやりたいことをやるべき」と追い打ちをかける。その気概が、彼女にジョージア・オキーフ宛の手紙を書かせ、ニューヨークで飢えを凌ぎながらの制作活動をさせた。 

 安定と不安定。2月5日のブログで、思考の防腐剤のことを書いた。草間彌生さんの前衛芸術にふれることは、思考の防腐剤のデトックスになるかもしれない。

 

 九割の「オーガニックコスメ」に思考の防腐剤が施されている。自然のものとはいえ防腐効果が施されているのだ。貨幣を介在させる限界である。経営陣や開発者が不安にならないくらいの安定がどうしても必要なのだ。ギリギリ悪魔的。ただ、オーガニックコスメともいえないジャンクコスメよりは遥かにましであり、私自身、愛用するオーガニックコスメはいくつかある。時折、境界線を飛び越えられそうなコスメが発現するから。コスメ好きとしてはその発見がたまらない。

 

 では不安定な、天使のコスメはあるのか。ある。機会に恵まれたらぜひ試してほしい。

 

 市販されていない本物のハチミツを、遮光性の小さな瓶に落とす。ハチミツは小さな瓶の半分以下にする。そこに本物の湧き水を入れる。瓶のフタをしっかり閉めて、カバンの中に入れる。そのカバンを持って出歩く。明るい陽光の下で歩き、夜はひそやかな場所にカバンを置くとなおさらいい。

 いくつかの太陽と月を見た後、思い出したようにそれを取り出す。フタを開けて、「ポンッ」という音とともに、白い煙とかぐわしい香りがしたらできあがり。化粧水とも乳液ともつかない基礎化粧品が完成する。抗酸化作用、美白効果はもちろん、保湿効果、代謝機能もアップするだろう。

 さらにこのコスメは、使いようによっては減らずに増えていく。瓶の三分の一くらいを使ったら、そこにまた、湧き水を入れる。しばらくして蓋を開けると、瓶いっぱいにかぐわしい香りのコスメに満たされている。ちゃんと発酵していれば、使っても使ってもなくならない。逆に使わないと溢れてしまう。

 つまりこれは最古のお酒、蜂蜜酒(ミード)だ。蜂蜜が変化している。でも腐っているわけじゃない。偶然できた蜂蜜酒のあまりのかんばしさが、腐敗系ではない、発酵系の可能性を人類に拓いたのかもしれない。

 きちんと発酵する素地ができていれば、なにか植物の汁を添加しても発酵が続く。もし、その植物の汁が市販のもので、表示されていない防腐剤が使われていると、発酵が止まってしまうことが多い。

 減らないコスメ、生きているコスメを手にすると、なぜ発酵を法律で管理しているのか、現代社会の仕組みも透けて見える。

 

 天使のコスメは、安定しない。発酵が止むと、腐敗に進む。

 本物のハチミツも本物の湧き水も、貨幣や、貨幣に代表される欲得のやりとりが介在すると、きわめて入手しづらい。路面店、ネット、生産者直売。最も確率が高いのは、やはり生産者直。もっといえば、売っていないものがいい。貨幣の介在がない分、工夫と愛が必要になるけれど。ハチミツの発酵具合を見ていると、生産者だけではなく、流通する人、販売する人の欲得も関係しているように思う。

    仮に入手できて、見事に発酵させられ、誰かに渡せたとしても、相手の状況によって、増えるほどの生命力のあるコスメになるかどうかは分からない。たいてい失敗する。小さなちっぽけな瓶に秘めた可能性を理解するには、まずは自分でつくる経験が必要なのだ。自分でつくったことのある人は、発酵する場も、発酵したものの威力も知っているから、大事にする。

 すべてにおいて不確定要素が多い。だからこそ、なのだろう。肌に極上の効能と、現在の経済システムを超えた豊かさが具現化する。

 

 十三年前、天使のコスメをつくった。つくった、というより偶然できた。

 

 初めのうちプレゼントしたのは、オーガニックコスメを支持する人、無農薬無化学肥料のみかんを栽培している人、スピリチュアルな能力によるリーディングで生業を得ている人、現代科学に精通しているからこそ現代科学の限界を知る学者さん、作家の方などに。

 しかし残念ながら、価値を思いきりプレゼンしなかったためか、あまり価値があるものだとは思われず、持ち歩いたりしなかったために、増えるコスメにはならなかった。

 次に、肌トラブルに見舞われている人たちにも使ってもらった。顔が赤青くなっている人、吹き出物が出てしまった人など、緊急で相談に来てくれた人たちだ。その人たちは、増えるのを待たずに使いきってしまった。

 「より美しくなるために」というオーガニックコスメのターゲットユーザーに使ってもらえば良かったかもしれないが、基礎化粧品の定義からあまりにかけ離れているため、友人にさえ渡せなかった。 

 

 天使のコスメは不安定。しかも、企画・開発から、流通・販売、そして使い手にまで、すべてに目の届く範囲にとどめたい。

 実験結果から、コスメメーカーをつくる野望を棚上げにした。オーガニックコスメの定義に叶う、通りいっぺんのコスメをつくるのは、退屈だ。

 かといって天使のコスメは、現代の資本主義社会にはそぐわない。暗記教育のエリートが仕切っているゆえに、不安定さの概念が浸透しづらい。

 奇跡の、天使のコスメは、 あと十年後くらいにはつくれるだろうか。それまでには社会が変容しているだろう。オーガニックコスメの限界を飛び超えた、生きているコスメのリスクを承知で入手したい女性が出現するといい。いまの三十代、環境への配慮が当たり前の人が比較的多い世代の子どもたちが育ったら、可能性はあるかも。

 

 草間彌生さんは、いまなお不安定に、挑戦的に生きている。かくありたい。

 

手づくりのハミガキ粉

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オカトラノオ、2017年6月玉川上水沿いにて。)

 

 

   口内は、粘膜でできている。粘膜は、皮膚よりも浸透性が高い。皮膚が数秒ならば、口のなかの粘膜は入った瞬間に身体に溶け込む。からだの七割が水でできているという身体のなかでも、口内はほぼ水でできているといっていいのではないか。水に水彩絵の具を落とすと、あっという間に広がっていく。「口に入れたものは出ていくから」と安易に片付けず、身体の水槽に、どんなものが溶けていくのか、よく考えたい。

   オーラルケアには良質なものを。歯磨きした後で、味覚がおかしくなるハミガキ粉は避けた方が無難だ。

 

   七年ほど前までは、ハミガキ粉は、国内の石けんメーカーや、国内に比べて法的規制のゆるい海外のコスメメーカーのものなど一通り試した。

   が、オーガニックのハミガキ粉は入手しづらいこと、やれ「グリセリンは使わないでほしい」とか「シナモンがおいしい」などという家人の言い分、いただきもののココナッツオイル。などのことがあり、費用対効果が良く、高い品質が望める手づくりのハミガキ粉に落ち着いた。

 

   ということで今日は、ハミガキ粉を作った。

   重曹を350gぐらい使い、二ヶ月はもつぐらい、余裕を持ってつくる。マスタードの空き瓶、4つを満たし、1つは洗面所へ、3つは冷蔵庫へ。

 レシピは、①重曹、②重曹のマスキング(臭み消し)のための『ハッカ油』、➂オーガニックのココナッツオイル、④クローブパウダー、➄シナモンパウダー、⑥塩(今回は『石垣の塩』)である。

 クローブは、パウダー状のものより、固形のクローブをすり鉢で粉々にした方が、風味が長続きし、美味しい。が、手に入らなかったので、今回はパウダー状で。

 

 これらをただ混ぜ合わせるだけなのだが、ハミガキ粉づくりにはなぜかエネルギーが要る。仕事ですっかり疲弊していたり、遊んで帰宅した後に浮かれ気分で向かうことはできない。くちゃくちゃお喋りしながら、なんていうのもムリ。体調が悪い時はもちろん不可。ハミガキ粉づくりに向かうには、下腹部で呼吸しながら集中して、匂いや鮮度を確かめながら材料を揃え、道具を煮沸消毒し、混ぜ合わせる。

 以前は、前田京子さんの名著『お風呂の楽しみ』(飛鳥新社)のレシピの通りにつくっていたが、思考と試作を繰り返し、今の形に落ち着いた。

 ハミガキ粉は、一日の始まりと終わりに口にするもの、洗い流しながらも身体に吸収するもの、気分を変えるもの。食べ物とはまた違った層の役割を担っているからか、とにかく真摯に向き合わないと凛と通ったものができ上がらない。

 

 ハミガキ粉を入れたマイユのマスタードの瓶の上に、中華街の『照宝』で入手したカラシスプーンを添えている。が、家人がカラシスプーンを使っている形跡はない。「カラシスプーン一杯で、十分に歯を磨けるからね」と口を酸っぱくしてるのに。たくさんハミガキ粉を使わせたいCMにしっかり洗脳されているようで、歯ブラシにたっぷりハミガキ粉をつける癖がまだ抜けないのだ。さらに、「いちいちちっちゃいスプーンを使いたくない」と手間も惜しむ。私が使うから、歯ブラシをじかにつけないでほしいのだが、あまりにうるさいと、市販のチューブタイプのハミガキ粉にしてくれと言われてしまう。からだにやさしいもの、より地球と共生できる可能性を男性と探るのは、時折、思わぬところで困難が生じる。

 

 手づくりハミガキ粉の難点は、使い勝手ばかりではない。

 ホワイトニング、という歯を守っているエナメル質を破壊して真っ白にした状態を良いとする風潮が大きな障壁となる。ともすれば歯本来の象牙色が汚らく見られてしまう。タバコを止める前の家人は、歯がヤニで黄色っぽくなりがちで、相手に不潔な印象を与えかねなかった。

   そこで時折、ホワイトニングと称して、市販のハミガキ粉で歯を磨いた。市販のハミガキ粉は、研磨剤としては優れている。家人曰く「ちょっとした虫歯ならこれで削り取る」。確かに、お掃除の時の、ちょっとした頑固な汚れには良い。旅行や外泊の時に買った市販のハミガキ粉は、我が家に持ち帰ると、掃除用の研磨剤と化す。

  しかし、これを水に流すのはやはりためらわれる。フッ素成分の賛否もいまだすっきりしないし、自分の口内に入れたくない成分が、人間よりも小さな固体の生物にとって良い訳はないのだから。

 

 

 

 

オーガニックコスメへの違和感

 2017年5月27日現在。

 私は、オーガニックコスメという言葉に違和感を覚える者だ。

 なぜだろう。

 少なくとも1998年12月からの数年は、なぜオーガニックコスメという言葉が浸透しないのかと歯がゆい思いをしていたというのに。

 

 宗教かと疑われたり、マクロビオティックをやって正しい食に興味がある人しか買わないとか、自然食品店とかにあるイケてない化粧品と見られていたし、(いまとなっては嘘のようだが、当時はマクロビオティックなどと呼ばれる食養生や、有機農法や自然農法などによる農産物は人気がなかった)「肌にトラブルを抱えるような弱い肌だからオーガニックコスメなん言うのよ、私なんか肌が丈夫だからなにを使っても大丈夫よ」と言われたことは一度ではなかった。「海外留学なさっていたんですか。オーガニックコスメってなんだかストイックなんですよね。オーガニックコスメが広がるのは、この日本では難しいと思いますよ」と某大手出版社の編集さんに言われたこともある。「オーガニックコスメってありえない。知ってる?化粧品って、靴磨きクリームを顔に塗るようなものなんだって。産業廃棄物をうまく二次利用してお金をもうける。そういう仕組みで成り立っているんだから採算が合わなくてムリだよ」とは、お父さんが商社の社長をしている子だ。

 

 どう?いまとなっては、オーガニックコスメという言葉がすっかり浸透したじゃない。

 という気持ちも確かにある。当時、「うちはオーガニックコスメではないんですよ。あなたのところには協力はするけれど、オーガニックコスメなんて宗教みたいに見られるのはごめんですよ」とため息混じりに言っていたある女性の経営者も、いまでは「うちはオーガニックコスメなんですよ」とうちは始めからそう宣言していたと胸を張る。オーガニックコスメという看板が、経営に良い影響をもたらしているのだ。

 

 もっと得意になっていいはずだ、せめて自分のなかでは。でもやはり、違和感が否めない。

 

 関東圏にいくつかの雑貨屋やカフェ、セレクトショップを持つオーナーさんに、あるコスメメーカーさんを紹介したことがある。その時のやりとりが脳裏をよぎる。

 そのオーナーさん、仮にTさんとしよう。Tさんは、大変真摯な方だ。「オーガニック」とか「地球にやさしい」ということに世間が価値を置くずっと前から、エコロジーでかつスタイリッシュなものを探していた。これから世の中はこう動くから、という皮算用で動いているのではない。自身が化学物質による地球環境への弊害をみつけ、その発見をただの知識にとどめなかった。親御さんの代からのキリスト教徒というのも起因しているだろう。知性と真心が溶けあい、表面に浮かぶ。Tさんは親から受け継いだショップを地球への負担をなるべく軽いものにする、という方針に転換した。

 当時は商売っ気のない会社だった。(今は時代が追いついた)会社は商売をする母体を意味するから、矛盾がある。その矛盾を経営者の理想で埋めている会社だった。オーナーのTさんは、上背があり、いつもオーガニックコットン生成りの布地の服を着ていた。すみずみまであくまで清潔で、いつもふうわりと風をまとうように服を纏(まと)い、どこか浮世離れしている風情もあった。忙しくて眉間に皺を寄せていることも多かったが、限られた時間のなかで、弱小の出版社に過ぎない私の話に耳を傾けてくれた。

 ある日、Tさんが、「オーガニックコスメで良いメーカーを知らないか」とおっしゃった。ショッピングモールへの出店に伴い、コスメを一緒に売るそうだ。そこで浮かんだのはA社だった。ほかのオーガニックコスメメーカーに比べて、バランスが取れている。それが理由だった。来客の動向で「こういうアイテムがつくれないか」とTさんが持ちかけても、すぐに対応できるフットワークがあり、化粧品の現実を知りながら、オーガニックコスメの理想形を理解する柔軟性もある。私はA社を推した。

 そこからの仔細は知らない。A社とうまくつき合っていると思っていた。

 ところが、「なぜA社を推薦したんですか」とTさんが息巻いてこちらに言って来られた。紹介して数年が経っていた。

 Tさん曰く、あの会社は、自分のことしか考えていない。「私がきれいになる」ということが大切で地球への配慮を欠いている。

 なにがもとでそうおっしゃっているのか。詰めることはしなかった。Fさんの指摘は、A社だけではない、私も含めた「オーガニックコスメ」や「自然派化粧品」と称して、安心・安全な化粧品を女性に売ろうとする人、すべてに向けられていた。私は、ぐうの音も出ないまま、ただその場をとりなすことに終始した。

 

 Tさんの憤りにふれてから十年余りが経つ。

 あの時にピンと来なかったものが、いまになって分かりかけている。

 「オーガニックコスメ」を象徴としての言葉に使い、女性たちに訴えながら、仕様はそうでもないコスメメーカー。

 うちはオーガニックコスメです、合成界面活性剤、合成増粘剤、合成香料、合成色素、パラベンなどの旧表示指定成分、すべてフリー。しかも原料は有機か野生です。それも第三者の認証を得ているんですよ、と「うちが本物のオーガニックコスメ」と高らかに宣言するコスメメーカー。

 どちらも動機は変わらない。いや。動機でいけば、「こうすれば女性に売れる」という皮算用がない分だけ、前者の方が純粋だ。

 さらに、そのオーガニックコスメを使うとする女性たちが、続々と「きれいな私」として登場し、「うちのオーガニックコスメを使うときれいになりますよ」という立証をするための演出をしている。これもTさんからすれば真面目さを欠いていることになるだろう。

  日本における女性の「きれい」は、あくまで男性目線でしかない。肌が美しいだけなら、同じオフィスフロアに一人や二人はいるだろう。単なるイメージ戦略で押しまくるジャンクコスメの宣伝方法を、オーガニックコスメに転化していること自体、そのオーガニックコスメはまがいものということになってしまう。

 オーガニックコスメってそんなものか。

 地球への負担をいかにかけないか。どうしたら地球と共生できるのか。それと矛盾しない企業活動をいかに続けられるのか。それを追求せずして、なにがオーガニックですか。

 Tさんの憤りを、すぐに解消できずにいた。いまはできるのか? どうだろうか。Tさんの憤りを理解するにとどまっている。

 

 多種多様ないのちを、のびやかないのちの営みを寿ぐ。女性が使うコスメとはそういうものではないのですか。

 Tさんの憤りには、その奥底に悲鳴にも似た思いがあったのではないだろうか。

 

 オーガニックコスメ、自然派化粧品、無添加化粧品。

 日々のスキンケア選びに、女性は、より自然に近い基礎化粧品に興味を抱く。抱くはずだ、と化粧品会社も誘う。女性と化粧品会社。両者が期せずしてそこに価値観の転換が起こる。

 刹那の美しさになら、ジャンクなコスメで十分だ。

 「永遠の美しさを実現したい」

 大古からの悲願を揺らめかせた途端、自然の営みをみつめざるをえなくなる。みつめるうちに、遅かれ早かれ、自分も自然の営みの一つであると自覚するようになる。ほかのいのちを阻害するような営みは、自分のいのちを阻害することにほかならない。と、いつしか気づく。

 永遠には叡智が息づく。

 マハトマ・ガンジーは、どんな小さないのちも殺害しなかった。部屋に入ってきた蠍もそっと戸外に追いやったのだ。その行為を褒められると、「私のすべての行為は自己実現にほかならない」と答えた。

 目の前の蠍と自分。いのちは同じ重さであり、相手のいのちはまた、私のいのちでもある。

 叡智は愛の香りを放つ。

 より自然に近いコスメに女性が惹かれるのは、その奥に、愛の香りを嗅ぎ取るからではないだろうか。

 一度、愛の香りにふれると、そうではないものが簡単に分かってしまう。

 Tさんは、オーガニックコスメという概念に愛の香りを感じたからこそ、愛の香りを発しないものに憤りを感じた。 

 

 「オーガニックコスメ」という象徴としての言葉は、そろそろ不要になるだろう。きちんと向き合うと、意味を成していないという実態が明らかだ。