老人と愛人

対立の一致

とはいえ、そんな呪いを個人に課すのかよ。

他人を好きになれるのにアイドルを好きになるなよ、という余りに終わりきった怨念が脳を駆け巡っていた。

 

とはいえ、そんな呪いを個人に課すのかよ。結局どうありたいかって話だと思うが、アイドルとの共犯関係について考えて落ち込んでいた。

まず、僕は未だに人間が歳をとるということが、イマイチ理解できていない。去年の年末、アイドルの誕生日付近の握手会に行き、なんか念仏みたいに、みんなが唱えているから、「おめでとう」と口にして「ありがとう」と言ってもらう一連の所作を行った。けれど、それがなんだかよくわからなかった。それが、生まれてきたことへの感謝か、歳をとったことのお祝いなのか、だとすると、そもそも家族とかそういう括りで物事を考えるのはだいぶ古いなぁ、とかをずっと考えたりしていた。

言い切るのは、危険だけど人間が年齢を重ねることを否定したくてたまらないのだろうな。ただ、美しいまま残らないのだろうか。なぜ人生は一つなのだろうか。とか他者への尊敬なんてまるでない思考で一杯になることがある。

で、話を戻すとそんな狂った価値観でアイドルを眼差すとき、彼女たちは一定程度それに応えようとする。そんな呪いを個人に課していいわけないし、もうそういう共犯はやめたい。だから、今のハロープロジェクトのメンバーの多くが、自分の意思で行動しているように見えるのは、本当に僥倖で、「アンジュルムック」を読んで普通に泣いてしまった。けれど、全部過去として清算できれば楽だろうけど、思ったよりも、単純ではなくてグラついたりする。そのアンビバレントさが楽しいのか?とか思う自分の感覚にビックリもする。

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頭に数字を重ねてみる

プロジェクターで、頭に数式を重ねてみる。虚数を二乗したら、どうなるんだっけ?光が目に焼き付いて困るけれど、それ自体は苦しくない。もっと、静かな場所でイライラしよう。誰にも、言っていないことなんてもう無いのかもしれなくて、それが不安で仕方ない。350ml缶みたいな記憶と、これからを続けていくための欲。足りないものしかないけれど、検索エンジンにカーソルを重ね続ける。

暮れる幻、呪いで解決。

爪切りの音を集音マイクで集めると、パチパチって誰かの1日を慰めてるみたいで。暗闇照らす街灯が欲しいのだけれど、くちなし色のコートで夢は眩し。喧騒と孤独の境界で2DK。小さいDJブースを作って夜中はみんなで集まろう。眠くなったら、バルコニーで重い瞼に逆らわず。思っているより、貴方も僕も大丈夫。あ、その前に世界の方が終わるみたい。

ここが何処でももういいです。

何がどうって理論的な説明するのは避けたいのですが、このブログを定期的に読み泣いてます。

 

「伝えたかったことたちとか。 梁川奈々美

https://ameblo.jp/juicejuice-official/entry-12434936216.html

 

まずもって僕は、良くあろうとする人間が好きです。分かりやすく、嗣永桃子さんや道重さゆみさんの様に、自身の可愛さを標榜する姿勢。それ故に、可愛くあろうとする全てとか。

だから思うのですが、自撮りとかを否定するキモい人間いるじゃないですか。あれ何なんですか、マジで。あまりに過剰であるのは考えものかもしれないですよ。一昔前に流行ったSnowみたく畜生に成り下がる感じとか、最近流行ってるZEPETOよろしく0と1の集合体に収斂されていく生命の終わりとか。

とはいえ、良くあろうとする人間を貶めるのは美しくないっすよ。女性にマウンティングして悦に浸るクソ雑魚マッチョは「最愛に比べれば最強なんて」と100回唱えてくれ。

それはそうとして、「伝えたかったことたちとか。 梁川奈々美」まず、タイトルで震える。

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この「褒められ伸び子」という表現よすぎませんか。これに関してはつんく♂の言語センスが優れまくっているのですが、「やなみんってばすごい…!」の「ってば」の様なカジュアルな感じで自己を愛らしく表現するのとか、本当に美しさあり。やなみんの文章を読んでいると、古いオタク特有の自己完結の庇護欲が湧き上がりますね。それに関しては、カントリーガールズのそもそものコンセプトの様な気がしますが。カントリーガールズを応援すると、無様な自己を認識してしまい、普通に泣く。

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「ちゃんと
パーフェクトに
可愛いやなみんでいるためにも 笑
もう少しまるみんになりたいなと」

の「ちゃんと」が良い。なんというか、ハロー!プロジェクトを卒業することが悲しいとか、そういう事だけではなくて(それはもちろんだけれど)悲しいことと、やなみんのこれからと、楽しいこととか、それこそ文章に込められた”彼女の記憶”が、バッシバシと身体中を駆け回り、涙として濾過されていきます。

 

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「幸や不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」と偉い人は言っております。人の営みや社会の関係性にこそ、それが不幸であったとしても、その全てを積極的に「意味」と認められるとき、自己認識としてのこの世に価値があると断言できるのだと思います。ゆえ、「幸せ」とやなみんが言っているこの全ては価値があり、彼女のアイドルとしての5年弱の記録は美しいと言っていいと思います。

ハロプロを卒業して、現状の形と変わることにどうこう言ってらんないよ。もう。

何もかもが終わるわけではないのだと最近気付く。

 

ユーモアの葬式

ぬるま湯が膝下まで侵食し、太陽が南南西の方角から1日の延命を告げたとき、この世界のユーモアは死に絶えた。

ケラケラと笑い合った記憶は遠い彼方、夢覚めぬ彼岸で言葉になんの意味がある?意味だって、未だにそんなこと言ってるの貴方くらいよと、女は俺の肩をワイングラスで軽く小突く。そうかい、って軽口叩いてキツく目を瞑ると、白の世界。やっぱり、姿も形もないんじゃない!って夢の中。グルグルと頭の中を走り回る子犬は、もう2時半だから、眠るみたいだ。

ギューっと凝縮された時間や空間の中で、誰かを見つけることの困難を、貴方と共有したいのだけれど、もう遅くって。声を取り戻せ!声を取り戻せ!夢から覚めることがもうなくっても、きっと美しくあることはできるでしょ?と声をかけてくれた誰かを探し続ける日々。

角煮の角って何ですか?

分からないことが多くあります。

ビン・缶の収集日とか、会計が789円のときいくら払えばお釣りが少なくなるかとか。明日が寒いかどうか何てこと知りませんし、人間の足の小指が進化の過程で失われつつあることなんて、全く良く分かりません。ただ、最愛が愛の最上級であることは分かっているつもりです。

そうです、つまり、鞘師里保のことを考えています。そして、僕らはアイドルに何を見ているのだろう、とずっと考えています。(主語を私から我々に大きくするオタク特有の話法)

ハロー!プロジェクトに「もしも・・・」という楽曲があります。その歌詞で「もしもこの星が1日で最後迎えるとしても 面白い話して忘れさせてほしい」という余りに美しい歌詞があります。

僕はこの曲を聴くと、美しく、儚く、そして自らの背負っている罪を感じずには居られなくなります。こんなレベルの論評は今や、yahooコメント欄にも書いてあるでしょうが、アイドルカルチャーが彼女達に少女であることを課し続けているのであれば、そのことの持つ加虐性、女性蔑視的態度には自覚的であるべきと思います。「面白い話をして忘れさせてほしい」と歌う無垢さを、僕らは求めていて、それを彼女達は演じ続ける。その枠の中に彼女たちを閉じ込めているとしたら、それはあまりに残酷であるし、ルシール・アザリロヴィックの『エコール』が描いた世界を再演しているに過ぎないでしょう。そこでは、アイドルは人としてではなくキャラクターとして消費されているに過ぎないし、それ故にこそ宗教的な崇敬との類似性が議論されていた訳でしょう。ただ、個人的にはそんなことはもう語り尽くされ何らの強度も持っていないと考えています。日々、人が人を眼差す視点が増えているように感じますし、であれば、現在のモーニング娘。アンジュルムの様に、女性ファンが増えて、女性の求める女性像を再現していくことが、ジェンダー的態度・在り方として間違っているとは思えないです。

それを踏まえつつ、最近すごく興味深く思ったのはアンジュルムのリーダーあやちょ(と、僕らは少女であることを強要している)のブログです。

「具体的な年齢で物事を考えれば、誰かにとって都合が良いのであろうか?それがあなたへの慰めになるのか?その視点がなければ、私たちの行動を認め合うことができないのか?まるで私たちが行動を起こせないかのような?

そんなに私たちは無垢だと思われているのか?

非常に残念だ」

 

僕は鞘師里保のことを想うとき、彼女を人として捉えていたのだろうかと、考える。鞘師里保はただ一つ正しいですなんて、言えるわけがないし、これ以上彼女を虚像に閉じ込めておいて良い訳がない。アイドルであることを演じ続けろ、とオタクはアイドルに課すが、もうそんな共犯関係に身を投じていようとは思えない。要するに、人は歳をとるしそのことに僕はどれほどの理解を示していたのだろうか、と改めて考えざるを得ないです。(人間嫌いがアイドルを好きになろうとすると、自らの態度に疑問を持ったりするので切ない。)

長年のハロプロオタクほどこんなこと体感的に理解しているんだろうな、と思うし、それでいて常にゼロベースでアイドルを見つめられる彼らのエネルギーにも一定の畏敬を覚えてしまいます。

鞘師里保の愛しさについて長文を書こうとしていたのだが、自分の愛の歪みを実感してしまう結果になった。

 

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はーちん……

それはちょっとした愛

気色悪い話ですが、個人的には少し驚きの感情を覚えた出来事について。

先日、ハロー!プロジェクトのJuice=Juiceが香港でイベントを行ったようです。詳細は記憶の淵に追いやろうとしているので、あまり書きませんが、端的に言うと、香港の芸能界的な雰囲気が強いイベンドだったそうです。所謂、「喜び組的」な雰囲気を感じ取るのが容易な。実際にどうだったかとか、そう言うことは脳髄を爆音の音楽で封じ込めて考えないようにしましたが、なんというか、人間は愛でのみ生きていると考えている僕からすると、結構シンドイ空間です。

ただ、盲点だったのは、そういう空間に彼女たちが居たとして、それが特段、僕の感情を揺らすとは思っていなかったところにありました。つまり、僕はそれほどJuice=Juiceが好きではないと自分では思っていたんです。アイドルでは一番好きですが、人生のベクトルで考えると、凄く美しい人々であるな、と距離を置いていると自己認識していました。

ところが、彼女たちの香港イベントの詳細を知った僕は、心身があまりに疲弊し、昔読み漁った、ジェンダー関連の著作を思い出して、如何に権力を盾に関係を強要する人間が不当であるか、あるいは、それを是とする人間の未熟さとかそういう事が頭の中でゴチャゴチャと回り続け、Juice=JuiceのブログをF5し続けていました。(だからアップフロント、あの日のアクセスカウンターはバグではない、俺の苦しみだ。)

次の日冷静になって思ったのは、あぁ、僕はこんなにもJuice=Juiceが好きだったのか、という感情についてです。それは多分、愛に似た感情だったと思います。愛って『メバエ』に掲載されている感情かと思ってましたが、こんなところにあったのですね。

それが強者の論理と言われれば、そうなのかもしれませんが、僕は社会など飛び越えて、セカイの中で人は愛し愛されるべき存在であると本気で思っています。歪だからこそ、一方通行の愛は肯定されうると思うし、ゆえに、彼女達の輝きは閉じた瞼を越えて、意味をもたらしていると確信に近い感情があります。

社会は相も変わらず終わっておりますが、その社会が愛を醸成する手助けをするのであれば、愛を信じることも欺瞞となるのか、あるいは、愛は純粋に穢れなく愛なのか。などと性懲りも無く、理論武装で感情を誤魔化そうとしておりますが、今日も生きております。