ベテラン

職場の大ベテランが通勤用のスクーターを替えたいというので、良ければ私に売ってくれませんかと声をかけた。ホンダ・スペイシー125。

次の休みになったら家に来なよ、見せるから。

日曜日の昼過ぎに彼の家へ行った。スクーターよりも先にご飯を食べようということになり、家に上がらせてもらった。出迎えてくれたのは彼の奥さんと4匹のダックスフントたちだった。犬はよそ者である私の足の匂いを嗅ぐと、尻尾を振りながら少し距離を置いてこちらをじっと眺めてくる。彼らには受け入れられたらしい。

ダイニングへ入ると、まだ湯気の立つ焼うどんがあった。「ごめんなさいね、久しぶりのお客さんだから……気が早まってしまって」と、奥さんは私が何も言わないのに謝ってきた。いいえ、こちらこそお昼をいただけるなんて恐縮です。私も反射的に言葉を口にした。

私たちはテーブルにつき、犬たちはドッグフードに夢中になっている。男2人は社食でついてしまった癖のせいで、ものの10分で食べ終えてしまった。奥さんはまだ半分残っている焼うどんを食べながら、そして少し考えながら箸を置き、「ね、あなた、あなたとの出会いをまた話してもいいかしら」「ああ、まだ話してなかったっけ、いいんじゃない」

 

そう、丁度あなたと同じぐらいの歳に旦那と出会ったの、私もあの工場にいたから。旦那は溶接のスパッタで焦げだらけ、私は油まみれ。社内結婚がまだ当たり前だったから、班長たちが合同のお見合いなんて設定してくれてた。お互いのお給料はだいたい同じだし、腕章もつけないまま停年を迎える人は多かったの、今と同じ。でも……惚れたのはこの人のひょうきんさもあるけど、一番はヘアスタイルだった。今はてっぺんが薄くなってるけど、前髪が犬の尻尾みたいに巻いてるでしょ。昔と同じで嬉しいの。

 

「旦那」が照れ隠しに俯いていたが、ふっと顔を上げると恥ずかしそうな顔をして早くバイク見たいだろ?と私を庭へ連れ出した。

私と同い年のスクーター。古いがよく手入れされていて、飛び石や擦り傷も一緒に黒光りしていた。オドメーターは10万キロで一周してしまっていた。4ストロークのはずなのに、2ストロークのようにエンジンオイルを燃やしてしまうほど痩せたピストン。

「本当は売れもしないってわかってたんだけどね、息子も孫も出てったから……」

一通りの説明を終えて、オイルの補充をしながら彼は言った。

 

自分のアドレスのエンジンを始動させた。

「今度、新しいのを買ったら見せてください」

「ああ、また、月曜日に」

中央防波堤

埼玉、千葉、神奈川、果ては山梨から東京まで勤めに通う人々の傲慢さを18歳のときから何度も見てきた。所詮は田舎の住まいなのに都区内で働くくらいで地元の友達をなぜか見下す節があったのは不思議だった。練馬区でも大泉、板橋区なら高島平、北区なら浮間あたりなんかは全然田舎だ。晴海通りの東銀座駅あたりで信号待ちをしていたら、タクシーに乗ろうとしたサラリーマン風の男がオートバイのミラーにぶつかってきた。こちらが何かしたというわけでもなしにわあわあと大声を上げ始め、俺は浦和へ帰るんだ、銀座で遊べるくらいの人間なんだとか色々と個人情報を伝えてきた。浦和?ああ大宮の近くの…埼玉のね……浦和に浦はなけれど大宮に宮あり……。おっさんの唾を浴びながら黙って彼を見ていると、部下らしき人が諫めに入ってタクシーに乗り込んでいった。

銀座にいるだけで偉ぶれるのなら、豊洲では金持ちぶって山谷で貧乏ぶり、三鷹では文化人ぶって武蔵村山ではチンピラぶりながら生きる人間は浅ましい人たちなんだろうな、と思いながらようやくオートバイを発進させた。港区に自宅を買ったがために自分を凌ぐ金持ちと付き合わなければならず貧乏しているおじさんの話を雑誌記事で読み、世田谷に家を建てたはいいものの、火事になれば消防車も入れない道幅のせいでその一帯が灰に帰すのを見つめるしかない家族。檀家にポルシェが見つからないように隣の市に駐車場を持つ町田の和尚、多摩センターに住んでいるがために軽自動車を余計に持つ建築家、この東京という狭い狭い場所で「その土地に馴染んでいるように振る舞う」だけでかなりの労力が必要で、名を捨て実を取るというのは本当に難しいらしい。

 

台場でワーキャーしている金持ちぶった若者の対岸には埋立地の中央防波堤が鎮座する。ダンプだけが行き交って人の往来は全く、言葉通り全くない。街宣車の墓場で人形が眠っているだけだ。四六時中メタンガスを抜き、地面から水を出さなければ浮いてもいられない土地。豊洲ももともとはこんな土地だったのかと思うと、タワマンの最上階に向かって「おめェもボスになったんだろ?この瓦礫の山でよぉ」なんてセリフを吐いてみたくなる。東京都江東区青海三丁目地先が暫定的な住所だけれども、帰属先が確定すれば無毛な地に茫洋とした人たちが集まるんだと思う。

 

 

ガソリン添加剤

和光ケミカル、リキモリ、クレ、ゾイル、その他有名メーカーからホームセンターのPBとして売られている謎の添加剤まで、兎にも角にもエンジン内部の洗浄やパワーアップ(これって馬力のことですか?)を謳ったガソリン添加剤は数多あるわけだけれども、どのレビューをみてもわからない、少し良くなったような、プラセボ効果かも、といった曖昧な感想しか出てこない。

懇意にしているバイク屋の主人は「これ使ってたバイクのエンジンあけてみたら、綺麗だったから」といってヤマルーブの添加剤をサービスで入れてくれる。それでも本人はそれ以外の感想を持ったことはないそう。

 自分もヤマルーブを入れてもらった客の1人で、正直レギュラーガソリンだけで十分だと思っているし、でもタダだから別に入っててもいいよね、くらいの気持ちで乗っていた。

久しぶりに行ったバイク用品店でリキモリの添加剤が投売りされていた。1本300円だったはずで、ポイントもけっこう貯まっていたから遊び半分で買い、給油するついでに入れた。会社勤めになってからは日曜くらいしか乗れる曜日はなく、平日は友達に貸しているスクーターだった。添加剤を入れた翌週、その友達とサイゼリヤに行ったら「アドレス、急に吹け上がりが良くなってびっくりしたよ」と切り出された。彼にリキモリのを入れたとかオイル交換をしたとか言ったわけでもなし、本当に「急に」の出来事だったのだと思う。自分だけで乗っていたらこの手のキワモノの使い心地や効果はたぶんわからなかったろうなと、小雨の降る帰り道を走りながら思っていた。

クラウン・コンフォート

勤め人になって1ヶ月も経たず、私の部署の中では重要な仕事を任されるようになってしまった。とにかくコンフォートな言葉遣いや運転、都内の道路の知識、店の位置、定期的に訪れる場所、その他、その他……。

前任者があまり良くない形で辞めていったらしく、諸先輩方もその仕事を担当していなかったから引き継ぎらしい引き継ぎはなく、残された断片的なメモや地図を頼りになんとかこなしてきたつもりだったのだけれどどうやら思い込みに過ぎなかったらしい。

とうとう小言を言われるようになり、ぞんざいな扱いを受けるようになってしまった。周りにきいてもピンとくる答えは返ってこない。どうしようもなく辛くて、駅から家までの15分歩くのですら嫌気がさした。タクシーを拾って自宅の最寄りのコンビニまで乗った。寸詰まりのクラウン・コンフォートだった。その名に恥じず、不快な振動や遠心力を感じることもなく、運転手さんも物腰柔らかい感じの良い人だった。

車の中という、限られた例外を除けばごく狭い空間の中でたった1人だけ威圧的な人間がいればそれだけで他の人たちは肩肘を張って緊張を強いられる。少し大きな路線バスでも。あの緊張の中ではせめて目的地までは安全に、せめてマナーだけは守ろう…これだけしか考えられない。威圧でこれらのうち1つでも潰されてしまったらもう頭の中は真っ白、ただ車を真っ直ぐに走らせることしかできなくなってしまう。

先方が知っていて私が知らない場所に案内してもらうとき、交通法規を無視した指示を受け、法規には逆らえないと控え目に出ても結局は私の勉強不足ということにされる。他の仕事をきっちり仕上げてもただ1つの地点に要領よく着けなかった、何も情報がなくても私が全て責任を持つしかない。私しか持てない。

雨の響きで眠れぬ夜は

前にレンタカー屋でバイトしていたことを書いたと思いましたが、ああやって心が荒んだのは区内の営業所にとばされてからの話で、その前は郊外のまあまあ暇な支店で夜勤をしていました。金土日はやはり忙しいけれど他支店へ車を回送する業務が多く、接客で一喜一憂するような感情にさわるようなことではなくとても楽だったことを覚えています。

平日の夜なんかはとても暇だったわけです。日付が変わるあたりからペアを組んでいる人と時間を3、4時間ずつに分けて、動く予定のない車の中で眠ったりコンビニへご飯を買いに行ったりして休憩時間を潰していました。監視カメラも敷地の中を全部映しているわけではないし、バイクつながりの友人が遊びに来ることもありました。

その中で、雨の日だというのにスクーターに乗って遊びに来た人がいました。同じ系列のレンタカー屋を辞めた人で、ペアのおじいさんバイトとは知り合いだったようですから、スカイラインだとかマーチだとか、やたら日産車の話をしていたと思います。そのうちに休憩時間がきて、僕はウィングロードの中で暖をとることにしました。すると彼も一緒に車内に入っていいか、と聞いてきましたから特に断る理由もなく助手席に座らせました。そこからバイクの話、レンタカー屋の話、そしてどう話したか、互いの親の話になりました。

彼の父親は転勤組、母親は兄を偏愛する少しヒステリックな人のようでした。いつも比べられ、弟である彼は落ちこぼれ扱いの典型的な話に出てくる家族だなあと思っていると、家にいるのが嫌になって地方に住んでいる恋人のもとへと行く展開を迎えました。大学を辞めて、もらい婿として先方の家業を継ぐつもりでいたようでした。親に反対されながらローンを組んで買った車に乗って、いざ出発というときに両親は玄関に出、交差点を曲がるまで車を見守っていた。そこで初めて彼は親のことが心配になったそうでした。結局、彼は先方にいいように使われ、しかも車は勝手に売られてその金は手切れ金とされました。

僕が驚いていたのは彼がこんな不遇な人生を送っていたとは思えなかったことと、酒を飲まなくても腹を割って話してくれる人がいる、という事実でした。雨がルーフを叩いて音を立てる中で、僕たちはざっくばらんに話しをしていたのです。今までの似たような経験は必ず側に酒がありましたが、それがなくてもできるのだという気づきを得ました。今まで無理してでも飲まなきゃいけないなんて思っていた自分はなんて浅はかだったんだろう、素面でもこんなに話せるのにどうして酒がいるんだろう。

休憩時間は終わって、彼は帰って行きました。僕は事務所に戻って、やたら乾いた暖房と蛍光灯の優しい光に包まれて、机に突っ伏して、幸福感に浸りながら居眠りをはじめたのでした。

幼なじみの夢

私には小さい頃から定期的に見る夢がありました。ビルから私自信が落ちてゆく夢です。3歳の頃からずっと、一人暮らしを始めてから少し経つまで見てきたのでした。

全部の落ちゆく夢は、灰色のガラス張りのビル、点線のひいてある道路、それだけが出てきました。自分が屋上から飛び降りる訳でもなく、落ちているところからはじまって道路が迫ってきたと思ったら起き上がるか、そのまま違う夢に入るか、真っ黒に熟睡してしまうか。ビルの夢に入るのも、真っ暗闇からいきなりビルから真っ逆さま、自分の寝室にいる夢から真っ逆さま、大きな父と話していたら真っ逆さま、なんの前触れもなく落ちてゆきました。

夢占いを見てみると、飛び降りたり着地したり、とりあえず1度は地面に足をつけてることが前提で、終始足が着かない私を占うものは1つもないのです。

今のアパートに移り住んで、3ヶ月くらいこの夢を見ることはありませんでした。けれど、ついに落ちてゆく夢ははたして出現したのでした。いつも通り、落下の途中で夢がはじましました。落ちる落ちる、もうすぐ道路だ、というところで、どたっ、と音がしました。ああとうとう落ちたのだ、安堵と不安が混じった気分で目を覚ますと、ベッドから私は落ちていました。マットレスがずれたのを直さずに眠っていたからみたいです。

それから今まで、私が本当に地面に足を着けてから、あの夢はもう見れなくなってしまいました。あの落ちてゆく、体が軽くなる感覚はなくなって、ずっと真っ暗な夢のまま眠っています。

デカビタ缶

大湊、田名部、私の一番古い旅行の記憶に登場してくる舞台だ。まだ2つか3つのとき、生まれたばかりの妹と一緒に家族そろって青森の祖母の家へ挨拶に行った。というのは建前で、本当は父と母が久しぶりにねぶた祭を見に行きたくて私たちを新幹線に乗せたのだった。

盛岡からは「はつかり」に乗って、野辺地からは母の言う「汽車」に初めて乗った。たった2両のディーゼルカーだった。想像していたよりも大湊が近かったことに拍子抜けしてしまった。着いてすぐ、「よぐきたにし」「ねまさない」と謎の言葉で青森の親戚一同に迎え入れられて、「こせ、こせ」と私は浴衣を着せられた。まだ日も暮れていないのにせかせかと料理を出された。祖母の手料理の中で、なぜか蕗の煮つけだけは今でも匂いも味も思い出せる、不思議だけれどおいしい料理だった。伯父さんたちは、どこの関羽がどうの、弁慶がどうだ、色々話している。母は伯母さんや祖母の使う謎の言葉を使って彼らと話していて、まるで別世界の住人になってしまったみたいだった。

 

「みつのはンづ、寄ってるんだぞ」と私の左手を握っている伯父さんは言った。「自衛隊でも、大湊はなかなか行かれなかったですから」と右腕をつかんで話すのは父だった。町一番の大通りは、男2人ででも子供をつかまなければ迷子にさせてしまいそうなくらい人がいたと思う。そのうち、私たちの前を不格好なスピーカーをつけた軽トラが何か言いながら走って行って、遠くから掛け声と太鼓の音が近づいてきた。怖そうなのと弱気そうな中学生の2人組が太鼓をダンダンと叩いて私の前を通った。お囃子をやっているおばあさんの集団や、小学生くらいの子たちがつまらなそうに列になっていたりだとか、海の上で剣を構えた赤い男のねぶただとか、たくさんの楽しくて騒がしくて綺麗なものが私の目と耳と皮膚を振動させていた。

ねぶたが終わってしまってから、私の記憶は急に大湊駅まで飛んでいる。父は仕事で家へ帰らなければいけない。乗ってきたときと同じ汽車がやってきて、私は泣きじゃくっていた。 もう二度と父と会えないのではないか、子供の本能なのかもしれなかった。祖母も母も、父も笑っている。「家に帰れば会えるのに」と言いながら、父はしゃがんで私と同じ目線になった。なんか買ってやるから、と自販機で何かを買い、私にそれを渡した。瓶のデカビタだった。その冷たさに涙が引っ込んでしまい、訳もわからないままフタをあけて、そのまま飲んだ。2口目、3口目あたり、瓶と顔を同時に上にして駅舎を見てみると、父は駅員に切符にはさみをいれてもらっているところだった。

そのあと、私と母と妹がどうやって帰ってきたのか、全く覚えていない。缶に詰め込まれたデカビタを飲みながら、私は父の帰りを思い出すのだった。