聖書の言葉を聴きながら

一緒に聖書を読んでみませんか

「キリストの十字架によって」(マルコによる福音書3:7~12)

 「キリストの十字架によって」
 
 2023年3月12日(日) 受難節第3主日
聖書箇所:マルコによる福音書  3章7節~12節
             
 2月19日の礼拝で3章1節から6節を読みましたので、本日はその続きとなります。

 1節から6節までのところで、安息日に関する律法について、イエスファリサイ派の人々との間に、決定的な対立が生じてしまいました。イエスは、ファリサイ派の人々が持っていた、自分たちこそは、聖書に従って正しく生きており、他の人々よりも優れているという誇りを打ち砕いてしまいました。一方、ファリサイ派の人々も、思想面では相容れないヘロデ派の人々と結託して、イエスを殺す相談を始めました。

  7節、イエスは会堂を去り、弟子たちと共にガリラヤ湖の方へと立ち去られました。 ガリラヤの一帯から集まってきた大勢の群衆がイエスに従いました。また、南のユダヤエルサレム、イドマヤからも、東のヨルダン川の向こう側からも、さらには遠く北のティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、イエスのそばへと集まって来ました。

 それほどにイエスのなさったことは人々に衝撃を与えました。とりわけ、イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして、そばに押し寄せてきたのです。9節では、群衆にイエスが押しつぶされる危険を感じるほどであったと述べられています。そのため、イエスは弟子たちに小舟を用意するようにと命じられました。

 この小舟は身の安全を図りながら、説教するために用いられました。4章1節には、イエスが舟に腰を下ろして、湖畔の群衆に語りかけたとあります。さらに舟は、群衆からスムーズに、離れるためにも使われました。4章36節に、弟子たちは群衆を後に残して、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出したと書かれています。 数えきれないほど大勢の人々が集まってくる。これは、伝道のためには、絶好の機会であるように思えます。しかし、イエスは、このチャンスを生かそうとしているようには見えません。
 
 3章の13節では、イエスは山へと退かれて、群衆から離れていかれことがわかります。 イエスは、大勢の人が集まることで、良しとはされませんでした。癒しを求める人々の求めには応えますが、それを感謝して喜んでくれれば、それでよいというお考えではありませんでした。

 イエスは、自分を正しく知ることをお求めになられます。イエスの語られる教え、語る言葉、そしてイエスのなす行為、業において。さらに、十字架へと向かう言葉と業において、ご自分を正しく理解することを求めておられるのです。

 正しく理解することを求められるのは、イエスに従い、イエスと共に生きるためです。3章11節に、汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだと、あります。続く12節で、イエスは、自分のことを言いふらさないようにと汚れた霊どもを厳しく戒められています。「あなたは神の子だ」という汚れた霊の告白自体は正しいものです。しかし、汚れた霊は、決して、イエスに従い、イエスと共に生きてはいません。口先だけでは、告白になりません。言葉は出来事となるのです。
 

神の愛は、言葉だけでなく、イエス キリストという出来事となったのです。そして、
 
エス キリストは、言葉と業において、わたしたちの救いを成し遂げてくださったのです。心と体は一つであることを指す言葉として、心身一如という言葉があります。まさに神の思いは、出来事となり、キリストの言葉と業、キリストのすべて、イエス キリストそのお方において、救いは、成るのです。
 
 この、自分のことを言いふらさないようにというイエスのお考えは、汚れた霊に対してだけではなく、弟子たちに対しても同じでした。8章27節以降のところで、そのことが、また、このマルコによる福音書におけるイエスの教えの核心となる部分が出てきます。

 8章27節から35節までをお読みします。聖書を空けてみたいと思います。8章27節、新約聖書77ページの上の段、「27 イエスは、弟子たちとフィリポ・カイサリア地方の方々の村にお出かけになった。その途中、弟子たちに、「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」と言われた。28 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに,『エリヤだ』と言う人も、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」29そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは,メシアです。」30するとイエスは,御自分のことをだれにも話さないようにと弟子たちを戒められた。続く31節、それからイエスは、人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている、と弟子たちに教え始められた。32しかも、そのことをはっきりとお話しになった。すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。33イエスは振り返って,弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われた。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている。」34それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。35自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」
 
 弟子たちも、イエスをメシアだと正しく告白することはできます。けれども、十字架が理解できませんでした。十字架は罪人の思いを越える神の御業です。イエスの御業が成し遂げられ、復活によって、罪と死が打ち破られて、初めて理解できるのです。イエス キリストに従い行く信仰によって受け入れることのできることなのです。それまでは、誰にも、自分のことを話さないようにと、弟子たちを戒められたと30節にあります。

 大勢集まってくる人々やこの世の成功、称賛に背を向けて、イエスは十字架へと進まれるのです。頭では「イエスが救い主だ」と分かっていても、従っていくことができないのが、この十字架です。しかし、十字架抜きでは、イエスを正しく知り、理解することは、できません。わたしたちは、自分の力だけでは十字架を理解しえないし、ましてや自分の十字架すら負うことができません。罪あるわたしたちには決してできません。

 しかし、そんな中、信仰の決断をして、キリストに自分自身を委ね、キリストに担って頂いたとき、わたしたちは初めて、キリストの十字架によって救われたことを知ることができるのです。キリストに支えられて、一歩一歩、思いも、言葉も、行いも、自分自身のすべてが、キリストの恵みによって支えられ、導かれて、キリストと共に歩み始めていることを知ることができるのです。

 目に見える体は一緒であっても、お互いが理解できていない、共に生きていない現実があります。罪ゆえに、家族ですら危機にさらされています。罪の中で、言葉も業も混乱し、矛盾が生じています。キリストの十字架の赦しによって、わたしたちも、お互いに赦し合い、愛し合うのでなければ、キリストの愛に慰められ、愛に満たされて、互いが本当に向かい合うことも、共に生きていくこともできないのです。

 だから、イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」と命じられます。十字架に向かって生きていかれるイエス キリストこそが、わたしたちを救いで満たし、共に生きる恵みを与えてくださる救い主なのです。

 

 

 受難節のこの時、主イエスの恵みを、十字架を通して、深く味わいたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 

「見えなくなってしまっている大切なもの」(マルコによる福音書3:1~6)

 「見えなくなってしまっている大切なもの」

 

 2023年2月19日(日) 復活節前第7主日

聖書箇所:マルコによる福音書  3章1節~6節

 

 ファリサイ派と呼ばれる人々がいました。彼らは律法を正しく守って神の前で正しい人であろうとした信仰熱心な人たちでした。彼らは,イエスの弟子たちが安息日にしてはならない畑の麦を摘んで食べるのを見て,イエスに問い質しました。もっとも聖書に安息日には麦の穂を摘んで食べてはならないと書いてあるのではなく,安息日に仕事をしてはならないという戒めを解釈した彼らの考えに背いているということなのです。

 それに対してイエスはこう答えられました。安息日は,神が共に生きるものとして祝福の内に人をお造りくださったこと,そして神ご自身が人を罪から救ってくださることを深く覚え,神と向かい合うために与えてくださったもので,安息日は人のために定められたものである。決して人が安息日のためにあるのではない。律法は何かをさせないこと自体が目的ではない。神と共に生きる恵みを受けるために定められた。だから,人の子は安息日の主でもある。

 ファリサイ派の人々はイエスに反論することができませんでした。彼らは悔しかったのだろうと思います。彼らは熱心に聖書を学び,神の御前で正しくあるために律法を守ろうと努力し続けてきたのです。自分たちこそが聖書を正しく理解している,そんな自負を持っていました。それが,ナザレの田舎からぽっと出てきたイエスなどという男に自分たちのあり方を批判されたのです。彼らはイエスを神に背く者として訴えようとイエスのことを監視していました。

 イエスはまた会堂にお入りになりました。そこには片手の萎えた人がいました。人々はイエスを訴えようと思い,安息日にこの人の病気をいやされるかどうか,注目していました。ファリサイ派の解釈によれば,命に関わるケガや病気でなければ安息日には治療をしてはなりませんでした。この片手が動かないというのは命に関わるものではありませんでした。安息日が終わってから癒しをしても何も問題はありませんでした。しかし,イエスは手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と言われました。

 イエスは今自分に注目している人々の心を知っておられました。そして人々にこう問われました。「安息日に律法で許されているのは,善を行うことか,悪を行うことか。命を救うことか,殺すことか。」どちらが許されているか,と問うていますが,これはどちらが法の精神にかなっているか,つまりどちらがこの律法を与えられた神の御心にかなっているか,と問われたのです。しかし,人々は黙ったままでした。

 ここで人々と言われているのはファリサイ派の人たちです。彼らはイエスが癒す力を持っていることを信じていました。しかし,これを信仰とは言いません。信仰とは,心からの信頼であり,信じる方に従い共に生きることです。そして彼らは,イエス安息日に癒しをすることに反対しながら,癒しをすることを待っているのです。イエスを神に背く者として訴えるために。

 彼らは聖書を教える人たちでした。彼らは神の戒め,律法について問いを投げ掛けられたのですから,彼らこそ責任をもって答えなければなりませんでした。しかし,彼らは答えませんでした。じっと黙ったままイエスを見つめていました。

 イエスは人々の思いをご存知でした。だからこそ問われたのです。ならば,わざわざ相手の思惑に応えるように癒しをしなければよかったのです。命に関わるものではなかったのですから,日が沈んで安息日が終わるのを待って癒しても何も問題はなかったはずです。しかし,イエスはそうなさいませんでした。

 イエスは神の言葉の前で答えることをせず,悪意を抱いて黙っている人々を怒って見回されました。イエスは彼らのかたくなな心を悲しまれました。それから片手の萎えた人に「手を伸ばしなさい」と言われました。その人はイエスが言われるとおり萎えた手を伸ばしました。すると,手は元どおりになったのです。

 この癒しは,長年この障害のために苦しんできた人のためのものであると同時に,神の言葉を知ってはいるけれどもその言葉に込められた神の思いを知らない,神に従い共に生きることをしないファリサイ派の人々のためのものだったのです。しかし,彼らはイエスの思いを理解できませんでした。ファリサイ派の人々は出て行き,早速ヘロデ派の人々と一緒に,どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めました。ヘロデ派というのは,ガリラヤの領主ヘロデ アンティパスに従う政治的な一団で,ローマの支配を受け入れ,現実的な路線をとる人々です。一方,ファリサイ派ユダヤ教の宗教的なあり方を徹底しようとする理想を求める人たちでした。本来,ヘロデ派とファリサイ派は相容れないのですが,イエスに対する思惑で一致し,手を組むことにしました。それはイエスを殺すという計画でした。

 イエスファリサイ派の人たちに向かって「安息日に律法で許されているのは,善を行うことか,悪を行うことか。命を救うことか,殺すことか。」と問われました。わたしは今までこの問いの最後の「命を救うことか,殺すことか。」がよく分かりませんでした。この日,萎えた手を直さなくてもこの人を殺すことにはならないだろう,この人の手は命に関わるようなものではなかったのだから「命を救うことか」と問うのは大げさ過ぎやしないか,などと考えていました。しかし今回,初めて示されました。これはまさしくファリサイ派の人々のために問われた問いなのです。彼らは安息日にイエスを殺す相談を始めたのです。そしてイエスの行為は,自分を理解せず殺そうとするその罪を受け止め,自らの命を懸けて救いの業をなすものです。ご自分は死んで,相手を生かそうとする救い主としての揺るがぬ姿勢を証しするものです。安息日は,神が共に生きるものとして祝福の内に人をお造りくださったこと,そして神ご自身が人を罪から救ってくださることが明らかになるために定められた日です。そして,罪人を殺さず,命を救う神の御業はイエス キリストの命によってなされたのです。

 「命を救うことか」と言われているこの「命」はギリシャ語でプシュケーという言葉が使われています。これは元々「魂」を表します。さらには「人格」というような意味を表します。ファリサイ派の人々には,このプシュケー,命,魂,人格が見えていませんでした。彼らにとって片手の萎えた人はイエスを訴えるための道具でした。そして訴える口実を見つけようと虎視眈々狙っていたイエスは,彼らにとっては獲物でありました。ファリサイ派の人々は,人がプシュケーを持つ存在,命,魂,人格を持つ大切な存在であることが見えなくなってしまっていました。

 イエスの問いはその見えなくなってしまっている大切なものに気付かせるためのものでした。神は繰り返し問われます。大切なものが見えなくなってしまっているわたしたちに問われます。最初にエデンの園で罪が犯されたときもそうでした。神の足音を聞いて隠れたアダムとエバに問われました。「どこにいるのか」と。以来,繰り返し繰り返し罪によって見えなくなっているわたしたちに問い続けられました。神の問いに答えて進み出るとき,わたしたちは神の前に立って,大切なものに気付き,自分の罪を知るようになるのです。ファリサイ派の人々は答えなければならなかったのです。しかし,彼らは黙ったままでした。都合の悪いことには答えない。この世では賢いやり方かもしれませんが,それでは決して救われません。イエスがかたくなな心を悲しみ,怒りをもって彼らを見回されたのも当然です。

 一方,片手の萎えた人はイエスの言葉に応え,手を伸ばしました。彼は「まだ手が治っていないので,伸ばせません」とは言いませんでした。そうではなく,イエスの言葉に従い,手を伸ばしたので治ったのです。治ってから手を伸ばしたのではありませんでした。イエスの言葉に応え,従う。御言葉のとおりに踏み出してみる。まず手を伸ばしてみる。これが信仰です。

 イエスはご自分の命を懸け,救いの御業をなし,わたしたちが新しく生きるための創造の御業をなしてくださいました。だから「人の子は安息日の主でもある」と言うことがおできになるのです。イエスはかたくななファリサイ派の人々に対しても命を懸けて語りかけ,問われました。たとえ今,わたしたちがどれ程かたくなであっても,イエスはわたしたちに対しても命を懸けて語りかけ,問われるのです。イエスの思いが向かわない人は一人としていないのです。わたしたちのことを本気で愛する方がいます。わたしたちのために本気で悲しみ,本気で怒り,わたしたちの救いのために命を懸けられる方がいます。この方,イエス キリストこそわたしたちの真実の救い主なのです。

 

 

 

 

 

 

 

 

「安息日の主」(マルコによる福音書2:23~28)

安息日の主」

 

 2023年2月5日(日) 復活節前第9主日

聖書箇所:マルコによる福音書  2章23節~28節

 

 ある安息日にイエスが麦畑を通って歩いて行かれたときのことです。弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。すると,それを見たファリサイ派の人々がイエスに向かって24節「御覧なさい。なぜ,彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と問い質しました。弟子たちが麦の穂を摘んだのは明らかに他人の畑でした。しかし,他人の畑の麦の穂を摘んだから非難されたのではありません。申命記23章26節には「隣人の麦畑に入るときは,手で穂を摘んでもよいが,その麦畑で鎌を使ってはならない。」と書かれていて,弟子たちがしたのは許されている行為でした。

 聖書に書かれている律法,戒めにはよく読んでみると面白いもの,なるほどと思わされるものが多くあります。この申命記にある律法も旅人や貧しい人が飢えをしのぐために手で摘んで食べる分には人の麦畑から、もらってもいいと言われているのです。

 この律法の前にはこうも書かれています。「隣人のぶどう畑に入るときは,思う存分満足するまでぶどうを食べてもよいが,籠に入れてはならない。」まさか人の畑から頂くのに「思う存分満足するまで」などと書かれているとは思いませんでした。

 律法は,神に従って歩み,神の許で共に生きるために与えられた恵みの言葉なのです。本来は神の恵みが律法から溢れてくるのです。しかし,わたしたちの罪はその恵みから離れていこうとしてしまいます。

 さて,ファリサイ派の人々がイエスに問い質したのは弟子たちが麦の穂を摘んだのが安息日だったからです。この安息日については十戒の中に出てきます。出エジプト20章8節~11節には次のように記されています「安息日を心に留め,これを聖別せよ。六日の間働いて,何であれあなたの仕事をし,七日目は,あなたの神,主の安息日であるから,いかなる仕事もしてはならない。あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り,七日目に休まれたから,主は安息日を祝福して聖別されたのである。」

 

 ファリサイ派というのは,律法をきちんと守って神の御前で正しい人であろうとする熱心な人たちでした。だから,この戒めも正しく守ろうとしていました。正しく守ろうとするとき,人々は一体何が仕事に当たるのかを考え始めました。ユダヤ教にはミシュナーと呼ばれる聖書の解釈を記した本があるのですが,その中に安息日の規定もあり,そこに安息日にしてはならないことが39書かれています。その中に,種を蒔いたり,刈り入れをしたり,脱穀してはならないという項目があるのです。弟子たちの麦の穂を摘むという行為は,安息日にしてはいけない行為,仕事であるとファリサイ派の人々は考えたのです。

 

 実はファリサイ派の人々のような律法をきちんと守って正しい人であろうとする考えが生じたのには理由があります。かつてユダヤの人々は,神を信頼し,神に従って生きるという神の民の務めを大切にしない時代がありました。丁度,紀元前700年前後の預言者イザヤが預言していた時代です。神が悔い改めを求めて遣わされた預言者の言葉に耳を傾けなかった人々は,ついにはバビロニアによって滅ぼされ,責任ある指導者たちはバビロニアの首都バビロンに連れていかれてしまいました。これをバビロン捕囚と言います。このバビロン捕囚はおよそ50年続きましたが,捕囚の身となった人々は反省をして,きちんと信仰生活を全うしようと考えました。神殿はありませんから,祭儀に関する戒めを守ることはできません。人々は割礼と安息日を守ることを自分たちの信仰のしるしとしました。そして,捕囚が終わってユダヤに戻ってからは、なお一層安息日を守ることを重んじるようになりました。こういう流れの中で,ファリサイ派のような律法を厳格に守り,神の御前で正しい人であろうとする人たちも現れてきたのです。彼らの熱心は,自らの不信仰に対する反省から生まれてきたものであり,神の御前で正しい人であろうとする良い思いによって支えられてきました。

 

 しかし,どこまでもわたしたちはこの世にあっては罪人なのです。キリストによって罪贖われており,赦されており,罪に支配されておりません。けれども,抱えている罪がまるっきり消えてしまった訳ではないのです。信仰から生まれ,良い思いによって支えられてきたものであっても,神の思いそのままということはないのです。わたしたちは絶えず神の言葉によって照らされ,新たに導かれていかねばならないのです。ファリサイ派の人々は,律法に込められた神の恵みを見失っていました。自分を誇り,正しい人であることを満足させるための律法になってしまっていました。

 イエスは過ちに気づかせるためにこう言われました。25節、26節「ダビデが,自分も供の者たちも,食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか,一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき,ダビデは神の家に入り,祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ,一緒にいた者たちにも与えたではないか。」これはサムエル記上21章に記されている出来事です。実はダビデはこの時サウル王に命を狙われており,追われていました。ダビデはうそをついて,祭司が食べることになっている供えのパンをもらい受け,伴の者たちと一緒に食べたのです。あのダビデも律法を破っている,それが聖書に書かれている,神はあなた方が考えているような仕方で律法を守らせようとはしていない,イエスはこのことをファリサイ派の人々に気付かせようとしたのです。うそがいい訳ではなく,律法をないがしろにしていいのでもありません。しかし,律法が守られているかどうか監視したり,自分を誇ったり,自ら満足するような仕方で守られるものではありません。神に従い,神の許で共に生きる恵みとして律法は与えられたのです。

 

 そしてイエスはさらにこう言われました。27節「安息日は,人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから,人の子は安息日の主でもある。」

 安息日は,神がわたしたちに恵みとして与えてくださったものです。人が安息日のためにあるのではありません。

 実に安息日はわたしたちに神の創造の御業と救いの御業とを覚えさせてくれる時であります。創世記1章27節以下を見ると次のように記されています。神は創造の第六日に「御自分にかたどって人を創造され」(27節)「祝福」(28節)されたのです。そして第七日に「神はすべての創造の仕事を離れ,安息なさ」り,「第七の日を神は祝福し,聖別され」(2章3節)たのです。神は共に生きるわたしたちのためにすべてを整えてくださり,神の祝福と安息の憩いの中へと導いてくださるのです。わたしたちは主の日ごとに過ぎし週も,そして来る週も主がわたしたちを祝福してくださり,御業をなしてくださり,わたしたちを主の許にある安息の憩いへと導いてくださることを覚えるのです。

 十戒出エジプト記だけでなく申命記にも書かれているのですが,その申命記5章12節~15節には安息日の戒めとして次のように記されています。「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神,主が命じられたとおりに。六日の間働いて,何であれあなたの仕事をし,七日目は,あなたの神,主の安息日であるから,いかなる仕事もしてはならない。あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,牛,ろばなどすべての家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば,あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる。あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが,あなたの神,主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために,あなたの神,主は安息日を守るよう命じられたのである。」

 

 奴隷として苦しんでいた民を主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された,つまり神が救いの御業をなし、神がわたしたちを救ってくださった,そのことを思い起こす日として安息日が与えられているのです。安息日ごとに神は変わらずにわたしたちの救いの神であることを確認させてくださるのです。そしてその救いの恵みは,あなたも,息子も,娘も,男女の奴隷も,牛,ろばなどすべての家畜も,あなたの町の門の中に寄留する人々,つまり神の民と共に生きるすべての人々に与えられ,差し出されているのです。この神が今もわたしたちのために創造の御業をなしてくださり,今でも,そしてこれからも救いの神であってくださることの確かなしるしとして安息日が与えられたのです。まさしく,安息日は恵みとして人のために定められたのであり,決して人が安息日のためにあるのではないのです。

 

 そしてイエスは最後にとても大事なことを言われました。28節「だから,人の子は安息日の主でもある。」人の子というのは,イエスがご自分を指して使われた言葉で,当時救い主を指す言葉として用いられていました。ですからこの言葉は,救い主であるイエスご自身が安息日の主であるということを言っているのです。

 それは,イエスご自身の十字架と復活によってわたしたちを罪から救い出し,わたしたちをご自身の姿と同じくなるその日まで日々新しくしてくださるからです。

 安息日がわたしたちに示す創造と救いの御業は,イエス キリストにおいて成し遂げられ,なされ続けているからなのです。ですから,安息日において最も大切なのは,安息日の主であるイエス キリストと出会い,イエス キリストと共にあるということ,イエス キリストを喜ぶということなのです。礼拝は,祈りも讃美も説教も,そのすべてはイエス キリストとの出会いのために備えられいるのです。

 

 わたしたちを礼拝に招いてくださった主,わたしたちを罪から救い,日々新たにしてくださる主,ご自身の命の恵みを惜しみなく注ぎ続けてくださる主,この主イエス キリストとの出会い,その恵み,喜びが皆さん一人ひとりに豊かに注がれることを心から祈ります。

 

 

 

 

 

 

「恐れなく喜ぶ」(マルコによる福音書2:18~22)

  「恐れなく喜ぶ」


 2023年1月29日(日) 降誕節後第5主日
聖書箇所:マルコによる福音書  2章18節~22節
 
 ある時、イエスのところに人々がやって来てこう尋ねました。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」
 ここで断食について問われています。律法では贖罪日に断食することを定めています。贖罪日というのは、1年に1度、全イスラエルの罪を清め贖うための犠牲が捧げられる日です。その他にも哀悼のしるしとして、悔い改めのため、罪の告白と祈りのためなどの時に断食をしました。
 
  ファリサイ派と呼ばれる熱心に律法を守ろうとしていた人々は、もっと頻繁に週に1日ないしは2日断食を行っていました。もちろん罪から離れ、神に従って生きるためです。彼らからするとイエスと弟子たちは罪人や徴税人たちと一緒に食事はする、断食はしない、本当に神に従って生きようとしている人たちなのかどうか分からない、うさん臭い、どうもあやしい、そんなふうに見えたのです。
 また、洗礼者ヨハネの弟子たちも断食をする習慣を持っていました。彼らは悔い改め、神の御前で自らを振り返り、節制して神に従おうとしていました。彼らも断食を全くしないイエスと弟子たちの在り方には疑問を持っていたのかもしれません。
 
  それに対してイエスはこうお答えになりました。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。」
 イエスは断食をすべきではないとは考えていませんでした。ご自身、福音宣教の前に荒れ野で40日間断食をされましたし、今回の答えでも弟子たちが断食する日が来ると言われました。ただし、今はしないのです。それは、今が花婿を迎えた婚礼の時だからです。ユダヤでは婚礼は大変重視されていました。婚礼の祝いは何日も続きましたが、ユダヤ教の教師もこの祝いに参加するため聖書の教育を中断するほどでした。神がなさる祝福の御業の前で日常の事柄を中断して祝いに駆けつけるのです。
 丁度、イエスに従う弟子たちはこの祝いに招かれた客のようなものである、と言われたのです。喜びの場、祝福の場では断食はしないのです。
 
 そして、祝福を注がれ、喜びをもたらす花婿はイエス キリストのことです。
 イエスが来られ、イエスが共におられるとき、わたしたちは日常が中断され、祝いの場へと招かれるのです。
 例えば、礼拝がそれを表しています。日常が中断され、神が備え給う祝福の場へと招かれるのです。そこにはイエス キリストがおられます。キリストを通して神の言葉を親しく聴き、神がわたしたちを愛していてくださること、神がわたしたちの救いの神であることを喜ぶのです。
 そして、礼拝でのキリストとの出会いが、教会においてだけでなく毎日の生活においてもキリストがわたしと共にいてくださり、御手をもって導いていてくださることを知るようになるのです。
 
 礼拝への招きは、イエス キリストとの出会いへの招きであり、祝福への招きです。礼拝へは行かねばならないのではありません。行儀よく静かに座っていなければならないのではありません。眠気をこらえて説教を聴かなければならないのでもありません。
 礼拝への招きは、神の祝福への招きです。
 神の祝福により新しい生活、新しい人生が始まるのです。
 神の愛によってわたしの命が造られました。神は独り子イエス キリストを遣わしてまでわたしを救ってくださいます。神はわたしと共に生きてくださり、わたしを祝福してくださいます。
 神の招きは神を喜ぶことへの招きであり、わたしを喜ぶことへの招きです。
 わたしたちはもっと喜んでいいのです。恐れなく喜んで大丈夫なのです。
 
 しかし、イエスは花婿が奪い取られる時が来ると言われます。その日には、弟子たちは断食することになると言われます。これはご自身の十字架を指して言われた言葉です。わたしたちが本当に恐れなく喜ぶためには、イエスがわたしたちの罪を負わねばなりませんでした。わたしたち自身の罪の重さ、そしてそれに優る神の愛の大きさを知るとき、真の悔い改めをもって断食するのです。
 キリストを信じるゆえになされる断食は、ファリサイ派の断食やヨハネの弟子たちの断食とは違っていました。キリスト者の断食は、自らの清めのための断食ではなく、深い悔い改めと感謝の喜びをもってなされる断食なのです。見た目は同じように見える断食であっても意味は全く違うのです。
 だからイエスはこう言われました。「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。」
 
 イエスによって全く新しいものが与えられました。
 新しいものを古いもののように取り扱い、一緒にしようとすれば、破れは一層ひどくなってしまう。良さを受け取るどころか、かえってダメにしてしまう。
 律法を守るようにイエスを努力目標にして自分で頑張るのではありません。イエスは律法の一つではありません。
 律法そのものがイエスを指し示し、イエスが来られるのを待ち望んでいました。
 
 そしてこうも言われました。「また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
 
 神がついに独り子を遣わされ、救いの約束を成就されたその全く新しい出来事に気づかなければなりません。自分の古い思い、肉の思いにイエス キリストを押し込めようとしてはなりません。イエスを自分の都合に合わせて利用するのではなく、イエスの新しさの中に自分が入っていくのです。
 コリントの信徒への手紙Ⅱにこのように記されています。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」(Ⅱコリント5:17)
 
 キリストとの出会いの中にわたしたちの新しい命があります。
 それは神が用意してくださった古びることのない新しさ、祝福に満ちた新しさです。
 そこには悔い改めと感謝があります。尽きることのない喜びがあります。
 神ご自身が用意してくださった全く新しい出来事へとわたしたちを招いておられるのです。
 

 

 

長老の祈り
天の神さま、独り子イエスさまを与えてくださり罪に恐れることなく喜んで歩めるようにして下さりありがとうございます。
神さまの招きにこたえつつ、日々を歩んで行くことができますように。
この祈りを主イエスキリストの御名によりましておささげいたします。
アーメン!

 

 

 

 

 

 

「わたしに従いなさい」(マルコによる福音書2:13~17)

「わたしに従いなさい」

 

 2023年1月22日(日) 降誕節後第4主日

聖書箇所:マルコによる福音書  2章13節~17節

 

 イエスは家を出て,再び湖のほとりに出て行かれました。すると群衆が皆そばに集まって来たので,イエスはそこでも人々に教えられました。家でも外でも,イエスは集まってくる人々に神の国の福音を語り,教えられました。それは神と共に生きる道でした。

 そして通りがかりにアルファイの子レビが収税所に座っているのを見かけて,「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上がってイエスに従いました。

 

 聖書の記述は簡潔です。そのため何が起こったのだろうかと考えさせられます。

 レビはイエスの回りに集まって来た人々の中にはいませんでした。彼は仕事中でした。彼自身がイエスに興味があったのかどうか分かりませんが,彼は仕事をしなければなりませんでした。イエスについて行く暇はありませんでした。

 レビは税金を集める徴税人でした。ファリサイ派の律法学者が言っていますが,徴税人は罪人と並べられるように,人々から軽べつされ,嫌われる存在でした。当時のユダヤローマ帝国支配下にありました。ですから徴税人というのは,ローマの税金を集めていたのです。人々は自分たちを支配する異邦人の手先となって働く徴税人を軽べつしていました。徴税人は決まった額をローマに納めなければなりませんでしたが,余分に集めたものは自分の懐に入れることができました。これは金になる仕事だったようです。人々は自分たちからお金を巻き上げていく徴税人をますます嫌いました。そして徴税人はそれ故いよいよお金を頼りとして生きるより他はありませんでした。

 レビはいつものように仕事をしていました。税金に自分の懐に入るお金を上乗せして徴収していました。レビにはイエスについて行く暇はありませんでした。

 イエスのそばに集まっている人々は彼に関心など持っていません。税を支払うために彼のところに来た人々も仕方なしに来たのであって,彼自身には関心がありません。

 

 ただイエスお一人がレビに心を留められました。たとえ世の誰もが関心を持っていなかったとしても,イエスが関心を持たず忘れてしまっている人はいないのです。

 テモテへの手紙Ⅰの2章6節でイエス「すべての人の贖いとしてご自身を献げ」るために世に来られました。イエスにとって命を懸けなくてもよい人,どうでもいい人は一人としていないのです。

 

 イエスはレビが収税所に座っているのを見かけて,「わたしに従いなさい」と言われました。すると彼は立ち上がってイエスに従ったのです。

 一体何が起こったのでしょうか。

 彼は仕事を放り出してイエスに従ったのです。レビは元々イエスのうわさを聞いて関心を持っていたのでしょうか。それがイエス本人から声をかけられて一も二もなくついて行ったのでしょうか。もしかしたら,そうかもしれません。

 けれどレビだけでなく,イエスに声をかけられ招かれたシモンもアンデレも,ヤコブヨハネもそうでした。おそらく初めて会ったのに,仕事をしていたのに,彼らはイエスに従いました。

 彼らは自分に向かって語りかけられるイエスの声を聞いて,救い主に出会い,神に出会ったのです。

 

 実に不思議な出来事です。けれどその不思議によってわたしたちは信仰に導かれていくのです。

 考えてみれば,わたしたちの方が不思議かもしれません。

 レビはイエス本人に会い,イエスから声をかけられたのです。わたしたちはイエスに会ったこともないのに信じています。

 わたしたちもまたわたしたち自身に向かって語られ呼びかけられたイエスの言葉によってイエスご自身と出会い,神と出会ったのです。

 レビも、うわさぐらいしか知らなかったかもしれません。しかし,わたしたちもどれだけイエスのことを知っていたでしょうか。十分知り尽くしたから信じたのでしょうか。そうではありません。

 

 イエスがわたしたちを心に留め,わたしたちに語りかけ,出会ってくださったから,わたしたちはイエスに従ったのです。ヨハネによる福音書15章16節で「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」とイエスご自身が言われているとおりです。

 

 礼拝は主の日ごとにイエスに出会い,イエスが今も新たに語りかけてくださる声を聴くために,主ご自身が備えてくださったものです。

 主がわたしたち一人ひとりの名を呼んで,召し集めてくださっているのです。

 だからわたしたちも,レビと同じように立ち上がって様々のやるべきことをおいて集うのです。わたしたちは信じたときと同じように,主に出会い,主の声を聴いているでしょうか。

 

 イエスの招きは,レビに大きな喜びをもたらしました。仕方なしにではなく,自分に関心をもって声をかけられたのはいつ以来のことだったでしょうか。

 レビはイエスと,一緒にいる人たちを自分の家に招きました。そこにはレビがイエスを招いて食事をするという話を聞いて集まって来た徴税人や罪人も大勢いました。

 ところが,イエスと一緒にいた人でこの場を喜ばない人がいました。ファリサイ派の律法学者でした。

 ファリサイ派というのは,分かれている,分離している人たちという意味で,律法を熱心に守り,きちんと守らない汚れた人たちからは分かれている,分離しているという意味でその名が付けられていました。

 このファリサイ派の律法学者は,イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て,弟子たちに「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と問い質しました。ファリサイ派の人たちにとって神の戒めを守らない汚れた人たちと一緒に食事をすることはあり得ないことでした。朱と交われば赤くなるのです。

 すると,イエスはこれを聞いて言われました。「医者を必要とするのは,丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは,正しい人を招くためではなく,罪人を招くためである。」

 

 イエスが来たのは,罪人を招くためだとはっきり言われます。

 

 自分の正しさ,知恵,力に自信のある人はイエスを必要としないのです。自分に自信のある人は,神の御心を理解しようとはしません。既に分かっていると思っているからです。そして,自分の自信を深めるために行動し,しばしば神の御業を拒絶してしまいます。この人がどうだったかは分かりませんが,ファリサイ派の人々は後にイエスを殺そうとします。

 自分への自信というものは神を拒絶していることさえ分からなくしてしまうのです。

 

 わたしたちは罪赦された罪人として今集まっています。イエスの救いがわたしには必要だと信じています。わたしたちはイエスの愛と赦しの中で自分自身の罪を,わたしが罪人であることを知らなければなりません。

 

 宗教改革者のルターという人は友人のメランヒトンにこういう手紙を書き送っています。「あなたが恵みの説教者であれば,作り物の恵みでなく,本物の恵みを説教しなさい。もしそれが本物の恵みであれば作り物の罪でなく本物の罪を負いなさい。神は作り物の罪人を救いたまいません。罪人でありなさい。大胆に罪を犯しなさい。しかしもっと大胆にキリストを信じ喜びなさい。彼こそは,罪と死とこの世との勝利者です。私たちがこの地上にいる限り,罪を犯さざるを得ません。この地上での生は,義が私のものとなるというようなものではありません。ペテロが言うように,私たちは義の宿る新しい天と新しい地とを待ち望むのです。この世の罪を取り除く小羊・キリストを神の大きな恵みによって私たちが知るに到ったことで十分です。たとえ日に千度殺人を犯しても,どんな罪でも私たちをこの小羊から引き離すことはないでしょう。これほど偉大な小羊によって,私たちの罪の贖いのために支払われた代価が少なすぎるとあなたは思うのですか。大胆に祈りなさい。最も大胆な罪人になりなさい。」

 

 わたしたちは悔い改めて立派になってしまったキリスト者を演じる必要はありません。わたしたちは常にイエスの救いを必要としています。きょうも,明日も,あさってもです。

 イエスは,わたしたちが人には見せない心の奥底に隠してある罪も,自分では気付いていない罪もご存知です。

 そして,わたしたちのすべての罪をご自分の命を懸けて贖ってくださいました。

 イエスはわたしたちの本当の姿を知ったうえでわたしたちを招かれます。

 誰が忘れ去ってもイエスはわたしたちをお忘れにはなりません。

 イエスはわたしたちを招くために来てくださいました。

 わたしたちを救うために命を懸けてくださいました。

 わたしたちはレビと一緒にイエスの言葉を聴いて喜びましょう。

 

 イエスは言われました。「わたしに従いなさい。」