親父を亡くした。
なんともいえない。
俺の力ではないが、孫を見てから逝くことができたのはせめてもの救いか。
ありがとう、父。
親父を亡くした。
なんともいえない。
俺の力ではないが、孫を見てから逝くことができたのはせめてもの救いか。
ありがとう、父。
暗い。
社会は、人間社会は暗い。
救われない。
もう充分人生頑張った。
死なせてくれ、いいだろ?
基本的にジョブは順調である。
人生に対する復讐をするかのように、身を粉にして働いている。重積を担っている自覚もある。
しかしながら、どうにもならない出来事や不幸が、この世には多くあるのだ。
ひ弱な自分
暗いこの世界
降伏したらどれだけ楽なことか。
暴力 哲学 臨床
過去を思い出す夢を見た。
そうだった、俺に普通を生きる権利などなかったのだ。
根幹は不変であって、その不条理と、虚無感と終わりのない闘いを続けなければならない。
終えるときは死しかない。
俺は俺で地獄を抱えている。
苦しいことが起こり、平和や民主主義が、これまでのないマグニチュードで揺れ、頭が痛む。胸が痛む。
死生学・死生観や、人間とは?を、落ち着いた安全地帯ではなく、今ここで、まさに、現実的に、スピード感を持って思想論を突きつけられている。
2004〜5年辺りにタイムスリップして、彼達と集まり話がしたい、中原平和公園の二ヶ領用水と、俺たちのホームグラウンドだったテニスコートに挟まれた、ベンチで。フットボールのホームグラウンドなだけでなく、ディベートや語り合いのホームグラウンドであった、あの場所は。
だがそれは二度と叶わない過ぎ去った種類の物事なのだった。
私の生業は、ある意味で"私達は全くの無武装なんですよ”と万全に示す種類の仕事であると感じている。そのことに誇りを持っている。専門職への矜持だ。
しかし、単なる誇りに終わらせず、さらに昇華させたい。
かつての「地元」の仲間たちや、各界や身近で暴力に倒れた人々を思いを馳せて。
もう明日から、またクライエントが私を待っている。
自分を信じ 仲間を信じ さあ今日も戦え、俺達セラピスト。
仲間、沢山いるだろ?俺?
事務ができない。
注意欠陥が甚だしい。
自らを責めたい。
しかしそんなものは臨床に、人生に付随する、手段のそれ以上でもそれ以下でもない。
引き続き臨床で価値を提供しろ。価値がない価値というものも含め、価値を提供しろ。
心理臨床家の矜持を、今一度。
原作は1999年出版、ドラマは2000年に放映。ネグレクトや性虐を受けた子供達3人が、愛媛松山の児童精神科で出逢う。
約20年後、成人となり、川崎市中原区武蔵小杉で再び出逢う。再会後かつての記憶が蘇り、再び三人の人生が交錯する中で、殺人事件が複数件起こる…という物語。
ドラマ版に関しての感想を言うと、
目も当てられないくらい苦しい境遇に置かれた子どもたちの被虐や家族との関わりと、精神科での過ごす様子の描かれ方を見るのは、非常に苦しいものがあった。
様々な死者も出る中で、「私たち、生きてて良いんだよ」と言う言葉で、なんとか救いを見出していく。
加虐側の親達の背景をもう少し描いて欲しかったが、恐らく彼らにもそれぞれの苦しみがあるんだろうと推測させるような内容ではあった。親世代の苦悩まで引き受けるような子ども達は、大人になっても過去の記憶に苦しめられつつ、その影響を受けながら日々の生活を過ごす様子、
苦しい、苦しい、苦しい。
視聴者には、成人となり児童期の影響を振り払うかのように振る舞う様子が、痛々しく響く。
殺人の件は、ある程度サスペンスの要素もあり、そこでフィクションを感じることはできて少し視聴者はドラマと距離を取り見ることができるかもしれない。
救いはそれぞれに訪れるが、それでも亡くなる者もあった。
虐待案件に複数援助職として関わっている者として、プライベートにも被虐者の成人がいた者である自分として、虐待がいかに深刻な心身の痛みと後遺症を残すかを学びとらねばならない。
虐待やDVが無くとも、全ての子どもは親の影響を受ける(親がいない、という影響も含め)。その意味では、どの人にとっても遠い話では無いはず。また虐待も、誰もがしてしまう可能性もあるし、隣の家庭で、起きているかもしれないこと。関係ない出来事の訳がない。
そう言う意味で、娯楽を提供する作品とはかけ離れているかもしれないが様々な人々に読んで、見てもらいたい作品だ。
ドラマでの虐待の描かれ方はなかなかエグい。自傷的なシーンや、若干6年世代女児のヌードシーンや児童ポルノ的な性模写など、それらも視聴者を苦しめるが、生々しく、見る価値はある。2020年台の現代では恐らく、このような構成はコンプライアンスに引っ掛かり不可能だっただろう。
当時子役を演じた、邑野未亜さん(偶然にも私と同い歳、現在武蔵新城でお好み焼き屋経営)、勝地涼さん、浅利陽介さんには、強い心的負荷をかけたのではないかと思えるような描き方で、そこは勝手に心配してしまうほど。
邑野さん演じる優希の父親役の古尾谷雅人(川崎市中原区木月住吉町出身)は後に自殺。
私は転勤族の息子だったが、川崎市中原区武蔵小杉は、思春期青年初期を過ごし、様々に苦悩した地域(勿論楽しかった記憶も沢山ある)であった。
この話が何かと川崎中原と関係していることも、私個人には、また響いてくるものがある。。
フィクションの苦悩も、現実に起こった苦悩も、それらを見聞きして、私には自分の心理臨床に活かすしか無い。
中原区の小杉で過ごし、周りで起きた出来事に苦しんだ心理臨床家として
活かすしか無い。
川崎は、小杉は、今井中は、
今でも誇りだ。
川崎での記憶を胸に、俺は今日も臨床現場に臨んでいる。
PRIDE of KAWASAKI
PRIDE of Clical Psychologist