シェイクスピア『オセロー』

人は簡単に他人を疑う。

 

疑うことはあまりにも簡単で、

信じることはそれに比べてあまりにも難しい。

 

他人を信じられるようになるまでは、繊細な心の交流を気の遠くなるような長い時間をかけて積み重ねていく必要がある。

そうしたプロセスを経て初めて、ヒトはヒトを信じられる。

 

 

けれど、そういった経過を重ねて築き上げた信頼関係においても些細なことをきっかけに、疑惑の影が根差すことがある。

 

それまでの難関さとは対照的に、

笑ってしまうほどあっさりと、

繊細な交流の結晶は、泡のように弾けてしまう。

 

 

信じることよりも、疑うことの方がずっと楽だからだ。

 

 

 

オセローは、自身の旗手・イアーゴの口車に乗せられ、

深く愛し合っていた筈の妻・デズデモーナの不倫を疑う。

そして最終的には、彼女を殺してしまう。

 

愛する妻の心の訴えと、

確たる証拠もない部下の言葉、

オセローは「疑え」と言ったイアーゴの言葉を信じてしまう。

 

 

「信じる」ことと、「疑う」ことは常に表裏一体だ。

 

何かを「信じる」ことは、何かを「疑う」ということだ。

全てを「信じる」ことはできない。

重要なのは、何を信じるのか。

 

オセローは、

「信じる」ことを疑い、

「疑う」ことを信じた。

「信じる」ことを信じはしなかった。

 

 

信じて裏切られるくらいなら、初めから疑った方が楽だ。

そう思うことはないだろうか。

それはどんな時代においても、人間の心に巣食っている。

 

そして人は簡単に他人を疑う。

イアーゴの言葉で、デズデモーナを簡単に疑ってしまったオセローのように。

信じるものを間違えた者の末路が、この『オセロー』の悲劇の結末だ。

 

 

「イアーゴ」は、誰の中にでも息づいている存在なのかもしれない。

 

 

オセロー (新潮文庫)

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