アナタサヨナラテポンポン

古屋敷悠と森宇悠の暫定的ブログです。

眠れぬ夜の合理化についての提案

眠れぬ夜によく考えるのは、このまま明日の予定を前倒しで始められないかということ。

 

仕事とか、筋トレとか、家事とか。

 

すべて眠れぬ夜の2時から始めて、眠くなったら終わりにしたい。

そうやって予定をシステマティックにデフラグできたらどんなに良いか。

 

つまりいま、私は、眠れぬ夜の真っ只中にいるのですが。

 

そういえば、昔の人は寝たら夜半に一度起きていたそう。

そこからなんだかんだ針仕事とかうだうだして、また寝て、っていう二分割の睡眠だったとかなんとか。

 

なんだかんだ、うだうだ。

 

小難しい哲学書など読んで、眠気が瞼に乗るのを待つことにします。

杭のような錨のような

めちゃめちゃに綺麗な空を見た。

 

自転車を乗り回して河原を走らせていた時、向こう岸の空が遠くまでひらけて見渡せて、半分は曇り、半分は晴れに綺麗に分かれて、遥か先の山の影まで綺麗に見えていた。

 

この景色は、何をしなくても、ふらりと河原に来ればみられる景色で。

 

それは私が金持ちだろうと貧乏だろうと、生活が苦しかろうとうまくいっていようと、何も成せなかろうとなんだろうと、変わらずに綺麗なまま、素晴らしいままこうして見えるのだと思うと、なんだかこの先がどうなってしまっても大丈夫だと錯覚してしまう。

 

例えばすごく面白い映画を観た時に。

例えばすごく夢中になれる小説を読んだときに。

例えば時間を忘れるようなサイクリングができた時に。

 

それらはすべて、私の人生の満足度とは無関係に楽しめる素晴らしいものたちで、この先の私の人生が望んだとおりに行かなかったとしても、いまこうなって欲しいという願望が叶わなかったとしても、このまま一生売れない人間だったとしても、それらは楽しんで余生を送ることができるのだと思うと、そうそう悪くないのではないかと思える。

 

そういうものを、改めて大事にして、コツコツとやっていきたいなとふと思った。

 

そういった地味だけど素敵なたくさんのものたちを、私の人生を進めていく上で、ふわついた、浮ついた、漂うような先行きをしっかりと形作ってくれるポイントに、していこうと思う。

イグジット・スルー・ザ・2023

さてさて、2023年いよいよ本日で最後。

みなさま今年もお世話になりました。

 

私個人はとてもとても濃い一年で、本当にいろいろなことがありました。

あまりにも濃かったんで今年の初めの方は記憶があいまいなんですが……珍しくこまめに写真を撮っていたので画像と共に振り返りをしていきたいと思います。

 

 

1-2月

マジで記憶がない。

2022年12月にクロジカ『蒲田行進曲を終えてから、本当に抜け殻のように生きていました。

この頃のカメラロールみても、労働先付近で撮った猫の写真とサイクリング中に撮った猫の写真しかない。真面目に生きてた。

あ、川越に旅行に行ってですね、メキシコ料理っていうかテックスメックス料理屋でサボテンのピクルスを食べたんですがどえらいおいしかったですね。サボテンの水煮缶買おうかと思いましたもん。

っていうかあれだ、この川越旅行は半分仕事だった。思い出した。真面目に生きてた。

あとなぜかカメラロール見返したら氷川きよしさんの写真撮ってました。なぜだ。

 

ちなみにこの段階で今年の仕事ってほとんど決まってなくて。

日本のラジオだけで、あと白紙だったので、まじで絶望してました。

ちょうど狙ってた事務所とのやり取りがうまく行かなくて、所属先を新たに探さなきゃいけなくなったっていうのもあって、絶望。

 

氷川きよしのあだ名が「きいな」だということに衝撃を受けて撮ったらしい



3月-4月

『視点』というイベントに代役要員として控えておりました。

といっても、何も起きなかったので、実際は劇場で観劇したり台本を読んでひとりあれこれ練ったり……というだけだったのですが。久しぶりに古巣のMUの活動が見られたのが楽しかったっすね。

 

そして日本のラジオ『浴室にて』の稽古が始まって、年始から一転、嬉しいことになっています。

以前からすごく出たいと思っていた日本のラジオだったのですが、念願かなって出演

、しかも奥さんと初めて共演というよくわからない状態で……稽古は楽しく、脚本も楽しく、「お風呂で増えちゃった人とほんとうのさいわいを探す人たち」の話でお風呂で増えちゃった人の役をやるというなかなか味わえない経験をしました……が、参加予定だったフェスの主催にまさかのハラスメントが発覚。しかも参加団体に対して主催団体の長(っていうか劇場のオーナー)が暴言恫喝っていうことで、急遽団体ごとフェス離脱、上演断念、まさかのお蔵入り……というなかなか味わえない結末を迎えました。

シアターアルファ東京(劇場名)、その後何してるんですかね。何もしてないんだろうな。

希望で息継ぎすると絶望が重なる。

日本のラジオ『浴室にて』はこういう話になる予定でした。ファーストシーン。なにこれ。

 

5-7月

Audibleの仕事が突然舞い込み(舞い込んだのはもっと前ですが)、ここから三か月ぐらいただひたすら『ミレニアム』シリーズ(小説)を朗読するマシーンと化していた。

この作品、最初に3部作が刊行され、その後作者が逝去した関係で別の作者が引き継いでさらに3作シリーズを続けたという変則的な作品なんですよ。

 

私はその後半の3作を担当。でもシリーズ全体の流れを知らないとどうにも読めないので、前半3作も下読みする必要がある……しかもそれぞれ上下巻で刊行……というわけでオファー受けてから2か月かけて12冊一気読み。脳が破裂するかと思いました。

 

でも下読み含めてとても楽しい仕事で、改めて朗読の仕事好きだなあと思いました。やっている内は冷や汗だらだらで悪戦苦闘しているんですがね。

 

ミレニアムシリーズは、スウェーデンを舞台にしたミステリ作品でして。

雑誌「ミレニアム」のジャーナリスト・ミカエルと、セキュリティ会社に勤める凄腕ハッカー・リスベットが陰謀と謎を解き明かしていくという作品です。

スウェーデン社会の暗部を描きつつ、きちんと個々の人間の生活や戦いにもスポットが当たっていて、先が気になりながらも登場人物を深く愛せる良作だと思います。

 

Audibleではフィリップ・マーロウシリーズ読んだ時もそうだったんですが、シリーズものをやると本当にラストが感慨深くて、すべて愛しい作品になりました。

弱者と、弱者を憎み虐げる者たちとの闘いの物語です。

 

4「蜘蛛の巣を払う女」上下

x.gd

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5「復讐の炎を吐く女」上下

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6「死すべき女」上下

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それぞれよかったら聞いてください。

これだけ読んだ。上段は朗読も。下段は通読だけだけど。脳パンパンでした。

 

8-10月

どっぷりと、チェンソーマン」ザ・ステージでした。

いやーこの仕事決まった時、本当に嬉しかったですね。

今年の初めに舞台について発表された時点ではまだお声がけいただいていなくて、その後ひっそりと作・演出の松崎さんから相談されたときは驚き半分、ためらい半分でした。

 

私は2.5次元演劇では出演経験が乏しく、昨年、一昨年とBANANA FISH」TheStageに出演した時に、もう初めてばかりで戸惑いながら食らいつくので精いっぱいだったんですね。

その時の悔しい経験があったので、昨年、「BANANA FISH」後編が終わってからは身体づくりに注力してきて、それで昨年のクロジカ『蒲田行進曲』を乗り切れた、という経緯もあったんですが。

 

で、今回は「チェンソーマン」。言わずもがなの激烈ハイテンションバトル漫画。

ついていけるのか……? という不安はありつつも、ここで飛び込まなければどうにもならないと思い、快諾(内心ビクビク)

 

結果としては、最高の演劇公演に加われて大変幸せでした。

今まで経験したことないようなハードでお祭り騒ぎな演劇でしたが、全28公演、一人も欠けることなく終えられたこと、本当に感謝しております。

 

私は、ヤクザの親分、コウモリの悪魔、公安四課の先輩男性、というのをメインどころでやって、あとは警察官やったり、公安幹部やったり、ゾンビやったり、黒子やったり、幽霊の悪魔に紛れたり、永遠の悪魔に声あてたり……いろいろやってましたね。

 

コウモリの悪魔は、今まで経験ないマペット操演しながらリアルタイムで声を当てる、というのをやりまして。

あの、悪魔の頭部担当だったんですけど、あれが結構普通に重いんですね。

それを人間の身長よりも高く掲げないといけない、という……掲げつつ、叫ばないといけない、という……掲げつつ、叫びつつ、動き回らなきゃいけない……という。

これが、もう、1ステージやると腕の筋肉が死んでるんですよ。

手の力も使い果たして、帰り道スマホとか落とすんですよ、握力なくて。

それでも東京公演終えて京都に行く頃には体が出来上がり、一日2ステでもびくともしなくなっていました。人体って凄いね。

 

もちろんきついばかりでもなくて、操演するのはとても楽しかったです。

獅子舞(実際に「ここは狂った獅子舞でやって」という演出がついてたし)とか人形劇とかみて、色々研究してました。

 

今回学んだ一番大きなことはコウモリは一日2回まで。

 

とにかくみんな、スタッフさん含め前のめりでポジティブで不死身で、楽しい座組でした。ありがとうございましたー。

渋谷駅にもでかでかと広告が。私の名前もあって嬉しかった。あと湿布をこんなところに貼るの初めてだった。

 

 

11-12月

もちろんそれだけ楽しくハードな公演を終えたということは……そう、抜け殻です。

でも抜けてばかりもいられなくて、実は夏の終わりに身内に不幸があったりで、その後処理というか、事務処理なんかに奔走してました。

さらには急遽の引っ越しなんかも重なって、さらに忙しくなることに。

発狂しそうなほど……というか何度か発狂したり眠れなくなったりするほどてんやわんやではあったのですが、否応なく抜け殻を奮い立たせなきゃいけない状況になったのは逆に助かりました。

 

でも嬉しかったのは、そんな中でも文学フリマ東京にサークルnice科学として出店できたことで。まあ、私は昨年の既刊本だったのですが……。

それでも文学フリマは今まで参加した中でも一番の盛況で、我々nice科学も過去最高の売り上げ(とは言っても微々たるものなんですが)で終えることができました。もちろん課題も多々ありつつ、それでも今までやってきて一番多くの人にnice科学の作品が届いたことが嬉しかったですね。

nice科学は進化しているぞ!

 

あと、これは私がおそらくずっと抱えていくジレンマなのでしょうが。

俳優として忙しくなることは嬉しいし、いま最も注力しなければいけないことだというのもわかっているんですが、それでもやっぱり小説を書きたいんですね。お金にもならないし、時間も喰うし、なかなか満足のいくものは出来上がらないんですけど、それでも。

ここをどう両立させていくのか、諦めずに模索するのが来年の課題かもな、と思いました。

 

まあ、今のところ俳優業の方スカスカなんで心置きなく執筆できそうなんですが。

 

 

そしてそうこうしている内に来年1月の「OTHELLO SC」の稽古(これについてはまたの機会に宣伝がてら)が始まっております。

 

 

nice科学は進化している!(主に設営が)

 

 

年が終わる

で、2024年が明日からやってくるわけですよ。

明日から? マジで? 実感ない。

毎年実感ないと言っていますが、今年が一番かもしれない。一年が早かったから、というのではなく、一年が濃厚すぎて、まだ年明けてなかったの? というほうの実感のなさなんじゃないかと思う。

特にまとめられるような俯瞰した視点もまだ持ててない。とにかく大変な一年だった。

大変でした。総じて楽しかったし、こんな生活が続けばいいなとも思うけれど、それでも大変だった。

 

大変だった。

 

小学生の作文みたいな感想しか今は書けないんですが、とにかくそういうことらしいです。私の2023年。

 

みなみなさまお世話になりました。

どうぞ来年もよろしくお願いします。

灯台守の不在

「好き嫌いが分かれるんですが……」

 

 と、前置きするのが常だった。

 そして実際、好き嫌いが分かれる作品ばかりだった。

 さらに私は、そんな作品群がたまらなく好きだった。

 

 その訃報に触れた時、まずよぎった感情を、まだ自分自身うまく名付けられずにいる。一番ふさわしいのは感情とは少し違う「喪失」という言葉で、それ以上でも以下でもなかった。感情ではなく現象という方が近い。喪失。だけどどう考えても、その言葉が一番あの時自分の内に湧いたものに近い気がしている。何かがぽっかりと、その人物以上の大きさを持った何かがぽっかりと、世界から消えてしまった。「私の」世界から消えてしまった。

 

 哀しさも驚きも、まったくなかったわけではない。けれどそれらは喪失のあとに遅れてやってきてなんとなく内心を撫でて去っていった添え物的な感情で、どちらかといえば喪失のすぐ後にやってきたのは落胆だった……と思う。

 落胆。

 残念。

 あーあ、という気持ち。

 あーあ、そうか、もういないのか。

 現象ではなく感情としては、おそらくそれが一番早くに訪れたものだった。

 

 なにせこうして書きながら、私はまだその喪失が自分にとって、自分のこれまでにとって、自分のこれからにとって、どういう意味を持つのかはかりかねているし、その喪失をふとした折に思い出す度に、その時々によって違う感情を取り出して、どれもこの現象には合わないと放り出すのを繰り返しているような体たらくなので、長々だらだらと書き出しを始めてからなお、まだ、自分がこの文章をどこへ持って行きたいのかすらわかりかねている。何かを先延ばしにするようにだらだらと、この文章を書き続けている。

 

 とにかく、もういない。もう永遠にこの先、いない。この先の世界において、その人は消えてしまった。

 じゃあこれまでの私の人生にその人がいたかと言われれば、それも大きく頷くことはできないわけで。

 だって私はその人に会ったこともないし、話したこともない。私が、一方的に、相手を知っていて、相手の書いたものを貪るように読んだり崇拝したり畏れたり、そういうことをしていただけで、その一方的な認知の先に相手が生きているかいないかとかそういったことはあんまり関係がなかったし、時折ウェブ上に投げた感想が一読された形跡がわりにその手で拡散されたりした折に、少しだけ自分と相手の世界が交わったような気がして嬉しくなったりするだけのそれだけの、本当にそれだけの関係だった。

 しかし、もういない。

 いなくなってしまった。

 決定的に、この点において、それまでとそれより後は違う。違う世界になってしまった。

 私の認知は(そして永遠に変わりようのなくなってしまった向こう側からの認知も)これまでもこれからも変わりはないはずなのに確実に違う世界だ。

 その違いに、落胆してしまったのはなぜなのか。

 

 おそらく、いつかはあの人に会えるつもりでいたのだろう。

 

 その著作や言葉に触れるたびに、それらこそが自分の目指す先を照らしている灯台のように思えてならなかったし、まさしく五里霧中の(始まりからずっと晴れることのない五里霧中の)この途上において、その灯台を目指すことしかしてこなかった。それ以外に自分の進む先や原動力といったものが見いだせなかった。あそこを目指せばどうにかなる("どうにかなる"というのがどういう状態なのかすら私にはまだわかっていない)はずだという一心で私は書いたり書かなかったりをし続けていた。いまもそうだ。

 

 目指し続けさえすれば、目指すことをやめなければ、いつかそこにたどり着いて、それがいつになるのかわからなくても、いつかはそこにいる人と話せると思っていた。そう思わずには進めなかった。

 

 しかしもう話せない。

 「いつか」はおよそ多くの「いつか」がそうであるようにやっぱり訪れることはなかった。そういう落胆だったのだ。半ば予想していたのに、それが現実になってしまったという落胆。

 あの灯台にたどり着いて、あの灯台の光の中で、あの人と話すことはできなかったのだ、という手遅れへの落胆。

 

 にもかかわらず、いまなお、灯台の灯はともっている。信じられないことに。

 この世界から、その灯をともした人間が消えてしまっているにもかかわらず、灯台だけは依然としてそこにそびえ、変わらず灯はともっている。ただ灯台守だけがそこにいない。

 

 私は、その灯台の灯を、そこから見える景色を求めて進んでいた。し、今も、辛うじて、進んで、いる。辛うじて。息も絶え絶えに(私はもう半年もまともな小説を書いていない)

 相変わらずそこにたどり着くことが目標であり目的であることは変わりない。けれど、私は同時にそこで、灯台守に、山小屋の主に、会えることを期待していた。その期待だけが宙ぶらりんになっている。

 

 恐ろしくなるほど煌々たる灯をどうやってともしてくれたのか、どのようにして静かで孤独で気が狂いそうなほど果てしのない海を夜通し見つめていられたのか、そして何より、あなた自身はどのような灯台を目指してこの灯へ至ったのか。

 そう言ったことをおそらく聞きたかった。話したかった。

 

 それが叶う可能性はおそらく本当に本当にわずかなものだった。私は半ば以上、この航海がいずれかの港――しかし目指していた場所ではない――にたどり着いて終わるであろうことを確信しているし、その終点は大多数の第三者が思っている通りのほとんど確実で中途半端な失敗としてになるだろうということもわかっている。

 それでも、そのどれでもない終点、目に見えないほど遠くの延長線上にわずかな可能性はあった。私がその灯台にたどり着く可能性。灯台守はそこにいて、こちらを知らぬままに相変わらず煌々たる灯を守っている。私はそこを尋ねていき挨拶をする。

 

 そんな未来が、わずかながらにあったものが閉ざされてしまった。

 

 灯台守の不在。

 

 私がいつか、いつか、存在するのかわからない未来としてのいつか、そこにたどり着けたとしても、そこにはもう彼はいない。

 

 私は彼が残した火を見つめるのだろうが、そもそもそれが彼の灯したものかどうかももうわからない。誰かが火を焚べなおしたのかもしれないし、誰かが新しく建てたよく似た灯台かもしれない。

 

 しかしそこを目指すことはやめられない。

 やめられないのだ。

 孤独で果てしない航海の先に、私は無人灯台を目指すことになってしまったのだ。

 

 灯台守の死を聞いてから時間が経って(この文章は何日、何ヶ月にもわたって書き消し継ぎ足されているとてもとても長い時間軸で綴られている混乱の足跡なので)この事実にうっすらとした絶望を実感しながら、しかし私はここへ来てまた新たな意味を旅に見出してもいる。

 

 私の航海は本当に一人だけのものになった。

 これは私が灯台守に会いに行くための航海ではなくなった。

 私は彼の灯を目指しはするが、その原動力はもう私の中にしかない。

 私を引き寄せる引力はない。

 

 依然として五里霧中の、依然として果てしない、依然として失敗が約束されている航海はさらに孤独になった。

 

 私は、私の力だけで、あの灯を目指さなければいけない。

 

 あの灯を目指さなければいけない。

パーティーは終わった

 終わったんすよ。

 というわけでみなさんのパーティーは終わりましたか?

 私のパーティーは終わりました古屋敷です。

 

 「チェンソーマン」ザ・ステージ(ブログで出演決定の告知すらし忘れてたけど)無事に全28公演終わりました。本当に関わってくださったり観てくださったり、気にかけてくださったみなさまありがとうございました。

 どんだけ大変だったかとか、楽しかったかとか、そういうのんはまたまとめて長長々々とべつに書き連ねていこうと思っとりますので、本当にご挨拶までなんすが。

 

 とにもかくにも、終わりまして。

 お祭りのような、パーティーのような2か月強が終わりまして。

 終わってしまいまして。

 そんで、まあ様々なものを、主に生活を、通常モードに戻していっとるわけなんですけども。

 

 

 

 …………これは、本当に戻さないといけないんか?

 

 

 とか少し思っちゃうんですよね、やっぱり。

 

 

 ずっとパーティーじゃいかんのか?

 

 と。

 いかんのですよ、それは。

 いかんのです。

 

 スチャダラパーのお兄さんたちなんかは「とにかくパーティーを続けよう」とか言ってますけど、あれはスチャダラだから。90年代だから。オザケンもいたから。

 でも俺はスチャダラじゃないし、今は2023年だし、オジサンだし。

 

 だからパーティーは終わるのです。

 終わるべきなのです。

 

 私はまた生活に。

 この、のっぺりとした生活に戻っていくのです。

 こののっぺりとした生活が。

 うだつの上がらない革靴が。

 しんなりとした満員電車が。

 ずっとやや疲れている30代の平日が。

 それらをしっかりと覚えて、暮らすことこそが。

 いつかのパーティを輝かせると信じて、生活していくのです。

 

 たぶんそれがなんか、芸の、肥しとか、根っことか、そういうものになってくれるはずなんです。

 なってくれるよね。

 なってくれなかったら俺はもう……。

 ね。

 

 まあそんなこんなで、明日ぐらいからまた通常営業に戻ります。

 

 

 『船を建てる』でも二匹のアシカがこう言ってましたしね。

 

 「そうさパーティーはいつか終わるけど」

 「だからまた始めればいいんだ」

 

 って。

 さ、またやってこう。

 ちょっとだけ背筋を伸ばしてね。

少しずつ軽く

 基本的に体が重いです。

 

 太っているとか、体がでかいとか、そういうことを差し置いても……慣用句的な意味でも腰が重いし、単純に体が弱くて疲れやすくって、動き回るのが得意ではない。っす。

 

 それでもここ数年は、全速力で追いかけてきて体中を揺さぶってあらゆる元気をもぎり取ろうとしてくる恐ろしい老化というやつにあらがうために、なんとかかんとか日々運動をして短い命の行き先を少しでも長くしようと涙ぐましい努力をしております。

 

 で、運動、するじゃないですか。

 

 運動って、疲れるじゃないですか。

 

 体、重くなるじゃないですか。

 

 運動、しづらくなるじゃないですか。

 

 …………。

 

 みたいな。なかなか思ったようにフットワーク軽い人間にならずに、たまに凄い勢いで運動をするけど基本的には定位置から動こうとしない……という、壊れかけのおもちゃみたいな生き物が出来上がりつつあります。

 

 それでも。

 

 そんな私でも。

 

 何日かに一回。主にめちゃめちゃ運動した数日後にその疲労が消えてまた運動を再開したときなんかに、少し軽くなった肉体を実感するんですね。

 それは錯覚で、次の日にはまた疲労の鎧をまとって重厚感バッチリで生きていくはめになるんですけど。

 

 はめにはなるけども。

 

 なるけども。

 

 そんな生活をもう気がつけば5年近く続けていると、デフォルトの体の軽さが、なかなかに持続するようになってきまして。

 最近ではちょっと身軽に、歩道を守ってくれる鉄柵なんかもひょいと飛び越えられるようになったりしています(危ない)

 

 それはまあ、元々軽い人からすれば、運動できる方からすれば、鼻で笑うような成長なんですが。

 

 気がつくと成長がすっかり老化になってしまったような私からすると、なかなか、そういう、小さな成長がとてもとてもうれしくて、貴重で、いいもんなんすよ。

 

 

 走ってきますわ。

よいこわるいこふつうのこ

感性とか才能とかカリスマとか光るものとかきらめきとか輝きとか本物とか憑依とか感情とか、そういうのはもう全然、全っ然わからないので、私はつくづく、せせこましく台本読むだけしかできないなあ、と暗澹たる気持ちになります。

 

論理と経験で読むしかできないすよ、凡人なんすから。

 

その人らしさみたいなもの、素敵だなあと思いますけど。これと言ったものも売りも別になく、どこにでもいる感じにてくてくやってきたもんで。

 

走って、鍛えて、勉強して、準備して、サボって……それしかできないまま、ここまで来ちゃった感はするな。

 

改めて周りを眺めてみると、みんなそういうの、頑張っていて凄いなあと最近よく思うし、思うたびに俺の中でルチャさん(エアマスター)が鍛錬を積めと。

 

ひとまず今夜も走ってきますわ。