しかめ面でないと人の顔が見えないことに氣が付いて、視力を測ってもらったら0.5だった。
「今のメガネは度数弱すぎますね。本当にパソコン用とか、近いものしか見えませんね」
 コテコテな大陸のイントネーション、しかし流暢な日本語を話す店員に比べて、母国語の通じる見知った土地で、職も住居も医療も何一つ不自由なく暮らしている自分自身を省みる。これでいいのだと言い聞かせる。
「本日のご案内は一応以上となります。実際にご購入される際は、もっと度数を調整させていただきます」
「ありがとうございます。検討します」

 お盆休みに親知らずを抜く。結構な虫歯だった。
 左右を2回に分けて3本、CTやレントゲンを撮り、総額は大体2万円。傷そのものはともかく、治療自体に痛みはなかった。スピーディで技術もカウンセリングも丁寧だった。抜歯後の感染症もない。
 簡単に高度な医療の恩恵を受けることができる境遇は、私が得ようと思って得たものではない。医療が存在し、アクセス可能で、ぽんと治療費が払える身の上や治療の暇があること自体、あたりまえのように目の前にある。
 あたりまえの福祉。あたりまえの豊かさ。
 そんなに大事にされるほどの価値が私にはあるの? お金が払えない人は治療を受けたくても受けられない。国が違えば医療のない場所もある。麻酔なしの抜歯を通過儀礼として行ったご先祖さまの苦労は何なの。生まれてきた場所や時代が違うというだけの理由で、こんなに楽に生きていていいのかな。
 生まれてくるときに自分の資産を積んで肉体を買い取った記憶はない。今の今までのご縁を大事に、真面目に受け止めて、生きるほかに何ができようか。

 中学三年生の時に「持続可能な開発」にハマったことがある。人間になくてはならないものの中から、食料を選んで、持続可能な農業をやりたくて農学部を志したが、第一志望には受からず、なぜか情報科学を専攻していた。
 働きはじめてから身をもって知る世界の複雑さに考えを改めさせられる。SDGsは確かに大切だけど、それだけではダメ。人間の心自体が豊かにならないと結局どこかで間違えてしまう。こんな一人の人間に、何ができるのかは分からないけど、せめて生かされていることは忘れずに日々過ごしたいなどと考えている。

 僕はスピッツが好きだ。今年になってからのことだが。

 例えば、愛のことばを今、僕は聞いている。僕は、この優しいメロディ、ことば(リリック)、草野マサムネのことば(うたいごえ)、それらすべてが好きだ。

 僕は大変に酔っている。具体的には、自分の所属している敬愛なる上司の上司以下の部下を集めた忘年会から帰ってきて家でこれを書いている。私は、直属の上司も、その上の上司も大好きだ。なのに、こんなに、苦しいのはどうしてなのか、わからない。僕は、自分のことを客観視するのが苦手で、自分の経験を大局的に見ることを他人のanalysisなしには成し遂げられないから、自分の苦しさの分析を自分一人で実施することに、幾度も失敗している。

 僕は、草野マサムネの優しくて、どこか他人事のような声が好きだ。そのリリックは自ら生んだはずのものなのに、どこか、自分のことではなくて、遠い誰かのことを(例えばアフリカの恵まれない子どもたちの飢餓について、実感なく語るような)ただ伝えるために言葉を紡ぐように歌う声が大好きで、その他人事感が好きなのですよ。現実と離れたとこにいて、こんなふうに触れ合えることもある。僕がどんなに挫けていても、どこかで新たな希望を僕とは全然違う着眼点でもって見出して、いままで踏み出すことをためらっていた一歩を踏み出す誰かがいる、その存在だけで僕はどこか救われて、僕さえためらう一歩を自ら踏み出せる契機になりさえするのですよ、なかんずく諦めていた手法さえ着手しうるのですよ。

 汚れてる野良猫にもいつしか優しくなるユニバース。黄昏にあの日二人で眺めた謎の光思い出す。僕は、そんな奇跡を信じている。こんなに打ちのめされて、こんなに体に力が入らなくて、こんなに体が熱く感じてだるくても、僕は、君という存在がどこかにいるというbeliefだけで生きていけると信じている。僕は、その信仰だけがあれば、どこにでも踏み出せる。僕は、一歩踏み出すのに、君という確かな存在だけあれば、一歩ふみだす勇気に事足りる。ただ君さえいてくれればいいのに。君とは誰。僕には配偶者がいる。確かに君という存在と配偶者を同一視しても何らの問題はないかもしれない。しかし、僕は、ともに生活を営む配偶者に、あえてそこまでの生きる意味の仮託を求めない、君ともう一度会うために歌を作ってもいい。今日も錆びた港で歌って、黄昏にあの日二人で眺めた謎の光を思い出して、待っていてさえもいい。なぜなら、僕の人生はあくまで僕のものだと、僕は信じているから(僕の配偶者は違うようだけど、あくまで、僕の人生は僕だけのものだと、僕は信じているし、その孤独に苛まれることもあれば、その割り切った孤独のために配偶者に寂しい思いをさせることもある)。

 偶然という名の運命で出合いたいヘンテコな女神。ねえ、僕は、何処に行けばよいの。僕は今、僕に与えられたことしかできないよ。僕に望まれていることとは独立に、与えられたことしかできないに、決まってるじゃんね。なんなのさ。その確かな身上の立場から述べる意見はさ。信じていいかい、泣いてもいいかい。僕は、確かに今自分にできることを手抜きなしで与えられるものに打ち返せるだけ打ち返しているつもりだよ。それすら僕の責任だと言うなら、そのように糾弾するがいい。僕は僕の正当性を主張し続けるだけだ。なのにどうして僕は大好きで大好きでたまらない上司たちに彼らを悩ませるような言葉しか吐けないんだい。僕はそれが悲しくてたまらないよ。ああ。

 何かを探して何処かへ行こうとか、そんなどうでもいい歌ではなくて、君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける。ねえ、僕だけのために、そっと手を差し伸べてくれた通りすがりの、僕の大好きな人を知っているかい。僕は、そういったものに感動こそ覚えても、その主体に対して一切のリターンを返せるような行動をできずにいるのだ。いったい、僕は、与えられるものに対して、ありがとうと言葉にするとか、にこにこ笑っているとか、それ以上のことが、どうしてできるというのだい。

 僕はただただ助けられたいだけで、ただただ楽になりたいだけだとわかっているのだが、かっこつけて歩いていたとして、どうして僕のなりたい僕になれるというのだろう。らしくない自分になりたいのに。それが正しくなくても。美しすぎる君のハートを汚しても。

 ねえ、僕の突破口はどこにあるのだい。確かに僕は、ある種、今を幸せで、これ以上ない幸運に恵まれてるとすら思っているのだよ。なのに、これ以上望むなんて、僕にどうやって努力をしろというのだよ。いや、たしかにね、僕は一切の努力をしていないと一説には言えるのだよ。ただ、僕は、どこの出口を向いて、いま目の前の一歩を踏み出していいのか、迷っているにすぎない、のだろう、と、多分、思うのだよ。

 優しくなりたいな。僕は僕でしかいられない。であれば、僕が僕でいて、組織にとって、僕を取り巻く人々にとって、うれしい場所が好ましいと思われないだろうか、昨日と違う今、謎の扉初めて叩いたよ。

 cocotiの手前の信号で、地下通路から出た瞬間に煙草の吸殻がふやけている黒い水たまりを踏み抜く。確実に進行する病魔のように、まちがいなく着実に湿っていく爪先の感触は最悪で、軽くため息をついた。

 霧雨を浴びながら高校の玄関を抜けて踊り場へ。とうに授業は始まっている。途中入室するのが嫌でたまらない。できるだけ時間稼ぎになるように、それでいて体感としても足が重く、牛の歩みで階段を昇る。自動販売機の振って飲むゼリーが飲みたいような気分になる。あれを飲みながらぼんやりしているとどこからかやってきて構ってくれる現業の掃除のおばちゃんも大好きだけど、他人と話して楽しくなれるほど心の余裕がある状態ではない。ぼろきれのように疲れている身体を休めたい。私はどこにも行けない。

 学年のフロアに来たが、とりあえず、洗面所に行ってみる。この学校のトイレにはドアがなく廊下と一続きで開放感がある上、たとえ授業中であっても誰か(特に先生!)が入ってくる可能性があり、ちっとも気が休まらない。鞄を降ろしながら見た鏡の中の気怠げな表情は全くいつも通りの私で、今は極度に疲れているために何もしたくない、などとは誰にも気付いてもらえず分かってもらえないだろうと納得した。毎日この調子だものな。救いの手を待ち望んでいても、それが外界から訪れる限り、私の真に望むものではありえないのだろう。汚水に侵された靴下を脱ぎ、捲ったスカートを腕で押さえながら汚い都会の臭いを発する足を洗う。この瞬間に誰か入ってくれば、腰の高さほどある洗面台に足を突っ込んでいる姿を見られて、最悪に最悪の上塗りをすることになるが、このような想像をすること自体はそこまで嫌いではない(なぜなら恐らく誰も来ないであろうから)。緑の液体石鹸のおかげで足の嫌な感じがなくなり、しかし蒸れると分かっていて素足のまま汚い革靴を履く。トイレを出て、ロッカーから教科書やノートを取り出し(開閉音が廊下に響く)、教室の様子を伺いながら逡巡の末入室する。

「ハセガワさんね。おはよう」

 女性教師が名前を呼ぶのを苦虫を噛み潰す思いで聞く。おはようございますと返事をしたかったが、耳で聞いた自分の声は「ざす……」だった。

遅延証明書ある?」

 そっとしておいてくれよという殺意に似た気持ちを味わいながら答える。

「や、ないっす」

 生徒に作業させている時間に入室したのが間違いだったのだろうか。いやしかし、きっと講義中に入ってきても彼女は私に世話を焼いてこのようにあれこれ世話を焼くに違いない。そういう先生だからだ。放っておいてくれればいいのに。

「あらそう。分かりました」

 出席簿に遅刻のバツ印。気分は最低だが、最低のカンバセイションが終われば後は回復していくだけである。そう信じたい。

 

 授業開始直後にあった小テストが白紙のまま自席に伏している。この点数の合計が学期末の評価に響くので、こうやって遅刻したり欠席したりするたびに評定が落ちていく。でも校外模試を受ければ、学内上位10%には当然入るので、不名誉以上のものを感じることはない。定期考査の点数も模試の結果も隠さない私は、教室中の人々が点数の書かれた紙の端を折って隠す様子を鑑みれば、きっと知らないところにヘイトを売っているのだろう。でも私はそれらの対価を受け取らない。気前が良いので売りっぱなしである。というよりは、結局の所、私は自分にしか興味がないので、自分からの評価で手一杯で、他者からもたらされる価値観に何の判断もできない。

 

 なんて言っちゃってさ。本当は誰より他人からの評価を求めているくせに。

 あの頃からずっと何も変わらない。