異色もん。

ドラえもん、もやしもん、くまもんに続く第四のもん。いつか鎌倉の老人になる日まで。(単なる読書系ブログです)

2024年4月に読んだ本

 
 諸般の事情により相変わらず低調。
◆『予期せぬ結末2 トロイメライ』チャールズ・ボーモント
 楽しめたのは「とむらいの唄」「秘密結社SPOL」「殺人者たち」「終油の秘蹟」あたり。特にラストを飾る「終油の秘蹟」が情感があって良かった。
「殺人者たち」は別バージョンが「人を殺そうとする者は」(『残酷な童話』収録)だと知って比較してみたら、短編のオチをどうつけていくかの試行錯誤がみえて面白かった。
また「変身処置」はボーモントとしてはやや意外な(印象の)文明批評的なディストピアSFだった。
◆『ピポ王子』ピエール・グリパリ
 ン十年の積読を消化。不遇な"物語"がさまよう、という楽しい導入からユニークな語り口に引き込まれる。本編は基本的に王子の成長譚だが、束縛を嫌う主人公の現代的な価値観や戦争や喪失の影が見え隠れする意外な苦さなどもあって楽しめた。

 新年度も引き続き長澤i唯史先生の指輪物語講義を聴講。
www.asahiculture.com
 木が好きなトールキンによるエント、キャラクター造形における『ニーベルンゲンの歌』の影響などなど今回も大変面白かった。そろそろ先を読まないとなあ。

<シミルボン>再投稿 10代の多感な時期に大き過ぎる出会いとなったディレイニーの青春群像

※これは  #この一冊で、私の人生が狂いました というハッシュタグのコラムやレビューを募集した際に書いたもの。

 サミュエル・R・ディレイニー
 自分にとっては特別な作家である。
 そもそもこの名正確に表記をするのにはちょっと解説が必要だ。

 SFマガジン1996年8月号でディレイニー特集が組まれているが、エッセイ「ディレ-ニイ/ディレイニー」で伊藤典夫が指摘しているように現在の表記が安定するまでにディレーニイだったりディレーニだったりしていたのだ。
 エッセイではどうして現在定着した表記を伊藤典夫が主張したのかよく理解できる。
 ここでは基本的に現在定着しているディレイニーとする。

 東洋系の女性を主人公に据えたスペースオペラは面白く白人男性作家が多数派を占め視点が偏っていた執筆当時に黒人作家ディレイニーが提示したものの大きさを東洋の片隅でいち日本人読者として感じたが、玄人筋が絶賛するメタファーなどは把握できていないもどかしさも感じていた。
 一方で、黒人でゲイ(とはいえマリリン・ハッカーという夫人がいるらしいということでぼんやりよくわからない感も覚えていた。まだLGBTという言葉がなかった時代である)で数学や物理にも通じ、世界各地を回りミュージシャンなどの経験もあり20代前半にして傑作を次々にものにした早熟の天才とその存在自体がSF的な人物であることを知り、その著作を追っていきたくなっていた。
 そんな中で入手したのが『時は準宝石の螺旋のように』である。
 あまりに印象的だがなんとも不思議なタイトル名(それにしても「準宝石」という言葉が使われたことが他にあるのだろうか。この作品タイトルを借用したような事例を除いて)、なにか特別な作家と感じさせるにふさわしかった。
 とはいえサンリオSF文庫の中でこの本を初めて読んだのはあくまでも偶然である。
 雑な性格なので持っている本には購入した時の二百五十円という値札がまだ貼られたままだ。
 同世代の方にはわかると思うがサンリオSF文庫は10代の少年には高く感じられ(ロックのレコードを買ったりコンサートに行ったり、映画も観ないといけないからねえ)、古本で入手せざるを得ず本当は一番読みたかった世評高い『エンパイア・スター』はなかなか出回っていなかったなかで、家の近所の小さな古本屋にあったのが『時は準宝石の螺旋のように』だったのだ(ちなみにその古本屋は失礼ながらはやっていなさそうなカラオケ屋になぜか現在はなっている。古本屋の時の名前そのままで)。説明がほとんどされずにテクニカルタームがポンと投げ出され登場人物たちの視点から断片的に出来事や作品世界内の世界が提示されるディレイニーのスタイルに戸惑いながら読んだ記憶があるが、そんな中で特別心に残った作品があった。
 「スター・ピット」である。
 現在は『ドリフトグラス』(国書刊行会)で読むことができる。

 SFとしては、メインアイディアは序盤で早々に明示されていることもあり比較的全体像の把握しやすい作品ともいえる。
 そのメインアイディアは端的にいえば「閉ざされた人類」。人類は銀河系外に出ると精神に異常をきたすため到達できない、というものだ。作品の核となる「閉塞」のイメージも子供たちへの教育用に作られた生態系をプラスチックの箱におさめた「生態観察館(エコロガリウム)」の生き物たちに象徴されているように繰り返しはっきりと提示され、それも初読時から把握できた記憶がある。ただし銀河系外に出られる”ゴールデン”という連中もいる。
 通常の冒険SFなら広い世界を飛び回るゴールデンに焦点が当てられるだろうが、本作でのゴールデンはどちらかというとそれ以外の普通の人間たちからは理解をするのが難しい謎めいた存在として描かれている。一般的に視点を合わせやすいのは銀河系内に閉じ込められた人々ということになる。そこに自由を奪われた黒人たちの苦難の歴史を重ね合わせるのは自然な理解だろう。
 当時残念ながらそこまで理解が及んでいなかったが、それでも閉塞した人々の苦しみは痛いほど伝わってきたことを読み返すたびに思い出す。
 たとえば15歳の少女アレグラ。麻薬中毒者の母親の胎内にいたため依存状態となっていたが、テレパスであったため医師を混乱させ自ら生後の麻薬依然生活を手中にしてしまう。
 さらにはその特殊能力から8歳にしてゴールデンの精神療法医として政府に雇われる。
 そんな彼女に惹かれる少年ラトリットは13歳。6歳にして戦争で親たちをみな殺され(この作品での未来は複数の大人が養育グループで子供を育てる家族制度になっている)7歳で重罪の初犯(その後捕まり、はっきりとは書かれていないが再犯防止のために脳の手術を受けたようである)、養育グループを次々に逃げ、11歳の時裕福な人物に拾われ口述による小説がベストセラーとなるといったエピソードがある(創作関係のエピソードが入るところはディレイニーらしい)。またラトリットは誰よりも銀河系外に出たいという気持ちを持っている。そしてこの二人は思いを寄せあうがそれもつかの間、悲劇が待ち受ける。青春の輝きと無残が余すところなく描き出されている。
 一見通俗的な道具立てから成り立っているが、高度の技巧と煌びやかな文体に彩られそこに現出するのは全く新しい世界。ディレイニーがデビュー当時から評価を得たのは自明のことだが、自分がまず読者として反応したのはその官能性にある。とはいってもこの場合エロティックということではない。性的な題材はディレイニーにとって大きな要素を占めるが、本作では目立たない(どころかほとんどない)。ここで官能と表現したのは五感に訴えてくるという意味である。様々な感覚が鮮やかに描出され登場人物たちの絶望やわずかな希望は直接触れられるかのごとく感じられるのだ。
 ディレイニーの描く世界には温かみがある。一見非人間的な存在にみえるゴールデンもまた悲しい存在であることがやがて判明する。人々は閉塞感に苛まれてながらも不器用になんとかお互いとつながろうとしては傷つく、それがまずます切なくそれゆえの温かみがあり、非常に官能性に富んでいる。
 ディレイニーアメリカン・ニューウェーヴSFの旗手とされた。ディレイニーがデビューした1960年代、それまでのSFは未来を舞台にしながらも古い人間観に縛られ時代遅れになっていた。そこで生まれたのが新しい表現を模索するニューウェーヴSFだったのだが、「スター・ピット」の登場人物たちは<ほんとうの>未来人だと感じさせるのに十分な立体感があり、一方で現代人とは別種であるはずの「モラルも考え方も新しい未来の人間たち」の苦悩がひしひしと伝わってきた。10代の自分にとってはそれまでにない読書体験だった。それは今思えば表面上の時代的な枠組みを剥ぎ取った後の普遍的な人間の苦悩をいったん空想の世界に託して照らし出すことに成功していて、SFの特性が生かされているということでもあった(もちろん当時そんなことは意識せずに読んでいた)。
 1967年発表の作品(小説の最後に1965年10月の記載があり、執筆時期はさらに遡ることになる)でマイノリティへの理解が今以上に進んでいなかった時代、先鋭的な視点であったことは間違いない。
また初読から数十年経って今回再読して、周囲と馴染めず家族を戦争で失い流れ流れてスター・ピットにやってきた42歳、若者たちの行く末に心を痛める語り手ヴァイムの方に立ち位置が近くなっていることに気づく(それどころかいまやこちらの年齢はヴァイムを大きく超えてしまった(笑)。執筆時20代前半にして夢破れた中年を配しその内面を描き切る老成ぶりには舌を巻く。また細部まで精巧に作り込まれていることにも驚かされる。まさしく天才のなせる業だ。
 しかしそれでも印象的なのは、執筆年齢ゆえの抑えきれない情熱が行間にほとばしる若々しさだ。不安と希望が交錯する多感な10代にそんな小説をまともに食らったのは大き過ぎる出会いだった。二百五十円で人生が変わることもあるのだ。
 しかし当時それがどれほど大きかったかほとんど気づくことなく同じ頃プリンスに衝撃を受けファンクという音楽を好きになりP-ファンクにはまることになる。やがてディレイニーとP-ファンクをつなぐアフロフューチャリズムというものを知ることになるのだが、それはもう少しあとの話だ。(2019年3月23日)

<シミルボン>再投稿 『タイムラインの殺人者』アナリー・ニューイッツ

~真のパンク精神に満ちた、歴史改変SFの傑作~

 2022年からの時間旅行者テスは、1992年カリフォルニア州のアーヴァインで行われるライブを目の当たりにする興奮を隠せずにいるが、実は歴史観光目的ではない。
 テスは<ハリエットの娘たち>のメンバーで、時計の針を巻き戻して女性を抑圧したままにしようとする<コムストック信奉者>の暗躍を、食い止めようとしているのだ。
 そして激しい歴史改変の戦いはの舞台は、1893年のシカゴ万博の〝アルジェリア劇場”のダンサーを巻き込み、やがて紀元前、さらにはとんでもない過去まで遡っていき、後半は時間のスケール感も増し、タイムトラベル技術の謎に迫り、また歴史を変えるのは偉人なのか集団行動なのかというディスカッションが行われるというSFならではの楽しみも満載である。
 さて、本書の背景は巻末の橋本輝幸氏の解説にコンパクトかつピンポイントの内容で詳しいので、是非そちらを参照していただきたい。
 が、一応簡単にこちらでも記しておくと、このハリエットとは解放奴隷で、<地下鉄道>(奴隷の逃亡を助ける地下組織)を牽引したハリエット・タブマン(Harriet Tubman)であり、コムストックとはアンソニー・コムストック(Anthony Comstock)、道徳を盾に郵便の制限という手法で避妊や中絶の医学情報まで制限を行ったコムストック法を成立させた人物である(コムストックとコムストック法のことは恥ずかしながら本書で知った)。
 反動的、差別的な勢力による人権への抑圧が問題となっている昨今、非常にタイムリーな内容だ。
 現実に行われている抑圧をテーマとしていること、それから1969年カリフォルニア州生まれの本人の自伝的要素をはらんでいるため、その戦いはリアルかつヘヴィなものとなっている。
 その分、SFらしい大胆な思考実験でありながら、女性たちの戦いの難しさと切実さがストレートに伝わってくる。
 特にシカゴ万博での女性たちが力を合わせるところは、多くの読者の目頭が熱くするだろう。
 そういえばボブ・ディランのTheme Time Radio Hourというラジオ番組のシリーズで、彼によるタブマンの紹介でHarriet Tubman carried a gunという一節が耳に残っている。身を守るだけではなく、怖じ気づく奴隷たちを威嚇するためだったという逸話だ。"You'll be free or die."ということであり、<ハリエットの娘たち>も命をかけて戦う。

https://www.themetimeradio.com/www.themetimeradio.com
 間違いなく必読の一冊だろう。
 これまた解説にあるように、本作の背景90年代のRiot grrrlと呼ばれるパンクムーヴメントであり、既存の男性中心のパンクムーヴメントやサイバーパンクへの違和感のようだ。
 実際、本書では冒頭の1992年の場面でもパンクミュージックシーン自体の空虚性が指摘されている。
 この辺りは、オリジナルのパンク時代の空気を知りながら、その後辿った歴史も知る著者の世代ならではのクールかつ苦い視点と感じる。
 近い世代らしいパンク以外の様々な80年代音楽ネタはツボにくるのが個人的に大きな読みどころだが、なかでもエックス・レイ・スペックスが登場したのは嬉しかった。
 といっても(これまた恥ずかしながら)最近知ったばかりなのだが、エックス・レイ・スペックスはロンドンのパンクバンドで、女性ヴォーカルはPoly Styrene(つまりポリスチレン)というちょっと変わった名を持つ人だが、ソマリ人の父とスコットランドアイルランド系の母というルーツを持った人物で、2011年に亡くなってしまったのだが、遺作であるGeneration Indigoが(特に80年代音楽好きの胸を打つ)大傑作なのだ。

Generation Indigo

Generation Indigo

Amazon
作風など含め、ちょっとPhil Lynottを連想させる人物でもある。
 そういえば本作では上記のアルジェリアの他に、インド系や韓国系女性が活躍し、人種的な多様性も強く打ち出され、ここにも著者の主張が出ている。
 方向性には共感しつつ、男性寄りに歪められたパンクムーヴメントを根本から改革していこうという、著者の気概が十二分に伝わってくる。これぞ真のパンク精神、といえる一冊である。(2020年8月23日)

<シミルボン>再投稿 『翡翠都市』フォンダ・リー

~特別な力を持つ”翡翠″をめぐり、血で血を洗う抗争が繰り広げられる傑作任侠小説~

 
 それを持つ者に特別な力を与える”翡翠”。そんな”翡翠”によって、人々ひいては国々までもが翻弄される・・・本作が描いているのはどことなく現代の我々の社会と相通ずるところの感じられる架空の世界だ。
 舞台は”翡翠”を産出し、重要な産業となっている島、ケコン(ちなみに開設には香港の様、とあるが地図の形はむしろ台湾を思わせる)。”翡翠”を取り仕切っているのは、国や政治家ではない。”翡翠”を扱うべく、幼い頃からトレーニングを受けたグリーンボーンたちであり、そのファミリーである。その二大勢力が<無峰会>のコール家、<山岳会>のアイト家で、飲食店やクラブを傘下にしている。かつては同じ組織であったが、分裂し、対立し縄張りを争う状況なのだ。拮抗していた両家だが、強い上昇志向と冷徹な知略によりアイト家のリーダー<柱>に昇りつめたアイト・マダーンの登場で、コール家の長男で思慮深い若き<柱>コール・ランシンワン(ラン)は次第に追い詰められていた。
 そう、”翡翠”を取り仕切っているのはアンダーグラウンドな方々、いわゆるマフィアの皆さんなのだ!
 もちろん視点は劣勢のコール家。ランの弟で短気だが戦闘能力の高いヒロ。父を早く失ったため、開祖であるも老いてしまった祖父センの影響を脱却しなくてはいけない悩み多きラン。抗争の日々に疲れ袖を分かつも運命に導かれ戻ってきた二人の妹シェイ。そして養子ながら兄弟同様に育てられているそれぞれの運命が描かれていく。縄張りの支援者(<灯籠持ち>といわれる)とコール家は古い厚情により結ばれている。
 いやいや、こうなってくるとマフィアどころか懐かしの任侠映画の趣きではないか!
 またベースにファンタジーの設定が置かれながらも、”翡翠”を扱える人間が限られている一方で、全く反応しない免疫を有するストーンアイというタイプの人間がいたり、”翡翠”の副作用を和らげるためのドラッグ(ただ依存性のある)SN1(通称シャイン)があったり、われわれの今の世界と地続きな設定が随所にでてくるのがなんとも楽しい。
 特にうけたのは、グリーンボーンには養成学校があって、<柱>から卒業を祝福されたりする下り。つまりこの世界では極道を学校で養成しているのだ!
 さてコール家の運命だが、中盤にちょっと驚かされる思わぬ展開があったり、印象的な脇役が配置されていたり、大部だが終盤の怒涛の展開までメリハリが効いて、全くだれることがない。
 そして終わり間際に後をひきそうな流れで薄々予感していたが、続編があるという。鶴首して待ちたい。(2019年11月23日)

<シミルボン>再投稿 『文字渦』円城 塔

~見たこともない難読漢字や異体字にあふれた誰にも真似のできない奇想小説~

 デビューから類まれな発想と論理で独自の世界を築き上げたてきた円城塔が漢字を中心とした文字による言語表現の可能性に徹底して挑んだ実験的作品。
 たとえば作品で登場する漢字は通常読むものが認識するテキストであったり、実際に印刷される活字であったり、はたまた生き物のようであったりする。そうした<文字>の持つ性質が混然一体となり、古代から未来までのなんとも奇妙な歴史が綴られる。見たこともないような画数の多い難読漢字や異体字が山ほど出てくるなど独特なタイポグラフィックの本書は一読では全貌が掴みがたいところはあるが、ユーモアのあるアイディアで処理されており、ディテールなどに可笑しさがあって楽しく読み進むことができる。
 表題作での文字の生物群、「緑字」のテキストで形成された島、「誤字」もよる誤字の自走、「金字」の文字による転生(アミダ・ドライブ!)などなど誰にも真似のできない作者らしい発想が神話・宗教・言語(ヘブライ語サンスクリット語、かななど)・歴史・数学いろんな要素をはらみながら縦横無尽にもっともらしく語られるが、「真顔で語られる冗談話」の趣向が本書の大きな魅力だ(なにしろ文字が地球を飛び出していく話まであるのだ)。なかでも<殺字事件>の扱われる前代未聞のミステリ「幻字」には腹を抱えた。
 新しい表現の世界を切り開いていることで既に高い評価を得ている著者であるが、そのポテンシャルは本書でも遺憾なく発揮されており、動向は今後も注目であることは間違いない。(2018年9月9日)