おおたまラジオ

しまいには世の中が真っ赤になった。

文学フリマ東京38に出店します

5/19に行われる文学フリマ東京38に参加します。

私は批評誌『応答』と俺ガイル研究会の『レプリカ』に文章を寄稿しております。

 

批評誌『応答』はH-10にて出店します。私と同人の三澤蟻さんと店番予定です。

 

 

『応答』はネット通販を考えていませんし、部数も多くありません。

同人として参加している才華さんと三澤蟻さんに出した依頼はこの通りになります。

・「現在」に「応答」すること

・他の同人誌で書かないようなことを書くこと

・文字数無制限。

その結果、「さやわか論」と「九段理江論」と「世界への緒言」と同人との座談会が収録されています。

 

「現在」に「応答」するべくして、『応答』が触れているものは以下に記してあります。

上記の固有名に少しでも琴線が触れられた方はぜひ遊びに来てください。

原稿紹介としては、各原稿の冒頭2ページが公開されております。

 

私、大玉代助は物語評論家さやわかを論じた「「僕たち」を抱きしめて さやわか論」を寄せています。米原将麿『批評なんて呼ばれて』にある「さやわか論」を受けて、さらに「僕たち」・「時間」・「物語」をモチーフとして相互に重なり合いながら展開して論じています。

Youtubeで定期的に配信していた頃のさやわかさんが自身の仕事を「世界平和のため」と仰っていたことを受けて、その論理についての私なりの「応答」です。たとえばゲームやアイドルを語ることが「世界平和のため」にいかにしてなり得るのか?という素朴な疑問から、さやわかさんの著作を追いかけることで、「僕たち」という概念を取り出し、「世界平和のため」の論理を見えるようにしているつもりです。

いわば、この原稿も「世界平和のため」になっていれば幸いです。

 

三澤蟻さんは「言葉の海に揺らいで――九段理江と文学的「自閉」、あるいは」という「九段理江論」を書いています。

芥川賞受賞時のコメントでも、特異な注目を浴びている作家のひとりとはいえる九段理江。従来の九段理江論はそのままAIを絡ませたものが多いですが、「悪い音楽」に対する東浩紀の選評を鋭く読解して、東浩紀と九段理江にある「動物」、私たちの言葉の「自閉」、その行方、揺らぎを捉えようとする5万字の力作です。

才華さんは「世界は「ひとつ」(で)しかない――時間、イメージ、言葉、フィクションなど無い――」は「世界への緒言」として書かれています。

いってしまえば「虚構と現実」、「政治と文学」といったお利口な二項対立への異議申し立て、世界への「応答」として、この文章は書かれてしまったものといえるでしょうか。

 

 

各原稿について「解題」として、大玉代助・三澤蟻・才華による座談会「だから、何?」が収録されています。

「だから、何?」という問いは重要だと思っています。プロ・アマ問わず、多くの文章が発表されては、「結局、それを書いたところで何の意味があるの?」という疑問に対して、私たちはとりあえず書き手自ら問い直すことで、「解題」を経て「応答」するための場となっています。

 

私は書店員として日々本を売っておりますが、本がいかに毎日のように多く出版され(あまりにも出版点数が多すぎますが)、店頭に出され、買われていく本もあれば、売れ残って返品されていく(どの書店も頭を抱えている返品率の問題もあるように)当たり前の光景があります。

たとえば昨年の文学フリマや年末のコミックマーケットに参加した私は同人即売会の凄まじさを知りましたが、それは「お祭り」だからでしょう。財布の紐をゆるめて高価格の同人誌を我忘れるように買われていく狂騒。

しかし、家に帰れば数多の積読と「等価」に「並列化」されていくのも同人誌の宿命でしょう。商業出版を相対化するための同人誌、オルタナティブな場としての意義は理解しつつも(もちろん、私もその恩恵を与かっております)、相対化はその狂騒の限りではないか。

一般書籍に対して払う1000円と、同人誌に払う1000円はどちらも同じ1000円です。プロ・アマに限らず、クオリティには常にバラつきがあります。正直、1000円を払う価値があるかというと難しいものはあまりにも多いとは思いますが(プロ・アマ問わず)、その勉強代としての1000円と考えれば納得はできるとは思っています。あるいは「お祭り」への思い出だとか。私はそれにコミットしたんだ、という対価という意味において。

私は同人活動をしながら、書店員としても、つねに目の前のお客様に1000円を払って本を買ってもらうことがいかに難しいことか、を考えてきました。

それ以上に読まれることも。それに「応答」されることも。

批評誌『応答』は、私たちなりの「応答」です。

少なくとも1000円を払う価値があることを信じて作りました。多くの同人誌が「頑張って作りました」感から抜け出ない「思い出作り」なものに対して、『応答』はそれ以上の価値や意味を目指しました。

実際にどうなったか、は文学フリマ当日に遊びにきてくださると幸いです。

 

また、私が所属している俺ガイル研究会も文学フリマ東京38に出店しております。

当日のブースはK-18です。

既刊の『レプリカ』vol.1と『レプリカ』vol.2を頒布予定です。

『レプリカ』に関してはメロンブックス様で委託通販をしていますので、よろしくお願いします。

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=2274973

 

『レプリカ』vol.2に寄稿した「「俺ガイルは文学」というけれど」は私の『俺ガイル』論の結論となっています。4万字を超えた長編となっていますが、辛抱強く議論を追いかけてくださるとうれしいです。

futbolman.hatenablog.com

 

これまで私が同人誌に寄稿した文章は3本となります。

俺ガイル研究会の『レプリカ』vol.1の「橋と交通と他者と」、『レプリカ』vol.2「「俺ガイルは文学」というけれど」、『応答』の「「僕たち」を抱きしめて さやわか論」。

これらはつながっているので、私としては三部作のつもりです。

もう、これらのテーマ・形式で書く文章はもう書くことはないでしょう。

 

これからは書店員としての向上と同人活動を並行していくつもりではあります。

テーマとしては「記憶と時間」になっていくだろうな、と気がしています。それも「さやわか論」を書いたからの展開なわけですが。

山本浩貴(いぬのせなか座)『新たな距離』で言及されていた保坂和志の小説論に対する「レイアウト」と、ブランショにある一般的な読者の不在ともいえる現前性を考慮した読書論、あるいは読者論を書きたい。読者とテクストと現実の時間の混ざり合いであり(記憶と時間)、しかし保坂和志ブランショのように「書く」主体に注力するのではなく、その手前、「読む」領域に留まるほかない、いわば「読者でしかない私」という読者を考えたい。それは「私」のための文章になるでしょうか。

ブランショデリダのように決して書けない、圧倒的に書けない私(所詮は同人誌に寄稿するくらいの意味)といった読者をどのように考えるべきか。

『新たな距離』はその目安になっているので、「応答」の場を考えたいです。

だから、今、私はようやくプルーストを読んでおります。退屈な読み味と侮るなかれ。面白くて吃驚しつつ。

では、5月19日にお会いできますように。


俺ガイル研究会『レプリカ vol.2』に寄稿しております

2023年12月31日のコミックマーケット103「日曜日 東地区 “ネ” ブロック 48b」に出店予定の俺ガイル研究会『レプリカ vol.2』に参加しております。

 

続報や告知に関しては俺ガイル研究会のアカウントをフォローしていただけると幸いです。

https://twitter.com/kangairureplica

まだ公式では告知されていませんが、私が寄稿した「橋と交通と他者と」が収録されている既刊本『レプリカ vol.1』も頒布予定となっております。まだ手に取っていない方は是非ともご検討をお願いします。

 

ほかの寄稿者の原稿については俺ガイル研究会のアカウントから今後情報が開示されますが、現時点では私の原稿について少し告知したいと思います。

 

前号の「橋と交通と他者と」では、いわゆる日本の文芸評論的な手つきで『俺ガイル』を読み解く試みをしました。それこそが日本における「批評」という制度=伝統だと思っていたからです。そのフレームを『俺ガイル』に敷衍したものですが、前半部の柄谷行人論ともいえる部分があまり伝わらず、後半の『俺ガイル』読解に読者の感想が集まった記憶があります。

もちろん、私の力不足ではあります。

三題噺のような要領でどのように転がっていくのか、といった「物語」のように読ませるための手続きとして柄谷行人論を召喚したわけですが、あのようにダラダラ書くほかない私の書き方そのものが、極端にいえば読者を信じていないからだったと思います。だから、言葉が錯綜しては冗長になってしまう。その意味では「他者」を論じているわりには「橋と交通と他者と」は「他者」がいない文章になっていて、自己完結してしまっていることを後悔しておりました。

 

ですから反省を踏まえて、今回寄稿した文章は明確に「他者」に開かれたものになっていると思います。文末には書かなくてもいいはずの想定読者への言葉を投げかけております。

しかし、それがどう受け取られるかは別問題ではありますが。

まだ公式でアナウンスされていませんが、私の原稿は「『俺ガイル』は文学」という言葉について考えたものとなっております。

『俺ガイル』は文学なのか。どのような語り口で文学といえるのだろうか。

つまり、文学とはなにか。なぜ、人々は「『俺ガイル』は文学」というのだろうか。SNSをはじめとするインターネット上ではときおりみかけるミームでありますが、「『俺ガイル』は文学」がアイロニカルなミームなのでしょうか。私の文章では「『俺ガイル』は文学」という言葉そのものがベタとメタ、それらの反転が常に入り混じった決定不可能な言葉であり、少なくとも「『俺ガイル』は文学」というオタクの切実さに反するようにして、そう言ってしまうことの「軽さ」でしか言葉にできない、しかしそんな「軽やかさ」に対して私の応答はひどく「重たい」ものとなっているでしょう。

なので、その意味ではアイロニーであり、徒労感があります。読者に向けて開かれているはずなのに、どこか「『俺ガイル』は文学」といってしまえる「軽さと重さ」のようなニュアンスを閉じてしまうような、またアイロニーを切断してもなおアイロニーに引きずり込まれてしまうような問題があり、それが文学という問題まで敷衍できたと思います。

言葉の背後に佇みながら、言葉に裏切られることを書いては痛感し、私と言葉を巡るアイロニーがこの文章にはあるとは思っていて、「『俺ガイル』は文学」とするならば、どのようにして語り口を持てるのか、ということを考えつつ、私にとって『俺ガイル』について考えることは言葉とは、他者とは、文学とは、を考えることと同義ではありますが、そう言ってしまう「軽やかな」読者層を想定しながらも、どこか共有できないような、おそらく届かないだろうなという予感もしており、そのこと自体がアイロニーとして文章が走っているものとなっています。

 

さきに同人からの感想にもありましたが、不思議な読後感としての「トートロジー」的な印象があるものとなっているでしょう。アイロニーや文学の機微を考えている人にはおそらくこの文章からなにを得るのかという疑問があります。この文章から何かを得ることができるとしたら「軽やかな」にミームを使う読者かもしれないですが、やはりどこか彼らには届かなさそう(想定読者ではあるにしても)という意味での二重のアイロニーが全体体な徒労感にはなっており、しかし、そのアイロニカルに引き裂かれてしまう徒労感こそが文学という問題にして、アイロニーとして表象されうるものであると読めるような送り返し・彷徨があるものとなっております。

ですから、「『俺ガイル』は文学」というミームは最終的にはやはり文学の問題になり、そういうところまで読者を引き連れていければ、それすらも文学のアイロニーかもしれませんが、その現前化はもはやベタとメタが入り混じった決定不可能な言葉に引き裂かれて「言えなさ」として改めて現前化してしまう、そういう試みをやったつもりです。

 

私が『俺ガイル』について書くのはこの文章が最後になるでしょう。

『俺ガイル』を通じて、言葉や他者、文学について考えてきました。その一通りの成果として、今回寄稿予定の「『俺ガイル』は文学というけれど」と「橋と交通と他者と」で、『俺ガイル』について書きたかったフレームは提出できたと思います。

その姿を見届けていただけたら幸いです。

文学フリマ東京36に行きますよ

昨年末のコミックマーケットC101でめでたく完売した俺ガイル研究会『レプリカvol.1』でありますが、5月21日の文学フリマでも出店予定となっております。

現在は『レプリカvol.1』自体はメロンブックスさんの通販でも購入することはできるのですが、内容的には文フリ向けの同人誌(評論)になっているので、ついに俺ガイル研究会が文フリデビューすることになります。

 

https://www.melonbooks.co.jp/detail/detail.php?product_id=1819284

 

日時は5月21日12時~

場所は東京流通センター第二展示場 Fホールの【か-69】となっております。

詳しくは文フリの公式サイトをご確認ください。

bunfree.net

 

孔田多紀さんの殊能将之評論の同人誌を買ったことで、僕は同人誌を自分でも作りたいなと思っていました。

立ち読み会会報誌 第一号(初版) - 立ち読み会 - BOOTH

 

それから幾年が経ちましたが(時の流れとは、ああ残酷!)、俺ガイル研究会の皆様にお声をかけていただいて『レプリカvol.1』に文章を寄稿させていただきました。

本当は『レプリカvol.1』に収録されているそれぞれの文章について、具体的に踏み込んだ僕なりの感想・解説ブログを書きたいなという気持ちはあったのですが、昨年の時点で、冬コミの次は文フリの話がありましたので、そのあとでも遅くないだろうと。

 

僕が書いた文章は「橋と交通と他者と」といった批評文です。

試し読みは上記から。

前半はひたすらに柄谷行人の話が続き、後半で柄谷行人批判から出た要素を踏まえて『俺ガイル』の交通空間(時間、空間、言葉)を炙り出す文章になっております。

 

僕は以前にこんな文章を書いたことがある。

futbolman.hatenablog.com

 

僕にとって「批評」とは僕には書けないもの、という認識で。

僕の批評観は日本文学における文芸批評そのもの。それは批評の枠組みでいえば古典的で狭義的かもしれないけども、そのようなよくも悪くも「文学的」な文章に触れてきた。

そのうえで僕には書けないと思っていたが、「橋と交通と他者と」ははじめて「批評」を意識して書いた文章になっている。

その意味では『俺ガイル』の「考察」を望んでいる方からすると、柄谷行人江藤淳といった固有名のみならず、ノイズに響く要素が多分に含まれているでしょう。

僕は、批評とは「藝」になっているかどうかだと思う。勝手に柄谷行人江藤淳を引き付けて『俺ガイル』について書いた文章というよりも、柄谷行人江藤淳や『俺ガイル』について考えることは僕のなかでは等価であり、その思考の粘り気みたいなのが「藝」になっているかどうか。

ただ、幾分かは批評として成功したのではないかと思っている。

シャフトの同人誌を刊行されており、今度の文フリにも出店予定のあにもにさん(『もにも~ど』のブースはか-69!俺ガイル研究会のすぐ近く!)が以前に拙論を取り上げてくださった。

批評として書くこと。その意味が読者に伝わること。

書き手冥利に尽きる。

もちろん、いろいろな読者がいて。その多様な「読み」がたとえば『レプリカvol.1』のように現前化しているともいえて。

僕が書いた文章は同人からすれば「マイナー」なわけで。つまり『俺ガイル』のファンのニーズからすれば「少ないパイ」でしかないわけですが、それでも、あにもにさんをはじめとするいろいろな方までに「マイナー」な文章がきちんと届いたことが同人誌の可能性ではないだろうか。

 

5月21日は休みがとれたので、僕は文フリに行こうと思っています。

昨年末の冬コミは仕事の関係で行けませんでしたが、今回こそは。

その際にはどうぞよろしくお願いします。

 

ちなみに、いずれ出る俺ガイル研究会『レプリカvol.2』に寄稿する予定の文章の初稿はすでに出来上がっていて。

本当は「橋と交通と他者と」で持ち上がったテーマの「沈黙」について、その連続性について『俺ガイル結』を絡めて論じる予定でしたが、それはいったんパスすることになりました。いつか書くかもしれないし、もう書かないかもしれない。

順調にいけば『レプリカvol.2』には「『俺ガイル』は文学」という言葉について考えた『俺ガイル』論、小説論を寄稿する予定です。

なぜ、『俺ガイル』ファンは「『俺ガイル』は文学」というのだろうか。

実際にアンケートをとって計量的に調査するものではなく、そもそも「文学」ってなに?やら「『俺ガイル』は文学」の「文学」ってなにを意味しているのか?やら、「『俺ガイル』は「文学」」といえるならばどのような意味としていえるのだろうか、などなど。

もちろん、「『俺ガイル』は文学」という人にとっては「『俺ガイル』は文学」であることは自明なのかもしれないけど、そうではない人にどのように届けるのか。

その理論立てを、批評として書いた文章になる予定です。

いくらか早い次回予告となりましたが(まだ同人にも見せていない…)、まずは文フリと『レプリカvol.1』をよろしくお願いします。

文フリ当日、無事であればお会いしましょう。