fuurow’s blog

散文的自叙伝

8.離婚…そして、その産物

妻の勝手極まる行動に動じることなく息子に事実を伝える相棒。

 

 

「いいかい、今日から二人きりだが心配要らない。あなたの母がいなくても今まで通り。何も変わらない。でもな…父ちゃんと暮らすも、お母さんと暮らすも、あなたの自由。お母さんと暮らすかい?」

 

 

子どもとは親のことを冷静に観察しているのだろう。

静かにそう話し、質問する、以前とは明らかに違う口調の父に「あの人とは無理無理ッ」と即答する息子。

母と呼んでいた人とは暮らせないと判断。

確かに家事全般をこなしていたのは父なのだから。

 

 

「そうか。それでは今日から、あなたと父ちゃんの二人暮らしだ。とにかく…ぼちぼち行こう」

 

 

わずらわしい共同生活者がいなくなったことで、父親としての相棒の心は更に強固なものとなった。

 

その数日後、正式に離婚。

 

金銭を管理していた共同生活者が金を置いていくはずもなく、すぐに生活費も底をつく。

 

これくらいならまだ返せるだろう…と、サラ金に限度額の引き上げを頼み、3万円借りて電気代と食費に当てる。

 

翌月になると自分の借金返済、学校の給食費、電気水道ガス代を支払うと食費がどうしても足りない。

もう、青森の母タエに電話で頼むしかない。

 

 

「そんなわけで…母さん…20万…貸してもらえませんか…」

 

「あっそ…いいわ、でも、私の孫のために使いなさい。応援はします。じゃあね」

 

 

なんとも申し訳ない思いで胸が詰まり一人泣く相棒。

 

母タエのおかげで、ひとまず難を逃れられたが、工場勤務の給料だけでは補えない支払いの不足分をアルバイトで稼ぎ出すしかない。

音楽活動などもってのほか、論外。せっかくいただいたライブハウスからの出演依頼も断らざるを得ない。

 

相棒が離婚を想定していたわけではないが…

息子が2歳の頃、何かのきっかけで危険部物乙四の資格を取得していた。

それが幸いし近所のガソリンスタンドでアルバイトをはじめる。

 

本業の工場勤務は交代制で早出残業と土日の勤務が割り当てられている。

残業のない平日の夕方5時30分から夜8時までの2時間半と、出勤しない土日の8時間をバイトのシフトに組んでもらう。

 

休みは1ヶ月に1日有るか無いか。

でも休みなどどうでもいい。

もし休みがあるなら息子と、そしておねぇと過ごしたい。

 

バイト先で自分より遥かに年下の10代の子供達にバカにされ顎で使われながらも、息子とおねぇと一緒に過ごせる休日を目指す。

それが相棒の心と肉体を支える。辛くても苦しくても過ぎてゆくうちに、それが当たり前になる。

 

そんなある日の夕方。自宅の電話が鳴った。

 

それは…

 

信販会社からの支払請求。


身に覚えのない相棒だったが、契約書には本人のサインと判が押されていると電話の向こうにいる男が言い終えたその時。

 

 

「このカードねぇ、サービスいっぱいで、とってもおトクなのよ~」

 

 

それは、突然思い出された元妻の顔と台詞。

 

そういえば酒に酔っていたあの夜…

 

信販会社の契約書を見せられ…て…

 

何も考えずに言われた通り書類にサインして…ハンコ押したようなぁ~…

 

ん!?…ハッ、やばいッ…一度だけじゃないぞッ

 

そんな過去を思い出した相棒に電話の男は「月々1万円ずつ振り込んでくれれば裁判沙汰にはしない」と交渉を持ちかけてきた。


その話の内容から受けるストレスのせいで発作の嫌な予感が胸の奥に黒く滲んでくるのがわかる相棒なのだが、確かに「契約書にサインし判を押したのは自分なのだから」と渋々了承。

 

この1本の電話。

 

それは自らが主演する醜悪なロック・オペラ開演の合図。


給料のほとんどを妻に渡していた相棒は銀行の通帳と印鑑の保管場所を知らない。

当然ながら複数あるであろう通帳から引き落とされる生活費以外の「月々の支払い」自体が未知の世界。

 

その演舞はゆっくりと加速しながらそのいやらしい艶やかさを増してゆく。

 

数日後、また自宅の電話が鳴った。


今度はどこかの信用金庫からで、妻が乗っていた外車の支払いが滞っていると電話の男に告げられる。

 

 

「いや、それはオレの車じゃない」

 

 

そう反論する相棒に「契約書に本人のサインと判が押してある」と電話の男が冷たく言う。

他にも借金があることをその男に告げ、「月々可能な限りの額を返済していく」と約束し電話を切った。

 

自分の借金返済以外に表面化した身に覚えのない借金の支払いに愕然とし途方に暮れる相棒だったが、すぐに気持ちを切り替え現状を整理し考えをまとめてゆく。

 

これが、自分が「何者」なのかを知っている者の強さなのかもしれない。

 

 

そうだ…まだ自分の知らない自動引き落としが他にもあるかもしれないぞ…

 

 

そう思った相棒、この月の給料日から昼休みに食事も取らず銀行に行き全額引き出すようになった。

 

二度の非情で親切丁寧な返済要求のおかげで、電話が鳴るたびに胸の圧迫感を覚え軽い発作を起こす。

相棒は完璧な電話恐怖症になってしまった。そして、追い討ちをかけるような自分名義の軽めな借金が次々と発覚してゆく。


それでも「息子を愛する者」の心はブレることなく、追われるような日々を駆け抜けてゆく相棒なのだが、やはりその心は同僚達の仲良しごっこが織り成す下ネタや噂といった井戸端会議的な会話を受け入れることができない。

その場にいるだけで心のどこかが腐っていくように感じる。

 

 

何か良い方法はないだろうか…

 

ほんの少しでも明日に向かう希望が欲しい…

 

 

そうだ、夏にちょうど咲くように

 

と、相棒はベランダで向日葵の栽培をはじめる。

7.出来損ない人間

覚醒したもうひとつの意識「シゲル」のおかげで、かろうじて理性は保たれ最悪の結末を回避できたものの、自分の性格や物事に対する考え方や感じ方、概念や価値観という自分らしさも壊れてしまった相棒。

 

先ずは「息子を愛する者」としての父親という立場から、息子に対する人間関係を正常化するために不完全ではあるが5つのルールを決める。

 

ルール1 息子を怒鳴らない


ルール2 息子の前で母親の悪口を言わない


ルール3 息子に呼ばれたら必ず振り返り話しを聞く


ルール4 決して「疲れた」と言わない


ルール5 発作の予感がしたときは、酒を飲んでリラックスする

 

制定されてゆくルールの内容と順番のちぐはぐさは、現時点での相棒の頭と心の状態を察すると致し方ない。

 

ルール1とルール3は「人は常に相対する者と対等でなければならない」という相棒の思想的信念から制定。

息子誕生後に結成したロックバンド「50/50」の名の由来も、その信念から。

 

この信念も相棒が「息子を愛する者」と自覚した瞬間、心が脳にバックアップさせたのかもしれない。

 

その信念を基本に、息子にイヤな思いをさせないために、たとえ独り言だとしても「愚痴をこぼすな」と自分に言い聞かせるルール2とルール4が制定。

 

ルール2については、息子が母を恨まないようにと、その配慮から。

 

実際に相棒は日々息子に「あの人は、お父ちゃんとは他人だけど、あなたを産んでをくれた人なんだからね 」と話し、たとえ「家事をしない人」だとしても「実母」としての存在を尊重してきた。


ルール5は、得たいのしれない不安や恐怖を感じる時は、心にストレスがあるということ。

おそらく相棒は、無意識に「不安の先取り」をしたり「しなければならないこと」を自分に課せるのだろう。

単純に酒を飲むことで「今しなくても問題なし」と、ストレスと緊張感をゆるめ、無理を避け、心と体への負荷を回避、安定させるため。

 

しかし、相棒は酒に強い。

ビールや発泡酒なら350㎜缶を6本ぐらい飲んでも酔ったりしない。だが20代後半あたりから「アルコール依存なのかも」と少し自覚するようになっていた。

 

 

この依存も、もしかするとパニック障害発症と関連があるのかもしれない。

 

 

ある日を境に話しかけても「ええ」や「そうですね」程度しか答えなられなくなった相棒の姿は、バイト先の同僚達や関係者の大半を占める「表面上の仲良しごっこ」に終始する人々の目には、さぞ奇妙に映ったことだろう。

 

当然のようにバイト先では仲間外れ状態。

その状況下で働きながら「仕事とは何なのか」を心の中で模索し、シゲルの誘導的質問による修正がなされ、早い段階で答えを見出す。

 

「仕事とは、拘束時間内に与えられた作業に従事し、その報酬として生きてゆくために必要な金を得る手段。それ以上でも、それ以下でもない」

 

そう定義し、さらに付け加える

 

「職場とは、与えられた仕事をする場所。仲良しごっこをする場所ではない。仕事を円滑に進めるために人間関係を必要以上に取り繕うような表面上の付き合いや愛想は一切不要」

 

壊れた心を再構築するには様々なことを新しくはじめから定義し直さなければならない相棒。

 

いろいろなことに対し、定義付けすることで、できごとや物事に対する「どう行動すべきなのか」という判断基準が養われ、問題に直面した時、心が惑わされることが少なくなるのかもしれない。

 

おそらく、相棒は「生きてゆく」ため、本能的にこの作業をはじめたのだろう。

心の自律と再構築を促すと同時に、心的セルフケアも必要なのだから。

 

 

自我崩壊後、1ヶ月経った頃。


家庭と呼ぶにはあまりにも奇妙な生活の中、相棒はようやく自分の身に起きたことをおねぇに話せるようなった。


おねぇは不完全すぎる「出来損ない人間・遠藤」と、魂を交流させながら寄り添うように相棒の心を支えてゆく。

 

急ピッチで「定義付け作業」が進められ、まだまだ出来損ない人間ではあるが、安定したしゃべり方ができるようになり、なんとか日常生活に困らないほどにまでなった。

 

そんな日々の中、繰り返し行われる「もう一つの意識・シゲル」との対話で「息子を愛する者」以外にも「自分とは何者」の答えが、まだ他にもありそうに思うようになる。

 

それを必死に見出そうと、心の中を彷徨うが、残念なことに何の手がかりも掴めないまま、ただ悪戯に時間が過ぎていった。

 

ある日。

 

無関係である相棒を巻き込んでいたバイト先の人間関係のトラブルが「陰で悪口を言った、言わない」という当事者たちの口論から殴り合いに発展。

 

その数日後、当事者の片方が「会社を去る」ことになり一件落着。

 

傍観していた相棒は「所詮、仲良しごっこの成れの果て」と、その結末を見届けた4月、そのバイトを辞め就職活動を本格的に開始。

 

今どきの求職状況は、自動車製造関連工場に限らず、多くの企業が直接雇用を避け、派遣請負業社が求人の大半を占めるようになっていた。


この国の政治・経済状況の影響なのだろうか…

派遣請負業者の急成長は静岡県東部に留まらず、日本全国に広がる社会的現象のようで、求人情報誌をいくつ見ても正社員募集は少なく、パニック障害を発病した当時の職である土木関連の求人に目が止まることもしばしあった。

 

確かに、その仕事に必要な多くの資格を取得している相棒。

土木関連会社への就職は有利のように思えたのだが…

そこで働く自分の姿や光景をイメージするだけで胸の苦しさをおぼえ、発作に対する恐怖感から最終的に土木関連の仕事は対象外に。

 

また、トレード・マークであるロックな長髪と高校中退があだとなり、飲食関連や大きな企業の仕事もNG。

 

業種を絞らざるを得ない相棒は仕方なく、ある派遣会社の面接を受ける。

 

数日後、めでたくその派遣会社への採用が決まり、地元の自動車関連部品製造会社の工場に派遣され、入出庫を担当するフォークリフト・オペレータとして時給1125円で働くことになった。

 

初出勤の日、言葉少なに仕事を無事済ませ帰宅した相棒に、怒りのこもった言葉を浴びせる妻と呼ばれる他人。

 

 

「もっと、ましでちゃんとした会社に勤めなさいよッ」

 

 

すでに相棒にとって「存在しない者」てあり、かつ、世間で言うところの「妻と呼ばれる他人」の言葉は、もう二度と耳には入らない。

 

とにかく、息子を育て、今を、そして今日を生きぬき、働き稼ぐのみ。

 

 

中途な採用日からの出勤で5月の給料は6万円程度だったが、サラ金への支払いは残してあった小遣いでなんとか間に合わすことができると計算した相棒は、その給料全額を妻と呼ばれる他人に渡したが、彼女が不満で醜く歪ませた表情をいつまでも浮かべていることは見ないでもわかった。

 

翌月のある日。

 

仕事を終え帰宅した相棒。

 

「ただいま」と息子に声をかける。

 

ふと見たテーブルの上に1枚のメモ。

手に取ると…

 

 

もう一緒に暮らせない

 

 

そう書かれている。

 

妻と呼ばれる他人が残した書き置き。

 

どうやら、彼女は息子を置き去りにしてマンションから出て行ったらしい。

6.覚醒したもうひとつの意識

「ダメだ」

 

何かに憑依されたかのように、体も眼も動かさないまま発せられたその声は、相棒が最もリラックスした状態の時だけに使うとても低い小さな声。

 

これまで相棒と共に歩んできたが、彼の二重人格的意識が問いかけてきたことは今までに一度もない。

 

「なぜだ」

 

復讐の邪悪な鬼の化身となった相棒が少しキーの高い声で聞き返す。

 

 

「では、聞こう。復讐してどうする」

 

 

その問をきっかけに、相棒の意識は再び心の最下層まで落ちてゆく。

 

 

このタイミングで対話をはじめたふたつの意識。

相棒の意識と思考、ビジュアライズされた映像はキャッチできるのだが、もうひとつの意識のそれらはまったく感じとることができない。

もうひとつの意識が放つ言葉を生み出しているその正体も場所も特定できない。

もしかすると…その意識は…無意識状態…

 

この現象が相棒の脳と心が織り成す幻覚なのか、それとも単なる妄想なのか、はたまた、分裂した意識の交流なのかはわからないが、今、確かに、ふたつの意識が相棒の心的最下層空間内で存在している。

 

私は突如出現した相棒の「奇妙な、もうひとつの意識」に対し、正しさを感じると同時に不思議な親近感を抱き、その意識を「シゲル」と名づけた。

 

 

その意識は心の最下層にあるのだが…

復讐心に支配された相棒は現実世界で声を発し、その行為の正当性を並べたてるが、聞き終えたシゲルも声を発し静かに不当性を説きはじめる。

 

 

「では、復讐を果たしたとしよう。復讐された者の家族はどうなる。自分の母や兄、家族や友人はどうなる。拭いきれぬ心の痛みと苦悩を一生背負って生きることになる。それは、己の死をもってしても償うことはできぬ」

 

 

「じゃあ、どうすればいいんだ。もうオレの心には何もない…自分の存在証明は復讐しかない」

 

 

「復讐か…さっき映し出したビジョンでじゅうぶんだろう」

 

 

ゆっくりと優しく言うシゲルの言葉が相棒の復讐心を静かになだめ、少しずつゆっくりと思考を安定させてゆく。

 

 

「では、聞こう。お前は何者だ?」

 

 

そのシゲルの問いに「遠藤だ」と相棒は答えたが、それを否定するかのように言う。

 

 

「遠藤…か…確かにその答えは間違ってはいないが、正しくはない。それは固体識別に必要な名前でしかない」

 

 

「じゃあ、人間だ」

 

 

「それも間違いではないが正しくない。生物学上の分類に過ぎん」

 

 

「じゃあ、ひとりの男だ」

 

 

「それも違う。ただ単に雄か雌かというだけのこと。何者か?と聞いている」

 

 

もう何の映像も浮かんでこない心の闇の中を「自分は、何者か?」と自問しながら這い蹲るように相棒はその答えを探し続ける。

 

新たな答えを探し出してはシゲルに答えてゆくが、ことごとく否定される。


その問答が繰り返されるたび、重たく濁った心の闇が少しずつ浄化されてゆくように感じる相棒。

 

それはまるで自我の崩壊を迎えた心に残った、すべての邪念の残骸をシゲルが取り除こうとしているかよう。

 

 

自分はいったい何者なのか…

 

 

その答えは…

 

もう見つからないようにも思えるが…

相棒は、そのまま心の闇を這い蹲り彷徨い続ける。

 

ようやく闇の向こうに、夜空に輝く星達の中で見えるか見えないかくらいの六等星のような、か弱い幽かな光を見つける。

その光に引き寄せられるように近づいてゆく。


光は近づくたびに遠ざかり、それが何なのかを突き止められない相棒にシゲルが再び問う。

 

 

「では、聞こう。お前は何者か?」

 

 

その時、やっとその小さな光の傍に辿り着いた相棒は、蛍を捕まえるようにそっと両手を伸ばす…

そして優しくその光を包み込んだ。


指の隙間から漏れる温かく柔らかな光。

 

そ~ッと恐る恐る開いた手のひらの中で光を放っているもの。

 

それは…

 

結晶化したような愛する我が息子への想い。

 

 

あぁ……

 

そうか…

 

わかった…やっとわかった…

 

そうだ、オレは息子を愛する者だ

 

 

「正解だ。それを知った今、自分の成すべきことが自ずと見えよう」

 

 

その言葉で屍の目には生気が蘇り、心の奥底のどこかから力が湧いてくるのを確かに感じる相棒。

 

 

「そうだ。オレは息子を愛する者。湖太郎が家で待っているんだ」

 

 

相棒は立ち上がると車に乗り込み、いつも駐車している場所に車を停め自宅に戻った。

 

 

「さあ風呂に入ろう」

 

 

妻には声をかけず息子を風呂に誘う相棒。

息子を愛する者と自覚したものの、それ以外の心はそのほとんどを失ったまま。

口調は事務的で冷たい。

 

 

「今までどこで何をしていたのよッ」

 

 

不機嫌そうに聞く妻を自我崩壊した相棒は「存在しない者」と判別し反応しない。


バスタオルを引き出しから二枚取ったその時、妻が醜い顔でさらに問い詰めてきた。

 

しかし、相手は存在しない者。

相棒は壊れかけのサイボーグのように表情を変えないまま息子と風呂へ向かう。

 

苛立つ妻が、さらに醜く歪ませた顔で静止するように怒鳴った。

 

 

「ちょっと、はっきり言いなさいよッ」

 

 

その言葉が相棒の心のどこかに残っていた邪悪な怒りの残骸に火を付けた。


「存在しない者」という認識が「排除すべき悪しき者」に変換され、それまで半開きだった両目はカッと見開かれ、烈火の如く燃え上がる怒りを込めて妻の頭を平手で叩きだした。

 

無言で連打する相棒のその瞳には、恨みと憎しみ、さらには殺意まで混ざりあった感情が満ち溢れている。

 

その時

 

「とうちゃん、ヤメロッ!」

 

息子の大きな声。

 

その言葉は誤作動を起こしたサイボーグの中枢プログラムを強制停止させるように相棒の思考を瞬時に沈静化させ、閻魔大王のように見開かれていた目を虚ろな半開き状態に戻させた。

 

 

「あぁ…そうだ…風呂に行くんだったな…さぁ、行こう」

 

 

父として今何を成すべきかを思い出した相棒は何もなかったようにマンション地階の浴場に向かう。

 

 

もし息子の一声がなかったら妻にケガを負わせるだけでは済まなかったかもしれない。

 

その日から相棒が自分から妻に話しかけることは皆無となった。

おそらく何か聞かれたとしても、感情のない必要最低限の事務的な回答をするだけであろう。

 

相棒の偽りの自我の崩壊は過去の記憶のすべてから温もりと色彩を奪い去った。


楽しかった思い出。

 

辛かったこと。

 

感動したこと。

 

嬉しかったこと。

 

そして…

 

誰かを愛したことさえも「すべての過去は偽り」となってしまったのは言うまでもない。

 

今の相棒にとっては「息子を愛する者」としての今日と未来だけが最も重要。過去などどうでもよく、たとえ何かを思い出したところで、それは単に「そうだった」だけのこと。

 

何の思い入れも感情も浮かばない。

 

しかし、おねぇへのおぼろげな想いが心の中で不安定に浮遊し続けているのを漠然と感じている。

そう、かすかな希望のように。

 

鬱のような状態に近かったが「息子を愛する者」の「父である」という自覚は、成すべきことをシンプルに映し出す。

 

 

息子を養うにはカネがいる

ならば働けば良い

 

その答えから次の朝、普段通り朝食を作り息子を学校に送りバイトに行くことができた。

 

挨拶も、作業も、条件反射のように体が反応してくれる。

 

だが、不完全というよりパーツさえほとんどない空っぽの心が、若い同僚達の下ネタや井戸端会議的雑談に反応するわけがない。


そんな精神状態でありながらも、そのいっぽうで空っぽの心は、瞬間瞬間に見聞きすることや体験することで、そこから必要な情報を収集し「生きてゆくための知識」として猛烈な速度で学んでゆく。

 

相棒の「できごと・ものごと」への対応力を養ってゆく能力は失われてはいなかった。

 

いや…

 

もしかすると…

 

自分が何者なのかを理解した時点で「必要な能力」と判断した心が、脳にバックアップさせたのかもしれない。

 

どうであれ

 

「偽りの自我の崩壊」を遂げた相棒は、

「出来損ないの人間」として、

新たな人生の一歩を踏み出したのだ。

 

これから…

目まぐるしく未来が変化してゆくのだろう。

5.自我の崩壊

そんなある休日。

 

相棒は朝から何もやる気が起きず全身の脱力感を感じていた。

 

午後2時過ぎ。

気晴らしに、ふらっと車で出かける。

 

いつもと変わらぬ運転席から見える景色。

 

だが、何かが違う感じに思える。

 

心の底に比重の重たいドロドロとしたモヤモヤが湧いてくるのがわかる。

 

何かがおかしい…

 

そう感じる相棒の頭と心の中で何かが起こっている。


そのいやな感じを拭えず、次の信号でユーターンし自宅マンションに引き返す。

 

マンションの敷地に入ると、なぜかいつも車を停める場所には向かわず、外にある駐車スペースに車を停めた。

 

 

どうして、息子が待つ自宅に戻らないのだろうか…ということは…相棒の精神がかなり不安定な状態にあるのは確か。

 

 

車から降ると、人目につかないように車の陰に腰を下ろし、体育座りで膝を両腕で囲む。

 

両足の間から地面を見つめ、ぼんやり自問をはじめる相棒。

 

 

いったい…管理費の滞納って…なんだろう…

 

あの請求書ってなんだろう…

 

 

青空の下。

ひんやりとする風に吹かれながら心の中で呟く。

 

 

妻と言われるあの女は何だろう…

 

夫婦って何だろう…生活って何だろう…

 

仕事って何だろう…

 

カネってなんだろう…

 

人間ってなんだろう…

 

生きるって…何だろう…

 

じゃあ…オレって何だろう…

 

何のために苦痛に堪えて働いてきたんだろう…

 

それはいったい…何のため…

 

 

最後に心の中で相棒は...絶叫

 

 

オレは、いったい何だーッ

 

 

その時、相棒の心と肉体が完全に分離した。

 

その肉体を現実の世界に残し、暴走しはじめた相棒の心が暗い意識の中に吸い込まれるように落ちはじめる。

 

ただただ深く深く落ちてゆく。

 

ようやくその奈落の最下層に到達した相棒の意識がとらえたのは…

 

薄暗い空間…

部屋のようでもあり、無限に広がっているようにも思える…

 

肉体は無いのだが…

直立したたまま宙に浮いているような感覚はある…

何かの気配がして振り向くと…

丸みをおびた角の四角いブラウン管のようなものが目の前に浮かんでいる。

 

その画面に何かが映し出されてゆく。

 

どうやら人の顔のよう。

 

だんだんとはっきりしてゆく。

 

それはまるで線画で描かれたような感情を持たない能面のような…

 

自分の顔。

 

いったい…何なんだッ?

 

そう思った瞬間、足下から温度のない黒いタールのような液体がその水位を上げはじめた。

みるみるうちに腰まで水位を上げ、止まることなく胸に...

 

このまま頭まで浸かり死んでしまうかも…

 

もう、それでもいいと相棒は覚悟したが…

 

首元まできてようやく止まった。

 

不思議に息苦しさは感じない。

 

何も聞こえない仮想空間の中で映し出されている自分の顔を見つめる。

 

お前はいったいなんだ?

 

ん…いや…これは………

息子に対するオレの顔…か?

 

なぜかそう思い、画面に映し出された顔に問いかけると「正解だ」というように、見ている顔が額のアウトラインから剥がれはじめる。

 

薄いフイルムのように画面から剥がれてゆく皮の後ろに、異様な冷たさを持つ自分の顔が準備されているのがわかる。

 

皮が顎のほうまでベロリと剥げて落ちると黒い液体に沈んでいった。

 

じゃあ、これは誰だ?

妻への顔なのか?

 

その問いの答え合わせ…

顔の皮がさっきと同じように剥がれ落ち、その後ろには新しい顔が待っていた。


その顔に対する問いは、自分の父、母、妻の両親と続いたが、そのたびに剥がれ落ちては黒い液体に沈んでいった。


以前、勤めていた会社の人達や友人、そして思い出せるすべての個人に対する問いの答えも同じ結果に終わる。

 

次のお前は…

いったい…

いったい…お前は誰だ?

 

その問いに答えるように剥がれてゆく顔の後ろ…現れた顔には眼球が無い。

 

大きく開いた丸い二つ穴…

力なく少し開かれ口の中は真っ黒…

見慣れた自分の顔とは思えない。

 

ウワッ

 

その恐ろしさで相棒は力一杯目を閉じた。

 

あれが本当のオレの顔?

それ以外は全部誰かに対する偽りの顔…か?

それじゃあ…

今も…今日までのオレも全部ウソっぱちの偽りの顔で生きてきたっていうのか?

 

自分を疑いながら、そっと目を開ける。

 

顔は剥がれないまま画面とともにゆっくりと、その姿を消してゆく。

どうやら最後の顔。

相棒は完全に消え去るまで、その顔を見つめた。

 

一旦スイッチが切れたかような画面だが、新しい映像を映し出そうとしているのか、ぼんやりとだが再び少しずつ明るみをおびはじめる。

 

相棒は意識を集中させ必死にその映像を確かめようとする。

 

ようやくわかりはじめたその映像。

 

それは…

さっき出かけたときに自分が見た運転席からの景色。

 

「偽りの顔で生きてきた過去は、所詮偽りの記憶でしかない」

 

不意に投げ掛けられたその言葉。

 

暴走する心が己の記憶を否定しはじめる。

 

ゆっくりと目の前の映像が逆再生を開始。

 

相棒は抵抗できないまま、家族やおねぇ、バイト先、パニック障害で通った病院、以前の職場、息子の入学、卒園、入園を自分の目線でとらえ記憶してきた映像を見せられてゆく。

 

いつ頃から偽りの顔で生きはじめたのか…

もしかしたら突き止められるかもしれない…

 

そう相棒が思った瞬間、映像が引っかかるように止まった。

 

それは下品な化粧をした妻の顔。

 

あぁ…この時からオレは…

この女を愛していない…

 

そう自覚するのを待っていたかのように逆再生が再びはじまった。


父の死、息子の誕生、引っ越し、結婚式と、逆再生されてゆく。東京での製版会社、酒屋のアルバイト、ジョン・レノン暗殺、短かった高校生活、中学時代。

 

あぁ、待ってくれ…

もう、そこまで戻れば十分だろう…

 

自分の心のどこかに訴えるが映像は止まらない。

 

小学校時代、六年三組、クラスメートの顔、好きだった女の子の顔や笑い声、転校、小学校一年生の頃に住んでいた三軒茶屋、引っ越し、保育園時代。

 

そして、一枚の写真のような映像で止まった。

 

うわぁぁぁ!やめてくれ!止めやてくれ~ッ!

 

それは…

 

生まれたばかりの自分を優しく胸に抱き、嬉しそうに笑いながらこっちを見ている若き母タエ。

 

その存在自体をも否定するかのように映像が一瞬で消え、同時に相棒の自我が崩壊した。

 

 

空っぽの意識が車の横に腰を下ろしている肉体に戻る。

 

「すべては偽り」

 

その答えだけが漆黒の闇に覆われた心に何度も冷たく小さく響く。

 

耐え難い虚無感と、今までに感じたことのない喪失感からなのかボロボロと泣き出す相棒。


「ぐう、ぐう」と嗚咽を漏らし泣きながら両方の拳で地面を殴り続ける。

 

奥歯を強く噛み締めるせいで、何度も「 オェッ、グェッ」と、もよおす吐き気。

朝から何も食べていない胃からは胃液すら吐き出されず、引きつる腹筋が痙攣を起こしたように伸縮を繰り返す。

 

呼吸のタイミングがずれてシャックリのようになりながらも天を仰いでは泣き…

うな垂れては地面を殴りつけながら泣いて泣いて泣き続ける。

やがて宵闇が辺りを包みはじめた頃…

ようやく涙が枯れた。


疲れきった肉体…

空っぽの心…

半開きの口…

うなだれ…何も見ていない死人のような目...


座り込んだまま、瞬きもせず…

渇いた意識は闇に支配されたまま。

 

そんな相棒の心に突然、邪悪な炎が燃え上がった。

 

復讐だッ

そうだ復讐だッ

オレを追い込んだすべての人間に復讐してやる

 

激しい怒りと憎しみに満ちた純粋な復讐心が頭の中に映像を映し出す。

 

 

仁王立ちする我が身の前に跪いて侘びを入れ必死に命乞いをする人々が横一列に並んでいる。

 

その中には妻の顔もある。

 

その対象者一人一人の前に、それぞれが違う凶器を手にした我が身の分身達が立つ。

 

何かの合図が聞こえた。

 

自分を侮辱し、蔑み、そして排除してきた者達への復讐がはじまった。

 

ある者は日本刀で首を落とされ、頭がゴトッと地面に落ち目が合う。

 

ある者は両目をスプーンでえぐり取られた後に腹を切られ、自らの手で内臓をかき出して絶命。

 

ある者は手榴弾を口に咥え爆死し、当たり一面に己の肉片と血を飛び散らす。

 

またある者はチェーンソウで両手両足を切断され、猛獣の檻の中に放り込まれ生きながら食われてゆく。

 

その処刑のすべてが同時に行われ、分身達の顔や全身は対象者の返り血を浴び赤く染まり全員の処刑が終わった。

 

だがすぐに何かの合図。


すると一瞬で処刑前に戻った対象者達。

 

それぞろが、さっきと違う方法で処刑され醜い死にざまをさらしてゆく。

 

自我の崩壊と共に完全に理性を失った空っぽの心。相棒は、その意識内で残虐で凄惨な復讐劇を何度も繰り返してゆく。

 

けっして満たされない心に「実行」の二文字が浮かんだ。

 

その時、現実の世界で生きた死人のごとき相棒の口が開いた。

4.再び病みはじめる心

社会復帰とはいえ、腰掛程度のアルバイト。


「家族がいるのだから」と、正社員としての再就職を視野には入れている相棒なのだが…


おねぇといっしょに働く楽しい順調な日々が続いてゆく。


やがて、働きだしてから数ヵ月が過ぎた初秋。


おねぇが「そろそろイイ時期かも」と、相棒より先に正社員としての雇用先を求めバイトを止め、二人が会う機会が少なくなっていった。


その頃…


自宅のポストに投函される自分宛の何通もの請求書と、税金未納に対する差し押さえ通告書に相棒は頭を悩ませられていた。

 

それらを妻に渡しても、そのままポイッとテーブルに置くだけ。


それは次の月も…


また次の月も変わらない…

 

そんなある休日の昼過ぎ。


「気晴らしに散歩でもするか」と思い、自宅マンションのエントランスへ向かう相棒。
そこですれ違ったマンション管理組合員の1人に呼び止められる。

 

 

「あッ、遠藤さん、ちょっといいですかぁ…あのぉ~…管理費の滞納がねぇ…かなり増えてきていますよ」

 

 

「えッ?」

 

 

「全額とまでは言いませんけど、早く入金して少しでも減らして頂かないと額が大きくなるいっぽうですから…こちらとしては法的手段を取るようになりますよ」

 

 

「はッ?ちょっと待ってください。管理費…滞納してるんですか?カネの管理はすべて妻に任せているので…ん~ちょっとわからないんですけど」

 

 

「じゃあ奥さんに言ってくださいよ。本当に…このままじゃマズいですから…じゃッ、失礼」

 

 

管理組合員は、かなりのウンザリ感に怒りを混ぜ合わせたような表情でそう言うと、用事があるのか足早にマンションを出て行った。


その夜、妻に珍しく怒りながら強い口調で言う相棒。

 

 

「管理費の滞納ってどうなってんだよッ。いっぱい来ている請求書とかさッ…オレはちゃんとカネ入れてるし、病気でクビになったけど失業給付金だってお前が全部使ったじゃないかッ」

 

 

「はぁ~あ…フンッ、わかったわよッ」

 

 

「だから何よ」と言わんばかりのふてぶてしい妻の態度に呆れた相棒は思う…

夫婦関係は随分前に終わったのかもしれない…

 

数日後、久しぶりに会う約束をしていたおねぇに相棒は管理費の滞納や請求書のこと、妻の態度などを話す。

 

 

「だから現金じゃなきゃダメなのよ。私、クレジット・カード1枚も持ってないわよ。あっ、それとね。遠藤さん...奥さんのこと愛してないでしょ」

 

 

「そんなことないよ」

 

 

妻への愛を肯定した相棒だったが…

何か違和感のようなものが心に残った。

 

妻はその後もマンションの管理費を滞納してゆく。

 

毎日のように「カネがないカネがない」と連発する妻にウンザリさせられる相棒ではあるが…息子の前ではけして母親の悪口を言わなかった。

 

相棒の妻は酒を飲めないのだが、おねぇはかなりの酒豪で、一緒に飲む酒はとても美味く、じつに楽しい。


醜悪な妻や日常から心が解放される相棒。そのおねぇの人間性や現金主義に自然と惹かれてゆく。


友情が少しずつ少しずつ心の奥で静かに確かな愛へと変化してゆく。

 

相棒とおねぇは、お互いの必要不可欠性を認識しあい、休日も頻繁に会うようになる。


他者からみれば現実逃避的不倫であっても、それは相棒の心を唯一救う貴重で短い時間。

 

そんな夫の行動に疑問を抱きはじめた管理費滞納問題と、いくつもの請求書に何の対処も家事もしない妻は、ついに相棒の携帯を調べ、おねぇの存在に気づく。


憤怒した妻は「その女を呼べ」と夫に命令。


そして…

 

ついに、おねぇと妻は二人きりで会った。

 

二人がいったい何を話したのか…その内容はわからなかったが、静かな話し合いだったよう。

 

「あなたの奥さんね…子供を育てるのに、いくらカネがかかるとか…ローンがどうだとか…おカネのことばかり言ってたわよ」

 

 

後日、そうおねぇから聞いた相棒。


妻の見栄っ張りな性格とカネへの執着の強さは知ってはいたが、それらがさらに強くなっていることを知る。


妻は相棒が失業中に「カネがない」と言うわりには自分の自家用国産車から「安いから」と、中古だが赤色の外車に買い換えていた。

 

それがきっかけとなり、過去の様々な出来事を分析した相棒は、妻に対する愛が既に無くなっていたことを自覚。


その瞬間から妻は、法律上「妻と呼ばれる他人」というだけの単なる共同生活者になった。

 

冷め切った夫婦生活ではあるが、家事をこなし働く相棒。


それはもう「妻と呼ばれる他人」のためではない。
父として息子との生活を守るため成すべきことを成すのみ。


やがて新しい年が明けた。


この頃から、妻と呼ばれる他人の非常に親切な女友達は街で相棒を見かけると彼女に即刻携帯電話で報告していたらしい…


だが…相棒にとって、もうそんなことはどうでもいい。


相変わらずポストには請求書が投函され続けてゆく…


マンションで合う管理組合員からは管理費滞納を厳しく注意される相棒。

 

その心は…


どんどんどんどん…


追い詰められゆく…


どんどんどんどん…


どんどんどんどん…

  

 

パニック障害を発症する2年前ぐらいのこと。
妻は夫である相棒に相談もせず、無理やり横車を押し通すようにオープンさせたバーを経営している。
妻を思い、毎日のように仕事帰りに店へと寄っては洗い物を済ませ掃除し、時には店のマスターとして客の相手を相棒はしていたのだが…
その店を妻は突然「閉める」と言って、どこかの会社に勤めはじめた。

 

家事をろくにせず、脱いだ服が山のように積み重なる布団が敷かれたままのホコリが積もった暗い部屋で、あぐらをかき背中を丸めながら咥えタバコでパソコン画面を見つめキーボードを叩く帰宅後の妻と呼ばれる他人。

 

喘息治療でマンション買って…


東京から引っ越してきて…


辛い仕事も歯を食いしばって…


店も手伝って…


パニック障害になって解雇されて…

 

そんな自分を可哀想に思う相棒。

 

どんどん…どんどん…


状況が悪化してゆく…

 

なぜか…それが当たり前のように思え…


何もかもが嫌になる…


人生に一定のサイクルがあるのなら…


事態が好転するのはいつだろう…


明日なのか…


来月なのか…


それとも…


もう二度と…

 

そういう時期が来ないのかもしれない…

 

 

ネガティブな考えが相棒の頭の中で日々ループしてゆく。

 

3月に入ると…


バイト先で人間関係のトラブルに巻き込まれ、ウンザリさせられる日々が続く相棒…


自覚のないまま…しだいに軽い鬱状態に陥ってゆく。

3.社会復帰

翌年の二月。


軽い発作の兆候や、得たいのしれない恐怖感や漠然とした不安感は消えはしないが、社会復帰を意識した相棒はフォークリフトの資格取得を思いつく。

 

確かに資格は就職に有利。


フォークリフトには以前乗ったことがあり、講習を受けるとすんなり取得できた。


失業手当の給付も終わり、生活費を稼ぐため求人広告を出していた自宅から車で30分ぐらいの食品製造工場の入出庫フォークリフト・オペレータに応募し、四月後半からアルバイトとして働くことになった。

 

初出勤当日。


出勤時間より少し早めに工場に着いた相棒。
既に背の高い青年と細身のメガネを掛けた読書が好きそうな若い女性が事務所の前に立っている。

 

聞いてみると二人とも今日からのアルバイト。同じ求人広告を見たと言う。


日中の仕事はあまり複雑ではなかったが、当日の配達を終えたトラックが帰社した後、翌日配達分を積み置きするまでが仕事。


初日から残業。

 

疲れはて…ようやく帰宅したのは夜10時過ぎ。

 

 

「いったい今まで何をしていたのよッ」

 

 

その妻の言葉にカチンときた相棒だったが、一回深呼吸をしてから「仕事だよ」と答えた。


この日から、捨てた土木作業員の顔の代わりに、アルバイト遠藤の顔を持つようになった相棒。

 

帰りは遅いが拘束時間の長さは自給計算の給料に反映され「これで借金も一気に返済できる」と、おおいに働く。

 

自称ロックミュージシャンの相棒。バンド活動は結構カネがかかる。


その運営費として給料から2万円抜いた20~25万円を妻に渡していたのだが、突発的に発生した香典代を言い出せずに「少しくらいなら」とサラ金から借りてしまったのが6年前。


そのお手軽さから冠婚葬祭に必要な金がサラ金から捻出され、更には困ってる友人に貸す金もわざわざサラ金から借りるといった有り様。お人よしを越えた超特大場外ホームラン級のバカな相棒。


結婚する前も給料を当時の彼女である妻が管理していて、いったい自分がいくら稼いでいるのか一切知らない。


金銭感覚が「ズレている」というより、まったくといっていいほどカネに興味感心がないのである。


仕事の休憩時間には同じ出社日の三人で楽しく会話し、すべてが順調に進んでいるように思えた。


そんなある日のこと。


アルバイトのメガネを掛けた若い女性と雑談していた相棒。


つい「オレ…パニック障害でさ…前の会社クビになってんだ」と喋ってしまった。

 

パニック障害という病気の存在を知る人は少なく、鬱病と同様に精神病の持つ「頭がおかしい人」とか「気が変になった人」というイメージが先行している。


その間違った認識から奇異の目で見られ、偏見を持つ人達からは敬遠される。


実際…

 


「この人、脳患いなのよ。よろしくねぇ」

 


まるで見世物のように相棒のことを妻が他者に紹介すると、少し引いて醜い物を見るような目を向ける人が多くいた。

 

うっかり口を滑らせ「しまった」と思う相棒に「私も…軽い鬱で病院行ったことあるよ」と、彼女は小さく笑いながら優しく話してくれた。


この「きっかけ」で、自分より15歳若い彼女を相棒は「おねぇ」と呼ぶようになり、休憩時間に会話する機会が多くなってゆく。

 

おねぇは地元出身。


園芸に関する専門知識を学び、地元にあるバラ農園に就職したと言う。


「自分のバラ農園を持つ」という夢を描いていたが…


その就職先でのうんざりするような人間関係に悩まされるようになったと言う。


日々、迫害されるような嫌がらせに合い、軽い鬱状態に陥り退職したとのこと。

 

 

「だからね…私には…もう何もないの。な~んにもね…」

 

 

口癖のように渇いた声で何度もそう言うおねぇ。


それを聞くたび、せつなさで胸が一杯になるの相棒。


夢を失ったおねぇに、パニック障害の男が説得力のある気の聞いたアドバイスなどできるわけもなかったが、意外にもロック好きな彼女に自分が若い頃から聞き続けている音楽の話をしたりCDを貸したりする。


おねぇも自分の好きなアーティストをいろいろ教えてくれたのだが…


やはり15違う歳の差の影響は大きく、そのほとんどが知らないアーティストばかり。


唯一、相棒が知っていたのは有名な力士と同じ名前の「キリンジ」だった。


だが…歳の差に関係のない不思議な共通点があった。


会話しているうちに……

 

それは「オリジナル・ラブ」の「接吻」という曲が、お互いの好きな曲の中にあったのである。

 

名曲とは色褪せることなく時代を超えゆくのだろう。

 

 

パニック障害で社会から排除された男と…

 

会社での嫌がらせで軽い鬱状態になり退職せざるを得なかった女…

 

上手に人間社会に馴染めず…

邪魔者としてはじかれたエイリアンのような二人に「不条理と戦う同士」として友情が芽生えはじめる。

2.自宅療養

薬のせいだろうか…


霧がかかったような意識の中を彷徨ような相棒の自宅療養がはじまった。

 

不眠症で夜眠ることがなかなかできないことから処方された睡眠導入剤


その薬のおかげで確かに眠れるのだが、強引に眠らされるせいか目覚めがとても不快。

しかし、自宅療養という仕事からの「強引な脱却」は意外な効果をもたらす。


「もう、あそこに行かなくていいんだ」

という思いが心のどこか一部分を開放し、療養3日目の夜には睡眠導入剤を飲まずに心地良い眠りに落ちていった。


何ヶ月ぶりの快眠だったろう…


相棒は夢も見ずに…本当にぐっすりと眠った。

 

睡眠導入剤は必要なくなったが、朝・昼・夕と日々、3回飲むの薬の副作用で食欲はなくなり痩せはじめ、日に日に体力と筋力が低下してゆく。

 

薬を飲んではいるのだが軽い鬱状態に陥ることがある。


すべてに悲観的…


トイレさえ面倒くさい…


社会から取り残されたようで…

「このまま死んでしまうのだ」と天井を見ながら漠然と思ったりする。

これといってすることもなく…

その日1日を…ただただぼんやりと生きるだけの毎日…


だんだん当たり前の日々が遠くなってゆく…

 

パニック障害は脳の伝達物質のイレギュラーが引き起こす病だが、精神のコアな部分にも大きな影響をもたらすようだ。

鬱状態のときは「死にたい」と思うものの、激しい発作を起こすと「死んでしまうかも…死にたくない」と思い、その矛盾を相棒自身説明できないのだ。

 

数週間後のある日。

 

軽い鬱状態の相棒はドクターに質問する。

 

 

「先生、僕は作詞作曲してバンドもやってるんですが…音楽や詩は現実逃避でしょうか」

 

 

相棒がロックに目覚めたのは小学六年生の頃。
父トシオに買って貰った質流れのモノラル・ラジカセの影響。
今もオリジナル曲中心のインディーズ ロック・バンド「50/50」でリード・ギター兼ヴォーカルを担当している。

 

 

「遠藤さん、それは違いますよ。音楽や詩は現実逃避ではなく芸術なのですよ」

 

 

ドクターのその言葉に、疲れきっている心が救われ癒されるようだったが…


すぐに「ああ、オレは、そんなこともわからなくなってしまったのか…」と、脳と心のバランスが崩れた自分への情けなさに悲しみの涙を浮かべた。

そんな相棒ではあるが心の調子が良い時もある。


ある日。


一緒にバンドをやっているドラマーから携帯にメールが入った。

 

 

「お加減いかがですか?少しゆっくりして、また音、出しましょう」

 

 

「今日は気分がとても良いです。日はまた昇りましょう。そして、花は咲き鳥達は歌い羽ばたこう」

 

 

そうロック詩人らしい前向きな文を相棒は返信したのだった。


そして、自宅療養をはじめてから1ヵ月が過ぎるころ。


予想通り会社は「病気による勤務不可能」を理由に相棒を解雇。


それも当然といえば当然。
失業者となってしまった相棒だが、自己都合による退職より失業手当の給付が早いのが救いだった。


薬を服用してはいるものの、いつも何かに見られているようで外出を嫌い避ける相棒。

特に人が多く集まる場所は苦手で、そう長くはいられない。


いつも飲む薬以外に処方されている発作止め薬を忘れた時が最悪で…

 

それはもう怖くて怖くて…


不安で不安で…


いてもたってもいられなくなる。

 

治る病気なのだろうか...

 

なぜか一生付き合うハメになりそうな気がする相棒だったが、それでも病はじわじわと回復しているようで、自主的に少しずつ薬を減らしてゆく。

 

速度の緩やかな回復…


社会復帰できないまま…


3ヶ月くらい経ったある日のこと。


予定通り病院に行くと、その日はあいにく担当のドクターが不在。

代わりの若い男性医師と話す。


それがまた心のこもっていない適当も適当。
今の心の状態や症状を「治りたい一心」で一生懸命説明するのだが…


「ふんふん」と頷くその医師の表情から見てとれる「それで?」「だから何?」…


明らかに「他人事」でしかない対応。


怒りにも似たうんざり感と医療機関への失望から、その日かぎりで通院を止める相棒。


この判断が最良なのかは解らないが…


もたらされた「通院と薬への依存を断ち切る」という結果は未来への変化につながり、また、「医師やカウンセラーとの相性が病気の回復を大きく左右するのかもしれない」という考えを知識として相棒に根付かせたのは確かである。


そんな自宅療養中の相棒の心を何よりも支えているのは妻ではない…


そう、元気に明るく笑うひとり息子。