ガヂヲ通信

思考日記のようなものです。

今まで遺影撮影を断ってきたけれど、、、

「写真は、その一瞬を永遠に」なんていうけれど、自分がちゃんと撮った人が亡くなるという経験を初めてした。
お亡くなりになった事実も含め、かなりの時間混乱していた。
 
今まで友人から「遺影の撮影をして欲しい」と言われることはあったけど、いつも曖昧な返事でなんとなく断っていた。
自分は無宗教というこだわりがあった。自分に嘘をついてお金のために撮影するのは嫌だったし、自分に嘘つきながら遺影撮影されたらいやだろうとも思った。
とはいえ、今は宗教に対して無知なところが良くないと学ぼうとしているし、そもそも遺影と宗教は直接的に関係がないことを初めて知った。
また、自分は長く一人暮らしだし、実家に遺影はなかったし、親戚の家に関しては記憶がない。
そんなこんなで遺影を残すというのがどういう感じなのかピンと来ないところがあった。
 
そんな自分が、今までの人生で「ある意味」で遺影写真を撮ったのは1枚だけ。
「ある意味」というのは映画の小道具としての遺影写真である。
 
先日亡くなられた俳優の宝田明さんの遺影写真。
監督からは「真顔のパターンと、笑顔のパターンの2つを撮って欲しい」と頼まれた。
そして、巨匠ゆえに、ほぼすべての現場スタッフが緊張している空気で、当然、自分もめちゃくちゃ緊張してて、監督の言葉とただ同じことを伝えるくらいしかできず、気持ちだけ頑張った。
宝田明さんは2つのパターンの依頼の期待に応えてくれた。
 
後日、宝田明さんのインタビューを読んで、自分が演じる人物の若い頃はこういう経験をしてきたんだと思うと話されていて、その想像力に驚いたことがある。
当たり前すぎるんだけど、本気で人間を創造したんだ。
後から思ったことだけど「真顔と笑顔の2パターン」というのは、こちらがあまりにも答えを出せてなかったんじゃないかと思った。せめて「真顔の写真をお願いします。念のため笑顔のパターンも下さい」と言った方がまだ良かった。
もっと言うと、遺影を撮影したい人の気持ちをあまり考えなかったし、遺影を撮影するカメラマンの気持ちもぜんぜん考えられていなかった(準備ゼロで急遽俺が撮影する事になったから多少しょうがないと思うけど)。
 
そして、ちゃんと「そういう撮影」をしたいと心のどこかに置きながら、「そういう撮影」ってなんだろうっていう?マークも同居していた。
むりやり言葉にするならば「まっすぐな撮影」という感じだろうか。まだ、明確に言語化できてない。
今まで友人から「遺影の撮影をして欲しい」と言われても断ってきたけれど、「そういう撮影」ができる場の一つなのかもしれないと思い、自分の心に小さな火がついた。
 
 
有料でやるのか無料でやるのか。
無料の方が純粋にやれるのかもしれないと一瞬思ったけれど、自分への依頼の理由が「無料だから」っていうのが本当の答えかもしれないという疑いを持ちながらやるのは不健康だから、やっぱり有料だろう。
もう少し、値段だけではなく、遺影というコンセプトの部分、撮影のテクニカルな部分、言語化できてない気持ちの部分など、いろいろ考える必要がある。まずは混乱気味の気持ちが整理できるのを待とう。