ゲーミングおかあさん

ゲームと歌とわたし

さようならジル

ジルが死んでしまった。夫のパーカーに頭をつっこんで、手をもみもみしながら寝ていたジルが、眠ったまま逝ってしまった。

年末から具合があまりよくなくて、1月の半ばには数時間におよぶけいれん発作を起こしたけれど、奇跡のような復活をとげてもりもりごはんを食べ、いいうんちをたくさんするようになり、最近はなんとなく「小康」のムードだった。ただ、おおもとの病気にアプローチしているわけではなかったので、「治る」という概念はなかったし、先手を打ちたがるわたしは家族にも楽観は禁物だと伝えていた。

数日前、なにか様子が変だなと思っていたら、どうやら目が完全に見えなくなったようで、定位置であるソファに戻れなくなってしまった。ひきずり気味だった右脚もほとんど力が入らなくなり、自力で立つのが難しくなった。

それでも、大好きなごはんは、ペースト状のものなら喜んで食べた。亡くなる数時間前までガツガツと。ざらっざらっと舌で皿をなめまわす音と力に命を感じたし、勝手に「食べているうちは大丈夫だ」と思い込んでいた。みんな気楽な感じで「ジルおやすみー」と言って撫で、それぞれの夜を終えようとしていた。いつも以上にゆったりとした空気が流れる、やさしい感じの夜だったのをくっきりと覚えている。

具合が悪くなって以降、夫はリビングでジルと一緒に、わたしは寝室で寝るようになっていた。でも、なぜかその夜は「わたしもリビングで寝る!」といった。自分でもなぜなのかよくわからないけれど、どうしてもそうしたいと思った。うきうきと楽しい気持ちで寝支度を整え、ひとしきりおしゃべりをしたりジルを撫でたりして、気づいたらぐっすりと眠ってしまっていた。

1時間ほどして、わたしを呼ぶ夫の声で目が覚めた。そして、ジルが息をしていない気がするといわれてがばっと起き、呼吸していないのを目視してジルの体に手を当て「ああ、でも心臓は動いている」といったほんの数秒後、唐突に拍動が消えた。「なんで!さっきまで動いていたのに!」といいながら、頭ではああそういうことなんだと理解した。

時計を見るともうすぐ2時になろうとしていた。「どうする?」「あたたかいうちに抱っこしたほうが」「そうだね、呼んでくる」といって子どもたちを起こし、事情を伝えた。それからの濃密な別れの時間は、鮮烈な印象としていつまでも残るだろうと思う。みんなでワンワン泣いて、思い出を語っては笑い、またワンワン泣いた。哀しみやさみしさがざぶんざぶんと押し寄せては、でも穏やかな最期でよかったと安堵するのを繰り返した。

ジルの不在はとてもさみしい。もう抱けないこと、撫でてあげられないことを考えると、とてもとてもさみしい。でも、落ち込むとかショックを受けるという感じではないのだ。不思議と。苦しむ期間は短い方がいいし、眠ったまま死ねるなんて最高だから。それに、心のどこかにあった「いつそのときがくるのか」という不安がなくなり、ホッとしているのも事実だ。強烈なさみしさと引き換えに、というのがつらいところではあるけれど、わたしたちは生きていかなければならないのだから、それでいいのだと思う。

それから、ジルとの別れをとおして、子どもたちの成長とか、思いやりの深さとか、想像以上のやさしさを感じる場面がたくさんあったことも記しておく。この数日間、顔を合わせるたびに声をかけあい、思いを語りあい、体調や心を気にかけあうやわらかい空気で家中が満たされている。

わたしたちの力だけでは、おそらくこんな家族にはなれなかっただろう。まだ幼い子どもたちのそばに寄り添って一緒に成長してくれたジルや、筋肉むきむきで愛嬌をふりまくナッツがいてくれたから、今わたしたちはこんな風にいられるのだと思う。ただただ、感謝の気持ちでいっぱいだ。

ありがとう、ジル。さようなら、ジル。にゃーん!

朝の空、という名前のブイログのようなもの

毎朝、空の写真を撮るようになった。せっかく毎日撮っているのだから、なにか形に残してみようと思ってブイログのようなモノを作ってみた。Twitterにのせるには時間が長すぎたのでこちらにひっそりと置いておく。

何も実になることは書いていないし、おもしろいことも書いていないけれど、お時間がありあまるときにのぞいてもらえたら嬉しいです。

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ざっと4000日

長男のサッカー人生が終わった。

サッカーをはじめたのは、小学1年生の6月。運動会の徒競走で何度も転び、泣きながらゴールした数週間後のことだった。休み時間にサッカーで遊んでいたとき、特に仲良しでもなかった子に「サッカーうまいじゃん、一緒にやろうよ」と誘われたのがきっかけだったそうだ。

突然「サッカーチームの体験に行きたい」と言われ、わたしも夫も目を丸くした。どうみても運動が得意そうには見えないのに。よりによってサッカー?ほんとうに?でも、体験入部から帰ってきたときのキラキラした目と、「思ってたより上手でびっくりした」と興奮する夫の顔をみて、ああこれはもう観念するしかないと思った。その日のうちにウェアやシューズを買い、翌週には正式に入部した。

あれから、ざっと4000日。はじまりと同じように、おわりを決めたのもやはり彼の強い意志だった。大学でも続ければいいのに。草サッカーのチームに入ればいいのに。まわりからはいろんなことを言われたようだけれど、本人は「ここまで十分やった。これからはサッカー以外のことも楽しみたい」そして、「日焼けをしない夏を過ごしてみたい」と言って笑った。

最後の試合に負けた後、ピッチには両膝をついて泣いている彼がいた。小学生のときも、中学生のときも、どれだけまわりが泣いていても泣かなかったのに。みんなが感動するような映画やドラマをみても、涙ひとつ流さないあの子が。顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。

先生やコーチ、後輩たちに囲まれて、たくさんの労いと励ましをもらっている姿を目に焼き付けながら、この場に立ち会えて本当によかったと思った。大変なこともたくさんあったし、3年になってからは怪我の治療とリハビリでつらい思いもした。でも、終わってみれば全部が思い出だ。よくがんばった。楽しかった。「みんなで寿司食って帰るからお金ちょうだい?」といって笑う彼の目は真っ赤だったけれど、あの日と同じようにキラキラしてた。

わたしたちは親だから、誰の目にも止まらないような小さな光でもちゃんと見つけられる。だからどうか、これからの人生も、自分のペースで、自分らしく輝いてほしい。なるべく笑顔で、なるべく楽しく。

とりあえず、おつかれさーん!

笑って泣いてそんな毎日を

9月から新しい仕事をはじめた。物書きではなく、他人が書いた文章の間違いを正し、よりよい表現を提案する仕事だ。ずっとそういう仕事をしたかったわけじゃないし、探していたわけでもない。たまたま契約を終える(正確にいうとお断りした)タイミングに、たまたま募集をみつけて、気づいたら応募していた。最初は不慣れなことばかりだったし、慣れてからもいろんなことがあったけれど、仕事がとても楽しい。チャレンジした自分を褒めてあげたい。

どの占いをみても変革のときだと書いてあった。来年は仕事も人間関係も大きく変わっていくと。占いは所詮占いなので、すべてを信じているわけではないし、どちらかというと答え合わせ的なものだと思っている。自分が感じていること、考え、願い、目標、迷い。ふと思い出したように読むのがわたしにとっての占いだ。ちなみに、読むのは石井ゆかりさんとしいたけ占いだけ。

ずっと同じところにはいられない。ずっと同じではいられない。笑って泣いてそんな毎日を、自分と大切なひとのために生きたいなと思う。ばいばい2021年。よくがんばったよい年だった。

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孤独が僕を育てていく

何かをみれば自然と感想が生まれる。頭で考えなくても、それはあたりまえのようにわいてきて、心のど真ん中にどーんとある。置きっぱなしにして通り過ぎることもあるけれど、どかさないと前に進めないようなときは、ツイッターでつぶやく。ツイッターは、わたしの中に置いておけないものを置くのにちょうどいい場所だ。

でも最近その場所がすこし、息苦しく感じていた。これはわたしの感覚なのだが、ツイートに多くのレスポンスがついてスレッド化しているものと、ぽつぽつとレスポンスがあるもの、レスポンスを求めていないようなものでは見え方が違う。芸能人や配信者など多くのフォロワーを抱えたひとのツイートは、タイムラインの中でもひときわ派手な色で目立つし、思わずぽつりとひとりごちたツイートは凪いだ水面のように透明だ。それらがタイムライン上でうまく調和するように、苦手なものからは離れ、たとえ自分とは違う色でもおもしろそうなら足してみる、など細かい調整をしながら整えているのだけど、おそらく最近はそれがあんまりうまくいってなかったのだと思う。

わたしは1つの視点にかたよって話が進んでいると、確かにそうみえるしそう感じるけれど別の角度からみたら違う景色がみえるかもしれないと思ってしまう。例えば夫への不満をつぶやいている人がいたとする。それをみて、実際にその場面にいあわせたわけでもないのに、全面的に話者である妻の味方をする人がいる。夫をこきおろす人もいる。もちろんそれが不満を抱えている人への優しさだということくらい、わたしにもわかる。解決することではなく、吐き出すことそのものが目的なのだというのもわかる。でも、わたしにはそれができないのだ。もしかしたら夫が100%悪いのかもしれないけれど、夫側の事情や主張も知らないままその話に入っていくことが難しい。話に入らなくても、見てしまえば感想が生まれるから、なるべく見ないようにする。そんな風に避けて通るものが増えてくると、少しずつ息が苦しくなるのだ。

そして、この息苦しさについて誰かに話すと必ず、「みんな腹の中ではいろいろ思っていても、それを言うとめんどくさいことになるから同調してるだけでしょ」と言われる。上司に話しても、友達に話しても、ほとんどそう返ってくる。言いたいことはわかる。でも、違うんだ。わたしは自分が理解できない行動を分析して理解したいわけじゃない。芽生えてしまった違和感を聞いてもらいたいだけなのだ。でも、結果的に、集団になじんだ行動もとれない、そこに違和感を感じることについての共感も得られない、ただただ人づきあいの下手さを思い知らされて終わる。それも、ぼんやりとした息苦しさの一因なのだと思う。

そうやって、やんわりとした息苦しさや生きづらさをときどき感じながらも、大きく調子を崩さずに済んでいるのは、完全に夫のおかげである。夫は、たぶん半分くらいは、わたしの気持ちをわかってくれている。もともと彼自身は「めんどくさいことになるから同調してるだけ」説を推す人だし、そんなのスルーしたらいいんだよと思っている人だけど、わたしがそうできないことを知っているから、とりあえずそうかそうかと話を聞いてくれる。そうかそうかと聞いてくれるから、話しているうちに散らばっていた思いがまとまって、すんと落ち着く。そんな風に話を聞いてくれるひとがいつもそばにいてくれることは、とても尊いことだ。孤独がわたしを育てていくけれど、安らげる場所は確かにここにある。とてもとても、尊いことだと思う。

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深い春の隅で

5年間不登校だった息子という増田を読んだ。親の気持ちはさておき、自分の意志を親に伝えて学校に行くことを決められたのが本当によかったと思う。まわりの意向ではなく、本人が言い出して、(親の力も借りつつ)本人が動き出せたのだから、こんなに最高なことはないよね。そのうえで先ほどさておいた親の気持ちを思うと、胸がきゅっとなる。勝手な想像ではあるけれど、ひとつ後悔という名前の荷がおりただろうなと思う。いやほんとうに勝手な想像なので、ぜんぜん違うかもしれないけど。

この増田を読んで思ったことを忘れないように書き留めておくと、やっぱりポイントはコミュニケーションなんだよなと思う。うまくいくときも、つまずくときも、元を辿っていくとだいたいコミュニケーションの問題に行き着くんだよなぁ。コミュニケーションの問題とひとことで言っても、内容は人それぞれなので明確な答えがあるわけじゃない。たとえば、美しく優しい言葉を使って人を不快にしたり攻撃したりしなければ誰とでもうまくいきそうだけど、実際はそんなことないよね。別の何かが逆鱗に触れて人間関係ぶっ壊れることなんてざらにある。

相手と自分のあいだを繋ぐのがコミュニケーションだとすると、その形は人によって変わる。あたりまえのことなんだけれど、多分そこがめっちゃ重要なんだと思う。相手をみる・相手を知る・相手を想うみたいなことをすっ飛ばして、自分のいいと信じる方法のみでゴリ押しコミュニケートしようとすると厳しいじゃん。だって、それがいいか悪いかを決めるのは自分じゃないから。ということはコミュニケーション力を上げたいなら、ある程度の経験値が必要ってことになる。そして経験から学ぶ姿勢と訓練、それらを底上げしてサポートする知識が揃うと、理由はわからないが人とうまくコミュニケーションとれない、みたいなモヤっとした状況からは一歩抜け出せるんじゃないかなと思う。専門家ではないので、あくまで自分はそう思うという話だけど。

わたしが人間関係むずかしーって悩んでいた思春期は、今みたいにオンラインでいろんな人と繋がる時代じゃなかったから、経験を積むことそのものがものすごく難しかった。ひとりっ子で周りには自分に関心のない大人しかいなくて、学校では浮きまくっていじめられたりハブられたりして、それでもなぜか異性にはモテるという偏りまくった環境の中で、独力でコミュニケーション力あげるなんて無理ゲーすぎた。その頃よりは知識も経験も学びもぐっと増えたと思うけれど、40過ぎてもまだまだ下手くそだし学ぶことばっかり。でも学びがたくさんあるのは伸びしろがあるということなので、きっとこれからもわたしは成長できるはずだ。てゆか、していきたい。

だから増田の息子さんも、コミュニケーションがうまくとれなくて人間関係で悩んでいる人も、自分を知って相手を知ろうとする姿勢、足りないものをカバーする知識を得ること、そして経験を積むことをやめなければ、今より良くなる未来しかないと思う。そのなかで自分の考えと合う人、合わないところもあるけれど一緒にいたいと思える人が見つかって、それが友達だったり家族だったり自分にとってかけがえのない宝物になるんだと思う。クソみたいなことばかりだったわたしでさえそうなれたんだから、きっとみんな大丈夫だ。

おなかすいた。

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