肉と野菜

少し前まで確かな自我を以って暮らしていたはずなのに、いつの間にか無くしていたらしい。ぼんやりした脳みそのかわりに重たい胃の感触だけが、はっきり輪郭を持っているので、少し前まで脳みそにあったはずの魂が、今は胃のあたりにあるのかも。少し前まで脳みそを使って書いていたはずの日記も、今は胃のあたりから吐き出されているかも。少し前まで左脳と右脳を上手につかってしゃべっていたのに、今は胃のあたりから編集の介在しないプリミティブな言葉がドロリと漏れてきて、口から出たあとのそれを拾って眺めてひとしきり感心する。週末の選挙には行きませんでした、週末の選挙には行きませんでした、非国民なので週末の県知事選挙には行かず1日中部屋の中におりましたが、わたしという人間の政権が脳みそから内臓に交代しました。上から下に移動しただけなので、鼻で笑った。
 
何年かひとりで暮らしているうちに、自我らしきものが芽生えた気になっていたのに、すぐに摘まれた。物語に摘まれた。 物語は人間を食らう。物語の中に自我を失った人間が突っ立っていると、見えない脚本にしゃべらされる。内臓からは自分のものではない、誰かが考えた大層なセリフが溢れて口から漏れる。めくるめく交代する目の前の人人人人に合わせて、与えられる役が代わる。物語は人間を食らう。物語は自我のない人間を食らうから、物語は自我のない人間を食らうから、ただの肉として生きることにします。
 
肉は煙草を吸いました。自由とは人間には過ぎたもので、過ぎた自由は人間に人間の想像力の小ささを知らしめるから、真っ白の巨大なキャンバスとRGB全部使える魔法の絵の具を画家に渡して「何か描け」と言ってもきっと泣かせてしまう。音を12個の等しい感覚で区切ることなく全部の音を使っていいのよ何のルールもないから美しい音楽を作ってみせろと音楽家に言っても気が狂ってしまい、ペンデレツキの不安そのもののような曲が世に生まれるのが関の山。ルールでしばってあげること、不便を与えてあげることは、人間の弱さに立脚したやさしさであって、何をしてもいい休日を与えられて部屋の中で何もしないことは、人間の生き物としての弱さと向き合い続けることと同じことではないか。火の付いたhi-liteの穂先をぼうっと眺めて、息を吸って肺から出した白い煙が排気口に吸い込まれて行く間にこれだけのことを考えました。息を吸ってゆっくり吐くのがこんなに楽しくやれるんですね。それだけのことですよね。
 
煙草の穂先から立ち上がる煙をぼーっと眺めて、肺に入れた煙が、いつかは揮発して無くなっていく記憶が、楽しかった記憶が、悲しい記憶が、嫉妬や後悔が、口の中から一緒にこぼれ落ちてく気持ちになって、それらが目の前の空気に混じっていくのを見ながら、ひとつひとつ別れを告げていった。愛してるから、愛しているから別れを告げた。

herbal healing

久しぶりに夜勤をして、それまで調子の良かった肉体は、まるで別物のように重く疲れて、果たして以前のように戻るのか、戻って欲しくて枕を変えてみました。テンピュールの枕に変えました。首の角度は15度がいいと何かで知ったから。そうして健康に良さそうなものを取り入れていけば体調が戻るのかと思い始めて、そうして何かを試してみたくなる性格だから、それがダメでも別に良くて、そしたらまた違う方法を試せばいいから。

家にものが沢山あるようになって、ごちゃごちゃして、生活の才能の無さを可視化されている状況で寝たり食べたりをするのは、いい加減辛くなってきたので、不要なものは処分していこうと思ってますし、そもそも絶対に必要なものとは何なのか。