人類は、複雑な金星の軌跡をどうやって解明したか

このエントリーは、以下のポストを膨らましたものです。

金星の運動は難しい

科学史を読み進めているうちに、古代人が金星の軌跡の説明に苦労したらしいことに気が付きました。例えば、古代ギリシャのカリポス(紀元前4世紀)は、師のエウドクソスの理論に満足せず、水星、火星、そして金星については、球を一つ追加してより複雑な理論にしています*1

火星や水星の軌道はいずれも円運動との違いが大きく、よって複雑な理論が必要なのはなんとなく理解できます。しかし、金星や地球の軌道、特に前者は円に非常に近いです(離心率0.0068および0.0167)。この二つの単純な運動の合成の説明に、なぜそんな苦労するのか?と訝しく思いながらも、深く考えることはありませんでした。彼らの理論の詳細は、不明な点があまりに多いからです*2

ところが、近代の初期になってケプラーが金星の太陽面通過を予測し損ねたことを知りました。ケプラーの天文計算ハンドブック『ルドルフ表』は、等速円運動を楕円軌道と第二法則で置き換え、特に離心率の大きな軌道を持つ火星と水星の理論で大成功を納めました。そのケプラーが金星の扱いではつまづいているのです。

ここまで来ても私の認識はぼんやりとしていたのですが、中国の漢の時代の惑星理論を扱った武田時昌氏の論考を読むに至って、さすがにこの問題を認識せざるを得ませんでした。

先秦の天文学では、…火星や内惑星の周期は正しく把握できなかった。…金星は兵事を司る軍神とされ、 地上に生起しようとする出来事に即応して自由な振る舞いをすると考え た(武田、2022, p.19)

(金星は)毎回パターンの異なる複雑な軌道を描くので、運行周期や速度変化を正確に算定するのは容易ではなかった。太白(金星:筆者注)の運行をどのように定式化するかは、天文暦学の理論水準を示す指標と言っていいだろう。(武田時昌, 2010, p2*3 )

幸い、平塚市博物館のウェブサイトにわかりやすい図がありました。
平塚市博物館

金星の複雑な軌跡。平塚市博物館の上記ウェブサイトより。

八年で五回サイクルを繰り返しますが、毎回全く異なったパターンをとります。

黄経の変化はわかりやすい

すでに述べたように、金星と地球の軌道は共に非常に円に近いです。さらに金星と地球の軌道面の間の角度はたったの3.31°ですから、金星の公転運動を地球の軌道面に射影しても、規則性はあまり変わりません。

これから(円運動に近い)地球の公転を差し引いたものが地上からみた金星の黄経の変化として把握されます。

よって、金星の地球から見た運動のうち、黄経にそった運動はそれほど込み入ってはいないのです。例えば、留などはほぼ黄経方向の変動だけできまりますから、このようなイベントに着目すれば、規則性の把握はずっとやりやすいはずです。

なぜ難しいのか~黄緯の問題~

問題の中心は、「黄道からの距離、すなわち黄緯の変動」です。先程、金星と地球の軌道面の傾斜は「たった3.31°」と書きました。しかし地球と金星は軌道半径が近く、非常に接近することがあります。このときには、地球の軌道面からの距離が大いに強調されて見え、場合によっては黄緯は10°程度にもなることがあります。これが金星の運動を複雑に見せているのです。

それから、「留などの黄経だけできまるイベントは規則的に見える」と述べました。ところが、金星は地平線近辺を動くことが多いので、地平線からの距離や、それによって決まるイベントが心理的に大きく印象に残ることになります。

金星の見かけの運行は、だいたい以下のような経緯をたどります。

  • 東の空に太陽に先立って現れる(Morning first appearance (MF), またはHeliacal rising)。

があり、その後しばらく明け方太陽が昇る前に見えることになります。そしてやがて、

  • 太陽の光に隠れる(Morning last appearance (ML))。

が訪れます。その後しばらく太陽の後ろに隠れた後、

  • 西の空に日没直後に現れる(Evening First appearance (EF), またはHeliacal setting)。

があり、夕刻に見え続けたあと

  • 太陽の光に隠れる( Evening last appearance (EL))

この後は、太陽の手前を回ってMFにいたります。

これら四つのイベントはいずれも、惑星と太陽の地平線からの距離が問題になり、黄経の他に黄緯も重要になります。

他の惑星でも、地平線との関係は印象に残るイベントを引き起こします。しかるに、木星土星の場合は、黄道からのずれは非常に小さく、決定的な影響を与えません。ところが、金星の場合は既に述べたように正反対ですから、黄緯方向の運動は決して無視できないのです。

地平線に関係したイベントは、古代中国でも注意されましたが、バビロニア古代ギリシャではことさらに重視されました。

プトレマイオスアルマゲスト』の最終巻でもこれらの現象を取り扱っていますが、その準備として惑星の黄緯の理論を展開しています。以前も書いたように、黄緯の理論、とくに金星と水星のそれは非常に難解で、あまり成功しているとはいえず、プトレマイオス批判の端緒となりました。しかし、中国では全く黄緯の理論に手がつかなかったことを思うと、むしろある程度の理論を作り上げたことを称賛すべきなのでしょう。
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どのように解明が進んだか

これ以降、どのように金星の運動が解明されたか、順を追って話します。
見通しをよくするために、何がどのような順番で明らかになってきたのかを大雑把に整理しておきたいと思います。ただし、古代バビロニアの理論の発展史は不明なことが多いですし、中国とバビロニアで同じ順序で事が進んだ保証もありませんので、飽くまでも目安です。

  1. 周期(会合周期)の発見
  2. 運行の定性的な把握
  3. 適切な座標系(黄道座標)を発見し、黄経に注目
  4. 黄緯も含めた理論の完成
  5. 地球からの距離の把握

なお昔の人々が、このリストの上から順番に解明を進めたわけではありません。例えば中国の先秦時代では、周期のほぼ正確な値が分かる前から、運行の定性的な把握は勧められていて、各々のフェイズが何日かかるかのかが『石氏星経』『甘氏星経』に書かれています。また、黄経のすぐれた理論を提示したプトレマイオスは、地球からの距離も推測しました。ただし、こういった「先走った」試みは成功せず、概ね上のような順番に沿って理解が進んだということです。

「明の明星」と「宵の明星」

ここで、「明の明星」と「宵の明星」の問題がありますが、数理天文学が成立するころには、両者の同一性は理解されていました。逆にその段階に至ってなかれば、定量的な理解などおぼつかないでしょう

素人の思いつきで両者の一致に気が付いた理由を推測すると、一つには、金星は明るさが際立つことが挙げられると思います。新月の日には金星影を作るほどで、他にこんな星はありません。なお金星は地球からの距離は大きく変化しますが、明るさの変動は小さいです。また、当たり前ですが東西に同時に現れることはありませんし、西で見えなくなってから東に現れるまでの期間は、かなり短いです。

周期の把握は難しかった

実をいうと、東西の明星の同一性の理解は周期の同一性に基づくのでは…と最初は思っていました。天体の数理的な理解でまず第一にくるのは、周期の計測ですから。しかし、実際には周期の把握は両者の同一性の理解より後になります。

まず、「周期」という言葉をきちんと定義しておきたいと思います。

  • 公転周期:太陽の周りを一周するのにかかる時間。ほぼ224.695日。
  • 会合周期:地球から見た時、太陽との相対的な位置関係が元に戻るまでの平均的な時間。ほぼ538.92日。

直接観測されるのは会合周期の方で、公転周期に相当する数値は、ギリシャ系の(天動説、すなわち地球中心説の)天文学で初めて出現します。

中国の場合でいうと、定量的な観測の対象になったのは、金星の運動の各段階の日数でした。例えば、MFからMLまでの日数などです。戦国時代の『甘氏星経』の遺文に*4「其恆二百三十日;其遲也,二百四十日。」と、通常の速さと遅いときの日数を両方書いてますが、この変動幅はかなり大きく、周期の把握を妨げたと思われます*5

もしも黄経だけに依存する現象を分析していれば、周期の把握はより容易だったと思います。しかし、定性的にわかりやすい切れ目、たとえば東の空に現れる瞬間などは、地平線との関係があって黄緯に依存してしまい、そのせいでサイクルごとに違った値になってしまうわけです。

ほぼ正確な会合周期が出現するのは、上述の前漢の馬王堆帛書の『五星占』で、「八年で五回サイクルを繰り返す」(八歳五出)とのこと。つまり、会合周期は1.6年≒584.4日。この通りだとすると、八年経ったのち、金星はほぼ公転軌道上のほぼ同じ場所に戻り、また次の八年は同じパターンを繰り返すことになります。実際には、八年経った後は-2.5度ずれ、会合周期は1.5987...年≒583.92日ですが、かなり良い近似といえます。

武田2010によると、このサイクルの発見においては、単純な整数比であることが幸いしたようです。当時は、「日月五星が暦元の年に同じ衆会していた」とする信念があって、そのためには単純な整数比が都合がよかったとのこと。このように非合理な仮定を土台にして発見された「八歳で五出」なのですが、一度発見されれば検証はぐっと楽になりますし、また値の精密化も進みます。

古代バビロニアでは、この「八歳で五出」は中国よりもずっと古くから知られていますが、発見に至る道筋を知る手掛かりはあまり残ってなさそうです。しかしSwerdlowなどは、やはり単純な整数比が発見の契機だったのではないかと推測しています。

黄経の発見(中国の場合)

ここで中国に話を戻します。前漢はじめの『五星占』のころまでに、単純な整数比を手がかりに周期を見出したことはすでに述べました。

惑星の運動を理解するには、周期の把握は出発点に過ぎません。まず、規則を見出しやすい記述の枠組み、すなわち黄経を見出す必要があります。中国の場合、ここにたどり着くにはいくつかの中間段階が必要でした。

まず、『五星占』の金星の運動論は当時としては洗練されていましたが、例えば逆行の存在を把握していないなど、定性的にも十分とはいえません。武田2010では『五星占』の理論の不自然さを指摘しますが、同時に

…地平線からの高度の変化を考えれば、天体の位置関係によっては、『五星占』に近似する現象が観察されることがある(武田2010、p.39)。

と指摘しています。つまり、適切な座標系を欠き、地平線との関係に引きずられた結果、適切な理解が妨げられたのでしょう。

『五星占』の金星

このあと、漢の武帝による太初改暦とそれに伴う一連の観測において、赤道座標を計測する渾天儀が導入されました。既に述べたように、本来は黄経を測ってこそ規則性は見えてきます。それでも、地平線と違って赤道と黄道の関係は一定であって、より秩序だった見方を可能にしたのだと思います。武田2010によると、赤道座標による三統暦(前漢末)の惑星の理論はずっと整っています。

Cullenは三統暦の理論を、当時のある年の金星の運行と比較し、非常によく現象にあっていることを確認します。しかしながら、黄道にそった計測ではないので、おそらく次のサイクルでは現象と合わなかったに相違ありません。

金星の赤経。三統暦と当時(10年11月13日から)の実際の値(現代の理論計算)

中国天文学黄道が着目されるのは、後漢以降のことです。Cullenは後漢四分暦で既に惑星の運行も黄経を用いているとしているのですが、三統暦の数値と余りに近いこと、『後漢書』に明瞭な宣言がないことから、私は今のところ判断を保留しています。しかし、どこかの時点で黄経に基づく理論になることは明らかです。

後漢四分暦と三統暦の金星の行度の比較

中国においても、MF,ML,EF,ELといった地平線に関係するイベントが理論の予測の対象となっていました。ところが、これらの予測に重要な黄緯の理論は、ついぞ作られませんでした。中国伝統天文学の総決算とでもいうべき授時暦においても、金星のこれらの現象の予測は誤差が大きいままでした。清初の有力な暦算家・梅文鼎は、西方天文学の利点の一つに、黄緯の理論を挙げています。

バビロニア天文学の理論

古代の数理天文学の最先端、バビロニアにおいても、エウドクソスと同じ頃には金星の理論は迷走気味だったことを知りました。金星は西の空に現れてから暫くは西に進みますが、あるポイント(留)で向きをかえ、太陽を横切って逆行して東側に姿を表ます。ところが、紀元前360年ごろに作成されたと思われる天文表BM36301の背後にある理論では、逆行する代わりに順行してぐるりと回って東の空に至るにです*6 。ただし、紀元前320年ごろのBM33552ではグッと現実的になるようですが、理論が成熟してくるのは他の惑星にくらべると、遅れるようです。

All presently known ephemerides of Venus appear to have been written after 200 BC so that the development of system A theory of Venus may have been a late development.(de Jong, 2019, Abstract)

バビロニア天文学では、古くから黄経に近い概念が用いられており、日月惑星の数理的な理論は良く整備されていました。ただ、あまりにも古すぎるゆえに、理論の形成史は謎の部分が大きすぎます。そもそも、どのようなデータに基づいたのかすら、議論が分れているくらいです。

バビロニア天文学で問題にしたのは、すでに挙げたMF,ML,EF,ELといった地平線が関係するイベントで、これらが生じる時間(日にち)や場所(黄経)が理論の直接的な対象でした。途中の軌道は、これを補間して計算されました*7

中国の場合と同様、バビロニアでも金星の黄緯が論じられることはありませんでした。そして、四種類のイベントごとに別々の理論を準備しました。中々良く現象にあっていますが、かなり現象論的です。

一方、木星土星、そして火星のほとんどのイベントにおいては、この黄経のみを用いたアプローチはより一貫したものになっています。特に、太陽の平均的な運動(平均太陽)と惑星の運動に相関を持たせているらしきことが、科学史家によって指摘されています。これは、地球の公転の効果に相当するわけですが、平均的な運動に着目した理由は、データの蓄積や精度の問題だと思います。

平均太陽の重視はギリシャ天文学では非常に明瞭で明らかになり、以後ケプラーによって否定されるまで続きます。

プトレマイオス理論の特徴

古代ギリシャでは、紀元前2世紀のヒッパルコス以降、バビロニアの数理天文学を吸収して新たな幾何的な理論を構築します。バビロニアと同様、ギリシャでは黄道に沿った角度(黄経)に着目して惑星の運動を追跡し、また平均的な太陽の運動(平均太陽)と関係づけて惑星の運動を分析しました。

ただし、バビロニアギリシャには幾つかの決定的な違いがあります。バビロニアにおいて黄経は天体の運動と強く結びついていて、純粋な幾何的な量ではありませんでした。一方、古代ギリシャにおいて黄経はまごうことなき幾何的な概念であり、黄緯とあわせて天球上の座標を構成していました。そしてこの幾何的な空間の上を走る軌道を、ギリシャ天文学は第一義的な対象としたのです。

特に、プトレマイオスアルマゲスト』では、黄経の理論をまず建設しています。つまり、黄経を分析の難しい黄緯やそれと関係するイベントとまずは切り離し、単独の幾何的な対象として理論家したのです。これは、黄緯が複雑な振る舞いを師、特徴的なイベントの多くがそれと関係する金星においては、ことさら効果的だったと思います。

一言でまとめるなら、理論を展開するための適切なリファレンスフレームを獲得したわけです。

プトレマイオスの金星の理論

まず、プトレマイオスの外惑星の理論を説明します。地球から見た惑星の動きには太陽の運動と連動した部分があるのでした。バビロニアと同様、プトレマイオスも太陽の実際の動きではなく、平均太陽の動きだけを理論に取り込みました。つまり、太陽と同じ周期で等速で自転する周天円を用います。これが導円という地球の周りを周回する円にそって動き、2つの円運動の合成で惑星の軌道を表現するのです。

地球も惑星もケプラーの法則により円運動からずれますが、その効果は導円の方に「エカント」を導入することで、まとめて補正されます。2つ補正を一つにまとめてしまっても、地球の軌道が十分円に近いため、十分な精度が出たわけです。

以上が外惑星の理論ですが、金星の場合もやはり導円と周天円を使います。ただし、軌道半径のより小さな金星の公転を周天円で表現します。そして、金星の離心率は地球の公転軌道に相当する導円の方に加算されました。幸い金星の離心率は地球よりもさらに小さいので、この処方がうまくいったのです。

以上が金星の黄経の理論で、簡潔な上に観測にもよく合いました。一方、黄緯の理論は、すでに他で書いたように非常に複雑でした。これは、「黄緯と黄経の分離」と「平均太陽への着目」といった方針の反作用でもあります。プトレマイオス理論を成功に導いたこれらの方針は、残念ながら次のステップに進むうえでは、障害になってしまいました。なお、現代の天文学では黄道座標ではなく、赤道座標系が標準です。

内惑星太陽周回モデルは、なぜ上手くいかなかったのか

水星や金星のような内惑星が太陽からさほど離れないことは、ギリシャでも非常に古くから着目されていました*8。古代の後期には、何人かの(必ずしも専門家とはいえない)学者たちが内惑星の太陽周回説を唱え、中世の前半の西欧ではメジャーな理論になります。
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後にコペルニクスなどがこれを拾い上げ、先進性を讃えていますが、古代から中世前期のこれらの説は、ついに数理的な予想を計算するための理論とはなりませんでした。これが何故ななのかはよくわかりません。しかし、仮にこの理論を用いて金星の位置を予測したとしても、次の理由で上手くいかなかったと思われます。

この理論では、まず太陽の軌道を精度よく出さないといけません。しかし、古代でもっとも精緻なプトレマイオスの太陽の理論も、以下の理由で目的のためには全く不十分でした。

  1. 理論の構造の問題。離心円のみを用いてエカントを導入していないので、距離の変動が正確に表現できない。
  2. パラメータの値が良くない。

まず1について。プトレマイオスの用いた「離心円」の理論は、地球から見た方位についてはケプラーの法則をよく近似できます。しかし、そのためには楕円軌道の場合よりも離心率を二倍にせねばならず、距離についてはむしろ歪めてしまいます。太陽単独の動きを見るだけならばこれでも問題にならないのですが、金星などの惑星の公転運動と合成する上では、大問題です。後にケプラーは楕円軌道に先立って、惑星の導円に用いられた「エカント」を太陽(地球)にも導入してこの問題を解消しました。

2.について。プトレマイオスの太陽の理論は、残念ながらあまり精度はよくありませんでした。近点軸(楕円の長軸に相当)も離心率も、どちらもベストな値から大きく外れています。これは観測の問題に加えて推定の方法(四季法)が悪いせいで、中世には大幅に改善されます。もしも古代にケプラーの法則が知られていたとしても、この値を用いていたら全然あわなかったでしょう*9

暦Wiki/アルマゲスト - 国立天文台暦計算室

しかし先ほど私は、プトレマイオスの金星の理論を、「太陽の軌道を表す導円にそって、金星の公転を表す周転円が周回する」と説明しました。これは内惑星太陽周回モデルと実質的に同じなのでは?と思われるかもしれません。例えば、導円を太陽の軌道そのものに替えたらどうなるでしょうか?

既に述べたように、惑星の導円は太陽の軌道と違い、「エカント」が導入されています。そこで、パラメータを適切に変換して(つまり離心率を半分にして)、太陽の理論のエカント版を用いたとします。実際、これに相当することが中世のアラビアでは一部行われていました。

アラビアにおける金星

中世のアラビアの天文学者たちは、インド由来のアルゴリズムを軸とした天文学から出発しました。後にプトレマイオス理論に軸足を移し、観測と計算技術を充実させました。

インド天文学でアラビアに入ったのは、ブラフマグプタ『Khaṇḍakhādyaka』に含まれる、アーリヤバタの「真夜中の体系」であるといわれます。この理論では、金星の導円と太陽の軌道は同じパラメータを共有していました。この特徴は、初期のアラビアのプトレマイオス的な理論にも引き継がれました。例えばバッターニやイブン・ユーヌスなどは全体的にははっきりとプトレマイオス流だと思いますが、この特徴に関してはインド的です。
http://dx.doi.org/10.1177/0021828618808877

では、このような理論は現象に合ったのでしょうか。これらの理論の日々の予測値を現代の理論計算と比較した結果は、私は見たことがありません。しかし、東方イスラム世界ではこのインド的な特徴は、10世紀ごろから急速に薄まってきます(なお、パラメータの値は更新されています)。恐らくは、『アルマゲスト』にある手順に基づいて観測値からパラメータを推定しなおした結果だと思います。

なぜ、観測とフィットすると導円は太陽の軌道と異なるのでしょうか。それは、導円のエカントによる補正が、金星の円軌道からのずれも取り込んでいるからです。地球の離心率も非常に小さいため、金星の微小な離心率の貢献も比較的無視できないのです。

なお、インドでは15世紀のケーララ学派においては、内惑星は「地球の周りを回らない」とされたといいますが、この展開は、先に述べたインドの理論の特徴と関係があるのだと思います。では、これらの理論の精度はどうだったのでしょうか。インドの場合は、エカントとは異なった方法で等速円運動を補正しますが、その方法は非常に込み入っており、今のところ私は(このような分析が出来るレベルでは)理解できていません。

中世後期の西欧

西欧におけるプトレマイオス的な天文学の始まりは、アンダルシア(現在のスペイン)のイスラム圏です*10。アンダルシアの天文学は、10世紀終わりくらいから東方イスラム圏と独立した動きを見せるようになります。その結果、金星の軌道要素のインド的な特徴も保存されたままでした。西欧に翻訳された『トレド表』や、それをさらに改善した『アルフォンソ表』は、いずれも大きな影響力がありましたが、やはりこのインド的特徴を保っています。『アルフォンソ表』はある時期まで、コペルニクスも参照しています。

地動説と金星

すでに述べたように、水星と金星は太陽の近辺から離れませんから、これらを太陽の周りを周回させる仮説は古くから決してマイナーではありませんでした。金星の太陽面通過の観測の報告は中世にもあるのですが(誤認とされています)、この現象に関心が払われたのは、この問題も関係していると思います。実際13世紀のマラーガの天文学者、トゥースィーなどは、この誤った観測結果から内惑星太陽周回説を否定しています。肯定否定はともかく、この仮説が決して忘れ去られなかったことは確認できるわけです。コペルニクス自身もこの説に言及していますし、インスピレーションになったこ可能性は十分にあります。

コペルニクスに関係していうと、彼はプトレマイオスの金星の理論の二つの不自然さを指摘しています。一つは、周転円の占めるボリュームがあまりに大きいこと。次に、黄緯を説明する理論が余りに複雑すぎることです。

コペルニクスからケプラー

プトレマイオスは、地球(太陽)と惑星の等速円運動からのずれの補正を各々の軌道に対して個別におこなわず、まとめてどちらかの軌道に入れたのでした。金星の場合は、地球(太陽)の軌道に相当する部分が、金星の軌道離心率も担っています。

コペルニクスは、プトレマイオスの理論を数機械的に変換して太陽中心説を得ました。その時、この補正部分は金星の公転軌道に何の変更もなく移されました。この項は当然、太陽(地球)と同じ周期で変動します。地球も金星も単なる一惑星であるのに、なぜか金星の運動のある成分は、地球の運動と連動するわけです。

これだけではありません。既に述べたように、プトレマイオスの黄緯の理論、特に内惑星のそれは極めて複雑でした。コペルニクスの理論も、あまり簡単になっていません。

以上の問題を解消したのがケプラーで、楕円の導入以前から、彼の理論は黄経も黄緯もすっきりとしていました。

Venus in Sole Visa ~太陽の中に見える金星

ケプラーの太陽系の理論は、極めてシンプルです。惑星は各々の軌道面にそって太陽を中心に運動します。この軌道をケプラーは当初は「エカント」を用いて、後には第一法則と第二法則を用いて記述しました。彼の理論は概ね良好な成果を上げたのですが、既に述べたように金星の太陽面通過を予想しそこねてしまいました。

エレミア・ホロックスは『Venus in Sole Visa』の中でケプラーの理論を精査し、地球の軌道要素、特に離心率と軌道半径に大きな誤差があることを突き止めます。離心率については、なぜかティコも17世紀の天文学者たちも、中々精度が出ませんでした。理由は色々と言われるのですが、近点軸は精度が良いので私は納得ができていません。距離については、そもそも手掛かりが少ないので、ティコですら古代の大幅な過小評価した値をそのまま採用していました。ケプラーはそれを大幅に改めたのですが、まだ足りなかったわけです。
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金星は、地球に非常に近いため、見かけの軌道を評価する上で距離の影響をまともに受けます。そこで、金星の太陽面通過は地球の軌道半径の導出の、非常によい手段を与えることになったのです。ホロックス以降、金星太陽面通過のたびに大規模な観測プロジェクトが組まれるようになり、地球の軌道半径がますます精確に計測されました。

付録: 黄緯の変化以外の困難の要因

その他の問題として、金星と地球の周期が比較的近いことが挙げられます。例えば、木星土星は地球の周期に比べて非常にゆっくりと動くので、逆行と順行のサイクルをしながら全体として少しずつ動いていく様が分かりやすいのです。これらの惑星の公転周期は、地動説など無縁の古代中国でも(意味合いは違えど)認識されていました。一方、地球と金星の周期の比率は5:3くらいで、両者の運動が程よく(悪く?)混ざって観測されます。

これらに加えて、内惑星であるゆえに、太陽に隠されて見えなくなる期間が長いことも、研究を困難にしたと思われます。金星が見えていても、周りの恒星が見えないと位置の計測は難しくなってしまいます(実際、金星は飛び抜けて明るいのでこのような状況はあります。)。古い時代には、近くにある恒星を目印に位置を定めていたからです。

付録:その他の惑星の難しさ

なお、他の惑星はどうだったのか?紀元前160年ごろとされる馬王堆帛書『五星占』では、木星土星に並んで金星の運行の理論が表の形で提示される一方、水星については大雑把な記述だけ、火星についてはそれすらも無いのだそうです*11。よって水星と火星、特に火星が非常に難しいことも、また間違い無さそうです。

ただし、メソポタミアの水星の理論の一つSystem A3は、既知の惑星の理論では最古(BC 423年-403年の天体暦を含む)で、精度もよいのだそうです*12

主な参考文献
  1. C. Cullen, Understanding the Planets in Ancient China: Prediction and Divination in the "Wu xing zhan", Early Science and Medicine, Vol. 16, No. 3 (2011), pp. 218-251
  2. Teije de Jong, A study of Babylonian planetary theory II. The planet Venus, Archive for History of Exact Sciences https://doi.org/10.1007/s00407-019-00224-0 (2019)
  3. Ossendrijver M., Babylonian Mathematical Astronomy Procedure Texts, Springer (2012)
  4. 武田時昌, 太白行度考-中国古代の惑星運動論(1) 2010 https://doi.org/10.14989/131791
  5. 武田時昌,漢代暦運説の形成と数理,2022

*1:アリストテレス形而上学』Λ巻

*2:エウドクソス・カリッポスの理論については、解釈の幅が非常に広いです。非常にミニマルな解釈をする人、逆に数学を駆使して、現象に近くなるようにチューニングした結果を提示する人など、様々です。大抵は両極端を排して、定性的な動きを大雑把な復元を目指したと考えているようです。バビロニアの数理天文学の影響を強く受ける前ですので、定量的に緻密な理論を展開する基礎は持っていなかったでしょう。

*3:引用では旧字体新字体に直しています。

*4:唐の時代の『開元占経』。これが古い時代の内容をとどめているか、武田2010で『史記』天官書との比較で検討しています。

*5:武田2010, p.16

*6:Ossendrijver, 2012, p.80, de Jong 2019

*7:かつては、途中の軌道にほとんど関心が無かったといわれていたのですが、これを計算する多くのテキストが多くあるため、研究者の見方も変わってきているようです。しかし、第一義的な関心が特徴的なイベントであったことは動きません。

*8:例えばヘラクレイトスなど

*9:なお円軌道の理論は楕円軌道の理論とは構造が似ており、両者の間でモデルのパラメータは綺麗な対応があります。

*10:古代において、ローマ帝国西半分で『アルマゲスト』が読まれた形跡は、今のところありません。古代のラテン語訳も見つかっていません

*11:Cullen, 2011

*12:T. de Jong,A study of Babylonian planetary theory III. The planet Mercury, Archive for History of Exact Sciences, 2021

黄緯の問題と地動説の誕生

入門的な天文学史では、近代初期の変革を惑星軌道の二次元的な形状の問題として語ることが多いと思います。

天動説(地球中心説)から地動説(太陽中心説)への変革の解説でも、ケプラーの楕円軌道(第一法則)や面積速度一定の法則(第二法則)の説明でも、軌道の二次元的な形状の問題です。

実際、惑星の軌道面たちは互いに傾いてはいるものの、傾斜は概ね3°以内で、水星でも7°です。ですから、軌道の形状の理解においては、その平面形の理解がもっとも重要です。

水星 金星 火星 木星 土星
7.01 3.39 1.85 1.31 2.49

しかしながら、惑星と地球の軌道面との距離、あるいは地球中心説的に見るなら太陽の軌道面との距離の問題は、近代初期の天文学の変革の重要な契機になっているのです。

プトレマイオス

よく知られるように、古代末期から中世の終わりまで支配的だった宇宙構造論は、二世紀に体系化されたプトレマイオスの理論でした。

地球から見たとき、惑星は太陽の軌道(黄道)からさほど離れません。このことから、古代バビロニア以来、惑星の運動の黄道に沿った方向、すなわち黄経の変化を主に考察していました。プトレマイオスの『アルマゲスト』の惑星の理論でも、ほとんどは黄経を扱います。

彼の理論については、「円を多く使って複雑だった」という俗説があります。しかし、これは黄経の理論に関して言えば、全くの濡れ衣です。円はたった2つしか使いませんし、しかも各々の円には意味があります。コペルニクスケプラーの理論と連続している部分も多く、非常に優れた理論といえると思います。彼の理論を受け継いで発展させた中世の天文学者らは、非常に正しい選択をしたと思います。

しかるに、黄道との距離、すなわち黄緯の変化を扱った『アルマゲスト』の最終章は全く様子が違います。彼はこの章を、問題の困難さを言い立てることから始めます。つまり、予防線ですね。極端なことを言うと、プトレマイオス理論の崩壊は、ここから始まると言ってもよいかもしれません。

計算も困難だった黄緯の理論

プトレマイオスの黄緯の理論は過度に複雑でした。特に、内惑星の金星と水星のそれは非常に複雑でした。これらは、中世の終わりの方まで計算することも難しかったのです。このため、簡便なインド流の理論に依存した天文表も多くありました。例えば、欧州で長く使われた『トレド表』などもその一例です(『アルフォンソ表』は『トレド表』の後継ですが、黄緯の理論はプトレマイオス流です。)。

欧州で内惑星の黄緯の完全な表を作ったのは、15世紀のビアンキニでした(先だって紹介したGlen Van Brummelenの論文を参照。
gejikeiji.hatenablog.com
The end of an error: Bianchini, Regiomontanus, and the tabulation of stellar coordinates | Archive for History of Exact Sciences
アラビア語圏では、14世紀のカーシーの表が最初になります。アラビア語圏については、以下の論文やそこに引用されている論文を参照。
Planetary latitudes in medieval Islamic astronomy: an analysis of the non-Ptolemaic latitude parameter values in the Maragha and Samarqand astronomical traditions | Archive for History of Exact Sciences

自然学との齟齬、マラーガ学派とコペルニクス

計算の困難だけでなく、理論上の問題もありました。彼は軌道面の振動という円運動の原則からは外れた手法を採用しており、自然学的な批判も浴びました。マラーガ学派などの中世のアラビアの批判者たちも、コペルニクスも、これらの黄緯の理論の問題をとりあげています。

系統的なプトレマイオス批判の最初はイブン·ハイサムだと思いますが、彼もこの件については複数の論考を表し、また二つの球の回転の合成で往復運動を近似しようとしています。マラーガ学派やコペルニクスプトレマイオスの理論の書き換えでいくつかの箇所で用いた、「トゥーシーの対円」という機構があります。これは2つの円運動の合成で往復運動を実現するのですが、トゥーシーの最初の動機は、黄緯の理論に現れる振動の説明にありました。

コペルニクスからケプラーニュートン

では、プトレマイオス理論を打倒したコペルニクスの理論はどうだったでしょうか。残念ながら、彼は軌道面の振動こそは取り除いたものの、複雑さは相変わらずでした。この複雑さは、彼の理論が基本的にはプトレマイオス理論の書き換えに過ぎないことが根本的な原因だと思います。

本来、惑星の黄緯の変動のメカニズムは非常に単純です。単に、惑星が太陽を回る軌道面が地球の軌道面に対して傾いているだけのことです。太陽を中心に軌道を書き換えても、なぜコペルニクスはこのポイントに気が付かなかったのでしょうか。答えは、彼の太陽系の中心が太陽ではなく、「平均太陽」という別の点だったからです。

「平均太陽」はプトレマイオスの理論に現れる概念で、一定速度で太陽の軌道を一年で周回する、仮想の点です。プトレマイオスは、太陽の運行の惑星運動への影響を理論に取りこむにあたって、速度を変化させながら動く真の太陽ではなく、平均太陽を用いたのです(末期バビロニアの惑星理論にもこの点は同じです。)。

質も量も限られたデータしかない状況では、このやり方は(結果的に)理に叶っていたと思います。しかし、平均太陽がコペルニクス説にも持ち込まれたとき、軌道の三次元的構造を見えにくくしてしまいました。

この平均太陽の問題に手を付けたのが、天文学者としてデビューしたてのケプラーでした。円軌道に手を付ける前の段階で、彼はまず運動の中心を真の太陽に修正しました(軌道は円軌道)。

この修正は幾何的な関係の見通しをよくしただけでなく、太陽の中心的な役割を印象付けました。ケプラーの第二法則は、太陽の影響力と距離の関係の考察から発見されました。第一法則(楕円軌道)は、誤差の多い火星の軌道のプロットを第二法則を手掛かりに補正して、初めて浮かび上がってきたものです。ニュートン万有引力ケプラーの着想の間の関係は、今更述べるまでもないと思います。

ケプラーと金星

ケプラーの新たな体系の出発点で、黄緯の問題を「真の太陽を惑星の運動の中心に据える」というエレガントなアイデアで解決してしまいました。これは、彼の一連の業績の中でも、もっとも早くから受け入れられたものであって、地球中心説論者のティコ·ブラーエも、その忠実な後継者ロンゴモンタヌスも等しく受け入れました。調べたことがないのですが、多分、イエズス会系の天文学者も同様だと思います。もっとも彼らは地球だけは固定し、地球の周りを巡る太陽のそのまた周りを他の惑星が回るのですが。

しかしながら、そのケプラーの名高い『ルドルフ表』は金星の緯度の変化をいまひとつ正確に計算できず、太陽面通過を予測しそこねてしまいます。この点はロンゴモンタヌスも同様で、ケプラーの計算より大きく外しています。予測に成功したのは、なんとコペルニクス流の理論を継承したフィリッペ・ファン・ランスベルゲでした。(この辺の評価は、ケプラーの次の世代のホロックス"Venus in Sole Visa"の評価をそのまま書いています。)ケプラーの『ルドルフ表』は当時、検討が進むにつれ綻びが表れ、ケプラーの理論にいくつもの修正案が提示されることになりました。

一見小さな黄緯の問題は、パラダイム変換の隠れたツボだと思います。

補足 インドの黄緯の理論

インドの伝統天文学は、ギリシャ天文学の影響を強く受けていますが、プトレマイオス以前に分岐したと思われており、様々な違いがあります。今回話題にした、黄緯の理論も大きな違いがあります。

インドの理論も、惑星の運動には二つの円を用い、これらを傾けるだけで黄緯の変化を説明します。この考え方は、まあケプラーと同じといえば同じでありますが、ここで厄介なことがあります。一つには、インドの理論の性質の問題。ギリシャにおける幾何的なモデルは、本当にその図の通りに天体が動きます。しかるに、インド流の理論はちょっと違います。どこかで一度まとめたいのですが、計算のための手段のような部分があり、中々意味を把握しずらいです。よって、同じ土俵で比較してよいものか。

それから、計算方式はやはりプトレマイオス流よりもずっと簡略で、中世のアラビアや欧州でも屡々使われました。

精度に関しては、計算して比較したものを知らないのですが、より複雑なプトレマイオス流の理論が淘汰されなかったことを思うと、そんなに良くなかったのではと思っています。

補足 中国の場合

中国の現存最古のまとまった暦『三統暦』(紀元前後ごろ)の惑星理論は、赤経の値を理論にまとめています。これで良い予測が出来たとは思えず、どこかの時点で黄経の理論に移行しています。Cullenなどは後漢四分暦をその最初としているのですが、暦のどこかに明示的に書かれているわけでもありませんし、賈逵論暦で宣言されているのは、「臣前上傅安等用黃道度日月弦望多近。史官一以赤道度之,不與日月同。」と太陽と月が黄道に近いと言っているだけで、惑星については判然としません。また、武田「太白行度考」に、金星について後漢四分暦と三統暦の数値を重ねてグラフにしたものがのっているのですが、両者の違いは小さく、黄道にそって計測しなおしたと断言できない気がします。しかし、隋の皇極暦では明瞭に黄道に沿った旨が書かれていますし、『宋書』天文志では黄道にそって惑星を配置した渾天象の製作が記されています。

では、黄緯はどうか。中国では、残念ながら黄緯の理論は出てきませんでした。北宋の技術官僚の沈括『夢溪筆談』象数二で、

曆家但知行道有遲速,不知道徑又有斜直之異。

と文句をのべ、「太史令だったとき、観測を命じて新たな理論を作らせたが、施行されなかった」と嘆いています。しかし、天球面上の軌跡だけを考察して、果たして黄緯方向の複雑な動きを精度よく説明できたのかどうか。

その後、明の初期にイスラム系の回回暦が編まれ、これには黄緯の理論があります。また、明末清初、つまりちょうどケプラーのころにイエズス会を介して、西洋天文学が入ります。この時主に参考にされたのは、ティコやロンゴモンタヌス、特に後者の"Astronomia Danica"だと言われています。これの黄緯の理論をまだ理解できていないのですが、清の康熙年間の『暦象考成·上中下編』の黄緯の理論は、比較的わかりやすいです。このあたりも、いずれきちんと精査して書きたいと思います。

古代バビロニア

まず、古代バビロニアにおける「獣帯」について述べておきたいと思います。

  • 図があるわけではなく、言葉による描写
  • 黄道近辺の日月惑星の運行する帯状のエリアを「獣帯」とした。
  • 中央に「黄道」と思しき線が走る。日月の理論の場合は、これは明らかに太陽の軌道。
  • しかし、惑星の理論の場合は太陽が陽に現れずなんとも言えない(否定肯定両論ある)。
  • 黄経方向は角度で。「黄道」からの距離は「キュビット」「指」など長さの単位。

そして、黄緯の計算を露わにやるのは、月以外は例外的です。

メモ;ボエティウス『音楽教程』の解説を読んでみた

講談社学術文庫から、ボエティウス『音楽教程』の邦訳が出ました。

音楽といっても、この本においては音楽的な実践の位置は低く、数理科学の一分科なのです。私の音楽理論史への興味(といって何を読んだでもないんですけど)もそちら方面のことで、特に比や比例、数と量の関係がどんなふうに扱われているかを知りたいと思い、手をとったのです。

今のところは、そのあたりを読み込むまでにいかず、解説を読んで本文の最初の一章を読んだところで、MPがきれてしまいした。次にこの本に手を伸ばすのはいつになるかわからんので、印象をメモします。

  • 若い頃はアテネで学んだらしい。

なお、英語のWikipediaで見ると、これはCassiodorsの手紙が根拠でらしい。アテネ留学説に対してアレクサンドリア説やそもそも留学なんかしてない説もWik書かれていました。割と重要なことだと思うので、いつか掲げられた参考文献をよめたらよいな…と思っています。いずれにせよ、ますます希少になりつつあった高度なギリシャ語の能力は、彼の重要な武器でした。

  • ボエティウスの『算術』は、ニコマコス『算術』のラテン語化らしい。『幾何学』は残っていない。『天文学』は書かれたかどうか不明(計画はあったらしい、と別の何かで読んだ)。『音楽教程』の第二章まではニコマコスの失われた音楽理論書によるのでは、との推測もあるらしい。

なお、ニコマコスのこの本は、数論とか数列、平均(中項)など、「高尚な」話題が多く、『九章算術』などとはスコープがずれています。つまり、算術という分野の意味がちょっと違う。一方、より実際的な算術として、ロジスティクスという分野がありましたが、著作としてはのこっていません。

  • 数理科学に4つの分野をあげた。

すなわち算術、音楽、幾何、天文。『音楽教程』の最初の方にでてくる。後の中世の大学の自由7科には、これら4つの数理科学、があげられている。

なお、古代では数理科学的な学問としては、このほか上記のロジスティクスや、視学(幾何光学に似た幾何学的な視覚論)、機械学(ヘロン、パップスなど)などを上げることができます。

ボエティウスがこれらを主要な科目に上げていないのは、いくつかの可能性があると思いますが、多分、視学は幾何または天文に従属させ、残りは数理科学としては認めない。。。といった感じではと思います。

  • 第一章の最初に感覚についての簡単な記述。アリストテレス形而上学』第一巻の出だしを思わせる。視覚はすべての動物に備わっていること。視覚の理論が、形相の流入と視線の流出の2つにまとめられているのが印象的。

古代で流入説といえば、ほぼ原子論者のエイドロンの流入の理論ですが、一部のアリストテレス注釈者(アフロディシアスのアレクサンドロス、ピロポノス)はアリストテレス的な「色」の流入説です。また、古代の文献では、目からの流出の説が非常に優勢で、2つか3つくらいに分類されることが多い(アレクサンドロスとかは違うかもしれません)。よって史家の中には、それら説を「流出説」とまとめるのはアナクロニズムだという人もいます。このボエティウスのような二項分類は珍しいです。

まあ新ピタゴラス主義の影響かと…

  • 第二章は煩雑は比の議論。ボエティウス自身も章を閉じるにあたり「煩雑なのでこのへんで」と終わる。

「煩雑」の一端は、比率を扱う独特の数理も原因だと思います。なお、本解説で比の合成のことを「足し算」としています。これは、現代でいえば比の値の掛け算に相当します。古代におけるイメージは足し算に近いとされますが、そもそも演算としてすら考えられていなかった操作です。このあたりのニュアンスがボエティウスで変わっているならば、適切な語法だと思います。

  • 第三章ではモノコード(一弦琴)の分割を扱う。プトレマイオスや(たぶん偽)ユークリッドに依拠。アリストクサネスの非数理的な議論には批判的。

図をみると、モノコードの弦を支えるコマが半円だが、これはプトレマイオスによる工夫です(水平に作成できていなくても比率が歪まない)。

  • ピタゴラスが鍛冶屋の前を通ったとき、槌の重さと音の高さの関係に気がついた」という例の逸話を中世欧州に広めた犯人はこの本。(最古の文献は、ニコマコスだっけ)

この解説では、「重さなんか関係ない、こういう根拠のない説を無批判に引用するから中世はだめなのだ」的なことを、かなり強い調子で書いています。

叩く力と振動の周波数の分布が本当に無関係かどうかは傍に置くとして、確かに、ピタゴラス学派の説は振動部の長さと音高の関係の説なので、このような逸話とは噛み合いません。また、中世は,やたらと古くからの言い伝えを繰り返す時代ではありますが、この解説のようにベーコンの「劇場のイドラ」と絡めて非合理性をなじるとなると、ちょっと行き過ぎではないかと思います。現代の科学の教科書でも、辻褄の合わない発見史を導入の枕にしたりします。

また、本解説ではボエティウスの継承に留まり続ける中世の音楽理論、特に比と比例の衒学的な議論に基づく正当化の不毛さを、これでもかと強調します。ここは非常に印象的で、学びが多かったなと感じる部分です。

しかしながら、近代以降の学問と中世の学問を対比するにあたって、F.ベーコン『新オルガノン』の帰納法を非常に重視し、それ意外の要素に全く触れていないのは、あまりバランスが取れているとはいえないと思うのです。近代科学の形成に関する様々な議論が、ほとんど無視されているような。

解説では、中世までのボエティウス的な理論と近代以降のラモーやダランベールの議論と比較されているのですが、この違いの原因も、帰納法の重視がとにかく強調されています。しかし、ダランベールもラモーも当時の最新の物理学のお世話になっており、そして物理学の発展は帰納法の重視だけでは説明できません。

それから、本解説で音律学が停滞していたとする時代、他の学問は(中世の前半を除くと)必ずしも停滞していません。停滞には、音律学そのものの特殊な事情があるのではないかと思います。

メモ:『雪華図説』以前のこと


土井利位『雪華図説』(1832年)が『北越図譜』に引用されたことが、雪華文の流行を引き起こした…という話を聞くので、この前後で雪華や雪輪文がどうかわったのか検索してみようかと思いました。昨晩、文化遺産オンライン*1で「雪華」を検索したところ、いきなり東京国立博物館蔵の『雪華文七宝鐔』がひっかかりました。

『雪華文七宝鐔』東京国立博物館https://webarchives.tnm.jp
『雪華文七宝鐔』の図柄はどこから来たか?

この紋様は、あきらかに雪の結晶の顕微鏡観察をベースにしています。『雪華図説』の影響の良い例…と思って年代を確認したところ、なんと文政11年(1828年。)。つまり、『雪華図説』より全然前です。まだまだ土井利位が『雪華図説』の元となるデータを集めている途中です。

あるいは『雪華図説』の出発点となった、J. F. Martinet"Katechismus der natuur" の第一巻(1777年)を参考にしたのでしょうか?

J. F. Martinet "Katechismus der natuur"

しかし、この書物に出ている雪の結晶図は、上に掲げたもので全てです。詩的なイマジネーションでふくらませたのかもしれませんが、若干足りない気がします。

『雪華図説』以前、公刊された雪の結晶の描画といえば、司馬江漢(1747-1818)の版画「雪花図」です。

司馬江漢銅版画 [雪花図]、京都大学付属博物館蔵https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013554

しかし、これにデカデカと書かれている、12および24の枝をもつパターンが『雪華文七宝鐔』にはありません。

何か未知の情報源を設定するのか、『雪華図説』の元となったスケッチが先行して一部回覧されていた可能性を考えるのか?あるいは、乏しい情報源から芸術家の想像力で補ったか?

司馬江漢の情報源は?

また、司馬江漢「雪花図」も中々興味深い一枚です。

  1. 十二や二十四など、六の倍数の枝が可能だとする
  2. 針状や柱状、不定形の結晶も描いている
  3. 「蘭書マルチネト」が情報源

1については、私は中国の伝統説から派生したのではと思います。前のブログで述べたように、このように「数」に着目した説明は、中国の伝統的な理論です。欧州ではどこかしら幾何的な要素が入ります。
gejikeiji.hatenablog.com

2について。この銅版画を江漢自らの観察記録か、とする説明をしばしば見るのですが、こういった「美的にはぱっとしないが自然科学的には重要」な観察は、自然科学的な深い問題意識が必要となると思います。江漢本人が観察したにせよ、やはりガイドとなる書物があったはず。

そこで3で指摘した「蘭書マルチネト」が注目されるのですが、上述の土井利位も依拠したJ. F. Martinet,"Katechismus der natuur"なのでしょうか?しかし、これには針状や不定形の図はありません。図だけでなく、テキストをGoogle翻訳で英語に直して読んだ範囲では*2、雪の結晶のバラエティーの多さ(400以上)と美しさへの賛美があるのみです。この書物からは、針状や不定形の観察をしようという動機は出てこないと思います。そもそも、江漢は欧州の言語を学術書を読解できるレベルで学んではおらず、蘭書を見たとしたら図版でしょう。

もう一つの候補として、

という旅行記があり、その中に雪の観察記録があるのです。(中谷宇吉郎は、最初こちらを土井利位の参考文献だと思ったようです。)

Spitzbergische oder groenlandische Reise Beschreibung gethan im Jahr 1671.

針状、不定形がこちらには載っています。しかし、こちらが日本に輸入されたという話は、今のところ聞きません。引用そのほか、間接的なアクセスが可能だったか、あるいは全然的外れか。

*1:https://bunka.nii.ac.jp/

*2:形状について言及している部分はオランダ語文もチェックしたので、大きな見落としはないと思います

六花と雪の結晶の贈り物

私が雪の結晶に興味をもったのは、高校受験の勉強をしていたときに、肉眼でも意外と見えるのだという短文を読んでからです。その年の冬はたまたま関東地方にも寒波がやってきて、受験の帰り道にマフラーについた雪片は、解けかけで透明にはなっていたけれども、しっかりと六つの枝が識別できました。

顕微鏡が要らないわけですから、雪の結晶の観察は前近代から始まっています。今も六角形の結晶を「六花型」といいますが、古くから中国では雪の結晶を花にたとえて「六花」「六出花」「六出」などと言っていたのです。一方、ヨーロッパではケプラー上着の裾に舞い降りた「星型」の雪の結晶を見て、友人に小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)を献呈することを思いつきます。日本においては、幕末の土井利位『雪華図説』がこの方面の草分けであり、また一流の物理学者で啓蒙家でもあった中谷宇吉郎の著作を通じて、雪の結晶はポピュラーな科学のトピックとなりました。私も高校生時代に中谷宇吉郎『雪』(岩波新書)を古書で購入した記憶があります(長らく積んだままでしたが)。

今回は、このあたりの経緯を主に中国科学史の巨人ニーダムらによる1961年の論文に依拠して書いてみたいと思います。この論文が書かれたのは中谷の死の少し前で、彼の”Snow Crystals, Natural and Artificial”も引用されています。
https://doi.org/10.1002/j.1477-8696.1961.tb02589.x

雪の結晶

まず、雪の結晶について基本的な事実を確認しておきます。

  1. 雪の結晶には様々な形状がある。柱状や針状、乱れた方向に枝がのびるもの、全くの不定形など。
  2. どの形状になるかは気温や湿度に依存する(中谷宇吉郎の「中谷ダイヤグラム」)。
  3. 肉眼で形状が確認できるほど結晶が育つとは限らない。
  4. 破損したり解けたりしやすい

よって、気象条件に恵まれた地域れあっても、対称性が明らかでなかったり、崩れたりしている雪片の方が多いのです。このように「雑音」の方が多い観察例から六方晶系を抜き出し、本質を指し示す典型例とするためには、多少なりとも自然の規則性への信頼が必要になると思います。ところが近代前半までの物質理論は大層お粗末で、「正しい理論」を提供することはできませんでした。つまり、雪の結晶の対称性は誤った思い込みに導かれて発見され、事後的な観察の積み重ねで理解が固まっていったのです。

私は計画的な観察はしたことはないのですが、機会が有れば袖に雪を集めては目を凝らしています。しかし、図鑑にあるような立派なものは、大寒波の到来でもなければ、関東地方ではまず見かけません*1。カナダの内陸部や米国の東北部は随分と寒くなりますが、それでもそんなに綺麗な結晶が見れた訳ではありません。肉眼での観察は可能とはいえ,その気になって待ち構えないと見逃してしまうと思います。高校時代、自分の肉眼の観察を話しても信じてもらえず、クラス全体から笑われたこともあります。

近代初めまでの西方

ニーダムらによると、古代のヨーロッパでは「かなり丁寧な調査にもかかわらず」、観察の記述は見つかっていないようです*2。ただし古代人が雪に関心がなかったわけではなくて、アリストテレス的な気象論には雲や雨を含めた包括的な理論があります。

中世になると、ギリシャ系の学問はアラビアで発展します。「知恵の館」の中心人物のキンディー(9世紀)はアリストテレス的な気象論を論じ、占星術による予報もしました。Lettnickzによると雪片の形成の過程にも興味をもって、若干のコメントを残しているそうです。

These snowflakes have an elongated form because the wind freezes them together. This kind of snow is called zamharīr. (Lettnickz, p.110)*3

とりあえず形状の観察はしているのですが、単に長いという以上は(少なくともLettnick氏の紹介では)語っていないです。針状の結晶のことを指しているのでしょうか。また、イブン・シーナーの系譜を引く哲学者Abū l-Barakāt al-Baghdādī(12世紀)は、雹を球形としていて、これは多くの雪がくっついて丸くなったのだとしています(p.114)。私は当初、古代に雪の結晶の観察が無い理由を気象条件のせいかとも考えたのですが、これらバグダット近辺で活躍した学者の仕事を考えると、それだけではなさそうです。

12世紀以降、ギリシア・アラビア系の学問がヨーロッパに流入します。キンディーらの占星術的な気象学も紹介されました。ニーダムらによると、アリストテレス的な学問の導入に熱心であったアルベルトゥス・マグヌス(13世紀中ごろのスコラ学者)が雪の結晶の最初の観察者らしく、アリストテレス『気象論』第一巻への注釈の記述が紹介されています。

アルベルトゥスは雪の結晶は星型(stella figurae)で、そのような規則的な形状は2月と3月にのみ観察されると考えていたようだ。

「星形」という言葉は、現代でも欧州では雪の結晶の形状を指して使われています。ただし、アルベルトゥス自身によるこの言葉のパラフレーズは無さそうです。なお、「2月と3月にのみ」の部分は妥当かどうかは分からないのですが、冒頭述べたように、綺麗な結晶はいつでも観察できるわけではありません。

いずれにせよ、アルベルトゥスの手短な記述は歴史的には孤立していて、次なる雪の結晶への言及は、オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)になります。本書は短い一章を割いて雪片の形状を論じており、下に掲げる挿絵は当時広く参照されたようです。あまり実際の雪の形状に近くはないものの、様々な形状があることは的確に表現されていますし、ひとつだけ星形が混じっています。

オラウス・マグヌス『北方民族誌』(16世紀中ごろ)
ケプラー問題

結局、ニーダムらは最初の規則性の明瞭な認識をヨハネス・ケプラーの小冊子"Strena Seu De Nive Sexangula" (新年の贈り物: 六角形の雪について)*4に帰しています。

ケプラーが友人のWacker von Wackenfels*5への贈り物に迷んでいるある日、たまたま雪片がコートに舞い降ります。六角形で羽毛のような突起を伴う雪片を目にした彼は、これこそが数学者からの贈り物としてふさわしいと決めます。

この洒落た導入のあと、彼は蜂の巣など自然界の規則的なパターンに思いを馳せた後、雪の結晶の形状を説明するため、水の粒子の配置を考察します。その際に現れる球状の粒子の詰め込み問題が、かの有名な「ケプラー予想」のネタ元です。つまり、一番かっちりと詰め込まれる配置に粒子が並んだ結果、六角形になるのだというわけです。
Kepler conjecture - Wikipedia

球体の詰め込みの考察

このように、本冊子では「六角形の理由」は考察しますが、「六角形であること」を納得させようと努力している箇所はなく、むしろ前提となっています。この頃の北西ヨーロッパでは、この事実は(ある程度)既知だったのでしょう。

ただし、実際の雪の結晶のすべてが「六角形で羽毛のような突起を伴う」わけではありません。彼は「最初に落ちてきた時には」と留保をつけているので、それ以外は乱れた結果だと考えていたのでしょう。しかし、彼はそれ裏付ける組織的な観察結果を提示していません。形状の記述もあっさりとしており、図もありません。つまり自然科学の基礎であるところの、観察の整理や記述の部分がかなり甘いのです。理論に関しても、アイデアの煌めきは感じるものの、当時の物理学の状況では多くを期待できるはずがありません。

つまりケプラーは、幾何学的な秩序への盲目的な信頼を梃子に、雪の結晶の真実にたまたま接近したわけです。ただすでに述べたように、こういった思い込みは、この段階にあっては不可欠だったと思います。また、すぐあとに続いた17世紀欧州の一連の研究によって、ケプラーの観察の弱点はかなりの程度補われました。

中国での最初の言及

ここで話を中国に移します。南北朝時代の『宋書』によると*6

大明五年(461年)の正月元日、宮廷から下がった右兵衛将軍·謝莊の衣に花雪が舞い降りたので、戻って報告したところ、帝はそれを瑞祥とし、皆で花雪詩を詠んだ。(『宋書』符瑞下*7*8

撰者の沈約は続いて『詩経』の文言の訓古学的な考察を加え、最後に

草木花多五出,花雪獨六出。(草木の花が五枚の花弁を持つが、花雪は六枚)

と結びます。このように、伝統的に中国では雪を植物の花と同列に見て、植物の花の花弁の数を五、雪は六だとしました。そして、「六出」は雪片の形状の別称のようにもなっていました。

この伝統的な説の起源をニーダムらは紀元前2世紀の『韓詩外伝』の断片

凡草木花多五出,雪花獨六出,雪花曰霙。

に求めます。上で引用した『宋書』符瑞志の文とほぼ同一で、またずっと古いです。この断片の初出は『芸文類聚』天部下・雪(唐の初期)で*9、以来、『韓詩外伝』の一節として認知され続け、今日でもそれで通っています。ただ、最近の論文Kink2022でも同様ですが、現行の十巻本には含まれていないなど、若干の不安要素も指摘されています*10

真正性に関する小さな疑問もさることながら、私がより気にするのは、『韓詩外伝』の一節が(アルベルトゥスの記述と同様)時代的に孤立していることです。書籍の残存の比率の問題もあるのでしょうが、「六出」の用例がある程度の頻度残っているのは、やはり南北朝時代以降です。(具体的な例については、付録を参照してください。なお、南北朝時代まで下げたとしても、圧倒的に世界最古です。)

ニーダムらはこの「草木花多五出,雪花獨六出」を素晴らしい観察だとほめたたえるのですが、Kink 2022は五行説の役割を指摘します。つまり、「五」は五行の「土」に、「六」は「水」に対応するからです。ここで前者の対応は「生数」、後者は「成数」です*11。冒頭に述べたように、思い込みをもって臨むことと観察による帰納は矛盾せず、むしろ相補的なものです。私が思うに、仮に「水の成数」が六でなくても、数字をいじって説明を捻りだしたのではないでしょうか。数秘術的な思考のポイントは、「ある現象にある定まった数が対応する」という信念だと思うので。

この説をケプラーの説明と比較すると、幾何的なイメージが著しく弱く、「数」だけで議論が閉じています。そもそも「六出」という記述にしてから、「出」の数しか語っていないのです。また、ケプラーは雪を無機物として扱っているのですが、中国では草木の花と同列に見て「雪花」などと称しいます。

性理学と博物学

既に述べたように、南北朝以降、「六出」の用例はある程度の頻度見られるようになります。しかし、宋に入るまでは文学的な表現にとどまっています。しかしニーダムらの論文によると、12世紀後半(つまりアルベルトゥスより一世紀弱前)南宋の性理学者の朱熹朱子)は雪片の形状の原因について、壮大な自然哲学に裏打ちされた論考を残しています。以下に『朱氏語類』の該当部分を山田1963, p.231の訳文で引用します。

雪の花が必ず六弁になるゆえんは、おそらく霰がおちるとき強い 風に打ち開かれるから、六弁をつくる(成六出)だけだ。たとえば、ひとがどろどろの泥団子を地面に投げると泥はは必ずまわりへ 走って稜弁をつくる。六は陰の教でもあり、大陰玄精石も六稜である。おそらく天地自然の教であろう*12

「大陰玄精石」とは硫化カルシウムの六方晶系だそうです。また、「六」の由来として、「陰数」(すなわち偶数)だという根拠を付け加えています。陰陽説的な言明に加えて、「霰がおちるとき強い風に打ち開かれる」というように、「機械論的な」イメージが加わっているのが特徴だと思います。

山田論文によると、朱熹は雲、雨、雹や霰などを含んだ理論を展開しており、雹や霰の適切な観察結果も述べているとのことです*13

硫化カルシウムの六方晶系

朱熹の観察眼は鋭く、現象を説明する手腕も見事ですが、一方で「大雪が豐年の兆し」「龍は雨を降らせる」といった説にも理論的な根拠を与えてしまっています。思うに、彼の理論は何でも説明できる代わりに、「xxは不可能」という言明を導きにくい構造になっているのではないでしょうか。

ニーダムらは、朱熹のこの説明が後々までも継承されたとして、明初の王逵『蠡海集』を引用しています。この書は天文、地理、人身、庶物、曆數、氣候、鬼神、事義の章を立て、「究理」の立場から論じています*14

雪為陰之極、全得水之成數、雪花毎每皆六出。雪者雨露之凝結。…*15

こういった性理学的な文献だけでなく、博物学的な関心から雪に触れている著作も残されています。特にニーダムらは、本草学の集大成、明の李時珍『本草綱目』の雪や雹の記述を引用しています。

時珍曰︰按劉熙《釋名》云︰雪,洗也。洗除瘴癘蟲蝗也。凡花五出,雪花六出,陰之成數也

時珍曰︰程子云︰雹者陰陽相搏之氣,蓋氣也。或云︰雹者,炮也,中物如炮也。曾子云︰陽之專氣為雹,陰之專氣為霰。陸農師云︰陰包陽為雹,陽包陰為霰。雪六出而成花,雹三出而成實。陰陽之辨也。…

ここでも、雲、雨、霰、雹、雪などを含めた総合的な説明が展開されています。程子は北宋の性理学者(兄弟なので、二程などとも)です。曾子孔子の弟子ですが、この部分は『大戴礼記』(前漢)に残る遺文です*16。「陸農師」は、北宋の陸佃のことで、引用文は彼の『埤雅』からとられています。(ニーダムらはこの引用元の同定に失敗しています。)

『埤雅』は、いわゆる名物学の書です。宋代の名物学は、経学の枠内で展開した博物学の如き趣きがありました*17経書に出現する文物の名称を、観察や聞き取りを含めた実証的な態度で考察するのです。文献調査においても、本草書も大いに参考にしていました。壮麗な性理学の展開を横目に見ながら、具体的な事物に集中する学問もたいそう盛んだったわけです*18。『埤雅』に寄せられた序文によると、著者の陸佃は農夫や工匠から広く聞き取り、風聞は自ら試してから記録したとのこと。ただし、雪などに関していうとそこまで独自の観察眼を発揮したとはいえなさそうです。『埤雅』の「雪」の項目には

雪六出而成華,言凡草木華五出,雪華獨六出,隂之成數也。

と雪の形状を数秘術的に解釈し、「雹」の項目では雹や霰を含んでより包括的に

陽散隂為霰、隂包陽為雹。曽子曰「陽之專氣為雹、隂之專氣為霰」是也*19。申豐以為、古者藏冰固隂、沍寒而無雹、蓋陽無所洩雹之所以生也*20。雹形今似半珠、其粒皆三出。蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。

とあります(太字部分が本草綱目に引用)。雹と雪の形状の違いが「蓋雪六出而成華、雹三出而成實。此隂陽之辨也。」と陰陽説的な数秘術で説明されていて、同時代の性理学の説との関係が気になるところです。なお、『埤雅』は北宋ですから朱熹の前の段階です。

博物学的な学問の進展とともに、「草木は五出、雪は六出」というテーゼも吟味にさらされるようになります。ニーダムらによると、『酉陽雑俎』(唐、段成式)で梔子が六出だと指摘されています。

クチナシ。花びらが六枚ある。

また明の時代の唐錦『龍江夢餘錄』の一節では、まず伝統的な説を述べた後、

然至春則雪皆五出。(しかし、春になると五つの突起になる)。

とし、

豈春雪獨非水所結耶。恐未為定論也。

と、春の雪が「水所結」であるかどうか疑問を提出しています*21。雪の結晶は暖かくなると溶けたり崩れたりしますから、枝が一つ落ちることはあるようです。

この異論はかなり有名だったようで、同時代の郎瑛『七修類稿』でも批判的に取り上げられています*22。ただし、批判のポイントは理論の部分で、彼の説明は

至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。

つまり春は陽の気の影響で「散碎而不見其形質」であるだけだ、と。五出のあること自体は否定していません*23。後に明末の謝肇淛『五雑俎』では、複数年にわたる観察を議論のベースに置きます。

至後雪花五出,此相沿之言。然余每冬春之交,取雪花視之,皆六出;其五出者,十不能一二也,乃知古語亦不盡然。(『五雑俎』天部ニ)

「少数の五出はあったが、春になると常に五出であるとは言えない」とのこと。まあ、妥当な観察だと思います。

結局は伝統的な説の容認ですし、陰陽の自然学も健在です。また、「五か六か」と相変わらず数だけを論じて、形状の話に向かいません。「散碎而不見其形質」と書いているのだから、「五出」が乱れた形状だった事くらいはわかっていたと思います。しかし、形状の問題を議論の中心に持ってくることはなかかったようです。

ただ,この「春の五出」の問題を巡る論議を見ると、より徹底した観察によって認識の精度は上がっていることがわかります。また、伝統説を無批判に飲み込んでいるのではなく、吟味に晒していることも注意すべきだと思います*24

イエズス会の影響

謝肇淛の少し後、イエズス会が西洋の科学革命初期の知識をたずさえて中国にやってきます。このとき、ケプラーイエズス会に情報提供で協力している*25のですが、彼の雪の六角形の説明も伝わったようです。イエズス会士ウルシスと徐光啓の水利技術書『泰西水法』の巻五に、雨、霰、雪の生成について扱っており、さらに「雪花はなぜ六出なのか」という問いに

方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。

「同じ大きさの正方形が集まって大きな正方形を作るときは、8つの正方形で一つの正方形を取り囲む。同様に、円の場合はかならず六つの円で一つの円を囲む。」

ケプラーの少し後のThomae Bartholini, De nivis usu medico observationes variae (1661)の図解。 https://archive.org/details/bub_gb_A4E54uRxx4MC/page/n23/mode/2up

この時代に生きた方以智という学者がいます。彼はイエズス会士とも交流があり、ヨーロッパ流の自然学を伝統的な陰陽五行説の中に大胆に取り入れ、『物理小識』という自然学書を著わしました。この書物は原理原則から説き起こし、天体、気象、生物、と森羅万象を説明します。『泰西水法』の影響は顕著ですが、特に雪の六角形の説明は全く同じです。

雪花六出者、圜一圍六同體相依。(『物理小識』、風雷雨暘類、霜雪*26

数秘術的な議論からの縛がなくなったせいか、「春は五出」という話は「気候が緩んだから少し変形」という形で肯定されます*27

方以智には『物理小識』の前に『通雅』という名物学的な著作もあって、「雪花六出。朱子曰一六之數也。」(『通雅』釈天)と述べています。これは。伝統的な「成数」による説明のように見えます。『物理小識』ではこれが破棄されたと思って良いのか気になるところです。

いずれにせよ、清朝ではその後、徐々にこの伝統説が強くなってきて『康熙字典』の雪の項目も『埤雅』を引用しています*28。欧州からの伝来説に十分な説得力がなかったことは一つの原因だとは思いますが、保守主義的な傾向も感じます。

ケプラー以降、17ー18世紀

では、同じ時代、つまりケプラーの時代の欧州はどうなったのでしょう?……というレトリックでニーダムらは話を西方にに戻し、デカルトやロバート・フックら、17世紀の観察を紹介します。

デカルト『気象論』

数学者・哲学者のデカルトの観察は意外にも秀逸で、ケプラーの素朴な描写からは大きな進歩です。数種類の雪片を観察された状況の説明付きて図示しています。ZやMは怪しげですが、OやQに変化するのだそうで、生成途中の仮想的な状態なのだと思います。

デカルトの壮大で臆説に満ちた自然学はあまりにも有名ですが、雪や雹の生成のプロセスについても、あたかも見てきたかのように詳しく生き生きとしています。当然いろいろと間違っているのですが、こういった思索が、結晶の形状と気象条件を関連させる観察を促したのも事実だと思います。

六方晶系であることの説明は、ケプラーに似ています。つまり、平面上に粒子がならび、ある粒子の周りを6つの粒子が取り囲む配置を考えています。多分、ケプラーの著作を見ているのではないでしょうか*29

次にロバート・フックの顕微鏡観察誌『ミクログラフィア』。デカルトがこの問題をアリストテレス以来の気象論のトピックとして論じたのに対し、彼は物質の幾何的な構造の一例として扱っています。しかも、「水の氷結物」という章を設けてその一節で論じているのです。非常にシステマティックです。

フック『ミクログラフィア』。Fig 2 と3が雪。

これらの図を見ると、雪の結晶の多様性と通底する規則性への認識を感じ取ることができると思います。フックは「結晶によって枝の形は様々だが、一つの結晶では六本とも同じ形だ」と見事に指摘しています。さらに、「顕微鏡で細部を観察すると、興味深さの程度が減る、なぜなら細かな不規則なパターンが見えるから。これらは降雪途中で乱されて生じたのだろう」として、規則性への強い信念を感じます。(なお、彼が「不規則」だと考えた細かな枝分かれは、現代からみるとフラクタル的な規則の現れです。)。

彼ら以外にも17世紀にはいくつかの発見がありますが、次の18世紀はほとんどなんの進展もなく、19世紀を迎えます。

19世紀、ヨーロッパと日本

19世紀、ヨーロッパの雪の結晶の研究は活気を取り戻し、正確な顕微鏡観察に基づく精巧な図説が出回り、結晶の分類も進みます。

このあたりからニーダムらは筆を再び極東に、しかし今回は日本に向けます。もちろん、お目当ては土井利位『雪華図説』です。

土井利位『雪華図説』

世界的な雪の結晶の研究者であった中谷宇吉郎が啓蒙書で大きくとりあげたこともあって、非常によく知られていると思います。

この顕微鏡観察による雪の分類の研究は、明らかに蘭学の系引いています。ですが、もともと日本は中国文化圏ですから、「六出」「六出花」「六花」などの文言は、当然入ってきてます。試みに検索したら、武田信玄の「寄濃州僧」という漢詩が引っかかりました;

気似岐陽九月寒 三冬六出洒朱欄 …

ただ、「六出」という言葉は結晶の形状とは理解されず、花と雪のイメージを重ねるレトリックとして用いられたようです。例えば、伝統的な雪の表象の「雪輪」は環状の輪郭で、花弁のような刻みがありますが、その数も6とは限りません。例えば下記のリンクの写真や解説、鈴木1997の解説が参考になると思いますが、「「六花」「六出」という言葉は雪片の形状を意識して用いたのではない」という理解が一般的のようです。
学芸の小部屋 -戸栗美術館-

そもそも、『雪華図説』の顕微鏡図を引用した鈴木牧之『北越雪譜』ですら、

肉眼のおよばざる至微物ゆゑ、昨日の雪も今日の雪も一望の白糢糊を為なすのみ。

図書カード:北越雪譜
と記しています。もしも著者が「六出花」を肉眼で観察したことがあれば、また別のいい方をしたと思います。なお、『北越雪譜』の著者の鈴木牧之は雪国の越後の人で、江戸と往復しながら商売をしており、雪は馴染みの存在だったはずです。その人物の観察経験がこの程度のなのだから、あとは推して知るべしだと思います。

ただ、朱子学本草学を深く学んだ人が、文献中の「六出」の意味を取り損ねるとは思えないので、一部に理解している人はいたでしょう。前の節で取り上げた『本草綱目』は江戸時代の初めに林羅山によって紹介され、江戸期の本草学の成立に決定的な影響がありました。もちろん、雪に関する項目がどのくらい読まれかは定かではありませんが…

このあと、18世紀にはいると、西欧の知識を記した中国の書物の輸入が大幅に緩められまました。このときに入ってきた游藝『天経或問』は、天文学の入門書として広く読まれましたが、自然学的な内容も含みます。先に触れた方以智も序文をよせており、彼の説も大いに取り入れられているそうです*30。雪の六角形については、『泰西水法』『物理小識』と同様の説明がついており、上で引用した文言がそっくり繰り返されます。

こう言った「イエズス会→中国人による咀嚼→日本」という経路のほか、蘭学による西洋から直接の知識の輸入がありました。『雪華図説』の直接的な契機になったのはオランダ人マルチネット(J. F. Martinet, 1729-1795)の『格致問答』(Katechismus der natuur, vol 1, 1777)だそうで、ここからいくつかの図を引用しています。本書の影印が以下のリンクで読めます。
v.1 (1777) - Katechismus der natuur - Biodiversity Heritage Library
以下のリンク先の『格致問答』についての解説は、分かりやすかったです。
https://www.literatuurgeschiedenis.org/teksten/katechismus-der-natuur-en-kleine-katechismus-der-natuur-voor-kinderen

Katechismus der natuur Dl. 1

本書は問答形式で、自然界全般のことをわかり易く紹介した啓蒙書で、全四巻。雪の件は第一巻にあります。翻訳ツールで雪の結晶図の直前を少し見てみたのですが、顕微鏡観察の具体的な方法や、注意すべき点が書かれていました。この記述と輸入した複式顕微鏡を活用した成果が、『雪華図説』です。ニーダムらもKink2022も、同図説のスケッチの正確さを認めています。一見様式化され過ぎているようにも見えますが、「肉眼の解像力を限界まで酷使する分野では、細部の様式化はむしろ不可避」でした*31。ニーダムらは、一見精緻に見えてもデフォルメの多いJames Glaisher(1855)のスケッチと比較して、土井の図に一定の評価を与えています。Kink2022は、(土井が参考にした文献と比較して)考察面でも一歩進んでおり、先人の引用ではない独自の観察である点を高く評価しています。

一方で、鈴木1997では、ほぼ同時代のWilliam Scoresbyの多面的な研究と比較して、サイズや気象データの記録がない、立体構造に無関心であるなど、かなり見劣りがすると指摘しています*32。そもそも、土井が参考にしたKatechismus der natuurは啓蒙書に過ぎません。雪の形状の美しさやバラエティについては述べても、それ以上深い問題意識は提示されていないのです。そのような書物から出発した『雪華図説』には、それ相応の限界があったというわけです。ただし、Scoresbyの研究は欧州に於いても画期的だったことは注記しておきたいと思います。

なお、『雪華図説』の雪の結晶の形成の理論は『泰西水法』〜『天経或問』の説明を踏襲しています。上に引用した「凡物、方體相等,聚成大方,必以八圍一。圓體相等,聚成大圓,必以六圍一。此定理中之定数也。」という文言がそっくり『雪華図説』でも繰り返されており、影響関係はあきらかです*33

『雪華図説』の一節。雪の結晶の形状の原因を説明している部分。

中国系統の文献の影響は、「春の雪は五出か」という疑問に言及していることからも、明らかだと思います。なお土井利位は上述の理屈から、この疑問を不当としています。そして、彼は伝統的な数秘術による「陰数」や「成数」を用いた説明に言及していないことも重要なポイントで、つまり、『泰西水法』〜『天経或問』の説に非常に忠実なわけです。一方、通俗版ともいえる『北越雪譜』による解説では、『雪華図説』の説と中国の古代からの「陰数」を用いた説を並べて記述しています。

当然のことではありますが、『雪華図説』が欧米に知られることはなく、また明治以降の西洋科学にも直接はつながっていません。中谷宇吉郎が興味をのも、雪の研究を始めたあとです。ただし、紋様などデザインの分野ではちょっとしたブームを引き起こしたようで、間接的に日本人の科学に対する態度に影響を与えているかもしれません。

結論に替えて

この論文には、ニーダムの科学史観が強く反映されていると思います。彼曰く、各々の文化圏での科学的な探求は、どこかの時点で一つのユニバーサルな科学に流れ込むのだそうです。今回読んだ論文でも、時間の順序にしたがいつつ、東西の間を行き来しながら叙述を進めて行きます*34

これに対して、近年は明末以降アヘン戦争まで続いた、欧州の科学の現地化が強調されます。方以智などに代表されるこの動きを肯定的に捉えている研究者が多くいる中、Kink2022は行き止まりの袋小路だと否定的な見解を述べています。例えば、『康煕字典』では雪の形成の理論が『埤雅』の伝統的な説明に回帰しているなどの「保守化」がみられることを指摘します。Kink2022はニーダムと同様に『雪華図説』を高く評価していますが、これは中国における科学の現地化を叩くための前振りです。つまり、そのまま受容したほうが良い成果が出ているではないか、というわけです。(確かに清朝では独自の雪の顕微鏡観察記録は作られていません。)

しかしながら、江戸時代の日本に西洋の科学が浸透するにあたっては、この中国化が大きな役割を果たしています。『雪華図説』でも雪の結晶を「六出」と述べるなど、中国的な語彙を用い、中国化された西洋説の影響を大きく受けています。これは、『雪華図説』を含む日本的な博物学全般、さらには天文学や数学においても同様です。異質の学問体系の導入にあたって、既存の学問体系とのすり合わせが無駄であるはずがないのです。

一方で、ある時点以降、清朝の科学は停滞期を迎えているように見えます。要は、それを中国化した上での消化という方法論のせいにして良いのかどうかだと思います。

付録:南北朝時代とそれ以降の「六出」の用例

ニーダムらは南朝梁の昭明太子・蕭統の著作として伝わる『錦帯書十二月啟』*35*36

彤雲*37垂四面之葉,玉雪開六出之花。

を引用しています。これが蕭統の真作であるかどうか現在定見は無いようですが(ニーダムらは疑った形跡はありません)、唐以前であることは確定しているようです*38

この他に私の探索した二例を掲げておきます。まず、陳の張正見の五言八句「應衡陽王教詠雪」*39の出だしは

九冬飄逺雪 六出表豐年 …

つまり「六出は豊作の兆しだ」というのですが、この「六出」は前後関係から明らかに雪を指します。*40

また、Lu, 2015, p. 311は梁出身で西魏北周に仕えた庾信(Yu Xin)の「郊行值雪」*41

…雪花開六出 氷珠映九光 …

を雪の結晶の形状の認識の証拠とし、さらに「映九光」を光の屈折によるスペクトルの表現だとしています。

下って唐や宋、元の例は検索するとかなりあります。例えばランダムにあげると、

六出飛花處處飄 ... (章孝標(791-873)《春雪詩》、『唐摭言』(唐末~五代初の詩集))

などが挙げられます*42

参考文献

*1:記録的な大寒波が到来した年には、全く崩れていない美しい結晶が観察できました

*2:参考文献にあげたLettnickの著作は表題は古代後期と末期の注釈家たちも扱っているのですが、やはり目ぼしい記載は見当たりません。

*3:出典として、Rasâ'il al-Kindi al-falsafiyya, ed. M. Abü Rida, 2 vols, Cairo 1950, 1953.の第二巻pp.80-85が引用されています。これはキンディーの複数の著作を二巻にまとめて出版したもので、タイトルは編集者のM. Abü Rida による。

*4:ラテン語テキストや英訳をarchive.orgで見ることが出来ます。邦訳は、ヨハネス・ケプラー (榎本恵美子・訳) 「新年の贈り物あるいは六角形の雪について」 『知の考古学』、第11号、1977年、276-296頁

*5:https://en.wikipedia.org/wiki/Wacker_von_Wackenfels

*6:これはニーダムらは引用していません。

*7:「大明五年正月戊午元日,花雪降殿庭。時右衛將軍謝莊下殿,雪集衣。還白,上以為瑞。於是公卿並作花雪詩。」

*8:なお、『太平御覧』時序部·元日に引用されている『宋書』は「孝武帝大明五年正月旦雪,江夏王義恭以衣承雪,作六出花,進以為瑞,帝大悅。」となっており、衣の雪を報じたのは江夏王の劉義恭だとなっています。以降、これを踏襲した記述が相次ぎます。『資治通鑑』宋紀十一大明五年の「春正月戊午朔朝賀朝直遥翻雪落太宰義恭衣有六出。義恭奏以為瑞上悦。義恭、以上猜暴懼不自容、每卑辭遜色曲意祗奉。由是終上之世、得免於禍」、また『類説』六出花、朱熹資治通鑑綱目』も同様。明の類書『山堂肆考』では『宋書』と『資治通鑑綱目』の違いを指摘しています。江夏王・義恭(劉義恭)は皇族で重鎮でしたhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%89%E7%BE%A9%E6%81%AD。しかし疑り深い孝文帝を持ち上げるために何かと気を使ったことが、『南史』の伝に出ています。

*9:『初学記』天部下·雪(盛唐),『太平御覧』天部十二・雪(宋の初期)などにも残っており、ニーダムらは『太平御覧』を引用。

*10:例えば『四庫提要』では両方の可能性を並置しています。西村,1963, pp.2-5を参照。『韓詩外伝』は各々の章段の独立性が高く、非常に多くの異本の存在が推測されるとのこと。漢書芸文志によると韓詩外伝は六巻だが、隋書経籍志以降は十巻。また、各種文献に残る遺文には趣旨は同じでも長短のばらつきがある。

*11:「生数」「成数」がいつからある概念かは知らないのですが、水~土に1~5、あるいは6~10を対応させる説は前漢以前からあったようです(平澤,2014, 第一章。)。

*12:雪花所以必六出者,蓋只是霰下,被猛風拍開,故成六出。如人擲一團爛泥於地,泥必灒開成稜瓣也。又,六者陰數,大陰玄精石亦六稜,蓋天地自然之數。(『朱子語類理気下・天地下)

*13:ただ、これを19世紀のレイノルズの観察と比較するのはいかがなものかと思います。例えば、デカルト『気象学』でも、雹や霰の中には球を八分割した形のものがある、と述べられていて、尖った形状であることは、もう少し早くから観察されていました。

*14:分天文地理人身庶物曆數氣候鬼神事義八門。皆卽數究理。推求天地人物之所以然。(四庫提要)

*15:早稲田大学所蔵の江戸時代の和刻本。https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/i05/i05_01217/index.html

*16:真正として受け入れる場合が多いようです。末永高康「『曾子』初探 : 『大戴礼記曾子立事篇を中心にして」『鹿児島大学教育学部研究紀要. 人文・社会科学編』第58巻、2007年

*17:名物学については、辜承堯, 2018, 青木正児の名物学研究とその評価について: 関西大学東西学術研究所, A227–A248 https://kansai-u.repo.nii.ac.jp/records/2084。また、澁澤尙、羅願爾雅翼考、立命館文學 538-560, 2019-12、原田信 陸佃の『禮象』について--出土彝器收録の意圖、中国文学研究,巻36, 60-73, 2010年12月 http://ci.nii.ac.jp/naid/120005300959 の本論に入る前の概説部分を参考にしました。また、西村三郎、文明のなかの博物学:西欧と日本(上) 1999年08月31日, 紀伊國屋書店、第三章。なお、清の時代に入ると、名物学は考証学的な色彩を強めるのだそうです。

*18:南宋の鄭樵『通志』昆蟲草木略の自序では、「學者操窮理盡性之說,以虛無為宗,實學置而不問」と性理学に傾きがちな当時の学風を批判しています。

*19:『大戴禮記』曾子天圓にこの文句があります。「陰陽之氣,各從其所,則靜矣;偏則風,俱則雷,交則電,亂則霧,和則雨;陽氣勝,則散為雨露;陰氣勝,則凝為霜雪;陽之專氣為雹,陰之專氣為霰,霰雹者,一氣之化也。」

*20:『春秋左伝』昭公四年春「大雨雹,季武子問於申豐曰,雹可禦乎,對曰,聖人在上,無雹,雖有不為災,古者日在北陸,而藏冰西陸,朝覿而出之,其藏冰也,深山窮谷,固陰沍寒,於是乎取之」が念頭にあると思われます。ここで「申豐」は人名で、季武子の家臣。

*21:訳文をつけれていないのは、私の読解力が足りないからです。Kink2022 sec.2の脚注に英訳があるのですが、幾つか腑に落ちない点があるので、このままにしておきます。まず、この疑問の程度のニュアンス。それから「水所結」をconnected to warter と翻訳していること。

*22:Kink 2022 sec.2. 「雪花六出,先儒以雪為水結,地六為水,故六出也。雲間唐龍江以為春雪五出,豈非水所結耶?勿得其義。不知水乃陰物,陰盛極寒,則成雪也,地六為水之說非謬;至春則陽和矣,一時雖寒而成雪, 非至盛之時,故散碎而不見其形質耳,亦不特五出也。」(『七修類稿』巻ニ天地類)

*23:この点、Kink2022の本記述への言及は批判的な側面のみを語っていて、一面的すぎると思います

*24:Kink2022, Sec.2の終わり

*25:ガリレオは協力要請を断っています

*26:https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/bunko08/bunko08_c0124/index.html

*27:春五出。以煖而稍化耳。(上記の文への割注)

*28:Kink2022

*29:この件についてではないのですが、ライプニッツデカルトケプラーを引用せずに参考にしているのでは、と疑っています。

*30:Kink2022 及び、吉田忠『天経或問』の受容、科学史研究、II, 24, 1985

*31:鈴木1997

*32:鈴木1997 pp. 46-52

*33:Kink2022, sec. 6. 鈴木1997では同時代の欧州の文献の影響を考えているのですが、Kinkの指摘の方が適切だと思います。

*34:このような歴史観に基づいて、ニーダムの『中国の科学と文明』の天文学史部分では、イエズス会の西洋天文学導入にかなりのページを割いています。だだし、彼は科学の紹介をキリスト教布教の手段と位置づけたイエズス会の方針にかなり批判的です。このせいで科学のユニバーサルな性質が歪められ、アリストテレス的な天球理論が紹介され、地動説が伝わらず、また中国側の長所にも気が付かなかったと。

*35:昭明太子・蕭統は『文選』の編纂で知られる

*36: 単に『錦帯書』とも。清の嚴可均 『全上古三代秦漢三國六朝文』全梁文十九や元末明初の『説郛(せっぷ)』正七十六に収録。昭明太子・蕭統は『文選』の撰者でもあります。『錦帯書』は書儀あるいは月儀、すなわち六朝〜唐の頃に盛んに出された書翰の文例集の一つ。「では、書儀とは如何なるものか。周一良『書儀源流考』 によると「いわゆる書儀とは、つま り手紙の書き方・範本で、人々が模倣・援用すること。」と定義されている。」(祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月) 書儀と月儀の違いは題目の選び方にあるようです。なお、英文の解説ではこれを「詩」と紹介するものがあるが、誤り。

*37:あかね雲. (雪の降る前の)陰うつな黒ずんだ雲.

*38:祁小春『唐代書儀と王羲之尺牘との関係について』関西大学東西学術研究所紀要50, 2017年4月, pp.404-405

*39:私の見つけた範囲での初出は唐・開元年間の類書『初学記』天部下です

*40:話がずれますが、『宋書』符瑞志と共に、雪を良い兆しとしているのも興味深いです。矢嶋美都子『豐作を言祝ぐ詩 ―「喜雨」詩から「喜雪」詩へ―』日本中国学会報 第三十七集 1985年, p.85

*41:現代に伝わる初出は『庾開府集』です。この書物の伝世については、やや不安な点があります。『四庫提要』の「庾開府集箋註 十卷」の項目を参照。なお、明末の写本が東洋研究所で見ることができます、http://shanben.ioc.u-tokyo.ac.jp/main_p.php?nu=D7114600&order=rn_no&no=01674。これの巻四に出ています。

*42:またctext.orgで各種詩文集が検索できます。『全唐詩』などは網羅的で便利だと思います。宋や南北朝時代のものが一部混入し、作者を間違えていたりするそうですが、今は南北朝〜宋にかけての使用状況を概観したいだけですから、問題ないと思います。宋の時代に編纂された『文苑英華』も検索できます。これらの文集の性格については例えば以下のリンクを参照。https://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/cl/koten/kanshi/nihon1_3.htm

メモ:黄道座標と赤道座標の変換

以下のメモはほぼ次の論文をベースにしており、図版や数式もここから引用しています。
Archive for History of Exact Sciences (2018) 72:547–563

プトレマイオス以降のギリシャ系の天文学黄道座標系を用います。これは、日月惑星の年周運動の記述には大層便利です。しかし、黄道は日周運動で地平面に対して動いてしまいます。この点からすると赤道座標の方が便利で、ティコ・ブラーエ以降の西洋天文学で赤道座標が好まれる理由となっています。また、日周運動の分析には赤道座標が有用であって、プトレマイオス赤経赤緯を有用な特徴量として用いました(ただし、座標系としては用いていません)*1また、度々述べてきたように、中国では赤道座標系が標準で、ただし日月惑星の理論に於いては黄経を有用な特徴量として用いました。

つまりいずれの伝統に於いても、この二つの座標の間の変換に相当する計算は重要でした。中国に於いては模型を使った実測に補完法的な数理を適用して、半ば算術的にアプローチしています。一方、西方の天文学では三角法を駆使します。

しかしながら、以下に述べるようにこの計算は決して容易ではありませんでした。

アルマゲスト
図1

まず、プトレマイオスアルマゲスト』の理論から。以下では、

とします。添字に「○の中に点」がついている場合は、太陽の値です。もちろん太陽に対しては、βは常にゼロです。

プトレマイオスは、太陽について


を示し、これらを用いて太陽の赤経赤緯を計算しました。ただし、ここでは簡単のために現代的な記法を用いています。当時はsin, cos, tanはなく、半径が60の円の円弧の長さを用いました。導出には、いわゆるメネラオスの定理を用いいています。

図2

太陽の場合はβがゼロだったので簡単だったのですが、一般の場合については、プトレマイオスは最終的な答えに到達していません。彼は

に相当する関係を示したのですが、XZの求め方には言及していません。15世紀前半までのヨーロッパでは、点Xの赤緯で近似したようです。

論文には特にコメントはないのですが、古代末期や中世の初期でも同様だったのでは…と思います。

東方アラビア語

この問題に最初に正しく答えたのは、10世紀のエジプトの天文学者ibn Yunusでした。彼は赤道と黄道の役割を入れ替えます。すると、点Zは新たな座標系では「黄道」にあり、角度XZはその「赤緯」に相当します。よって、プトレマイオスの太陽の座標変換の理論を読み替えれば解決してしまいます。

このやり方は、東方アラビア語圏では広く定着したようですが、ヨーロッパへの影響はなかったようです。ヨーロッパに直接影響を与えたのは西方スペインの天文学ですが、これはibn Yunusのころには東方から分岐して独自の道を歩んでいました。

ビアンキニとレギオモンタヌス

ヨーロッパでこの問題を解決したのは、15世紀半ばのイタリアの天文学者ビアンキニでした。彼はイブン・ユーヌスと同じ解法もやったようですが、最終的にはγZを最初に求めそこからXZを求める方法にに落ち着いたようです。また、黄道座標から赤道座標を求める表を整備しました。

レギオモンタヌスは最新の印刷技術たる活版印刷を積極的に活用して、多くの数学・天文学の著作を公表していました。ビアンキニの手法も彼の著作に取り入れられて広まりました。その際、レギオモンタヌスは出所を明記せず、のちにカルダノに「剽窃」と批判されたようです。

座標変換は難しかった

以上見てきたように、10世紀のibn Yunusあたりまでは、この座標変換の計算は世界中どこでも困難でした。

天体の球面座標を測るアーミラリー球(渾天儀)には、黄道環と赤道環の両方がついていて、どちらの座標系でも観測ができるようになっていました。『新唐書』によると白道環を備えたものまであったようです。環を増やすと仕組みは複雑になって重量も増え、精度に悪い影響があります。にも関わらずこれらの機器が作成されたのは、計算の困難さや手間の多さが一因だと思います。

アラビア語圏での発展について

冒頭に掲げた参考文献の主題はビアンキニの数理天文学への貢献で、よってアラビア語圏での発展については、最低限のことしか書かれていません。ibn Yunus以降、いったいどういった進展があったのか?これは調べてみたいところです。

球面三角法はibn Yunus の時代の他の巨人たち(ビールーニ、アブル・ワファー)によって面目を一新します。従来のメネラオスの定理一本槍ではなく、球面三角形を全面におしだし、13世紀のトゥーシーに至っては現在知られる基本的な関係が全て揃います。マッカの方向を知る算法(キブラ)などは基本的には座標変換であるし、座標変換の計算手法がibn Yunusの段階に留まったとは到底思えないのですが。


その他の参考文献
[1] Pedersen, O. https://link.springer.com/book/10.1007/978-0-387-84826-6

*1:Pedersen,pp. 99-101

メモ:アリストテレス『天体論』のラテン語訳

アリストテレス『天体論』のラテン語訳にどんなものがあるか?について、以下の文献のイントロに詳しかったので、メモとして要約。

https://www.jstor.org/stable/4130271#metadata_info_tab_contents

1175-1225年の間に、4つのラテン語訳があった。

  1. 1175 ごろ。クレモナのゲラルドの訳。ibn al-Bitriq(9c, バクダッド)のアラビア版から。
  2. 1231よりも少し前。Michael of Scott. 同じくibn al-Bitriqより。Averroesの註釈へのLemmataの形。
  3. 1230よりも少し後、Robert Grosseteste, ギリシャ語から、Bk 1-3.1のみ。
  4. 1260-70 William of Moerbeke. ギリシャ語から。Bk.1-2はGrosseteste訳に手を入れる。Bk.3-4は新しく。