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高山教区真宗公開講座 2015.01.23(書きかけ)

高山教区真宗公開講座 2015.01.23

講師 佐野 明弘氏

講題 この身を受け止めるということ(人身受けがたし)

   ―あるベトナム帰還兵の生きた道―

 

講演内容

DVD『9条を抱きしめて~元米海兵隊員 アレン・ネルソンが語る戦争と平和~』鑑賞の後、法話

 アレン・ネルソンさんが抱えていたのは厳しい人種差別、貧困の問題。自分が自分として生きていく何かが欲しくて、軍隊に誘われたときにすぐに入ってしまった。「綺麗な制服がきれるぞ。ご飯が腹いっぱい食べられるぞ。お前のようなものでも褒められるぞ」と言われ、給料が入りお母さんを助けてあげられると思って即座にサインした。軍隊は平和を守るためにあると思っていた。

 軍隊で習ったのは人を殺すこと。銃の使い方、高性能爆弾の使い方、ナイフの使い方。三つの訓練を受ける。一つは武器の使い方。一つは絶対に上官の命令に服従する。もう一つは敵の人間はどうしようもない人間で、放っておくと平和を乱すので殺してもいい人間だと信じること。この三つが揃わないと殺すことができない。毎日の軍隊の訓練が人間を変える。殺人の道具になるということ。

 彼の中の人生の重大な問題。PTSDの問題、基地を抱える沖縄の問題、憲法9条の問題。

 ベトナムでジャングルに枯葉剤を撒いた。撒いたところに真っ先に行くのが海兵隊海兵隊の5人が癌になった。彼も多発性骨髄腫を発症し余命3ヶ月となった。実際、3月25日に亡くなった。

 彼の人生は私たちにたくさんの問題を提起している。私たちも普遍的に「苦しみを抱えた自分をどう受け止めていくか」

 

 


アレン・ネルソン平和プロジェクト 2013

『脱グローバル論 日本の未来のつくりかた』  

ハイライト

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Last annotated on January 30, 2015
家族が崩壊して、みんなが1人ひとりという時代になってきたわけですけれども、この先どうするかと考えた時、たとえば家族や中間共同体を再構築するという考え方がありますが、僕は、もう少し1人ひとりが孤独になっていいんじゃないか、と思うんですね。つまり、なんて言うんだろう……自分が今立っている位置というものを改めて見直して、自分はこれからどうするんだと考える。そして、自分の立ち位置で引き受けられるものは引き受ける。たぶんこれからは、何かを変えるのは「誰か」じゃなくて、自分自身が身の回りのことを少しずつ変えていくしかない。  
 

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橋下さんについては後で詳しく述べたいと思いますけれども、基本的には新自由主義的な考えの人ですね。競争社会やグローバル化を推進し、グローバル化した社会の中で日本はどう生き残っていくのか、国民への再配分をどんどんカットしていき自己責任社会を確立していく、そういう戦略や志向の持ち主だと思います
 

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私が非常に尊敬している日本人に親鸞という仏教者がいますが、この人もそうです。やはり大衆とともに歩み、共同性というものを重要視した仏教者ですけれども、しかしその親鸞も、(親鸞に師事した)唯円の書いた『歎異抄』の中では「親鸞一人」と言っているんですね。独りである人間、つまり単独性と、共同性というものは相互補完的な関係にあるんだろうと思います。  新しい共同性や社会・コミュニティの形をどう考え、作っていくか。それが今後の非常に重要なモデルになると私は思っています
 

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「人間」って、考えてみれば不思議な言葉です。人の間と書きます。で、倫理の「倫」の字は、仲間という意味なんですね。和辻は、人間は「間柄」というものが存在して初めて人間となる、と言います。人間は単独者として存在しているのではない。間柄というものを持った時に人間は人間となり、そして、仲間との「理」である倫理というものが誕生する。そういう社会的な存在として、人間や倫理はあると考えました
 

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ポストグローバルの日本のありようというのは結局、「脱市場・脱貨幣経済」にあって、基本的には顔の見える小さいコミュニティをベースにして、その中で基本的には物々交換、手間手間交換をして、できるだけ貨幣を介在させないで生活のクオリティを上げていくことじゃない
 

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これから、いわゆる超高齢化社会が来る。人口は減少していく。女性が子供を産まなくなった。長期的なデフレも続いている。それから、最初の話に戻るんですが、総選挙を前に10党以上も政党ができてしまった。  こういった状況を、何かシステムに瑕疵があって、問題があったからこうなったんだというふうに多くの人が考えているようなんだけれども、僕は全く違うと思います。これらはすべて、われわれの求めた結果が、こういう形で表れているんであって。お年寄りが増えたのは、長寿の国を作ろうと思ってやってきた結果です。それから、1人ひとりが封建的な家制度から逃れて、個人の自由を拡大していった結果として、核家族化が進み、さらには家族が崩壊していった。すべては民主主義の成長過程というか自然過程の中で、自分たちが求め、作ってきたことなんですよ
 

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地域社会の中には、同じ年代や似たような属性の人たちばかりが1ヵ所に集まる「ボンディング(結束、接合)」の関係だけではだめなんですね。僕は「昔の町内会を復活せよ」とか「『三丁目の夕日』の世界に戻れ」と言ってるわけじゃない。むしろ、そういう言い方には、どちらかというと疑いを持っているんです。あの時代には確かに地域共同体があり、ソーシャル・インクルージョン=社会的な包摂はあったけれども、同時に、同調圧力の強い、つまり「同じ空気を読め」という社会でした。そして、共同体の論理や常識に従わなければ強烈なエクスクルージョン(排除)が働いた。だからみんな、共同体が嫌で、解体しろと言ってきたわけです。でも、共同体そのものがだめなわけではなくて、こういった閉鎖的なボンディング空間だけしかない社会がだめだったと僕は思うんですね
 

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これは、ロバート・パットナムという政治学者の書いた『孤独なボウリング(Bowling alone)』という本を前提に話をしています。パットナムは今流行りの「ソーシャル・キャピタル」という言葉を新たに定義し、打ち出した人ですね。「社会関係資本」と訳されていて、簡単に言うと、顔を合わせて、人間が信頼関係をもって集まるような空間や場や関係性の総体を指します。これがしっかりしていると、何か問題が起こった時に1人では解決できなくても、周囲からいろんな人が集まって来て助けてくれる。みんなで行政に要望したり、政治に何かを言ったりすることもできるので、社会がダイナミックかつ漸進的に動き、うまく改革が進んでいくということがあります
 

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この本で、パットナムは非常に重要な指摘をしています。ボンディングの関係というのは重要だけれども、そこでは必ず排除が起きる。だからもう1つ、ブリッジング(橋渡し)が必要だと。日本で言うならば、町内会が悪いんじゃないんです。町内会しかない社会が悪いんですね。町内会もあれば、スポーツや趣味のサークルもあれば、別の所ではNPOに属している、あるいは、この凱風館みたいな所に集まって話をする人間関係もある……というふうに、1人がいろんな所に梯子を架けているような状況、これがブリッジングですね。逆に組織の側から言うと、外に対して一定程度開かれていて、みんなが梯子を架けられるようなコミュニティ。そういうものを作っていかないと、デモクラシーが死んでしまうと彼は言います
 

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彼の研究の前提になったトクヴィルが恐れたのは「多数者の専制」という現象でした。19世紀の初頭、彼は既に「(中間領域に支えられた)アメリカのデモクラシーは長く続かないだろう」と書いています。なぜならメディアが発展するからだと。メディアが発展すれば、中間領域がすっ飛ばされて権力者と個人が直接的に向き合う状態になる。こうなると、多数者の熱狂を代弁する人間が政治権力を握るようになる。そして少数者の権利や個性というものが奪われ、みんなが平準化した社会になっていく。だから、この中間領域を守り、自由を守らなければいけないとトクヴィルは言いました。パットナムも同じです。それを現代的な処方箋として出したのが、ボンディングとブリッジングという概念だったわけです
 

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