Smart Liberty

とある集まりで、みんなが書きためた作品を発表する場として作りました。

誉め言葉

               九重颯希

 雪名真白の朝は向かいの家のインターホンを押すところから始まる。閑静な住宅街の一角にある赤い屋根が目印の可愛らしい家のインターホンだ。
 ピンポーン
 家の奥からトテトテと軽い足音が響いてくる。真白は肩にかけた制カバンの取っ手を握り直す。ちゃんと家を出る前に鏡で確認したから大丈夫だ。どこも可笑しいところはないはずだ。
「おはようございます! 真白ちゃん!」
 玄関の扉が勢いよく開けられる。中から近所の中学校の制服を着た女の子がまだエプロンを身につけたままの格好で飛び出してきた。
「ちょっと待っててね。兄さん、もう少しで来るはずだから。兄さん早く! 真白ちゃんもう来ちゃったよー!」
家の中に向かって女の子は叫ぶ。真白はそっと息を吐き出す。
「楓ちゃん、いいよ。どうせすぐに追いつくだろうから、先行ってるね」
 少々無愛想に言うと、真白はさっさと楓に背を向けた。
「えっ、でも…」
「いいの」
 まだ不満そうだった楓を無視して、真白は小走りで私鉄の駅に向かった。

「おっはよー」
 能天気な声とともに楓の兄の恭介が二階から降りてきた。
「あれ? 真白は?」
「真白ちゃんなら、先行ってるって言って行っちゃった…。兄さん、何かしたの?」
 怖い顔で睨みつけてくる義妹を横目に、恭介は思案顔で革靴に足をつっこみ、制カバンを肩にかけ、玄関の扉の取っ手に手をかけた。
「いや? 特に。いつもどおりだと思うけどなあ」
「うっそだあ。真白ちゃんがあんな不機嫌な態度する時は、絶対兄さんが関わってるもん。余計なことでも言ったんでしょ?」
 さあね、と恭介は妹の言葉を流すと真白を追いかけるべく駆け足で駅に向かった。
 結果として、恭介は真白に追いつくことができず、追いつけなかったのは妹が出際に話しかけてきたからだ、ということにしてささくれだった心を落ち着かせる羽目になった。
 生徒会に所属している恭介に会わせて、帰宅部の真白はいつも教室で自習をしていたが、今日は仕事がないので直帰出来ると真白の教室に行くと、既に彼女の姿はなかった。
 近くの女生徒を捕まえて、真白の所在を聞くと、SHR後にすぐに教室を出ていったということだった。
「俺、何かしたかなあ。マジで」
 小さい頃からずっと一緒で、今までいろいろあったが上手くやってきたつもりだ。きちんと彼女が好きな冬に一緒にかまくらと雪だるまを作った後に南天の木の前で告白をして、きちんと返事をもらって、浮気もせずに誠実に絶賛お付き合い中だ。我ながら、上手くやっているほうだと思う。

「一体、何がまずかったんだろうか」
 恭介は気だるげに帰宅途中だった田中を捕まえると、今日の真白の行動について語った。
「いやあ、それ絶対君が何かしたんだよ。雪名真白さんでしょう。あの子、気立てが良いって噂じゃん。大事にしなよ、そういう子、ゴロゴロ其の辺に転がってないんだから」
「噂じゃない。本当に良いぞ、気立て」
「へえ、で、惚気けたいの? 眠いんだけど」
 田中は歩きながら船を漕ぎ始めた。
「いや、惚気たいわけじゃないんだ。真白と今日一回も話してないんだ。これは死活問題だ」
「あ、そう。惚気けたいのね」
 何故か相談に乗ってくれると有名な気だるげ田中にも絶望的な眼差しを向けられ、恭介の問題は全く解決しないまま二人とも高校の最寄り駅についた。
「じゃあ、オレこっち方面だから」
 そう言って、田中は上り電車に乗っていった。下り電車はもう間もなくやってくるようだ。
 ホームに滑り込んでくる電車に大勢の学生に流されるようにして乗り込む。いつも他愛ない会話をしながら乗っていた電車はひどく遅いように感じられた。

 玄関の扉を開けると、楓がムスリとした顔で仁王立ちしていた。
「兄さん、真白ちゃん髪切ってたんだけど」
「髪ぐらい切るだろう…お前だって先週切ってたじゃないか」
「腰まであった長い髪をいきなりショートカットに?」
「ショートカット!?」
 恭介は悲鳴に近い声を上げた。
「今日、学校帰りにあったらショートカットになってた」
「何で!?」
 恭介は真白の雪のように白い肌と濡れたような黒髪のコントラストをたいそう気に入っていて、彼女もそのことを知っているから、あの長さをここ数年キープしていたはずだ。
「兄さん、デリカシー無さすぎ! 乙女心を全然わかってないよ。昨日、真白ちゃんと帰るときに、『髪伸びたね、昆布みたいだ』って言ったんだって? バカじゃないの?」
 すごい剣幕で捲し立ててくる妹に恭介は一歩引き下がる。
「いや、CMで『これで貴女の髪も昆布のようにコシのある黒髪に』って言ってたから褒め言葉のつもりだったんだけど…」
「どこの女の子が彼氏に昆布みたいな髪だねって言われて喜ぶのよ! 謝ってきて!」
「今!?」
「今すぐ! ほら早く! ぼさっとしない!」
 恭介は楓に命じられるままにさっき帰宅した時の格好のまま、向かいの家に向かった。既に夕暮れ時で、二階の真白の部屋には明かりが灯っていた。
 いつも真白が恭介を迎えに来るので、恭介は彼女の家のインターホンを押したことがほとんどない。よくわからない高揚感とともに恭介は彼女の家のインターホンを鳴らした。
「はい」
「恭介です。真白さんはいらっしゃいますか?」
「あら、恭介くん。ちょっと待っててね」
 応対に出たのは彼女の母親だった。いつもと変わらない雰囲気でホッとする。
 すぐにガチャリという音ともに玄関の扉が開き、真白がひょこりと顔だけ出した。
「どうしたの」
 いつもと変わらないようだが、どことなく棘が含まれている気がする。妹の言うとおり昨日まであった立派な黒髪は消え失せ、綺麗なショートカットになっていた。確かに黒髪ロングも好きだったが黒髪ショートもグッとくるところがある。
 思わず恭介は真白の顔をじっと見つめた。
「ど、どうかな。たまにはショートもいいかなって」
 真白は落ち着き無く視線をあちらこちらに彷徨わせながら、毛先を指で弄んだ。
 ここで、昨日のことを謝るべきだろうか? いや、それとも何も触れずに褒めたほうがいいのだろうか。
 恭介はしばらくの逡巡の後、笑顔で答えた。
「似合ってるよ、真白。これからの時期はどんどん暑くなるしね。ショートも涼しくていいと思うよ。冬になったらまた伸ばしてよ」
「でも、昆布みたいなんでしょ」
 真白はすっかりその件で拗ねてしまったようだ。
「あ、いや、それはあの…コシがあっていいねというか、褒め言葉のつもりで…。決して真白のロングヘアが重たげで見苦しいとか、そういう意味じゃなくて…」
 しどろもどろになりながら答える恭介を真白はじとりと見上げる。
「ま、別にいいよ。そろそろ切ろうと思ってたし」
 別に気にしていないという風を装っているが、まだご機嫌斜めなようだ。
 恭介は奥の台所で彼女の母親が鼻歌混じりでご機嫌に夕食の準備をしているのを確認すると、彼女ごと家の中に入り、そして、彼女を玄関の扉に押し付けた。
「髪が短くても長くても、俺の中での一番は真白だよ。ていうか、髪の長さ如きでお前の評価、変わんないから。あと、避けられると結構傷つく…」
 耳元でそう囁きかけ、恭介は真白の額に口付けを落とすと、真白は白い肌を薄桃色に染め上げた。
 その様子に満足すると恭介は玄関扉の取っ手に手をかけた。真白はスルスルと壁の上を滑るようにして、玄関扉からどく。恭介はまた明日、と手を振ると、真白の家を出た。恥ずかしいのかなんなのか知らないが、彼女は終始俯きっぱなしだったのでよくわからないが、これで明日からいつも通りの生活に戻れるはずだ。
 どうも彼女のいない生活は味気ない。
そうだ、明日は早起きして真白を迎えに行ってやろう。きっと驚く顔を見られるに違いない。
恭介は真白の驚いた顔を想像して一人ニヤニヤしながら帰路についた。


END
 

Lovely Crazy Happy Days!

「ねーねー」

「……」

「ねーってばー」

「……」

「むー……」

「……」

「無視しないでよー!」

 無視してるんじゃない。全部お前のせいだ。

 俺が目だけでそう訴えると、目の前のチビはハッとしたような顔をして、申し訳なさそうにうつむいた。しかしそれも一瞬のことで、すぐにちょこまかと慌ただしく駆け出していった。おそらく、また自分の好奇心を刺激する何かを探しにいったんだろう。忙しない奴だ。まあ、あのチビには他にすることもないからな。

 そんなどうでもいいことを考えながら、俺は辺りを見回した。

 足元にうず高く積みあがる本、本、本。四方の壁にピッタリ収まった本棚には、これでもかというほどの量の、様々な書物が敷き詰められている。思わず、壁が本でできているのではないかと錯覚してしまいそうだ。

 森の中の大きな屋敷。そこに、俺とチビは二人で暮らしていた。

 そこ、犯罪の臭いがするとか言うんじゃない。俺にそんな趣味はない。断じてだ。

さて、話を戻そう。暮らしている、といっても、ここが俺の家だという訳ではない。もちろん不法侵入をしている訳でもない。この屋敷は、あのチビの所有物で、俺はあいつの用心棒、ということになっている。

 ミストレア家と言えば、この国で知らない者などいない名家だ。生まれる子供は皆素晴らしい才能に恵まれ、誰もが大臣などの、国を動かす存在となる。

 そして、チビはそんなミストレア家の御令嬢。だが、あいつには何の才能もなかった。勉強、運動、芸術、魔法…どれをとっても、あいつはただの一般人程度の能力しか持っていなかった。だから、チビの両親はチビからほとんど全てを奪い、存在をなかったことにした。名前も奪った。『出来損ない』は、ミストレアの一族ではない。そういう考え方が彼らの中では当たり前のもので、今も昔も、そしてこれからも変わらないんだろう。

 自分のことを長々と語るつもりはないが、まあ俺もチビと同じ『出来損ない』だ。ミストレア家の衛兵の中でも、俺は落ちこぼれだった、というだけのことだ。

そんな訳で、俺とチビの『出来損ない』コンビは、令嬢と用心棒という名目で、森の中でひっそり……ひっそり? 暮らすこととなった。彼らとしては、同時に厄介払いができて万々歳だったんだろう。俺は、別にそれに対して怒りを覚えてはいない。集団の中で、異端は隅に追いやられ、いなかったことにされるかストレスの捌け口にされるか、二つに一つなのだから。

まあ、こんな結構薄暗い背景をぐだぐだと語っても、今更何も変わらないし、今の生活を不満に思ってもいない。

 ……いや、不満というか、悩みの種ならある。もちろんそれはチビのことだ。

チビはチビで、才能が無いなりに頑張っている。あいつは毎日毎日、俺でも読めない魔導書や分厚い本を読み漁り、1㎛ほども持ち上がらないダンベルと格闘し、俺をモデルにデッサンをする。そのため、俺は毎日毎日、筋肉痛に悩まされる。基本のポーズも描けないくせに、俺に空気椅子のまま考える人のポーズをさせるのはやめてほしい。何なのか、嫌がらせなのか。しかし本人は至って真面目なのだから、始末が悪い。あの子供っぽい、そして穢れを知らない真っすぐな瞳を見ると、怒るに怒れないのだ。何て甘いんだ、俺は。

そして、今日も俺はチビのたゆまぬ努力の尊い犠牲となった。あいつが作った魔法薬のせいで、俺は今声が出ない。わけがわからない。人を阿呆にする薬が、何をどうしたら声を封じ込める薬になるのか。冷凍食品を電子レンジに入れたら凍ったシャーベットになった、なんてことと同レベルだぞ。それにあいつは、阿呆になる薬を俺で試そうとしていたのか。何て奴だ。そして俺は何て不憫なんだ。本当にあいつは、いつもトラブルばかり起こす。だが、最初はうっとおしく思っていたそのトラブルだって、今ではすっかり俺の日常だ。あいつの存在は俺を支える柱であり、だが同時に俺を縛り付ける鎖でもある。俺たちは、凡人だ。それはどう足掻いても変えられないのだから。

 

 

そして、オレたちは、何もしない。アイツに何も教えない。ただただ、この世を侵食していく終焉を静観し、傍観し、諦観しているだけだ。何も変わらないし、何も終わらないし、そもそも始まってすらいない。

その単調で退廃的な生活の、なんと安らかなことか!

だから、オレはあいつを責めたりしない。むしろよくやったと褒めてやりたいくらいだ。あいつが、魔法を暴発させ、世界の半分を破壊し尽し、残りの半分に呪いをかけ、オレがその共犯として、ここに監禁されていたとしても、だ。

 こうして、オレたちの世界の平穏は、今日も保たれている。明日もきっと、何も変わらないのだろう。

 それでいい。それこそが、オレたちの幸福の形なのだから。

 

 

 私は彼が好きだ。そして彼も、私のことが好きなんだろう。

 決して恋慕に変わることはないその気持ちは、私たちをしっかり結びつける堅い綱で、世界はそれを絆というのだと知っていた。

 私はあいつが嫌いだった。あいつも彼と同じように、私のことを好いていた。でも、あいつの気持ちは紛れもない恋慕であり、呪いだった。あいつは私の為なら何でもし、私にもそれを求めた。その傲慢さが大嫌いだった。でも、私があいつに勝てるわけがない。力量でも、精神でも。あいつは彼とは違い、傷つけることに対する感情が欠如していたから、私のことも容赦なく傷つけた。それに、あいつのことが嫌いでも、彼のことは好きだった。でも彼はあいつであいつはかれでおなじなのにまったくちがってわたしはあいつがすきなのかかれがきらいなのかもうそれすらなにもわからなくなってどうしようもなくなってたすけてほしくていやだたすかりたいたすけてたすけてt

 そして私はあの日、いつの間にか一変した世界を眺めていた。無感動に、ただ淡々と。あいつはいつの間にか彼に戻っていて、そのことがすごく嬉しくて、苦しかった。そしてあいつにそそのかされて、取り返しのつかないことをしてしまったことにもすぐ気が付いた。怒りは湧かなかった。ただただ虚しかった。

 あいつが出てきた後、彼はいつも何も覚えていなかった。あの日もそうだった。だから、私は嘘を吐いた。何もできない私が唯一持つ、たった一つの武器。それを使って、彼がもう傷つかないように、上手く丸め込んだ。私は卑怯だ。でもあいつは、もっと卑怯で、残忍で、非情だった。

 私と彼とあいつが得た、束の間の平穏。私とあいつだけが知っている、その真実。彼の平穏を壊さぬよう、私は嘘を吐き、依然と何も変わらないように振る舞った。何の才能もない、でも無駄な努力だけは続ける、そんな私を。彼は私を、ホントの私を許しはしないだろう。非力な彼は、正義感だけはどこの誰よりも強かったから。

 嘘を吐き続けることで得る平穏。でも、それも今日で終わりだ。

 もう、耐えられないから。私よりも遥かに綺麗で優しい瞳を持った、大切な家族。もう二度とあいつに汚させはしない。

 隙をついて掻き切った、あいつの首。真っ赤な血の中に、綺麗な彼の瞳を見た。声を出せなくしておいてよかった。弱い私の心は、優しい彼のさいごの声を聞けば、あっという間に壊れてしまうだろうから。

 大好きで、大好きだった彼。もうあいつは、彼を穢すことはできない。

 さあ、最期の仕上げだ。今まで何も成し遂げられなかった私も、ようやく最期に何かを終えられる。どうしようもない気持ちでいっぱいだけど、私は今すっごく幸せだよ。

 あかいろのなかにみえたのは、だいすきだったかれの、きれいなきれいなひとみだった。

フールファーザー・ブラインドネス

 五年前、妻との間に子をもうけてから、このままの職では食いつなぐことすら難しいことに、今さら気がついた。娘が幼稚園へ通ううちは、まだ収入に余裕があるが、あと二年もすれば、義務教育のため、二、三倍の費用がかかるだろう。専業主婦である彼女は、私の仕事にいっさい口出しをしたことがなかったが、いつ不穏な口火を切るかもわからない。夜毎、ストレスのせいで抜け毛も増えてきた。いったい、どうしたものか、自分でもこれといった善策が浮かばない。

 そんなある日、私はインターネットで、ある記事を見つけた。動画投稿サイトへ動画をアップすると、その広告費でわずかながらの小遣い儲けが出来るらしい。ビデオカメラさえ用意すれば、あとは撮影だけで済むようなものだから、やや短絡的ではあるもの、私に持ってこいの話だった。

 いつもどおり帰宅し、妻がベッドへついた時間、ハンドカムを引っ張り出して、三脚に固定したが、なにを撮るべきかがわからない。まさか、三十の男がメシを食べているだけの動画なんて、誰が見るだろう。「人気の動画」に上がるのは、顔立ちの整った男女の駄弁りか、ゲームの実況プレイなどで、ただの会社員が付け入る隙がない。

 結局、何の動画も上げないまま、一週間が経った。この世に、日当たりのいい稼業などというのは都合良く存在しない。妻に気をかけさせぬようどうにかふるまってきたが、かといって、これに代わる素晴らしい案というのも、また存在しなかった。

 ある日、妻が、祖父の危篤のため、数日実家へ戻るといい、私と娘を残して家を出た。いつ帰ってくるかもしれないまま、私と娘は、急ごしらえの冷凍食品と、軽い惣菜だけで日々をすごした。娘は以前にまして無口になり、私がタブレット端末を渡すと、すぐさま食いついて何時間もはなれようとしなかった。

 そんな折、夕飯だというのにいつまでもソファでゴロゴロしている娘を叱ってやろうと思って、娘の持っていたタブレットを取り上げようとした、そのときだった。私は、娘が見続けていた動画を見て、ぴんとひらめいた。

 それは、娘と同年齢か、それ以下の子供達が、携帯ゲーム機で遊ぶ様子を動画にしたものだった。お世辞にも、まったく無関係の他人の子をかわいいとは思わなかったが、これなら、娘も喜ぶかもしれない。私は、きちんと夕食をたべるという条件のもと、娘に一つ提案をした。

 十九時すぎ頃、私は、はじめての動画作成にとりかかった。といっても、タブレットの画面をキャプチャし、プレイ中の娘の様子を、三脚に固定したカメラで撮るくらいの簡単なものだった。撮影を終え、娘がねむりはじめてから、容量の少ないラップトップで編集を行い、投稿サイトへアップロードを終えたのは零時過ぎだった。始めのうちは、こんなもんだろうと勝手に納得し、カバンへ書類を詰め、ベッドにもぐった。

 しばらく再生数に伸びはなかった。そんなことなどおかまいなしに、娘はあれやこれやと動画にするよう頼んできた。私は思いあぐねた。たとえ今、一万円の玩具で動画をつくったところで、黒字にならないうちはただのホームビデオにしかならない。やんわり断ったつもりが、娘は声高に泣き出し、そのままつかれて寝てしまった。二日後、妻が家へ帰って来ると、娘は着火剤でも入れたようにぱあっと笑顔になり、胸へ抱き着いてしばらくはなれなかった。

 三か月ほどで、ようやく軌道に乗り始めた。名の知れた動画投稿者の関連動画にぽつぽつと顔を出したのが功を奏したのだろう。ひと月、ひと月と経ていくごとに、再生数もうなぎ上りに増えつづけ、十か月も経った頃には、一動画あたり十万回再生の大台に乗った。一日一本上げていれば、一年あたり四百万ほどの収入を得るに至ったわけだ。

 娘へ感謝のしるしとして、ひと月に一度、欲しがっていたゲームや玩具をあげることにした。妻はそんな私達の様子を不思議がっていたが、収支に関しての話題を持ち出すと、すぐに頬をゆるめた。

 翌年には二人めの子をもうけ、あらたな家族の誕生を動画にアップすると、再生数はより跳ね上がった。娘が幼稚園を卒園し、小学校へ通いはじめるという旨の報告を上げると、これもまた大きな収入となった。低評価数を気にすることはなかったものの、大した問題もなく、末の子もすくすく育っていった。食費や、生活費、養育費にもなにひとつ困ることなく、私達は一日一日を過ごした。妻の顔には笑みが増え、たとえ私が飲み屋から遅く帰っても、溜息ひとつついて、それ以上はとがめなかった。

 なにもかもが順調に思えた、そんな浮かれたある日。

 動画投稿用に買い替えたラップトップに、メールが送られていた。まったく見知らぬアドレスだったので、迷惑メールかとあしらおうとしたが、ふと気になって、私はその、顔も知らない他人からの手紙に眼をとおした。

《三十歳無職の者です。毎日貴方様の動画を見させてもらっています。二人のお子さん、とてもかわいらしいですね。私は、もう何年も部屋から出ていませんので、女性とはおろか、男性とすら顔を合わせて話す自信がありません。おそらく、死ぬまで結婚することもないでしょう。私は、女性はひどく苦手ですが、貴方のお子さん二人となら、軽く打ち解けあえるかもしれません。いつになるかはわかりませんが、そちらのもとに、うかがわせていただきます。私は、とても、大丈夫な気がします》

 私はひどく狼狽した。果たして、なにか、住所がばれるようなことをしただろうか? 過去の動画を、ざっと見直してみたが、あくまで屋内での撮影に限っているので、そんなことは断じてありえない。しかし、この三十歳無職という点が、どうも引っ掛かった。決して冗談では済まされないような年齢だ。あらかたコメント欄をチェックしたものの、そういったような感想は見受けられなかった。とはいえど、実害がゼロな段階で、警察にかけあったところで、門前払いを食らうだけだ。「数日」という点に気をかけていれば、あとはどうにかなるに相違ない。

 私は、ある日、妻と話し合いをし、子供達の送り迎えをするときは、とにかく周囲に細心の注意を払うことにした。二週間ほど、私は、出社するとき、帰宅したときに、玄関になにかしらの細工がされていないか、疑り深く調べ尽くした。裏庭へサーチライトも設置したが、盗聴器だったり、なにものかが引っ掛かったりするような気配はまったくみられなかった。

 あの男のメールから一か月が経ち、停滞気味だった動画投稿も再開した。再生回数も倍々に増えていき、私はそろそろ、会社を辞めようかと考えていた。企業からの依頼や、動画編集のための時間が追い付かなくなり、仕事にも身が入りづらくなっていた。あと三か月ほど様子を見て、それから考えることとしよう。

 赤ん坊の世話をみるため、私は、早めに仕事を切り上げ、帰りがけに、家電量販店で娘の欲しがっていた玩具を買った。帰宅したとき、なにかが変なように思えた。地続きになったままの現実が、どこかでひずみを起こし、沈みこんで起き上がってはこれない。私は、重い足取りでリビングへ向かった。視界が心臓の鼓動と同じテンポで左右へ揺れ、口の中が唾液でざらざらした。

 ソファの上に赤ん坊と娘がいた。左手に提げていた袋を彼女らへ渡そうとした。そのとき、私は、今朝ぶりに自分の子を見た。

 顔中に赤々としたニキビが浮き、口周りは乾燥し、干ばつに遭った土地のように、あちこち皺で割れていた。それに、この青い髭……目元は落ちくぼみ、まるで容姿がなっていない……果たして、わが子の顔とは、こんなものだっただろうか? 私は、慌てて台所に飾ったフォトフレームに眼をやった。まったくのところ、似ても似つかない、男のような顔をしていた。集団感染にかかったよう……娘と赤ん坊は、私の買ってきた玩具に食いついて、包装紙を手づかみに破りはじめた。

「なあ、あんた、早く動画を撮れよ」赤ん坊は、紅葉のような手をぱたぱたとしながら言った。「仕事をやめるんだろ? 迷っている暇はないじゃないか」

 私は、抽斗からビデオカメラと三脚を取り出して、普段と同じ位置に立てかけた。カメラに映った赤ん坊は、下唇を突き出して、「はじめからそうすればいい」と吐いた。娘は、私の同僚のように笑いながら、箱のなかの玩具をテーブルに置いた。私はなにもいわず、ただ彼女達の様子を、動画に撮りつづけた。

「このパーツをここへつけるのかな」

 アルコールの絡んだ声で娘は言う。痰をかすめるような咳込みをし、「とっても楽しい」と言った。

 私は、娘を放って、トイレに入り、胸を押さえながらものを吐き出そうとした。なにも出てこなかった。「お父さん、早くしてよ」と急かす男の声がし、ふたつめの現実に引き戻された。次に、洗面所へ行き、鏡に映るおのれの姿をよく確かめた。間違いない、あの男と同程度の年齢の顔面だった。無気力感で、地面へべったりとくっついた。そのまま、駄々をこねるように、身をくねらせ、娘が私を呼ぶ声を、数十分にわたって聞きつづけた。

 あの男、とうとう、私の生活圏にまで浸食したのか! 上下の歯を軋ませ、喉を鳴らし、苛立った。ただのストーカーで済めばよいものを、こんなことになるまで、手を伸ばすなんて! 私は、娘のもとへ戻って、撮影を終えた。編集もせず、その動画を投稿サイトへアップした。

 再生数は伸び悩んだが、徐々に回復していった。私は仕事をやめ、妻は帰郷すると言って、二度と帰ってこなかった。

 二人の子供は、中学や高校へ通い始めたが、次第に、動画を投稿することも少なくなった。かつてあった彼女達の姿は、薄膜を剥いだようにぼんやり消えかかり、いまでは、あの男の姿ばかりが目につく。どこでなにを踏み外したものか、定かではないが、あのサイトは、経営破綻に陥り、広告収入はひとつもなくなった。

 私には、もう、どうだっていい。あの男との同居など、彼女達の養育など、もはや耐えられないのだ。私は、居酒屋の鴨居に縄をかけ、垢の詰まった爪で痒みを掻きながら、三十代の男を思って、泡となった。

 

 

著・斎木証

心年

 2016年が終わるまで、残り数分。僕は今、慌てている。好きな子からのLINE。送られてきた一言に僕は動揺を隠せない。

 

 「好きです」

 

 残り5房のみかんを一気に口に詰め込んだ。1房ずつ食べるはずだったのに……

しかし、このメッセージは本心からなのか……いや、そんなはずない。あの子には本命の人がいる。それは、毎日下校時に感じていた。3人でいてもあの子の目線はいつもヤツをおっている。……となると、僕に対するドッキリか? そう、きっとそれが正解。

 

 「それ、ドッキリでしょう?」

 

 既読がつく。2つめのみかんに手を伸ばす間もなく、スマホが震える。

 

 「バレた? 面白い反応を期待したのに」

 

 いつもイタズラばかりする子だ。この前も、僕が貸したノートに小さな落書きして返してきたものだ。本人曰く「担任の先生」らしいが、全くそうには見えなかった。どちらかというと、隣のクラスの先生に見えたのだが……

いつもなら、あの子の考えが手に取るように分かる……はずだった。それなのに、今は全く分からない。まさかとは思うが、僕の本心を知っているのか? それは怖い。向こうの本命は僕ではない、分かっている。フラれるのに決まっているのに……

 

 「そんなこと、本気にするわけないでしょう?」

 

 あの子は僕を、ただの友達としか見ていない。バカみたいにふざけたり、テストの点数を競ったり、一緒に再テストを受けたり……そんな日常が続いていくだけなのだ。本気であるわけがない。だから、もう……こんな会話、終わってほしい。

 スマホが震える。

 

 「やっぱりそうか……少しだけ本気だったのに」

 

 ……えっ? 本気だったって? でも、「少しだけ」ってどういうことだ? クエスチョンマークだらけの頭の中。さらにスマホが震える。

 

 「本心が知りたかっただけだよ」

 

 ……何を望んでいるのか、予想もできない。相手の本心なんて分からない。けど、自分の本心を伝えることは出来るはず。決心した。震える指を動かし、LINEを送る。

 

 「僕は好きだよ」

 

 届いてほしい、僕の本心が。

 

 テレビの中のアイドルが

 「ハッピーニューイヤー!」

 って叫んでいた。

 

 

著:永遠都魅靡兎

世間は狭い

 家から遠い場所にある高校から、今日もぼんやりと、電車の扉横の手すりにもたれながら、家まで帰る。 それは智咲にとって、いつもと代わり映えのしない風景であった。

 この電車に乗っている間に見えるものは、ほとんどが地下に通った穴を内側から見ただけの固く冷たいもの。家に近づくにつれて、地上の風景は見えるようになるものの、いかんせん電車から見える風景は次から次へとすぐに変わってゆき、ゆっくりと「風景」というものを見ている気にはなれない。

  それでも、智咲には気になる場所があった。

(あそこらへん、散歩に良さそう)

 それは、一瞬だけ、山から真っ直ぐに注いでくるように見える川のことだった。 スマートフォンが震えた。 誰が何を送ってきたかと思えば、幼馴染の弥生のSNSメッセージだった。

『暇』

 たった一文字。 暇な奴に構っている暇はない。 智咲は、自分より賢い高校に通う弥生が羨ましかった。 ただ、こういう人間性的なところは、嫌いではないにしろ、もう少し自重してほしい。

『いま、下校中。あと、散歩してくるから暇ではありません』

 とだけ打って、智咲はスマートフォンを上着のポケットに入れた。 何も気にしないで、ただ散歩にだけ集中したい。そういう意思表示のつもりだ。

  知らない駅に降りるのははじめてのことであった。 高校生にもなって、未だに学校や家の最寄り駅以外の駅に降り立ったことがほとんどないというのも、我ながらとんだ箱入り娘だなぁ。 智咲はいつにもましてのんきな気分で、ちょっとした遠出のつもりで、真下にその川が見える駅に降りた。

 寒く、風がスカートの間を通り抜ける。 改札口がどこかさえすぐにはわからず、危うく迷うところだった。 まばらな人の流れにしがみつくようにして、慌てて駅の出口を探す。 がしゃん、自販機で温かい飲み物を買う人。 こつこつ、ヒールで歩く若い女の人。 ごとごと、上りか下りかわからないけれど、電車の通りすぎる音。 出口をようやく見つけ、階段を一段下りる度に、色々な音が遠くなっていく。

「わぁ」

 ここに降り立った今日だけは、何だか空が綺麗だった。 糸を引くような形の雲が、幾つも幾つも重なって、夕方の光に照らされている。 写真を撮ろうかな、と思って、スマートフォンを取り出そうと上着ポケットに手を突っ込んで、空にフォーカスを合わせようとしたとき、誰か背の高い人と肩がぶつかった。

 線路に沿って駅の入り口を通りすぎようとした少年だった。

「あっ、ご、ごめんなさい」

「いや、いいです」

 ほんとに、すみませんでした――と重ね重ね謝ろうとすると、ぶつかった相手から、

「……その制服って、〇〇ですよね」

 と、独特の低い声で話しかけてきた。

「え?」

 彼の言った言葉は、地名だった。

 制服が、地名?  疑問を感じたが、少し考えてみると、それは自分の通っている高校名にも一致していたので、智咲はギクリとした。

 見も知らぬ人に、下校中の寄り道を指摘された。そういうことだ。 言葉を失って、智咲はばつが悪そうに下を向いた。 智咲よりうんと背の高い少年は、困ったように頭をかいて、

「いや、何でもないんすけど、あ、その、ストーカーとかじゃないんで」

 などと、これまたとんちんかんなことを口走った。 「えっ、ストーカー?」

「あっ、そうじゃないんです、ええ……」

「私、停学でしょうか」

「……えっ?」

「あなたに指摘された通り、私は下校中にここの川を散歩しようと……つまり、寄り道したことになるんですね。あなたが私の通っている高校の名前を知っている、ということは、」

 話がお互い噛み合わなくなってきた。

「……とりあえず、どこかに座りましょうか」

 智咲は、少年の言葉にうなずいた。

 

「中学生なの? 年上かと思っちゃったわ」

 駅の近くに、丁度ベンチのある公園があった。 そこに座って、川を眺めながら、智咲と少年は落ち着いて話をし始めた。

「はい。僕こそ、そちらのことをてっきり中学生かと思ってしまって……」

「うっ、いいのよ、言われ慣れてるから……」

 私の身長を馬鹿にするような人間を一人ほど思い出しながら、智咲はそう返した。 カラスが夕日に吸い込まれるように飛んでいく。 それを合図にしたかのように、少年は打ち明け始めた。

「……実は、そちらの中学に、僕の双子の姉がいるはずなんです」

「あぁ」

「親が離婚して、同じ市内には住んでいるんですけど、全く会う機会もないというか……会わないように仕向けられてるような気までしますね。しかも向こうは、僕と違って進学校にちゃんと通っているし」

 だから、話しかけてきたんだ。

  中高一貫校は制服がどの学年もほとんど一緒だが、智咲の通っている高校とその中等部とでは微妙に制服のつくりが異なる。 微妙な違いがわかれば中学生か高校生かわかるが、そこまで見ていると思われるとストーカー犯罪者にされる可能性もあることから、彼は微妙な聞き方をしたのである。

  そんな細かいこと、気にしていないかもしれないが――そう考えたとき、智咲は、ひとつ、自分の中で思い至ったことがあった。 勝手に理屈をつけて自分で納得する。それが自分の悪い癖だと思いながら、それを色々な人に指摘され続けてもきたのに、全く自分がその指摘を聞き入れたこともなく、成長していないことにも気づいた。

「大丈夫ですか?」

「あっ、ごめんなさい。ちょっと、気づいたことがあって」

「どんなことですか?」

「ええとね。自分でわかってて、身の回りの人に指摘もされているのに直せないことがあったの。でも、今みたいに、全然話したことのない人と話したときに、自分の悪い癖に改めて、いや、むしろ新鮮さも伴って気づき直せたのよ」

 相槌を打ってくれる少年もまた、いくらか刺激を受けているようだった。

「なるほど。ところで、その悪い癖って具体的に何なんですか?」

「まあ、今さっきの話では、あなたがどうして私の制服について聞いてきたのかって、自分なりに理屈をつけて勝手に納得してしまったこと」

「そうなんですか。でも、そこまで気を遣って自分の考えを曲げなくてもいいですよ」

 少年は、少し遠慮がちに笑ってみせた。

「いやぁ、それが困ることもあってね」

 これこそが、正直、私の中の今一番解決しなければならない問題だった。

「教えてください」 「いい? 数学が壊滅的に出来ないの」

「数Ⅰと数Aなら、僕でも教えられますよ」

「うそ。だとしたら、私の弟よりもずいぶん賢いのね」

「いえ……僕、ホントは学校行けてませんから」

 その雰囲気から薄々想像はしていたが、改めて聞くと、その言葉の異様さが嫌になるほど際立っているように感じられた。 お姉さんと会いたくても会えないのも、きっとそれが理由だろう。 彼には彼なりに、準備がいると思っている。 それでも、たまたま会えたとしたら……。

「そっか……」

 初めて会った人と、ここまで話し込むことがあったろうか。 気づけば辺りは完全に暗くなっていた。 ほとんど駅周辺から動いていなかったので、迷わず駅に着くことができた。

「散歩しに来ていたんですよね。お邪魔してどうもすみませんでした」

「いいえ、いいのよ。ただ散歩するよりは、うんと楽しかったし、たくさん考えたから身になったと思うわ」

「こちらこそ。気を付けて帰ってくださいね」

「ありがとう!」

 お姉さんを見つけたら教えるわ――そう言おうとしたけれど、相手方の名前を聞くのをすっかり忘れていた。 ポケットから出したスマートフォンを点けたとき、撮ろうとしてそのまま撮らずじまいになっていたカメラの画面がそのままになっていた。 ついでに、SNSのメッセージ通知も溜まっていて、その全てが弥生からだった。

『は?』

『散歩ってどこだよ』

『おーい』

『駅まで行くぞこの野郎』

 弥生、残念だが私は君の彼女ではない。 彼女は私の可愛い後輩、中三で、ばりばり部活もしていて、身長もスタイルも私より何っ倍も可愛い……。

「あ……」

 見つかった。

 

執筆:水瀬 出海

努力とは

past


ドン! 駅前の道を歩いていると肩に強い衝撃が走り、思わず振り向く。ぶつかってきたのは二十代前後の若い男。男は軽く会釈し、またとぼとぼと歩いていく。あまりにも日常的で、ありふれた光景。なのに男の背中を見ているうちに僕は激しい胸騒ぎに襲われる。胸騒ぎと共に、脳裏に一つの情景が浮かんでくる。
 先程の男が近くの中学校に侵入し、女子生徒を人質にして立てこもっている。遠くからサイレンの音がして、男は何やら悪態をつきながらそばにうずくまっていたもう一人の女子生徒の腹に無造作にナイフを突き立てる。刺された女子生徒の甲高い悲鳴と、周りの人質たちの声にならない悲鳴。男はさらなる獲物を探すかのように辺りを見回し…
 そこで僕の意識が戻り、視界も目の前は立てこもり現場から駅前の猥雑な風景に戻る。これが僕の能力の『時渡り』だ。自分の体に触れた者の数秒後の未来を見ることが出来る。つまり、これから近いうちにあの男は立てこもり事件を起こすということだ。僕は深いため息一つついてから男を追いかけた。
 暫くすると目の前に中学校が見えてきて、先程の男が中に入っていく。守衛の姿を探すが見当たらない。恐らく巡回中なのだろう。仕方がないので僕も男を追いかけて中学校に入る。昇降口にさしかかった所で上から悲鳴が聞こえてきた。急いで階段を上り、先程『視た』教室に飛び込む。ちょうど男がナイフを懐から出し、近くの女子生徒に突き立てようとしていたので、ナイフの腹をつま先で蹴り上げる。握力はさほど強くなかったようで、手から離れたナイフがクルクルと放物線を描いて黒板のそばの壁に突き刺さる。思わぬ乱入に戸惑う男の喉に掌底を叩きこむ。崩れ落ちる男の右腕を寝技で固めながら教壇で立ち尽く先生に指示する。
「お前、駅前の男だよな。なんで俺が立てこもりをしようとしてたのが分かったんだ?」
 固められた腕の痛みに顔をしかめつつ、男が聞いてくる。
「まあ、色々あってね。それよりも、なんでこんな事をしようと思ったんだ?」
「お前には関係ねえ、勇者様が」
 そういう男の瞳に僕に対する憎悪とは違う、諦観のようなものが見えて思わず話しかける。
「関係なくはないだろう。言うのはタダなんだから話してみなよ」
 男は一瞬逡巡した後、ポツリポツリと話し始めた。
「俺は小さい時から何をやっても上手くいかなかった。勉強も、スポーツも、人間関係を構築することさえ出来なかった。俺だって努力したんだ! なのに全然上手くいかなくて、周りからは馬鹿にされて…正直、もう限界なんだよ!だから俺だってやろうと思えば出来るんだってことを今まで馬鹿にしてきた連中に思い知らせてやろうと…」
「お前の間違いを二つ訂正しよう。一つ目はお前を馬鹿にしてきた連中に思い知らせると言っていたことについてだが、こんな事をしたところで連中が悔い改めるとでも思ったか? だとしたらよっぽどの馬鹿だな。二つ目は努力しても上手くいかなかったと言ったが、本当に努力したのか?そこには一切の妥協が無かったと言えるか?」
「ああ、努力したさ! それでも…」
「嘘だな。本当に努力した者なら、こんな馬鹿げたことで自分の価値を下げようとは思わないはずだ」
「それは…でも」
「でも、何だ? 現に今お前は何をしている? ただ諦めて子供のように駄々をこねているだけじゃないか。それがお前の全てだ」
 やっと警察官がきて、男を彼らに引き渡す。連行されていく男が少し不憫に思えて声をかける。
「刑務所できちんと罪を償ったら、カンボジアのスモーキーマウンテンに行ってみろ。そこで働いてる子供たちを見れば、少しは何か感じるだろ」
 男はかすかに頷き、そのまま連行されていった。
    四年後
 「それがあなたの更生の理由ですか! カンボジア国内では貴方を英雄視する動きも広がっており…」
 俺はお世辞を言うリポーターに適当に相槌を打ちながら、これまでのことを思い出していた。
 俺の犯行を未然に防いだ妙な男から行けと言われたカンボジアのスモーキーマウンテンに行くと、十歳に満たない子供たちがその日の食料を買うための金を稼ぐために命を削っていた。ゴミの山からは絶えず煙が上がっていて、肺の奥が焼け付くように痛くなる。そんな中、黙々と働く子供たち。ゴミ収集車が来ると、我先に殺到していく。そんな姿を見て決意した。もうひと頑張りしてみようと。
 廃品の中からケータイやゲーム機などを選り、中からレアメタルを取る、。気の遠くなるような作業の末、手のひらいっぱいのレアメタルを換金して巨大な磁石と工具を買う。それらを駆使してさらに効率よくレアメタルを集め、ついには小規模だが廃品回収所を立ち上げた。これまでスモーキーマウンテンで働いていた人たちを全員雇い、給金を弾み、食堂と診療所を立ち上げた。いつしか諦めの表情を浮かべていた人たちの顔に笑顔が戻り、政府からは正式に廃品回収とその処理に尽力してほしいとまで言われるようになった。
 今、あの男に会ったら何て言うかな。そんなことを考えながら、俺はカンボジアの青い空を見上げた。
                                          fin

狼少年

狼少年

 汚い犬を拾った。毛は泥だらけでゴミだらけなのに、その目だけは爛々と輝いていた。「生きたい」と、私に向かって叫んでいたような気がしたのだ。
 私は学校帰りだったから、いったん家に帰って荷物を置き、大きめのタオルを持ってまたその場所へ引き返した。そこには依然としてその汚い犬がいて、吠えるでもなく私を見つめてきた。タオルにくるんで抱き上げても抵抗を見せなかったので、少しほっとした。
 今日は家には誰も帰ってこない。明日も夜勤だから、会えるのは明後日だろう。それまでにこの子を何とかしなければならない。とりあえず私は、犬を洗ってやることにした。
 犬は水を嫌うのものだと思っていたが、どうやら全てがそうというわけではないらしい。犬用シャンプーなんて物はないので普通の石鹸を泡立ててやったが、気持ちよさそうにしていた。タオルで拭いてやり、そのまま何となくソファーの上に乗せてやると、そこに座り込んでじっとしていた。私は、あまりに抵抗しないので元気がないのではと心配になったが、今の時間では動物病院なんて開いていないだろう。そもそも私一人で連れていけないかもしれない。とりあえず犬を拾ったことだけ母にメールしておいて、今は様子を見ることにする。幸い明日は休日だ、時間はある。
 ネットで犬に与えてもいい食事を調べ、結局適当に余っていた野菜を切って与えることにした。
 少しの時間だし、と犬をそのままソファーの上に放置して台所で野菜を切っていると、ドン、と何かが落ちる音がした。驚いて見に行くと、ソファーの下のラグに少年が転がっていた。少年だ。驚いて声も出なかった。
「……」
「いったあ……。あ、お姉さん。シャワーありがとうございました」
 少年はニコニコと笑いながら話しかけてきた。よく見ると少年の頭には獣の耳がついていて、毛の色もさっきの犬と同じ。ありえない現象に慄きつつ、恐る恐るその少年に話しかける。
「さっきの、犬……?」
 すると少年は、怒ったような顔で声を上げた。
「犬じゃないよ! 僕は狼だ。絶滅したとされるニホンオオカミの末裔なんだぞー! 僕はとっても長生きなんだ。もう何万年も生きてる」
「ええ、本当に? ちょっと待って……ごめん、信じられないわ、そんな」
 私の脳はとっくにキャパオーバーだった。ニホンオオカミの、少年……?
 私が頭を悩ませていると、突然その少年は笑い始め、ついにはラグをバンバン叩きながら笑い転げ始めた。
「あは、あはははは! おかしい、お姉さんってば素直! 冗談だよ、途中からはね。そんな真剣な顔しないで!」
 私はため息をついて台所へ引き返した。
「途中から、ね。どこからが冗談なのか知らないけど、私が拾ったあなたが犬の姿をしていたことは本当。とりあえずある程度信じてあげるから、とりあえずこれ食べなさい。不審なことしたら警察に引き渡すからね」
 切った野菜を差し出すと、フォークは? と聞かれた。犬、もとい狼らしく手で食べればいいのに。
 野菜を食べるそいつを眺めつつ、さっきチンした自分の夕食を手に、聞いた。
「これからどうするの? 犬じゃないんだったら、捨てられたわけでもないんでしょう。私は明日あなたを保健所に連れて行くつもりだったんだけど。あなた家はあるの?」
「あるよ。今日はたまたまあそこにいただけ。まあ、何万年も生きてるわけで? 退屈してたんだよね」
 にやにやと笑いながら答えられて怒りがわくが、正直その犬の耳をつけた珍妙な姿でからかわれても怒る気になれない。むしろげんなりしつつ、もう一度問うた。
「はいはい。それで? 結局どうするの。さっさと家に帰ったらいいのに」
「うーん、まあ、すぐに帰るよ。ところでお姉さん、家族は?」
「夜勤。今日、明日は帰ってこないよ」
「そっか。だからか」
 何かに納得したようにうなずいて、野菜を食べることに集中しはじめる。その自由さにあきれつつ、追究する気にもなれなくて自分も夕食を食べ始めた。
「……実は、僕ね。本当は人間なんだ」
「え?」
 驚いて視線を上げると、にやにやと嫌な笑みを浮かべていた。
「もう! 何がしたいの!」
「あははは、ごめんごめん! ところでお姉さん、明日はお姉さんの誕生日?」
「え? ええ……どうして分かったの?」
 悪びれない様子でいきなり飛んできた問いに、私はさっきまでのいらだちを忘れて驚いた。確かに明日は、私の誕生日だ。……誰も家にはいないけど。
「そこのカレンダーに書いてあるんだよ」
 見れば確かに、リビングのカレンダーには明日の欄に私の誕生日だとしるしがついていた。私は書いていないので、母が書いたのだろう。
「誕生日ね。人はそれを祝うんでしょ? じゃあ、俺も祝ってあげる!」
「はいはい。何でもいいから、満足したら帰ってよね」
 私は自分の食器と、すでに食べ終えていたらしい彼の食器を流しにおいた。
「私、お風呂入ってくるから。そこのドア寝室。先寝てて」
 そういい捨てて、リビングを後にした。
「分かった、おやすみ! 良い夢を!」
 後ろから、彼の声が追いかけてきた。

『君は嘘つきだね』
 闇の中から、声が聞こえてくる。
『本当は寂しいくせに』
「うるさい。別に、家に誰もいないのなんていつものことだし」
 それに……それに今年は違う。
「今年は、その……あの犬もどきもいるし」
『そうだね。でも、朝までいるとは限らないよ。ねえ、誰かにそばにいてほしい?』
「……そうだね。欲を言えば……」
『欲を言えば?』
「……お母さんがいい」
『そうだね。ねえ、もう夢は覚める。さて、どこからが夢だったでしょうか?』
「え?」
 闇から響く声は反響し、しばらくすると闇は端から徐々に白んでゆく。
 夢は覚めるのか。そう思って目を閉じる。最後の台詞の意味がよく分からないな。

「ちょっと! 起きなさい!」
 母の怒鳴り声で目が覚めた。
「え……あ、お母さん!? 何でここに……今、何時?」
「もう9時よ。今日は一緒に出掛けましょうって言ったじゃない。私も久々に休み取ったんだから、早く支度しなさい!」
 意味が分からない。今日はお母さんは仕事じゃなかったの?
 枕元を見やると、一枚の紙が置いてあった。そこにはこう書いてある。
『良い夢は見れたかな? さて、どこからが夢だったのでしょうか! 嘘つきな君の本当の願いを叶えましょう。
2016.10.31 狼少年より』

(終)


Written by 蜃気楼