あるものこばみ

見える限りの遠くの向こう

猫の声

 

電話越しに聞こえてくる猫の声。

何度か写真を見せてもらったことがある。スコティッシュ・フォールド。猫の顔立ちにも美醜があるとすれば、整っている、と言える。端正な、というよりは可愛らしい感じ。愛嬌のある美人、とでも言おうか。どちらかというと人懐っこいらしく、抱きかかえられるのは嫌がるが、向こうから近くに寄ってくる。撫でられるのは嫌がらない。膝には乗らないが寝転んでいると腕に乗ってくる。性格は気ままそのものらしいが、不思議なことにそれがあまり「猫らしくない」とのこと。どういうことかと尋ねてみても要領を得ない。人生のほぼ全てを猫と過ごしてきたその子をして「この猫はわからない」と言わしめる振る舞い。曰く、この子は自分の可愛さをわかっているのではないか、と。だとしても振る舞いそのものの奇妙さの説明は付かないよね、とも。

人間のそれと同様に、猫の自由さにもある程度の定型がある。その組み合わせが個性だ。人の声に「反応するかしないか」を決めている節があったり、寝るか遊ぶかを自身の思うところに従ったり、好き嫌いがあったり、好きだったものを急に食べなくなったり。しかしこの猫はその定型の全てに当てはまらない。鳴くタイミングすら不思議だ。全く意図がわからない。遊べと言っているのか、空腹を訴えているのか、それとも他の何かなのか。推測する材料さえ与えてくれないほど急に鳴き始め、しばらくそれを続け、そして急にやめる。鼻歌のようなものなのだろうか?猫も歌う?そうであれば楽しいな、とは思うが……。

この猫の不思議さはなんなのだろう。本当の自由を謳歌し、本物の気ままさを見せることで、人に飼われている限りどうしても制限される「自由」に抗っているのだろうか。それとも特に何も考えていないのだろうか。あるいはもっと深遠な猫特有の哲学があるのだろうか。人間の、しかも家人でもなければ対面したこともない存在が好き放題に想像するそれらを、俺はその子にも伝えたことがない。電話越しで聞こえてくる声と、写真で見る姿と、その子から聞く話に満足している。

ところでこの猫、声がめっちゃくちゃ変なんよな。いやマジで。

その整った顔立ちと艶やかな毛並みからは全く想像できない声。文字に起こすなら「びゃあ」といった具合の、喉を絞められているような、潰されかけているような声。びゃあ、びゃあ。びゃっ。びゃあ〜。と自由気ままに鳴くその変な声と、送られてくる写真で見る姿のギャップに毎度毎度新鮮に驚いてしまう。この声で鳴いててしかも鳴いてる意図もわからへんの?うん、なんか突然鳴くの。突然鳴いて、突然鳴き止むよ。なんやそれ。わかんない。でも可愛いよ。それはわかるけども。びゃあ。びゃあ〜。変な声やなあ。可愛いでしょ。いや声は可愛くないよ。びゃっ。可愛いのにね。びゃ。

その子は大抵スピーカーモードで電話をするので、飲み物を取ってくるなりで席を外したときに俺はその猫と二人きりになる。変な声やなあ。びゃあ。そろそろ俺の声くらいは覚えてくれた?びゃっ。会うたら声の印象も変わるんかな。びゃあ、びゃあ。俺は大抵イヤホンを付けて電話をしているので鼓膜に直接そのケッタイな声が響く。びゃっ!うるさっ。めちゃくちゃマイク近づいてるやん。びゃあ〜!なんで声張るねん。離れろよ。びゃあ。離れるんかい。

電話越しに聞こえてくる猫の声。

変な声だ。でもそれが好きだ。

 

黒猫の名前


猫。猫の話をしましょう。好きな人も多いし。

その地域の主みたいになってる猫。野良猫同士の生存競争的な意味ではなく、人間に対しての。つまりそこに行けばだいたい会えるし撫でても泰然として貫禄のある類いの猫。みなさんも一つくらいは思い出す顔があるんじゃないかと思う。俺は二つある。黒猫とペルシャ猫。今日は黒猫のお話。

その黒猫と出会ったのは21歳のとき。そのときの俺は宅浪という名目でニートとして過ごしていて、その日も受験勉強という大義名分で図書館に行って小説を読み漁っていた。物語が一区切りついたところで俺は煙草を吸いに外に出た。そのときの俺はまだ喫煙者だったし図書館にもまだ喫煙所があった。ゴールデンバットをゆっくりと吸ったあと、座りっぱなしで固まった身体を少しほぐすかと歩き出した俺の目の前、自転車置き場のど真ん中。野良にしては肉付きのいい黒猫が居た。香箱座りをして目を細めて気持ちよさそうな顔。春だしな、たたずむだけで心地良いよな。ところであなた、近づいても全然動じませんね。

この黒猫のことを俺は「図書館のヌシ」と呼んでいた。
他の人がどう呼んでいたのか、今ではもう知ることができない。

黒猫は図書館の敷地内のどこかに必ず居た。人目に付かない物陰のこともあれば入り口の真正面のこともあった。そしてどこに居ても泰然としていた。そういう理由で自然と俺はその黒猫をヌシと呼びはじめた。ヌシのことは誰もが慕っていた。みんなヌシの姿が目に入ると「お、居るね」といった様子で声をかけたり、撫でたり、笑顔になったりしていた。ヌシは人間がどんな行動をしようと香箱座りで目を細めるばかりだった。よちよち歩きの幼児が喜びのままに撫で回してもヌシは全く動じずにあくびをしていた。親御さん流石に止めたげてよと思ったが、まあヌシが平気そうならいいか、と俺は煙草を吸っていた。図書館の職員さんがヌシに挨拶をしていた。俺はそれを見て、ここはちゃんとヌシの居場所なんだな、と勝手に安心しながら煙草を吸っていた。時には順番待ちができていることもあった。上品なご婦人がなにかを話しかけながらヌシを撫でている後ろで、ベンチに座っているカップルがそわそわとそれを見ていた。俺は煙草を吸いながら、今日はヌシを撫でれそうにないな、と思っていた。ヌシはずっとそこに居た。俺は煙草を吸いに外に出るたびにヌシを探した。俺の図書館通いの日々はヌシとの日々だった。しかしヌシは突然居なくなった。俺は煙草を吸いに外に出るたびにヌシを探した。ヌシを見かけることは一度もないまま次の春が来た。受け入れるしかなかった。

あとから知ったのだが野良猫の寿命というのはとても短いらしい。そのときの俺は今よりもさらに無知だったし世間知らずだった。ヌシとは長い付き合いになるんだろうと思っていた。仮にも受験生だった俺は大学に合格したら故郷を離れるつもりだったから、たまに帰省したときは図書館に寄ってヌシに挨拶をしよう、なんて思いながら煙草を吸っていた。野良猫の寿命がそんなに短いなんて知らなかった。俺はなぜか事故ではないという確信を抱いていた。誰かに拾われたわけでもない、寿命だったという強い確信。根拠はない。とにかく、野良猫の寿命がそんなに短いなんてそのときの俺は全く知らなかった。

図書館に毎日のように通っていながら利用者はもちろん職員さんともまともに話したことのなかった俺は、当然ヌシについての話を誰かとすることもなかった。みんながそう呼ぶひとつの名前があったのかもしれない。ヌシがいつから主なのか知っている人も居ただろう。人々がヌシを悼む言葉を交わし合う様を想像する。寂しさを分かち合う相手が居なかった俺はあのときからずっと寂しいままで、今でもたまにこうやってヌシのことを思い出す。香箱座りで目を細めて気持ちよさそうな黒猫。

ヌシとの出会いがきっかけで俺は猫が好きになった。だから猫の話をしましょう。
みなさんも一つくらいは思い出す顔があるでしょう?

 

和らぎ水


自分は日本人にしてはかなりアルコール耐性があるほうだと思う。
それがよくない。調子に乗って飲みすぎて失敗したことが何度あるか数え切れない。
なので俺は数え切れないほど反省している。なのに反省しても反省しても反省の種が生まれる。
これではいけないと思った俺は対策を考え始めた。どうするべきか。先人の知恵から学ぼう。

和らぎ水。酒の合間に水を飲むことにより深酔いを防ぐらしい。へえ。
理由はともかく美しい言葉だから採用。
俺の基本方針は和らぎ水でいこう。あとハイチオールC。水商売の人が愛用してんなら間違いない。

というわけで俺は酒を飲むときはできるだけ水を飲むようにしている。
美しい言葉というのはそれだけで動機になる。
「いま俺は和らぎ水を飲んでいるのだなあ」と思うためならちゃんと水を挟める。

和らぎ水。美しいなあ。

和らぎ水に類するものが生活の他の場面にもないか探そうぜという気分になってきた。
だって美しいものはたくさんあったほうがいいから。ええやん。探そう探そう。何があるかな。
徒手空拳で暗中模索するのも楽しいけれど、今回は和らぎ水の本質的な要素を分解するところから手がかりを掴んでみる。つまり和らぎ水は「二日酔い」というリスクを最小限にしながら「酩酊の楽しさ」というリターンを最大化するための行動なわけだよな。となるとリターンがある行為から逆算したほうが見つけやすいか。例えばそうだなあ。

とかやってて一発目に思い付いたのが「黒烏龍茶」なんですよね。背脂系のラーメンとか食べたあとの。
いや内容としては近い気がするんだけど、そうじゃなくて。
他にもっと俺が望んでいるものがあるはずだ、そう自分に言い聞かせ頭を働かせど働かせど出てくるのは「焼肉のあとのハッカ飴」とか「バーゲンで買いすぎたあとの節約」とかで、あとはなんだ、賢者タイムとかか?それはなんか違う気がするな。いやそんなんどうでもええわ。どっちにしろ欲望のあとの帳尻合わせばっかりやん。そもそもなんか和らぎ水の本質からずれてないか?そうじゃないねん。いやそうなんやけど。などという混乱。できなくなる判断。簡単な提案。諦めればええやん。

精神的方面に和らぎ水を見い出せば救われる気がする。
と思ったんだけど、多分その和らぎ水って美しかったとしても寂しすぎるなと思ってやめた。
だってそれはリターンとリスクをコントロールするための行為なわけで。
たとえば友人達と心の底から笑ってるときや愛する人と穏やかに過ごしてるとき、ずっと応援してたアイドルの晴れ舞台を観たときや長年抱えていた悩みが解決したとき。とにかく楽しいときとか嬉しいとき。
それらをもしリターンとして捉えるならその場合考えられるリスクは?なんてことを考えるだけでめっちゃ寂しいのに、「そのときに和らぎ水の役割を担う行為」にまで思いを巡らせるの、無情すぎて寂寞じゃない?
まあ多分その心の機微は成熟するにつれて身につけるべきものなんだろうし、そこから生まれる寂しさは間違いなく美しいだろうけど、マジ知ったこっちゃねえって感じ。ハッピーなときは全力でハッピーやったほうがハッピーだからな。俺はそういう精神で日々を生きているし、酒を飲んでいるし、だからいつも失敗する。
大事だね、和らぎ水。

なのでまあ、和らぎ水の美しさを堪能するのは酒を飲むときだけでいいや。
それを口実にして飲めるし。

 

駆られて

 

最後にある程度の量の文章を書いてからもう3年弱も経ってるらしい。
怖い。

必要に駆られて、という理由でまた文章を書く。
文字数も回数も期間も何にも決めてない、誰に宣言するつもりもない、詳細に説明する予定もない。
なんせ書く。必要に駆られちゃったもんだから。

昔は馬鹿のひとつ覚えみたいに延々と文章を書いていたのにいつからか全然書かなくなったのはいったいなぜなんだろうと考えたとき、やっぱり最初に思い付くのはTwitter、次に出てくるのが短歌。
でも多分両方あんまり関係ないんだろうな。そんな気がする。
ここで出てきた「そんな気がする」の補足に何万文字でも費やせていたことを思い出す。
それは「わかってほしい」という絶叫だった。(寂しかったんだねえ、友達たくさん居たくせに)
いつのまにか自分や自分の内面について語りたいという欲望が小さくなったんだろう。
それは散文詩を書かなくなったことや弾き語りの曲を作らなくなった理由とも辻褄が合う。
自分の中にかつて確かに居たそういうバケモノのことを考えると可哀想だなと思う。
年を重ねた程度でそれなりに上手く孤独と付き合えるようになってごめんな。
でもまあどうせそのうちまた出番あるよ。のんびりやってこう。

で、思う。書くことないなと。
バケモノのための絶叫を文字起こしする必要のなくなった今の俺にいったい何が書けるんだろう。
早速やめたくなってきた。
でも書くんだろうな。
なんせ必要に駆られちゃったもんだから。

 

蜜柑みっつ


突然の眠気に襲われたこの機を逃すまい、と22時前に眠剤を飲んだら狙い通りにすっと眠りに落ちて、そして期待を裏切る時間に起きて、寝直せずに深夜を超えて早朝だ。よくある話か。

よくある話といえばなぜ果物には特別な意味が付与されやすいのだろう。
眠れない早朝に小腹を満たすために食べている蜜柑みっつを見ながら不意に不思議に思う。なぜ?社会が豊かになり高嶺の花の座から降りてきてもやはりまだ非日常の佇まいを忘れてはいないからか。でもたとえば蜜柑なら昔から別にそんなに高級品じゃないはずだしこの仮説は全くもって的外れだろうな。などと考えながら蜜柑みっつが皮だけになる。

食べ終わってから、焼き蜜柑って一般的なのかしらん、とこれもまた不意に思う。
さいころ祖母がよく出してくれた、オーブンで焼いた熱々の蜜柑。素知らぬ顔で生活しているけれど、実は未だに自分の中で蜜柑といえばオーブンから焦げ目が付いて出てくるイメージの方が強い。祖母が老い、オーブンが壊れ、買い換えるほど頻繁に使わなくなり、そのうちに祖母が居なくなり、もうかれこれ何年食べてないだろう。焼き蜜柑。果たしてあの工程を経ることによっておいしさが増すのかどうかについて今となっては曖昧だけど、まあこういうのはそういうのじゃないですよね。って誰かに聞かれたら言おう。

なぜ果物には特別な意味が付与されがちなんだろう。一番有名なのは林檎か。この国なら檸檬もなかなか。西瓜、メロン。いちじく。蜜柑。蜜柑かあ。焼き蜜柑、久しぶりに食べたいなあ。

 

こっわれちゃってて


お気に入りのヘッドホンがこっわれちゃってて。もう何ヶ月経ったか。買うお金もないし諦めて音質もへったくれもないスマホのスピーカーや安いイヤホンで音楽を聴いている。
前に同じ機種が壊れた、壊れたというか断線か、断線したときは衝動的にTwitterでその旨について泣き言を書いたら誰かがAmazonのほしいものリストからプレゼントしてくれて、あのときのあの人が誰だったか未だにわからないんだけど、そういうわけでこのヘッドホンも音が聴こえなくなったからといってたやすく処分できそうにない。先代は先代で長らくニート生活をしていた自分が単発日雇いバイト以外の初めての収入で買ったものなので愛着があって今でも実家の棚に置いてある。
ヘッドホンがこっわれちゃってて、かなしいというより寂しいなぁと思いながら音楽を聴いている。素晴らしい音楽は音質に左右されずに素晴らしいけど。

壊れちゃってて、という表現と、こっわれちゃってて、という表現のあいだには、サーカスの綱渡りみたいな心細いつながりしかない。かろうじて意味するところが同じなだけな言葉を同一視するのは、それはまあ、危うい。危うい、と、あやうい、のあいだのつながりもそうだ。綱渡りほどではないけれど。
言葉は総合芸術だから意味の他にも文字や音程やリズムに左右されるでしょう。だから、壊れちゃってて、と、こっわれちゃってて、は、かろうじての繋がりしかない寂しい関係です。
昔の恋人というよりはゆきずりの夜と僕は捉えている。あなたと共有できるかは、まあ、知らない。

何せヘッドホンがこっわれちゃってて、寂しい。

 

昨日の話

 

姫路城を囲むお濠に沿って並ぶ木々の中に、春が来るたびに先走っては誰よりも早く終わってしまう桜が居て、やはり今年も誰よりも早く花を咲かせていました。きっとまた一番に終わる春です。

 

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なんとなくゆるしてしまう


ようやく甥と姪の顔を見ることができた。

正確に言うと従甥、従姪というらしいが、そんな面倒くさい言い方はしなくていいだろう。
僕には三人の従兄弟が居て、上から姉、兄、兄。兄二人は兄弟だ。
一番上の姉とは一回り、一番下の兄とも確か7つか8つは離れていて、だから小さい頃から随分とかわいがってもらっていた。
そしてある時から兄二人とは疎遠になってしまった。それが冒頭の一文につながる。

疎遠になった原因は僕が叔母を憎むようになった原因でもあり、それは伯母と叔母の対立が決定的になった原因でもあった。
詳細はどうでもよくて、ただそういう事実があって、それぞれに言い分があって立場があった。
つまりそういうことだ。
叔母の息子たちである兄二人とは、僕が叔母を憎むようになって、だから避けるようになったことで疎遠になった。

それからもう随分の時間が経った。
偶然、久し振りに叔母と顔を合わせた。
なんとなくゆるしてしまった。
こういうことがやっぱりあるんだなと思った。

つい先日にも似たような出来事があって、これも(より積極的な理由で)仔細は語らないが、その再会は三年振りだった。
再会それ自体は「なんとなく」の産物ではなかったけど、そのきっかけになった自分の心変わりは全く「なんとなく」だった。
なんとなく、いつのまにか、心の区切りがついていた。

我ながら慧眼だと思う。
要はこういう感じで無自覚に精一杯時間の力を借りることで、なんとなく心変わりができたし、なんとなくゆるしゆるされることができたのだろう。
僕はこれをたいへんによかったと思う。

そういうわけで、叔母から兄二人それぞれの子供を見せてもらった。
どちらもとてもかわいい。
姉のところの子供も合わせて、僕には甥が二人と姪が二人いる。
早くお年玉をあげられるようになりたい。

ひとはなんとなくひとをゆるせるということ。
なんとなく全部ひらがなで書きたくなる一文ですね。(了)

 

星空の贋作と可視化する石柱


編み出したというか、結果的にそうなっただけなんだけど、名付けるならば「有終の美」禁煙法はとても効果的であることをお伝えする必要があるので少しお時間をいただきます。
昨日は本当に本当にものすごく心の底から煙草が吸いたくて堪らなくて堪らなくて目の前のセブンスターを一本頂こうかと何度も葛藤がありましたが、「Golden Batの両切りが最後の一本」というログを絶対に上書きしたくないと思うとなんとか我慢できました。自分でも驚いた。
最後にはやはり愛が勝つのです。
平凡な綺麗事にこそ真理が宿っています。
殺す。

たとえばこの文章が延々と改行なしの一行で書かれたとして、それをバカ正直に水平方向にとても長い一枚紙として印刷するとしたら、それを読む人に対しての最初の挨拶は「少し時間をいただきます」ではなくて「少し時間と距離をいただきます」になるのだろうか。
延々と歩くことによって果てしなく中身のない文章を読む体験。
神戸あたりでやったら山で始まって海で終わらせられるかもしれないし、それは少し良い思いつきかもしれない。

今日は午前中に散歩しました。
プラネタリウムのことを考えていた。
そんなに回数は行ったことないし、本当に星座なんて全く知らないんだけど、プラネタリウムのことはたまに考える。
動物園でカバを眺めるのと同じ感覚でプラネタリウムについて考える時があります。
今日が久々のそれでした。
プラネタリウム好きなんですよ。
天体に興味もなけりゃ観に行くのも面倒臭いと思うんだけど、好きなんです。
その存在に勝手に安心感を覚える。
僕の中でどこまでいっても偽物でしかない存在の代表格がプラネタリウムです。
社会というのは茶番の集大成ですね。
つまりイデアが咽び泣くような出来損ないの贋作が贋作のくせに自分こそが本物だとでも言うような顔で自由に溢れているわけです。
絶対に殺す。と思うことしきりですが、それで上手に回っている側面は無視しちゃダメですね。
個人的な感想ですが、たとえば祈りなんかは茶番の中でも好もしいですしね。
けど理屈が幾らわかっても折り合いのつかなさは積み上がっていって、けれど賽の河原ですらない世知辛い世界には崩してくれる鬼が居ない。
すなわち自分で解体作業をします。
それがプラネタリウムについて考えることです。
美しく壮大で緻密な偽物。
贋作であることに価値があります。
安心しましょう。
最初にプラネタリウムを思いついた人間は間違いなく発狂していました、断言ができます。
その人間にも思いを馳せましょう。
そして安心しましょう。
偽物でも良いのです。
偽物だから良いのです。
そういうものがちゃんとこの世界にもあるんです。
安心できましたか?

プラネタリウムのことを考えながら歩いていたら墓参りに巻き込まれました。
散歩がてら寺でも覗くかーと歩いて、人の流れに歩みを任せてみたら見事に墓参りに巻き込まれた。
線香の香りとともに、連綿と続く血縁が可視化されています。
あの四角い石柱はそのための装置なのかもしれない。
まだ幼い子供が訳も分からずに手を合わせているのをぼんやりと眺める。
自分の知る限りここには私が手を合わせるべき人は誰一人眠っていないし、あるいはだからこそランダムな選択を経てどこかの墓石に手を合わせるべきなのかもしれない。
心なしか蝉の声は控えめで、その代わりに子供の声がよく響く。
緑は好きなだけ色を強めて、日差しは強すぎてむしろ笑えて、気休め程度のそよ風が結局頼もしい。

十年生存率というものがあって、だから父は本当になんでもないように、買い物を手伝わせるついでに気軽に遺言を放り投げた。
予想通りに予想してなかったタイミングで渡されたそれは予想通りに予想以上の重みで私の心に刻み込まれた。
延命も葬式も墓石も要らない。
言葉にすれば一行で済むし、事実父は一言で伝え終えて、私も「わかった」の一言で終わらせた。
おそらくは祖父と父のあいだにも似たようなやり取りがあったのであろう。
わたしが生まれる前に死んだ祖父。
仏壇はあるけれど墓石はない。
おそらくは。おそらくではあるが。

可視化できない血縁はほとんど呪いに近くて、そういうことが容易にわかります。

そういうことを考えました。
今日はたくさん歩きました。

 

やわらかい水色


今日も床は水浸しだ。

もともと水はけなんて考えてつくられてないんだから仕方ないってベテランの人たちは言うけど、仕方ないで済ませていいものじゃないと思う。
水の抵抗っていうのは思ったよりも大きくて、少し歩くだけでとても疲れるし、何より長靴をずっと履いていると足が蒸れてうんざりする。
でも今日は少し気分がいい。
何を隠そう今日の長靴は下ろしたてなのだ。
やわらかい水色。
色味のない作業服と合わせるとそりゃアンバランスだけど、職場、それも工場でトータルコーディネートなんて気にするだけ無駄だからよいのだ。

やわらかい水色。
わたしが一番好きだった空の色。
おねえちゃんがいつも歌ってくれた空の色。

ちょうどわたしの十四歳の誕生日に、世界から空がなくなった。
というのはもちろん比喩で、外に出て上を見ればそこはやっぱり空なんだけど、とにかく人類が空を失ったって発表があった。
いろんな国のその時の一番偉い人が同じ場所に集まって、とても悲しそうな顔で演説をしている様子が全世界で同時に放送された。
真夜中でもう寝ちゃってたからリアルタイムでは見なかったけど、その後ずいぶんと長いことどのチャンネルもその映像を繰り返し流したから、普段ニュースを見ないわたしでもうんざりするほど目にすることになった。
その時のわたしは今よりももっとぼんやりしていたから難しい説明はよくわからなかったし、学校で先生がひとりごとのように零した言葉の意味もいまいちピンと来なかった。
実は今でもよくわかっていない。
ただ、わたしが好きだったあの空の色はもう見られないんだ、ってことだけがわかって、少し悲しくって、でも涙は流れなかった。

それから四年とちょっとが経って、わたしは学校の推薦で近所の工場に就職した。
空がなくなっても人間の生活はそんなに変わらなかった。
相変わらず働いたり勉強したりしながらご飯を食べて眠っている。
わたしは高校で優等生とは言わないまでも問題児でもなかったので、すんなりと就職先が決まった。
もともとは機械の小さな部品をつくっていたらしいけど、空がなくなった少しあとからは雪をつくっているらしい。
らしい、という言い方になるのは、わたしが実際にここで雪を見たことがないからだ。
なんで雪をつくっているのかっていう理由も知らない。
興味がないと言えば嘘になるんだけど、なんとなく聞きにくい空気があったし、そもそもそういうことは最初に向こうから説明されるものだと思っていたからタイミングを逃したって理由も大きい。

とにかくわたしは雪をつくる工場で働いている。
もう半年になる。もうすぐで誕生日だ。十九歳。

次が十代最後の一年だと思うと少し真面目な気持ちになることもあるんだけど、あんまり実感が湧かなくてその真面目が続かない。
この調子でどんどん大人になっていくのかな、なんて考えながら今日もぼんやりと機械をいじっている。
半年も毎日同じことをしていると大体のことは頭をからっぽにしていてもこなせるようになる。
かと言って油断し過ぎると失敗して叱られるから、そこらへんのさじ加減が重要なのだ。
みんなそうだろうけど、叱られるのは嫌なものだ。
この職場はみんな良い人ばっかりだから、怒鳴られたり嫌味を言われたりするわけじゃないんだけど、いや、だからこそか、叱られるとかなりへこむ。
どうもわたしはわかりやすい人間らしく、へこんでいると周りのひとがとても気を使ってくれて、ますます申し訳なくなってしまう。
けど、そういうときにとなりのラインのおじさんがこっそりとくれるあめ玉は結構好きだ。
基本的に職場内での飲食は禁止なんだけど、この時だけはみんな見てみぬふりをしてくれる。
透き通った深い緑の色をしていて、口に入れるとほんのりと甘くて、そしてこれが一番大事なんだけど、とても素敵なお茶の香りが広がる。
紅茶ではないのだ。緑茶なのだ。
ギリギリとはいえ十代の女の子の好みとしては渋すぎるかなって我ながら思わないでもないけど、わたしはこのあめ玉が大好きだった。

色も、甘さも、香りも。みんなの見てみぬふりも。
全部やさしさだ。ちょっとだけルールを破ったやさしさ。

押し付けじゃないから甘さもちょうどいいのかもしれない。
わたしの思ういちばん良いやさしさをそのままかたちにしたみたいなあめ玉だと思う。
どこで売っているのか聞こうと思ったことは何度もあったけど、自分で買っちゃったらなんだかいろんなものが損なわれる気がして、未だに聞かないでいる。
そういうことは多分、たくさんある。

もう今となっては昔の話だけど、雪が空から降ってくるものだったころ、その結晶に同じかたちは二つとしてなかったらしい。
難しいことはやっぱりよくわからないけど、どうも、雪のもとになる氷のつぶがわたしたちのいる地上まで降りてくるときの条件が大事だそうだ。
その条件によって結晶のかたちが決まるんだけど、自然界では全く同じ条件なんて存在しないから、結果的に雪の結晶はどれもみんな違うかたちになるんだとか。
なんでこんな話をするかっていうと、わたしが担当しているラインがその結晶のかたちを決めるところだからだ。
かと言って、なにか図面みたいなものを渡されてそれを正確に再現する、みたいな作業ではない。
というか、それはとても難しいからできないと教えられた。
じゃあ何をするかっていうと、実は自分でも何をしているのかわかっていない。
渡されたよくわかんない紙に書かれたよくわかんない条件を教えられたとおりに機械に入力するだけ。
それだけ。
この作業にどんな意味があるのかなんて全くわからない。
入ったばかりの頃は誰かに質問してみようと思ったこともあったけど、そういうことを聞くのはなんだか失礼な気がしたし、多分だけど誰に聞いても答えなんて帰ってこない気もしたから、わからないままでいる。
というか、もしかしたらここで働いている人たちはみんなわたしと同じなんじゃないだろうかと思う。

だってそもそも、ここでつくられた雪はどこにもいかない。
どのラインでつくられた雪もみんな最後にはひとつのラインに集められて、そこを出たら溶けてしまう。

だからいつだってこの工場の床は水浸しだ。

さっきわたしはここで雪を見たことがないって言ったけど、これも正確にいうとわたしだけじゃなくてこの職場に居るみんなが同じだと思う。
温度管理だかなんだかで作業ラインは全部機械で覆われていて、雪は全部ずっとその機械の中を通っていくから、見ようと思っても見ることはできない。
わたしたちが見るのは溶けて消えてしまった雪の成れの果てだけ。
足元に溜まって歩くことを邪魔するこの水の高さだけがわたしたちが見ることのできるわたしたちの仕事の成果だ。
多分どこもこんな感じなんだろうなって思ってるんだけど、他の仕事をしたことがないからなんとも言えない。どうなんだろう。

もうなんとなく伝わってるだろうけど、だいたいわたしはずっとこんな感じでぼんやりしている。
自分のことも自分以外のことも、いろんなことをぼんやりさせたまま相変わらず働いたり遊んだりしながらご飯を食べて眠っていた。
気がつけばいつの間にか働き始めてから一年とちょっとが過ぎていて、もうすぐ十代が終わってしまうって焦り始めた頃に、突然天井が水色になった。
色彩による効果で集中力を高めるためとかなんとか、偉い人が朝礼で言っていた。
本当にそんな効果があるのかどうかわからないとみんなは言っていたし、わたしもそう思うけど、正直に言うと少し嬉しかった。
わたしが好きなあの色とは少し違うけれど、色合いが近いってだけで充分に好ましいものだ。
そういうものでしょ?

それに、下を見ると水色が水面に反射して、少し空に見えなくもない。
もうなくなってしまったあのなつかしいやわらかい水色。
そっくりそのままってわけじゃないし、偽ものと言ってしまえばそれまでだけど。
だけど、わたしたちは少しだけ取り戻したのだ。

あしもとに、空を。

おねえちゃんがいつも歌ってくれた曲の名前だ。