スカイ・イクリプス

スカイ・クロラシリーズの後日談などを含む短篇集です。
この作品で、かなりのネタバレがされています。

うーん、かなりすっきりしましたが、それでもまだ分からないこともあります。

取り合えず、以下はネタバレです。


まず、主人公がだいたい確定した気がします。

ということで、基本的に主人公は「草薙水素」なんでしょう。


クリタジンロウは、草薙水素の脳内人格、という説も考えましたが、カイとの会話にかなり無理があるのと、
草薙瑞季が「クリタ」という男性を見ていることから、フラッタ・リンツ・ライフだけはクリタという
人物がいたと思って間違いないでしょう。


また、どうやら草薙瑞季キルドレではないようです。瑞季自身は草薙を「カンナミ」と呼んでいますが、
それが草薙水素であることを知っています。瑞季は水素を「お姉様」と思っているのですが、実際のところ
妹なのか娘なのかまでは読みきれませんでした。


草薙水素は、最後はカンナミユーヒチという人格に落ち着いたようです。自分は女性だと認識しているようです。
スカイ・クロラではフーコと寝たような感じだったので騙されました。

この作品、あまりにもトリッキー過ぎて、文字通り「映像化は困難」ですねw
森先生が言われるだけのことはあります。


それにしても、スカイ・クロラ草薙水素はいったい誰だったんでしょう?
カイが身代わりになっているとかいう説も考えましたが、後日談にカイが出てくるのでそれもないでしょう。
この謎が解けないと、重大な見落としをしているようで安心できません……

クレイドゥ・ザ・スカイ

森博嗣さんの「スカイ・クロラ」シリーズを最後まで読みきりました。

そして混乱。

おおー、そういうことですか!?と非常に混乱。

とにかく、この作品から自信を持って「これがシナリオです」と言えるものは分かりません。非常にトリッキーな展開で作品が作られています。2、3個のシナリオは考え付きますが、どれもいまいちしっくり来ません。うーん、やっぱり凄いよ、森さんは。

一番混乱するのは「スカイ・クロラ」の草薙水素とカンナミユーヒチって誰?っていう点です。クレイドゥ・ザ・スカイのおかげで、誰が誰になったのかよく分かりません。
記憶が混濁し、自分のことと他人のこと、最近のことと昔のことが入り交じってしまう「僕」。どれを自分の記憶として選択するかによって、自分が何者なのかという意識まで変わってしまい、もはや「僕」が誰だったのかもわからなくなってしまいます。


作品全体を通して綴られる事実と意図的に隠されている事実。

そして、登場人物達によって次々と重ねられる嘘と真実。


どれを真実と受け取るのかによって、何とでも取れてしまうような気がします。でも、森さんのことだから、ある選択肢以外は全部矛盾するように作られているような気もします。

でも、


誰だか知らないけど、誰だって関係ない。


そんな気分にさせる不思議な作品に仕上がりました。森さんなら何かやってくれるかと思いましたが、やはり凄いとしか言いようがありません。


それにしても、これ、映像化は不可能っていうのも頷けます。

ストリートビュー

なんだか、Googleストリートビューがプライバシー侵害ではないかという議論が出てきています。

確かに、怖いなぁという意見もあるだろうし、自然です。

しかし、そういった意見の人たちは、これまでもそういったプライバシーの侵害が可能だったということに気がついていなかった、と言う点を見逃しています。これまでだって、他人の家を見ることは可能でしたし、そういったことにノウハウを持っている「探偵」という職業があることを忘れているのでしょう。

ストリートビューは、インターネットの流通革命が実現できることを単純にみんなの前に提示しただけです。Googleという会社をどう思うか、という議論は意味があるとは思えません。たまたまGoogleという会社がその変革期にいただけのことです。Googleと言う会社がなかったとしても、数年の誤差の範囲で同じようなことはできるようになったでしょう。


最大の問題は、Googleが提示した未来のあり方に今の社会が対応できていない、ということでしょう。家の前を全世界に公開されると不安になるということは、家の外観を見られても大丈夫なように工夫をしていなかったということの裏返しです。今の世の中に満足している人は「なんでわざわざそんなコストかけて対応しなきゃいけないの?」って思うのだろうし、そういう人ほど革新的なGoogleの仕事を嫌うのでしょう。

Googleや類似の技術を封じ込めることを考えても意味がありません。むしろ、こういった機能がアングラに潜る前にGoogleという社会的に認知された企業がサービス化してくれたことをありがたく思うべきです。


個人的には、「今日いきなり訪ねてこられても、部屋の中掃除してないよ〜」って慌てるのは分かりますが、「二度とうちに訪ねて来ないでよ!」っていうのは無理なんじゃないの?って思います。

良い、悪いは別として、インターネットという技術の本質はそういうものです。現実社会の情報とインターネットが隔離しているって思うのは間違いですし、上手く融合出来るように社会の仕組みがどうすべきかを真剣に検討しなくてはいけないでしょう。


もしかしたら、それは「これは見られても大丈夫!」って開き直ることなのかもしれません、と本気で思います。以前よりも、若い人が自分の中身をネットで公開することに抵抗がなくなってきているような気がしますし、逆に自分のことを語りたがるようになっているようにも思えます。結局は、手段に合わせて社会が変わっていくんでしょう。

文字列の結合を高速に

ネタです。
rubyの文字列の結合を非破壊的に、でもそれなりに速くしてみましょう。

非常に簡単に、遅延評価をするようにしました。ただし、スタックのサイズとかに限りがあるので適当にごまかしながら。

class StringList < String
  attr_accessor :__list
  attr_accessor :__count

  def initialize(a = "", b = "")

    if a.is_a?(StringList) then
      @__list = [a.__list]
      @__count = a.__count
    else
      @__list ||= [a.to_s]
      @__count = 1
    end

    if b.is_a?(StringList) then
      @__list. << b.__list
      @__count += b.__count
    else
      @__list << b.to_s
      @__count += 1
    end

    #[ヒューリスティクス] 100回に1回は文字列を実際に結合
    to_s if @__count > 100
  end


  def to_s
    if @__count > 1 then
      @__count = 1
      @__list.flatten!
      self << @__list.join
      @__list = [self]
    end
    self
  end


  def +(b)
    return StringList.new(self, b)
  end

end

def do_test(klass)
startTime = Time.new.to_f

sum = klass.new("")
50000.times{|e| sum += e.to_s  }

endTime = Time.new.to_f

$stderr.print( sum.to_s )

puts "#{klass}" + (endTime - startTime).to_s + ' sec'
end


do_test(StringList)
do_test(String)

ばかばかしいですが、こうなりました

StringList1.43057894706726 sec
String7.53255987167358 sec

うーん、こういうクラスをうまく使うところはないのかなぁ。

続スカイ・クロラ

スカイ・クロラの感想を頭の中で整理して文書化していたら気づきました。

スカイ・クロラの小説版と映画版は同じプロットをなぞっているけれども、そこに含まれる意味合いはかなり異なるし、主題も違うのですね。

キルドレと言う永遠に子供でいられるという舞台装置を作ったときに、それぞれ言いたいことが違っています。


森さんの原作は、子供から大人になるときが来ることを否定した生き様を見せることが主題でした。そこには「綺麗だ」という生き方への憧れを抱くことはできますが、(永遠を生きられない)読者が共感することは難しいかもしれません。


押井監督の映画版は、お互いを認めて依存して、それによって日々に希望を見出しています。子供から大人になることを描いているので、受け手は素直に共感できます。ただ、小説で繰り返し主張されている執着することへの嫌悪をひっくり返しているわけで、原作のテーマから見ると明らかに異なる結論が出ています。


主人公の

少なくとも、昨日と今日は違う。
今日と明日も、きっと違うだろう。
いつも通る道でも、違うところを踏んで歩くことができる。
いつも通る道だからって、景色は同じじゃない。
それだけでは、いけないのか?

と言う台詞は、小説版では大人にならず永遠の子供を生きることを肯定しますが、映画版では同じ台詞で大人になる覚悟を伝えています。まったく同じ台詞で逆のことを伝えています。


映画版を見て、すっと納得できた理由がようやく見えました。つまりは自分の理解できる生き方を言っているからなんですね。
そういった根本的な意味の違いを見ると、作品作りって面白いなって思えます。

「スカイ・クロラ」と喫煙

はてなの日記を見ていて知りました。

日本禁煙学会が「スカイ・クロラ」に喫煙シーンに関する公開質問状を出したようです。


すごく笑えます。

なぜって、「スカイ・クロラ」や森博嗣作品を一度でも読んだことがあれば、こういった反応こそがもっとも皮肉られて、揶揄されている対象だとわかるからです。
(もっとも、この質問状を書いた人が原作の小説まで読んだとは思えませんが。)
公開質問状は
http://www.nosmoke55.jp/action/0808skycrawlers.pdf
から見ることが出来ますが、内容を読むと思わずニヤけてしまいます。この質問状では「国際的な動向」や「国内外の動きがある」と言った言葉が何度も出てきていますが、「みんながそうしているから、あなたもそうしましょう。」という、まったく合理的な理由のない言葉が延々とつづられています。もちろん、こういった運動自体が間違っているとは思いませんが、森作品では一貫して、こういう合理的な説明のないものを(説明を求めるのを諦めて)だまって受け入れられる人を「大人」、受け入れられない、ある意味で純粋な人を「子供」と呼んでいます。


スカイ・クロラ」は公言されていますが「子供」の話です。子供というのは年齢が若い、ということではなくて、考え方が純粋で妥協がないことをさしています。これは「四季」シリーズでも出てくる主題です。
大人が合理的でない説明をしたときに、それを納得せずに、思うように行動するのが子供です。だから主人公たちはタバコを吸っているわけだし、理屈でない理屈を振りかざさない「喫煙者」の上司を信頼するわけです。タバコを吸うこと自体が彼らが物分かりの良くない「子供」であることを主張する道具なわけです。


すくなくとも、小説版の「スカイ・クロラ」は「道徳的なこと」「大人の世界」に対して純粋な疑問を持って子供のまま向き合う主人公たちの話です。既存の道徳観念とは真っ向から対立している主題を提示していますし、そこに脆弱な説明しか持たない大人の社会の本質を描き出そうとするのは森作品の一つの特徴です。そんな内容を理解していれば、絶対に日本禁煙学会のような頭ごなしの反応はせずに華麗な対応をすると思いますし、日本禁煙学会の立場では、礼儀的な言い回しだとしても「タバコの件以外ではすぐれた作品」などと言い切ることは絶対に出来ません。

喫煙シーンはそういった空気を読んでワザとやっているわけですから、この質問状は完全に釣られています。

日本禁煙学会の質問状は、それがそのまま「スカイ・クロラ」で喫煙シーンが多い理由を表しているような気がします。そして、そのシーンに意味があるものであることをそのまま説明しています。


凄い皮肉です。滑稽です。笑えます。

スカイ・クロラ

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追記

この文章は「ダウンツ・ヘヴン」まで読んで書いていたんですが、実際に「スカイ・クロラ」シリーズを読み通したら原作をものすごく間違って解釈をしていることに気がつきました。ただ、映画のシナリオ自体が「ナ・バ・テア」までをベースにしたようで、偶然矛盾なく受け入れることが出来てしまいました。それに、監督の意図もムズムズすることなく、すんなり入って来ました。

偶然って怖いですね・・・

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映画の「スカイ・クロラ」を観てきました。
ネタバレを含む感想です。これから見に行こうと思っている人は注意してください。

押井守監督の作品なので、普通であれば押井作品だと思って鑑賞するのでしょう。そして、ほとんどの人が「押井守らしい作品だった。」と言うのだと思います。
意味深な台詞。語られない世界観。提示される虚構のモデル。
こう言った押井監督のテイストが随所に散りばめられています。

しかし、一方、原作の森博嗣作品を知っている人ならば完全な森博嗣作品だと納得するでしょう。

予習

攻殻機動隊」の原作と映画がかなり異なる趣きの構成になっていることは間違いないと思います。監督によって今回の「スカイ・クロラ」がどのように調理されるのかを知るために、まずは「スカイ・クロラ」の小説を読んでみました。
得られた結論は「押井作品にするのであれば、そのまま忠実に映像化するしかないはず」というものでした。
押井監督が好みそうな演出と台詞が随所に散らばっているのです。元々、森博嗣作品にはそういった傾向がありましたが、この「スカイ・クロラ」は特にそういった傾向が強い印象を受けます。「キルドレ」という設定がないと作品自体が成り立たない、一見すると全く主張が理解できない作品であることも押井監督の作風とマッチします。


という予習を踏まえて映画を見てみました。

予習の答え合わせ

実際のところ、ストーリーの大半の部分は原作を忠実に映像化した、と言っても過言ではありません。

2時間という枠で理解しやすいようにストーリーが整理されていたり、一部分は続編の「ナ・バ・テア」から取られていたりと再構成されていますが、基本的なシーン、台詞はほとんど原作にあるものが使われています。

登場人物のイメージも、ほとんど原作から忠実に再現されています。
(いきなりの笹倉の設定変更で冷や汗を書きましたが、これも笹倉の役回りが変わっていることを理解できれば大きな違いではありません。)

しかしながら、押井監督が「真実の希望」を表現したというだけあって、大きな変更もあります。

ネタバレ:スカイ・クロラはどんな話か?

造られた不死の人が戦うことを定められた世界、作られた戦争によって人々が平和を実感できる世界。その前提がこの作品の根底にあります。この設定がなければ、この作品は基本的に成り立ちません。

老化がなく、死ぬことがない人「キルドレ」は、空戦用の戦闘機のパイロットとして扱われます。普通に暮らしていたら死ぬことはないけれども、明日戦死するかもしれない閉塞感。その行き当たりばったりなことしか出来ない前提が受け手と共有できないと、そもそもこの作品は理解できないでしょう。


大抵のパイロットは戦死してしまうので、若く短い人生を歩むことになります。自分の存在意義を考えても仕方がない、だから今を生き延びるために目の前のことだけに執着するようになる。目の前のこと以外に執着がない、という思考方法になります。主人公のカンナミ ユーヒチ(映画ではユーイチ?)というパイロットは、そういった閉塞感漂う人生に明け暮れています。逆に、そうしなければ同じことの繰り返しの日々に耐えきれなくなるか、逆に明日が知れない兵士の状況に耐えきれなくなります。これを主人公たちは「自分たちは子供だ」「大人にならない」と表現します。身体的に大人にならないだけではなく、精神的に大人にならないという意味でしょう。


一方、元エースパイロットで今は上官の草薙水素は、凄腕であるために生き残り、その分いろいろなものを経験しています。(このあたりの「いろいろ」の部分は、実は「ナ・バ・テア」以降に書かれています。)彼女には「ティーチャ」「草薙瑞季」といった、目の前のこと以外に執着するものができてきて、それにも縛られるようになります。「キルドレ」としての矛盾を抱えてさらに閉塞感の増す彼女は劇中で「破綻している」と言われます。さらに彼女は、自分たちの人格が輪廻のループにある消耗品である可能性にも気づいています。消耗しない肉体に別の人格(もしくは記憶)を与えて何度でも再生されているという可能性が劇中に示されています。
破綻は生きることの難しさのハードルを高くし、人格が消耗品であることがその困難さを生き抜くモチベーションを低下させます。
その結果、彼女が得たものは、「消耗品とみなされている自分の人生(=人格)をいつ終わりにするか決定することで、運命を自分でコントロールする」という自由に対する執着です。

#余談ですが、キルドレの設定について、映画では異なっている気がします。不死とクローンがごちゃ混ぜになっているような気がします。


草薙水素とカンナミユーヒチの関係が中心にストーリーは展開します。草薙水素が何を考えて行動をしたのか、そのカンナミが出した答えが草薙に与えた影響はなにか、そういったことがこの映画の主題になっています。

ネタバレ:では映画は?

小説と映画ではラストが違います。このラストの差にこそ、押井監督の「真実の希望」を見出すことができます。
具体的な内容は言いませんが、小説版は繰り返しの完成、映画版は繰り返しからの脱却、といったところでしょうか。

小説版では、カンナミと草薙は同格の存在として扱われているような気がします。映画はあくまでも「草薙水素」という人の物語です。カンナミと草薙の役回りは違います。カンナミのとった行動によって草薙水素という人格が肯定されます。それはすなわち、生きていくことに対する執着を得ることになるし、子供であることを脱却できるということでしょう。続編である「ナ・バ・テア」の要素もうまく取り込まれていて、うまい具合にカンナミの行動によって草薙が救われた、という思いを共有できます。また、カンナミ自身も繰り返しの日々を脱却したいと思う一歩を踏み出せた、ということもできます。


小説版と映画版のどちらが素晴らしいか、は甲乙つけがたい所があります。おそらく、読者に訴えたい内容が微妙に異なるからでしょう。ただし、共感という点では圧倒的に映画版の方が馴染みやすいです。普通なら、森作品のほうが押井作品よりは共感しやすい気がするのですが、今回は逆なのかもしれません。


ついでに、カンナミの最後の顛末は全てエピローグなので、「おしまい、おしまい」というやつです。あれをやっとかないと、スタッフロール後のあのシーンを持ち出せないので強引にまとめました、ということでしょう。
ただし、小説で起こるであろう同様のシーンとは意味合いが違います。

小説と映画はセットで1つ、というような気がします。1粒で2度おいしい、というところでしょうか。