市町村制覇記

自転車で日本の全市町村を制覇する過程を記録するブログ

日本最大の半島・紀伊半島の海岸線を一周しよう!①(三重県亀山市〜和歌山県新宮市〜和歌山市)

2020年12月27日〜29日

三重県亀山市和歌山県新宮市和歌山市 372km

2020年の年末、私は東京から実家のある京都府に帰省するついでに、1ヶ月前の東北縦断に続く一大プロジェクトを遂行した。それが、上の地図にあるルートの通り、三重、和歌山、奈良の三県に跨る日本最大の半島、紀伊半島の海岸線を自転車でぐるりと一周する旅である。ただ、結果から言うと思わぬトラブルにより、江住駅〜白浜駅間の約40kmは鉄道を使ってしまい、自転車のみで一周することはできなかった。それでも、この旅には何物にも変えがたい経験となった。

 

1日目

三重県亀山市尾鷲市 121km

さて、東京から新幹線で名古屋まで行き、そこからJRの鈍行に揺られて1時間、すでに制覇済みの亀山市の中心駅、亀山駅に到達した。この亀山駅で自転車を組み立てて出発し、まずは紀伊半島の海岸線を目指して南下した。

僅かに存在する起伏を超えつつ内陸の道を走っていくと、津市に入った。三重県の県庁所在地だが、古来よりの大動脈、東海道から外れた地にあるからか、人口は26万人と、県内二番目の地位に甘んじている。

田んぼが続く道を走っていくと、道と交わる高速の先に津市街地のビル群が見えてきた。

そして津市街地に入った。津はその名の通り、古代から重要な港として用いられてきた地で、安濃津と呼称されていた。江戸時代に入ると藤堂氏32万石の城下町として繁栄し、それが現在にまで至る県庁所在地、重要都市としての位置を形成している。平成期には南隣の松坂市と共に周辺の市町村を併合しまくり、全国有数の面積を誇るようになった。

津市からは海岸付近を走る国道23号線を南下し、松阪市に入った。

松阪市といえば今や日本で最も有名なブランド牛、松阪牛でよく知られ、市内にも多数の松阪牛ステーキ店が存在する。牛の鳴き声を元にしたスタジアムも存在する。

また、松阪市も津市同様、城下町として栄えた地である。さらに、松阪は商人が集まる地だった側面もあり、この地の商人の家に生まれたのが歴史の教科書にも出てくる「国学者本居宣長である。現在も人口は15万人であり、経済拠点としてなおも栄えている。

松阪市から再び内陸に入り、多気町、ついで大台町に入った。多気町は工業が盛んなようで、国道沿いの高台に工場が立ち並んでいたが、大台町になると山林と集落が連続する、よく見られる日本の田舎の光景となった。

それでも大台町役場付近の中心地にはまとまった市街地が存在した。

大台町市街を過ぎるとますます山林に囲まれるようになり、坂の勾配も増した。その状態で大紀町に入った。

大紀町は合併元の大宮町、紀勢町、大内山村から名前が付けられ、そのうちの大宮町の中心地付近には瀧原宮という伊勢神宮と関わりが深い神社が存在する。

また、旧大内山村は牛乳の産地として知られており、牛乳のモニュメントも存在している。

また、南隣の紀北町との境界には世界遺産熊野古道の一構成要素である荷坂峠が存在する。現在はトンネルが開通しており、古い方の峠を越えるには徒歩で行く必要がある。

ということで標高260mまで達すると登りは終わり、同時に紀北町に入った。

そして眼下に見えるリアス式海岸、そして海を眺めつつ、曲がりくねった急坂を下っていった。

そうして到達した海岸地帯だが、ここは紀伊長島という地である。すなわち、旧国名でいうと伊勢を抜け、紀伊に入ったということである。そして、ここから本格的に紀伊半島の海岸線をぐるりと一周する旅が始まるのである。

 

紀伊長島の街を出てからは内陸を走っている時以上の起伏の激しい道となった。それもそのはず、紀伊半島のほとんどは山で構成されており、海岸近くにも山が迫り出しているのである。この道の険しさにより、これまで温存されていた体力が一気に減っていった。

そして日がすっかり暮れた頃、尾鷲市に入った。

市境を越えて坂を下るとすぐに尾鷲市街となり、今日はここで予約していた民宿 山口に泊まった。ちなみに、海産物が豊富だからだろうか、この民宿の夕ご飯は新鮮な魚介物をはじめとする極めて豪勢なメニューであった。私はこの旅以降、民宿にハマっていくことになる。

 

2日目に続く

ちょっとお出かけアラカルト(7)(千葉編)

2020年2月1日

東京都豊島区〜千葉県御宿町 113 km

この日は自宅から外房(房総半島東部)の海に行こう!と思い立ち、通過点の市町村制覇もおこなった。

東京から千葉に入り、千葉市を抜けて半島中心部の山地に分け入った。アップダウンを繰り返す道を走っていくと、長柄町に入った。

続いて、長南町に入った。長柄町と長南町はいずれも、この地域の中心都市、茂原市を囲むように存在する6町村の一つである。

大多喜町に入った。内陸に存在する市町村としては千葉県最南端であり、戦国時代から城下町を形成していた地である。千葉県有数の観光地、養老渓谷の一部も存在する。

ここまで内陸部を走っており、上り基調の道を走っていたが、海岸部直前で峠を越え、急な坂を下っていく。眼下には勝浦の市街を見渡すことができた。

坂を下り切り、勝浦市街に入った。勝浦は以前来たことがあるが、その時は時間的余裕がなかったので、今回ゆっくり見て回った。勝浦は市としては少ない人口2万人のみを有しており、市街の街並みはまだ古さを保っているようだった。

勝浦は古くから漁港として栄えてきた街であり、現在でも漁業が盛んで、勝浦の朝市は有名である。また、B級グルメの勝浦坦々麺でも知られている。

その後は海岸線の道を通り、御宿町に入った。前回は暗くてカントリーサインがうまく撮れなかったので、改めて撮影した。

その後は御宿駅で輪行し、東京へ帰宅した。

 

 

2020年7月24日

千葉県茂原市鴨川市木更津市 131km

この日も房総半島を巡る旅を行った。

茂原市から出発して南下し、睦沢町に入った。前述した、茂原市を取り囲む町村群の一つである。この町村群が茂原市に合併されなかった理由は正直謎だが、それぞれの町村が自立できる力を持っているのか、合併協議が拗れたかのどちらかであろう。

その後またしても勝浦市を訪れた。猟奇的なマスコットキャラが描かれたイラスト付きカントリーサインが出迎えてくれた。

勝浦市街からは、前回とは逆に西へ向かった。途中、鵜原理想郷と銘打たれた海岸地域に寄った。夏真っ盛りということもあり、砂浜には大勢の海水浴客がいた。

その後は鴨川市に至り、ここで内陸の道を通って外房から内房へ移り、鋸南町に入った。ここら辺になると山もだいぶ低くなり、坂道の勾配もほぼ無きに等しかった。

内房海岸に至った後はひたすら北上し、東京都市圏の木更津市まで至って、輪行にて帰宅した。

 

2020年6月14日

東京都豊島区〜栃木県日光市 126km

梅雨は陰鬱な時期である。なぜなら自転車乗りの天敵ともいえる雨が降り続き、ロングライドが困難だからである。それでも我慢できずにロングライドを行うことがある。それが今回の、ひたすら北上してみた旅である。

東京の自宅から埼玉県を抜け、群馬、埼玉、茨城、栃木の4県が隣接する地を訪れた。そこには渡良瀬貯水池というため池があり、漫々とした水を蓄えている。

ここで雨が降ってきたので、しばらく雨宿りした。

池から北に向かうと栃木県に入った。また、同時に栃木市に入った。栃木県の県庁所在地は宇都宮市であることは周知の事実であろうが、栃木市という自治体も実はあるということはあまりよく知られていない。

一面に広がる田んぼ地帯を進み、やがて栃木市街に入った。栃木市は東京に近いこと、市町村合併をしまくったこともあって人口は15万人と、栃木第3の都市に成り上がっている。また、江戸時代以来の街並みが保存されており、観光地としても栄えている。

なおも北上し、思川という変わった名前の川を超えて鹿沼市に入った。

市街地以外はどこまでも続く田園地帯を走っていくと、鹿沼市街に着いた。この市も平成の大合併で人口を増やし、10万人近くに至っている。隣接する宇都宮市との関係が深く、通勤人口も多い。JRの鹿沼駅が存在するものの市街地からは離れており、多くの人は東武鉄道新鹿沼駅を利用しているようである。

そして日光市に入った。日光市については語るべきことが多いが、今回は下今市駅までしか行かなかったため、日光市の素晴らしいポイントについてはまた別の機会に触れよう。

下今市駅輪行し、帰宅した。

 

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今回の制覇市町村:

千葉県長柄町、長南町大多喜町睦沢町

栃木県栃木市鹿沼市日光市

制覇状況:329/1,718

ちょっとお出かけアラカルト(6)(埼玉&群馬編)

①2019年6月8日

埼玉県川越市〜白石峠〜埼玉県嵐山町 65km

この日は埼玉県の白石峠を登ることを目標としつつ、近辺の市町村を制覇した。

川越駅から坂戸市、ついで未制覇の鳩山町に入った。少し山がちな地形だったが、平地には田畑が広がっていた。

ときがわ町に入り、いよいよ白石峠を登る。

白石峠は関東平野秩父盆地を隔てる山嶺に存在する標高800m近くの峠であり、平均勾配が高くヒルクライムの難易度は比較的高い。実は、以前白石峠に挑んだ時は足がつって途中リタイアしてしまい、これがリベンジマッチとなる。今回も苦しんだものの、なんとか登ることができた。

峠からは別の道を使って再び関東平野側に降りていった。途中、未制覇の東秩父村に入ったが、残念ながらカントリーサインを撮り逃してしまった。

その後小川町、ついで未制覇の嵐山町に入った。町名の由来は京都の嵐山(あらしやま)だが、読み方は「らんざん」である。武蔵の小京都と呼ばれる地である。

今回はそのまま町の中心駅の武蔵嵐山駅まで行き、輪行にて帰った。



②2019年9月7日

埼玉県秩父市群馬県下仁田町群馬県藤岡市 132km

この日は埼玉、群馬県境にある志賀坂峠を登るついでに、下仁田町などの市町村制覇をおこなった。

埼玉県の秩父駅から国道299号に合流し、山を迂回しつつ北西へ進んだ。途中、小鹿野(おがの)町に入った。通常タイプとイラスト付きタイプの両方のカントリーサインが併立していた。

小鹿野もまた、古い街並みが存在し、独自の歌舞伎が生まれたことでも有名である。

市街部を抜けると山の中に入り、やがて志賀坂峠の上りが始まった。前述の白石峠よりは勾配が小さく、道も比較的広いかつ綺麗なので、スイスイと登っていった。峠の頂上には短いトンネルがある。

トンネルを抜けると群馬県神流町に入った。町内を流れる神流川がその名の由来である。

峠周辺は見晴らしがよく、どこまでも続く山塊を見下ろすことができた。

神流川流域まで一気に下り、国道462号と合流して、西へ神流川を遡っていく。途中、恐竜センターなるものを見つけた。神流町は恐竜の化石が発見される地として有名なようである。

上野村に入った。群馬県旧国名、上野(こうずけ)と表記は一致するが、読み方は「うえの」であり、ややこしい。群馬県の南西端に存在し、村内のほぼ全てが山林で覆われている。

村の中心地を通り過ぎ、なおも奥へ行くと、十石峠とぶどう峠という二つの峠の分岐点に辿り着いた。どちらも長野県との境にそびえ立ち、標高は1,500m近くを誇るというなかなか厳しい峠である。今回はどちらの峠にも行かず、直進後、すぐに北へ曲がって下仁田町を目指す。

少し坂を登るとすぐに長いトンネルに突入する。トンネル内に村境が示されており、南牧村に入ったことが分かった。

トンネルを抜けたが、残念ながら南牧村カントリーサインは存在しなかった。ちなみに、長野県にもこのすぐそばに南牧村という自治体が存在し、非常にややこしいことになっている。

山間の地を抜け、徐々に田畑が出現し出した頃に下仁田町へ入った。

下仁田には二つの有名な農産物がある。ネギとコンニャクである。それぞれ下仁田ネギ、下仁田コンニャクとしてブランド化されている。下仁田市街まで下り、市街地をもてみるとコンニャク料理屋が存在していた。

市街周辺には数多くのコンニャク畑があり、一つの畑あたりでも、かなり広い面積を有している畑もあった。

下仁田のおかげで群馬県は日本全国のコンニャクの9割以上を産出し、こんなに広いコンニャク畑が見られる地はここぐらいだろう。

無論、下仁田ネギを栽培している畑も所々あった。

東へ向かい、富岡市に入った。世界遺産富岡製糸場で有名だが、行ったことがあるので今回はスルーした。

富岡市を通っている間に日が暮れてしまった。ひたすら東へ向かい、途中一瞬甘楽(かんら)町に入った。

その後は旧吉井町(現在は高崎市の一部)、藤岡市を通過して再び埼玉県に入り、神川町を制覇した。

そして寄居駅まで行き、輪行にて帰宅した。

 

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今回の制覇市町村:

埼玉県鳩山町嵐山町小鹿野町神川町

群馬県神流町上野村下仁田町富岡市甘楽町

 

制覇状況:322/1,718

 

2泊3日で福島、宮城、岩手の東北3県を縦断しよう!③(茨城県水戸市〜岩手県一関市)

3日目

宮城県仙台市岩手県一関市 100 km

3日目は仙台市のホテルより旅路を再開させた。

さて、これから岩手県に向かうわけだが、今まで通り国道4号線を北上しても良いのだが、どうしても寄りたい場所があったので、少し遠回りした。

それが日本三景の一つ、松島である。松島に向かうには北東に進む必要があるので、その方角に自転車を走らせた。

相変わらず幅が広い仙台郊外の国道45号線を走っていくと、多賀城市に入った。古代に朝廷が東北地方を治めるための一大拠点だった多賀城があった地であり、現在は仙台のベッドタウンとして、住宅街や商業施設が立ち並んでいた。

続いて塩竈市に入った。多賀城市同様、仙台の衛星都市としてその都市圏に組み込まれている市である。

ただ、塩竈の旧市街は古来より多賀城の外港として栄えてきた港町の面影を残しており、現在でも塩釜港は重要な港として機能している。

塩竈市街を出ると少し山の中に入ったが、利府町に入ってしばらくすると再び海岸沿いの道になった。利府の中心地は内陸にあるのだが、一部、このように海岸に面している地域もある。

やがて松島町に入った。カントリーサインも洒落たイラストになっている。

松島町に入ってしばらくすると、海沿いのサイクリングロードがあったのでそこを走ってみた。すると、目の前に松島の多島海の様子が広がっていた。観光客もあまりいなかったので、隠れスポットを発見したという思いで人知れず興奮した。

やがて、松島の最寄りである、松島海岸駅に着いた。やはり周辺は観光客で溢れかえっており、お土産屋、飲食店なども所狭しと並んでおり、完全に観光地化していた。

遠くには松島海岸を構成する島の一つ、福浦島へかかる橋も見えた。せっかくなので入場料を払って橋を渡ってみた。

福浦島を散策し、橋とは逆側への対岸へ出ると、眺望がひらけて無人島がいくつか見えた。ただ、松島の全貌はあまり把握できず、展望台に登るべきだったかもとは思った。

本土に戻り、少し小高い丘に登ってみると松島を広く見渡すことができた。こうみると、他の地ではみられない、特異な景色であることをなお実感できた。

十分堪能した松島海岸を出て、松島町の市街で北へ曲がり、岩手県を目指していく。

早速市街の裏にそびえる山地を越えていった。勾配は大したことはなかったが、これまで2日間酷使してきた足が悲鳴を上げ始めた。

峠を越え、下っていくと一面田んぼの平野に突入した。宮城県も他の東北諸県に負けず劣らず、米の一大産地であり、ひとめぼれなどの有名な品種を生み出している。

このような田園地帯で強い逆風に見舞われながらなおも北上し、大崎市、ついで美里町に入った。いずれも平成の大合併で出来た自治体で、今回通った地方は両者の中心地からは大きく離れている。

その後、いつの間にか涌谷町に入っていた。合併が盛んな宮城県北部の中では珍しく、どの市町村とも合併せず生き残った町である。日本で初めて金が産出された地であるらしい。

涌谷市街を抜け、さらに北上すると登米(とめ)市に入った。涌谷町のカントリーサインもあった。

登米市に入っても基本的に田畑が優占しており、むしろその面積を広げているようであった。登米市という名の通り、米を多く栽培しているようだ。景色の見通しがいいのは結構なのだが、遮るものがない分、逆風をモロに受けてペダルに力を入れてもろくに進まなかった。

それでもゆっくりと進み、なんとか登米市中心市街に着いた。登米市は9町が合併してできた市だが、そのうち市役所があるのは迫町でり、その市街地に来たのである。

ここからは北東に向かって北上川に突き当たった後、北西に進むという遠回りの道をとった。近道は道順が複雑で、かつ、峠を越えることが予想されたからである。

岩手県を流れている間は盛岡を始めとする内陸の主要都市のそばをことごとく通ることになる北上川も、宮城県では大半が田園地帯もしくは山間部を縫って流れている。

そして北西に進み、上り勾配となってしばらくするとついに岩手県に入った。ハクチョウのカントリーサインが出迎えてくれた。

そしてここから人家も田畑もほとんどなく、車通りもない区間に突入した。日暮れ時に差し掛かったこともあり、あまりの人気のなさは、今にも熊や猪が飛び出してきそうな雰囲気で、今までにない恐怖心を呼び起こした。できるだけ早く通り抜けるため、アップダウンのある道を必死に進んだ。

眼下に花泉の街が見えた時は心底安心した。しかし、そこから一関市街まではさらに10km以上を要し、途中、完全に暗くなってしまった。一関市街の光が見えた時は感動すら覚えた。一関駅まで行き、輪行にて新幹線に乗り込み、帰宅した。

今回は基本的に晴れか曇りで、気温も寒くなかったが、三日目の疲労と逆風に悩まされた形となった。東北を完全制覇する日はまだまだ遠そうだ。

 

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今回の制覇市町村:茨城県常陸大宮市大子町

福島県矢祭町、塙町棚倉町、石川町、浅川町、玉川村本宮市大玉村二本松市福島市伊達市桑折町国見町

宮城県白石市蔵王町大河原町、村田町、柴田町岩沼市名取市仙台市多賀城市塩竈市利府町、松島町、大崎市美里町涌谷町、登米市

岩手県一関市

制覇状況:313/1,718

 

2泊3日で福島、宮城、岩手の東北3県を縦断しよう!②(茨城県水戸市〜岩手県一関市)

2日目

福島県郡山市宮城県仙台市 123 km

2日目は郡山市のホテルからスタートした。郡山市街を通って郊外で国道4号線に合流し、そのまま北上した。福島県最大の都市だけあって、郊外であっても国道は広々とした四車線であった。

本宮市に入った。平成の大合併がある程度落ち着いてきた時期に1町1村が合併してできた市である。

本宮市に入っても相変わらず四車線であり、沿道にはチェーン店商業施設も並んでいた。

だが、田畑が広がっている箇所も存在し、田畑の向こうには福島の名山、安達太良山が聳えていた。

国道を東にまがり、本宮市街に立ち寄った。本宮駅は工事中で全貌がよく見えなかったが、市街は古い街並みで、観音堂もあった。

本宮市の次に入ったのは大玉村で、これは事前に想定していなかった。どうやら、村の西端を少し通るだけで、村の中心は国道からは離れているらしい。

次いで、二本松市に入った。郡山市福島市のちょうど中間に存在し、両市と密接な関係にある。

山間の地を抜け、細長い狭隘な盆地に入った。二本松市街はここに存在する。

二本松は室町時代から戦国時代にかけて大名として勢力を持った畠山氏(二本松氏)の本拠地であり、当地に二本松城を築いて居城としていた。畠山氏は隣に勢力を持つ伊達氏と抗争を続け、伊達政宗の父、輝宗を殺害したことにより、政宗によって滅ぼされた。江戸期も丹羽氏10万石が治める二本松藩の城下町として栄え、実際に訪れてみると町並みは当時の趣を残していた。二本松城跡は市街北の山上にあり、時間の関係上行くことはできなかったが、その山麓の大手門跡付近には二本松神社が存在し、十分歴史の重さを楽しむことができた。

二本松駅周辺には街歩きマップが存在し、やはり市も城下町という側面を推しているようである。

二本松市街、そして隣の安達の街(平成期に二本松市に吸収)を抜けると、山中に入った。驚くべきことに、山中に入っても国道の四車線は維持されていた。東北のスケールの大きさを実感しつつ、アップダウンのある道を進んでいくと、道の駅周辺で福島市に入った。

福島市境から福島市街まではなおも15 km以上あり、まだまだ森に囲まれた道が続いた。途中、地方国立大学あるあるだがかなり山の中に位置する福島大学の近くを通り、
市境から10 kmほどしてようやく福島市街が広がる福島盆地が眼下に見えてきた。

盆地に入り、チェーンのロードサイド店舗が立ち並ぶエリアを抜け、ついに福島市街の中心部に入った。ちなみに、看板にある通り、福島県から秋田市まではゆうに300 kmを超える。想像を絶する距離であり、東北の広さがよくわかる。

途中、福島県庁にも寄った。木々に囲まれた、涼しげな庁舎であった。

そして、福島駅にたどり着いた。県庁所在地の中心駅、かつ新幹線停車駅だけあって立派な駅舎であった。福島市は元々城下町として栄え、明治期以降も交通の要衝として栄えた。県庁所在地としては珍しく農業が盛んで、モモなどを栽培している。また、飯坂温泉などの温泉地にも恵まれている。

昼ごはんとして駅前で福島ラーメンを食べてから、再び国道4号線に合流してなおも北上した。

伊達市に入った。平成期に新設合併によってできた市であり、同名の伊達市が先に北海道に存在していたが、そちらの許可を得て同じ名を名乗った。その名の通り戦国大名の伊達氏発祥の地である。

伊達市の国道4号沿線は旧伊達町の領域だが、郊外型の商業施設が建ち並んだり、住宅街が見えたりして、福島市ベッドタウンとしての立ち位置を享受している様を感じることができた。

桑折(こおり)町、次いで国見町に入った。いずれも福島都市圏を形成する町だが、ここまでくると農地の割合がかなり多くなり、人口も比較的少なくなっているようである。

国見の中心部からしばらく走ると、坂の勾配が上がっていった。ここから県境の山を越えていくことになる。ただ、最大標高は100m付近で、峠としてはかなり小規模である。

上り坂の終わりかけの地点で宮城県に入った。東北で中心的な立ち位置にある県で、北部には比較的広い平地が存在し、そこに都市や農地が広がっている。ただ、今入った白石市からしばらくは、山がちな地形の中を進むことになる。

カントリーサインにもあるように、白石市白石城を中心に栄えた城下町であった。現在の白石城には復元とはいえ、天守閣が存在する。実際に訪れてみると武家屋敷も保存されており、かなり当時の雰囲気が残っているようだった。

現在の白石市の人口は3万人ほどであり、白石市街はまだ昭和の面影を残しているようだった。多くの地方都市同様、白石市も国道沿いの新市街に経済の中心が移っているようである。

白石市を抜けると、これも想定外だったが、蔵王町に入った。蔵王温泉のある地である。しかしここも南端を少しだけ通って、すぐに大河原町に入った。ちなみに宮城県ではご覧の通り、カントリーサイン自治体の特徴を示すイラストがある。ここに力を入れる都道府県は少ないので、もっと他の県でもイラスト付きのカントリーサインが増えて欲しいものである。

大河原町中心部には町としては珍しく、郊外型商業施設が多数並んでいた。それもそのはず、この町は仙台市ベッドタウン化が進んでおり、人口も2万人強と、町の中では大規模である。また、カントリーサインにもあるとおり、国道と並行して流れる白石川には桜並木があり、桜の名所として知られる。

その後、村田町を一瞬通過し、柴田町に入った。どちらも癖のあるカントリーサインで、やけに印象に残った。

柴田町に入ってしばらくすると再び市街地に入った。以降、平野部は広くなっていき、人家と農地が点在する区間に突入した。

岩沼市に入った。今まで通ってきた道と茨城、いわき方面からの道(常磐ルート)が交わる交通の要衝であり、古くから城下町として栄えた。現在も仙台都市圏の一員として繁栄しており、人口も増えている地である。

岩沼市街はかなり再開発が進んでいるようであり、現代的な家屋が立ち並んでいた。

そしていつの間にか名取市に入っていた。名取市仙台市の南隣に位置し、岩沼市同様ベッドタウンとして8万人近くの人口を有している。また、仙台空港があることでも知られている(岩沼市と敷地を分割している)。ちなみに下の写真は名取駅である。

名取市の国道沿いには常にロードサイド店舗が立ち並び、その状態のまま、仙台市に入った。言わずと知れた宮城県の県庁所在地であり、東北地方の中心都市である。対向車線の名取市カントリーサインも収めることができた。

ここからは8kmほど先にある仙台市街に向かって、暮れなずむ中、自転車を走らせた。

そして仙台市街に入った。人口100万人を有するだけあって高層ビルが数多く立ち並び、大都市の威容を備えていた。それにもかかわらず、道は郊外のような広々とした四車線であり、渋滞もあまり発生していないようだった。その上、市街から少し離れると広域公園などの自然豊かな地が広がっており、杜(もり)の町の異名に恥じない光景であった。総じて、かなり住みやすそうな街だという印象を受けた。

今回はそのような自然豊かな公園の一つ、青葉山公園に向かった。ここは何と言っても江戸期に仙台の中心地であった仙台城の跡地が存在し、仙台城を築いて居城とした戦国大名、「独眼竜」伊達政宗の有名な像が存在する。この像は仙台を象徴すると言っても過言ではなく、仙台=政宗の町というイメージを植え付けている。

この目当ての政宗像は陽がおちかけているということもあり、ライトアップされていた。伊達政宗は幼少期に病気を患い片目しか見えなくなったものの、圧倒的な戦巧者ぶりで東北地方を統一する勢いだった。しかし、全国統一目前の豊臣秀吉に降り、以降は秀吉、そして徳川家康の家臣の一大名として、幕末まで続く伊達氏仙台藩の基礎を築いた。現在でも圧倒的な人気を誇る武将である。

政宗像の付近は展望が開けており、仙台市街を一望の元にできた。他の街とはスケールが異なる、どこまでも続く市街に圧倒された。この公園が観光客で絶えないのも納得の絶景であった。

再び仙台市街に戻ると日は完全に暮れていた。しかし、市街はまだまだ本番であるというかのようにライトアップされていた。

本日はこの仙台市にて夕ご飯を食べ、宿泊した。

3日目に続く

2泊3日で福島、宮城、岩手の東北3県を縦断しよう!(茨城県水戸市〜岩手県一関市)

2020年11月21日

茨城県水戸市岩手県一関市 341 km

東北地方。古くは夷狄の地であり、「日本」の一部に組み込まれてからも未開の地としてのイメージを持たれてきた。それもそのはず、山がちで平野が少なく、世界有数の豪雪地帯で、人の居住を拒むような地域も少なくない。また、南北に細長く、最南端の福島県から最北端の青森までは約500kmほどのスケールである。今まで東北地方には玄関口の福島県しか行けていなかったが、今回は福島県を超えて宮城県岩手県と東北三県の縦断を行った。

 

1日目

茨城県水戸市福島県郡山市 132 km

始まりは茨城県水戸駅とした。ここからJRの水郡線に沿って内陸部を進み、福島県を目指す。

那珂市、ついで未踏の地である常陸大宮市に入った。

常陸大宮市は5町村が合併して成立した市だが、中心地は旧大宮町となる。だが、中心駅名は常陸大宮駅であり、新市名と一致する。駅名が先にあり、自治体名が後に来る、珍しいパターンである。

駅前には案内看板もあった。市内にはいくつか温泉があるようだ。

次第に平野は狭まり、山あいの谷という様相に変貌していった。やがて旧山方町に入った。

谷底を流れる久慈川を何度か渡りながら北上した。ここまで来ると水も澄んでおり、田舎にきた、という実感が湧く。

長かった常陸大宮市を抜け、大子(だいご)町に入った。

町内には茨城県の中では有名な観光地、袋田の滝がある。ただ、国道からは少し離れているため、今回は訪れなかった。

久慈川と押川が合流してできた平地に大子市街は存在する。川の合流地点や市街も見渡すことができた。

どうやら市街は温泉郷となっているらしい。

なおも久慈川を遡っていき、ついに福島県(矢祭町)に入った。なお、福島県になっても久慈川は続くので、県境に大した坂はなく、楽々県境越えをすることができた。

ここら辺の国道のすぐ側には矢祭山があり、駅もあるため、アクセスしやすい山となっている。周辺に人家はなく、静謐な雰囲気を醸し出していた。

この狭い谷を抜けると少し幅の広い平地に出て、程なく矢祭市街に入った。字としては東館と呼ばれる地には、いくばくの商業施設のほか、もったいない図書館という謎の施設があった。どうやら矢祭町では「もったいない」をキーワードに行政改革をおこなっており、その一環で名付けられた施設のようである。

細長い盆地部を北上し、塙町に入った。

田園と住宅街が入り混じる道を行き、塙市街に入った。塙は江戸時代には幕府の天領となっており、それをアピールした名の道の駅があった。

ここら辺までくると、久慈川の水量も減少し、だいぶ上流まできたことを実感する。

棚倉町に入った。江戸時代には棚倉藩の城下町として栄えた地である。

ここまでは大体平坦で、登ったとしても緩い坂だったが、棚倉市街直前で少し険しい坂となった。無事、上り切って棚倉市街に入った。昭和の面影残る街であった。

ここで、棚倉藩のシンボルだった棚倉城跡に寄り道する。織田信長重臣丹羽長秀の子の長重によって建築された城である。天守はなく、小高い丘と幾つかの遺構が残っているのみである。

市内には時の鐘と思われる建築物も残っていた。

最後に棚倉駅に寄った。例の如く、観光案内マップも併設されていた。

そして、棚倉市街を出る頃には日もすっかり落ちてしまった。久慈川は棚倉市街で西に曲がるのでここでお別れとなる。代わりに阿武隈川流域に入り、下り坂となった。

この後は暗くなったこともあり、先を急ぐことにした。浅川町、石川町、玉川村と面積の小さい町村を次々と駆け抜けて行った。

須賀川市に入って、焼肉店で食事を済ませた後、東北の最重要国道である国道4号線に合流した。その後は郡山市まで行き、市内のホテルに宿泊した。

 

2日目に続く

日本国道最高地点の地、「渋峠」に登ろう!(長野県側編:長野市〜渋峠〜長野市)

2020年9月20日

長野市渋峠長野市   108km

今回は日本にある国道で最も標高の高い地点、渋峠(標高2,172 m)を目指して長野県側から登っていく。ロードバイク愛好者ならば誰もが憧れる地で、最高地点到達というトロフィーのみならず、途中の景色も絶景である(特に群馬県側が絶景なのだが、当時は白根山噴火レベルが高かったため、通行止めとなっていた)。

 

新幹線で長野駅まで行き、自転車を組み立ててから出発した。まずは東へ進み、千曲川を渡って須坂市に入った。長野市近隣であり、アクセスも良いため、人口は5万人と地方都市の中では栄えている方だ。また、群馬県と接しており、県境には2,000m級の山が聳えている。

須坂市街で北に進路を変え、小布施町に入った。長野県で最も面積が小さい町であり、しかも南と北に市があるので、平成の大合併でなぜ消滅しなかったのか、不思議に思っていた町だった。しかし、実際訪れてみると、市街地は江戸時代の気風を残す趣のある店が並び、観光客で賑わっていた(写真は撮り忘れた)。どうやら浮世絵師の葛飾北斎ゆかりの地であり、それを生かしたまちづくりに成功しているようだった。

さらに北上し、中野市に入った。ここも須坂市同様、長野市へのアクセスの良さを生かして人口4万人ほどを確保している。今回は中野市街には入らず、郊外を大回りして再び東へ向かった。この大回りの途中で、渋峠をそのルートに含む、国道292号と合流する。以降、この国道に沿って渋峠を目指す。

しばらく走ると長野盆地に別れを告げ、緩やかな坂となった。そして山ノ内町に入った。以降、渋峠までは山ノ内町内を走ることとなる。

山ノ内町の中心地を少し超えたあたりまでは坂の勾配も5%程度だが、建築物がつき、周囲が森林となると勾配は上がり、進む速度は落ちていった。

坂がキツくなった地点から、標高600m分を一気に登っていった。その後、一旦道が平坦に近くなると、峠の前半部分をクリアしたことになる。このエリアは志賀高原と呼ばれ、多くのスキー場があるリゾート地となる。また、所々温泉が湧くようで、国道の近くにも温泉が湧くスポットを見ることができる。

標高1,700mを超えたあたりから再び坂は急になった。そして次第に周りの木々の背が低くなり、視界が開けていった。この坂は峠の前半部分で疲弊した私の足にとどめを刺したようで、次第に足に力が入らなくなった。仕方ないので、足が悲鳴を上げるたびに自転車を止め、休憩を入れながら進んでいった。

標高1,900m付近からはヘアピンカーブが連続する、九十九折りの道に変化する。そして、ついに標高2,000mを突破した。ただし、その先にはまだまだ上り坂が続くさまが見えた。絶望感に襲われながらも、何度も足を止めつつ、少しづつ登っていった。

標高2,000mを超えるとついに森林が途切れ、笹などで覆われた草原地帯も随所に見られるようになった。これが、渋峠を特徴づける絶景である。なお、この草原地帯は標高による純粋な森林限界ではなく、強風などの気候条件によって形作られたものであるらしい。

洞門をいくつか通過すると、坂の勾配が緩くなり、いよいよ峠の頂上に近づいていく。ここまでくるともう一踏ん張りだ、と最後の力を振り絞った。

そして、ついに渋峠に到達した(ついでに、群馬県境を超え、群馬県中之条町の制覇もできた)。実は渋峠と呼ばれる場所は国道の頂上ではなく、もう少し先に国道最高地点が存在する。

渋峠にはなんとホテルが立っており、ホテル内で長野県と群馬県に分かれている。いつか泊まってみたいものである。このホテルでは犬が飼われており、名物となっている。また、ホテル内で食事をとることもできたので、カレーを食してエネルギーを補給した。

また、渋峠には横手山に向かうリフトも存在する。

しばらくすると、周りが霧に包まれた(というより峠が雲の中に入った)。そのような中、最高地点に向かってリスタートした。とは言ってもほとんど坂とはいえないような平坦な道であり、これまでの道のりからすると楽勝であった。

そして、ついに標高2,172mの日本国道最高地点に到達できた。当地点には石碑が立っており、車やバイクで同じく来訪した旅人が幾人か写真を撮っていた。

しばらく感慨に浸っていたが、すでに午後5時近くになっていたこともあり、あまり長居はできなかった。来た道を引き返し、渋峠に再度到達した頃には霧が晴れていた。

下っていく時には絶景をより堪能する余裕ができ、何度も足を止め、写真を撮りながら進んでいった。

その後は一気に下っていき、途中日が落ちてしまったものの、無事山ノ内市街まで戻ることができた。ちなみに山ノ内市街には渋温泉湯田中温泉という温泉地が連続して存在しており、穴場の観光地となっている。

この後は、最短経路で長野駅まで戻り、輪行にて帰宅した。

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今回の制覇市町村:長野県須坂市小布施町中野市山ノ内町群馬県中之条町

制覇状況:286/1,718