2020年12月27日〜29日
2020年の年末、私は東京から実家のある京都府に帰省するついでに、1ヶ月前の東北縦断に続く一大プロジェクトを遂行した。それが、上の地図にあるルートの通り、三重、和歌山、奈良の三県に跨る日本最大の半島、紀伊半島の海岸線を自転車でぐるりと一周する旅である。ただ、結果から言うと思わぬトラブルにより、江住駅〜白浜駅間の約40kmは鉄道を使ってしまい、自転車のみで一周することはできなかった。それでも、この旅には何物にも変えがたい経験となった。
1日目
さて、東京から新幹線で名古屋まで行き、そこからJRの鈍行に揺られて1時間、すでに制覇済みの亀山市の中心駅、亀山駅に到達した。この亀山駅で自転車を組み立てて出発し、まずは紀伊半島の海岸線を目指して南下した。
僅かに存在する起伏を超えつつ内陸の道を走っていくと、津市に入った。三重県の県庁所在地だが、古来よりの大動脈、東海道から外れた地にあるからか、人口は26万人と、県内二番目の地位に甘んじている。
田んぼが続く道を走っていくと、道と交わる高速の先に津市街地のビル群が見えてきた。
そして津市街地に入った。津はその名の通り、古代から重要な港として用いられてきた地で、安濃津と呼称されていた。江戸時代に入ると藤堂氏32万石の城下町として繁栄し、それが現在にまで至る県庁所在地、重要都市としての位置を形成している。平成期には南隣の松坂市と共に周辺の市町村を併合しまくり、全国有数の面積を誇るようになった。
津市からは海岸付近を走る国道23号線を南下し、松阪市に入った。
松阪市といえば今や日本で最も有名なブランド牛、松阪牛でよく知られ、市内にも多数の松阪牛ステーキ店が存在する。牛の鳴き声を元にしたスタジアムも存在する。
また、松阪市も津市同様、城下町として栄えた地である。さらに、松阪は商人が集まる地だった側面もあり、この地の商人の家に生まれたのが歴史の教科書にも出てくる「国学者」本居宣長である。現在も人口は15万人であり、経済拠点としてなおも栄えている。
松阪市から再び内陸に入り、多気町、ついで大台町に入った。多気町は工業が盛んなようで、国道沿いの高台に工場が立ち並んでいたが、大台町になると山林と集落が連続する、よく見られる日本の田舎の光景となった。
それでも大台町役場付近の中心地にはまとまった市街地が存在した。
大台町市街を過ぎるとますます山林に囲まれるようになり、坂の勾配も増した。その状態で大紀町に入った。
大紀町は合併元の大宮町、紀勢町、大内山村から名前が付けられ、そのうちの大宮町の中心地付近には瀧原宮という伊勢神宮と関わりが深い神社が存在する。
また、旧大内山村は牛乳の産地として知られており、牛乳のモニュメントも存在している。
また、南隣の紀北町との境界には世界遺産の熊野古道の一構成要素である荷坂峠が存在する。現在はトンネルが開通しており、古い方の峠を越えるには徒歩で行く必要がある。
ということで標高260mまで達すると登りは終わり、同時に紀北町に入った。
そして眼下に見えるリアス式海岸、そして海を眺めつつ、曲がりくねった急坂を下っていった。
そうして到達した海岸地帯だが、ここは紀伊長島という地である。すなわち、旧国名でいうと伊勢を抜け、紀伊に入ったということである。そして、ここから本格的に紀伊半島の海岸線をぐるりと一周する旅が始まるのである。
紀伊長島の街を出てからは内陸を走っている時以上の起伏の激しい道となった。それもそのはず、紀伊半島のほとんどは山で構成されており、海岸近くにも山が迫り出しているのである。この道の険しさにより、これまで温存されていた体力が一気に減っていった。
そして日がすっかり暮れた頃、尾鷲市に入った。
市境を越えて坂を下るとすぐに尾鷲市街となり、今日はここで予約していた民宿 山口に泊まった。ちなみに、海産物が豊富だからだろうか、この民宿の夕ご飯は新鮮な魚介物をはじめとする極めて豪勢なメニューであった。私はこの旅以降、民宿にハマっていくことになる。
2日目に続く