明日の伝説

好きな特撮・アニメ・漫画などに関する思いを書き綴る場所。更新停止

執着を手放すこと〜ブログ更新停止のお知らせ〜

このブログを更新停止することにしました。
理由は簡単なもので、このブログに対する執着を手放してこの先へ進むためです。
こんな風に書くとカッコつけてるようですが、そもそもこのブログを始めるに至ったきっかけを書きます。


まずこのブログを始める2年前の2020年3月まで私は8年程ある特撮感想のサイトを経営していました。
勘のいい方ならお気づきだと思うので詳細についてはここでは一々書きません、お察しください。
で、そのサイトを私は1度更新停止にし、更に1ヶ月後に削除したわけですが、その意図は「手放し」です。
2020年は私の中で様々な物を手放した年でした……それこそ長らく付き合いのあった親友も、そして親ですらも。


仕事も何もかもを私は手放したわけですが、その中で私が書いていたサイト自体もまた「手放し」の対象だったのです。
私はその時本気で自分を変えたかった時期だったので、そのサイトを手放さないことには先へ進めないことをわかっていました。
8年間も積み上げてきたものを勿体無いと思うかもしれませんが、私がそのサイトで自分がなすべきことはもう終えたのです。
酷な言い方かもしれませんが、そのサイトを閉鎖したところで惜しんでくれる人なんていないだろうとすら思いました、というか読者の反応すら枷になっていました。


それから2年、劇的に環境は変わりましたが、それでもまだ自分の中でそのサイトでやり残したことがあったと気づきます。
それは多少なりこの2年で洗練された文章力で自分が好きな戦隊をもう一度言語化して感想・批評を更新することでした。
言うまでもなく「鳥人戦隊ジェットマン」「星獣戦隊ギンガマン」であり、この2作の感想・批評を書き終えた時点で私は満足です。
もちろん他の作品にも思い入れはありますが、特にこの2作はもう一度現在の視点でリライトをしたかったから書き直しました。


それを終えた今、もはや特撮の感想・批評を書くことへの執着が潜在意識のレベルでなくなっており、億劫に感じてすらいます。
ここ1ヶ月ほど戦隊の感想更新が遅れていたのは仕事が忙しかったからでも何でもなく、単に「それをしたいと思わなくなっていた」からです。
それでも必死に食らいついていたのですが、昨日のスペースで自分の中にまだ過去への執着が残っていたことに気づきました。
先日の日記で書いた学生時代の友人や先輩が私を当てにして連絡してくることが多かったのも、執着が残っていたからかもしれません。


実際、私がこのブログを立ち上げたことで最初にTwitterやスペースで絡んでいた特撮関連のフォロワーさんとはめっきり交流しなくなりました。
それは決して嫌いになったからではなく、私がもう潜在意識の部分でその人たちの交流を必要としなくなっていたのでしょう。
逆にいえば、一度その人たちを手放さないことには先へ進めないことも私自身改めて昨日のスペースで話し合って気づいたのです。
そして自分の中で改めてこのブログを俯瞰して見たときに、このブログは自分にとって「過去の整理整頓」を行う場所だとやっとわかりました。


だから昨日42人もフォローしていたのをいきなり4人にまでフォロー解除したのですが、これは決して嫌いになったからではありません。
その人たちとの関わりがいまの自分にとって本当に必要ではなく、そういうものは一度手放す必要があったからです。
それに、本当に大切な人間関係はたとえフォロー解除しようが、何かしらの形でまた戻ってきます。
逆にいえば、一度手放してそれで二度と戻ってこないようであれば、それは所詮そこまでの関係だったということでしょう。


こう書くと冷たく聞こえるかもしれませんが、でもこれは実際に「執着していたものを手放す」という経験をした人にしかわからないものです。
金スマで中居くんが松潤に言っていた「そのマウンドに立った人にしか分からない」ではないですが、執着を手放すと本当に恐ろしいくらい身も心も軽くなります。
だから、もう今後このブログでスーパー戦隊シリーズをはじめとする特撮・アニメ・漫画の感想などを更新することはないでしょう。
かといって削除するのも違うと思うので、このブログ自体はこのまま忘備録として残しておきます。


ではこの先どうするのか?
答えはまだ見えない暗中模索の状態ですが、焦らずじっくりと着実に進んでいければなと思っています。

スーパー戦隊シリーズ46作目『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』(2022)第12話感想

 

ドン12話「つきはウソつき」


脚本:井上敏樹/演出:山口恭平


<あらすじ>
ウソつきアイドルVSウソがつけないモモタロウ!しかし!この祭りはウソではない!!ついに待ちに待ったドンブラザーズ大合体!!!ドンオニタイジンの初陣を見逃すな~!!!


<感想>
いや、幾ら何でもこんなアイドル像古すぎじゃね!?


う、うーん、ドンオニタイジンの初陣がこんな中途半端なできでいいのかと思ってしまったのですが、いわゆる「嘘と真実」という桃井タロウの話とアイドルの持つ虚像との話がどうにも合わないというか……。
あと、井上敏樹先生はもうちょっと最新の女性アイドルを勉強した方がいいと思いますよ、吉良キララとかそんな芸名の女性アイドルなんて現実には居ませんよ^^;
まあ現実に居ないだけならまだしも、どうして男が描くアイドル像ってこうもオヤジ臭いというか「こうあって欲しい」という理想の押し付けになってしまうのでしょうか?
井上先生はもうちょっと女に現実的要素を入れていて、それはこのアイドルを目指している子も同じなのですが、それにしても描き方が付け焼き刃で底が浅いというか。


あと、桃井タロウの嘘がつけない性格はまだ許容範囲だったとしても、冒頭にあった「人が買ってきた食べ物を勝手につまみ食いしたのを指摘したせいでバイトをハブられる」というのはおかしいでしょう。
私も宅配のバイトをしていますが、いくらフィクションでもそんな理不尽な仕打ちをする先輩はいませんし、それに今回は理由がどうあれ人の食べ物を勝手に食べてしまったのがいけなかったのですから。
まあ犬塚の時とは違い宅配の荷物ではなかっただけマシですが、「食物の恨みは恐ろしい」とはよくいうものですから、今回に関してはあのクソデブが悪いですよね。
ラストで取ってつけたように感動的な母親との対面シーンを描いていましたけど、それでそのクソデブがやった盗み食いの罪がなくなるというわけではありませんので。


それから女の子がアイドルを目指す動機が「おじいちゃんを喜ばせたい」というのも、幾ら何でも甘く見過ぎというかアイドルの現実を知らなさすぎじゃないですかね。
アイドルなんてみんな努力や動機が大切だと思われるかもしれませんが、現実は殆どが運と縁、タイミングという要素によってデビューが決まります。
だからプロのアイドルとしてガチで売れたいのであればまずは大手事務所に所属しなければそのスタートラインに立つことすらできないのです。
地下アイドルと呼ばれる連中がなぜ燻ったまま埋もれているのかというのも結局原因はプロデュースする事務所の力関係があまりにも小さすぎることにありますから。


あと、今の時代は男性アイドルにしても女性アイドルにしても人間性が物を言う時代であって、単に歌って踊れるだけのキラキラアイドルに大した意味はありません。
それはジャニーズでいうならSMAP以前とSMAP以後で大きく歴史が変わっているのを見ればわかるように、女性アイドルも単に「可愛い」で売れる時代じゃなくなりました。
それから、幾ら何でも喫茶店は静かに休憩する場所であって、決してスナックやディスコのように歌って踊る場所ではありません。
ライブハウスをやるのであればそれ相応の会場というものがあるわけで、その辺のことも不勉強だとしか思えないのです。


また、アイドルとしてデビューするのであれば「嘘が現実になる瞬間」を描いてこそだと思うのですが、肝心要のそこがすっ飛ばされてしまっています。
そして最大の致命傷は今回描かれていたことがドンブラザーズとしての絆やドンオニタイジン初登場のカタルシスに繋がっていないということです。
ここが本当に辛いところで、玩具販促のノルマ処理が非常に雑というか、もう少しマシな形で描けないものかと思いました。
デザイン自体は悪くないしアクションも好きなドンオニタイジンですが、果たして本編でこんな登場のさせ方でよかったのでしょうか?


「太陽と月」に準えて桃井タロウとソノイが何となく通じ合うところは悪くないのですが、かといって安易な共闘や友情に持っていって欲しくはないなあとも。
なにせ「仮面ライダー龍騎」の真司と蓮の関係を安直な友情ものとして描いたという事例があるので、私は最近の井上作品の「男の友情」描写はあまり真に受けないようにしています。
アイドルを出すのは別に構いませんが、これだと所詮荒川稔久と同レベルでしかないというか、もうちょっとマシなもの描けないのかと憤りを感じました。
総合評価はE(不作)、描きたい題材や具材は悪くないのですが、その組み合わせ方と調理の仕方でことごとく総まとめとして失敗たという印象です。

 

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スーパー戦隊シリーズ16作目『恐竜戦隊ジュウレンジャー』(1992)21・22話感想

 

第21話「守護獣大あばれ」


脚本:杉村升/演出:東條昭平


<あらすじ>
ブライが謎の少女から渡された獣奏剣を奏でるとき、守護獣ドラゴンシーザーが出現した。大獣神なきジュウレンジャーは一体どう立ち向かうのか?


<感想>
「ここは、どこだ?!」
「ここは、お兄ちゃんの新しいおうち、ここは時間が止まった世界。だから、ここに居るかぎりお兄ちゃんは歳を取らない。でも、一歩外へ出ればお兄ちゃんの命はあと30時間とちょっとしかないわ」


ブライ、まさかのタイムリミット付きだった!


……何でもっと早く知らせてくれなかったんでしょうか?
まあ後の展開を知った今なら真意はわかりますが、要するにドラゴンシーザーを復活させるための召喚士としてブライが必要だったということです。
批評でも書きましたが、このブライの制限時間30時間しかないというのは今回初めて出て来る後付け設定で、前回までは影も形もありませんでした。
まあただ、そういう前置きはあるにしても今回はストーリーはともかく演出面がすごく派手で久々にいいなあと思ったんですよね。


というのも、これだけ巨大戦で、しかも新メカを敵として登場させるという機会は歴代でもなかなか少ないですから。
まあ見た目といい演出といいまんまゴジラなので、全然「恐竜」という感じはしないんですけどね……ああでもゴジラ自体が爬虫類ですから、完全な間違いでもないのか。
そして新アイテムの獣装剣もまた渋くてカッコイイ、短剣だけではなく「笛」という機能を付加することで単なる戦う為だけの武器にしていません。
この辺りもゲキたちが持っている伝説の武器との差別化を考えてのことなのか、とにかくブライ兄さんとドラゴンシーザーはかなり出番的に美味しいです。


「聞けー人間ども!今日からこの俺が地球の支配者だ!」


そしてとうとう力に酔い痴れてしまったブライはとんでもない大言壮語を吐くようになり、ゲキもこれまでになく激情を露わにします。


「おのれブライ!俺は間違っていた。己の感情に惑わされ、一番大事なことを忘れていた!みんな、俺はやる。ブライをもう兄とは思わない!正義の為にこの手で必ず倒す!」


このくだりは同じ杉村脚本の「仮面ライダーBLACK」終盤の暴れ出すシャドームーンに怒りを感じて「俺はもう信彦だとは思わない!」発言をする南光太郎のくだりのままです。
ただ、あっちが第一話から丁寧にストーリーを積み重ねてそこに至っているのに対して、こちらはあまりにも設定から何から扱いが雑過ぎます
何と言うんでしょうか、杉村氏は典型的な昭和の短距離走脚本家というか、アイデアを次々と出すのはいいんですけど、その道中のプロセスやまとめ方に難があるんですよね。
だから「ZO」みたいにしっかりまとまっているときはまとまっているんですが、外れると目も当てられないような事態になることが多いというか。


まあブライ兄さんとゲキに関しては後発の「ギンガマン」の炎の兄弟との比較も含めて次回でまとめて語りますが、総合評価はC(佳作)というところです。


第22話「合体!剛龍神


脚本:杉村升/演出:東條昭平


<あらすじ>
暴れまわるドラゴンシーザーの前に5守護獣が復活した。シーザーに挑むティラノザウルス、そしてゲキもブライと1対1で戦う。


<感想>
今回は実質の前半戦クライマックスだったわけですが、結論から言うと非常に残念な出来栄え。


ジュウレンジャーのリーダー・ゲキよ。悪は元から絶ちきらねばならない。お前もブライにトドメを刺すのだ」
「やれゲキ!トドメを刺すのだ!」
「駄目だ、大獣神……俺にはやっぱり、兄の命を奪うことはできない!」
「地獄へ堕ちろー!」
「兄さん!そんなに俺が憎ければ、斬るがいい!それで憎しみが消えるなら、俺は……斬れ、斬れー!!」
「出来ない、何故だ……!?許してくれ、ゲキ。俺が悪かったー!許してくれ、両親を失い、俺は誰かを憎まずにはいられなかった。だからお前を……でもそれは間違っていた」


ここが今回のクライマックスで大獣神対ドラゴンシーザー、ティラノレンジャー対ドラゴンレンジャーというドリームマッチは嫌いではないのですが、どうにも積み重ねが不足しています
まずブライがゲキを憎む理由はわかりますが、問題はそれに対するゲキの気持ちというか感情のベクトルが中途半端であるため、全く感情移入できないことです。
地球を守るためという大義と兄を救いたいという私情の板挟みがあるのはわかりますが、前者はともかく後者の描写が圧倒的に不足しています。
そもそも前回ラストで「兄と思わない」と言い、今回だって直前までぶっ殺す気満々だったのに土壇場で日和ってしまったように見えるのです。


まあここでゲキがブライを殺してしまうと、形はどうあれ殺人になってしまいますし、正義もクソもなくなりますから殺させるわけにはいきませんが、かといって心情の変化が急じゃないでしょうか。
またそれはブライも同じことであり、この流れだと「弟への情が復讐に勝った」というより「これ以上やってもめんどくさいし寿命も短いからなし崩しに改心した」ように見えてしまいます。
伝説の戦士という綺麗な立場から一歩「復讐」という要素を追加戦士の立場から動かしたことがブライの大きな功績なのですが、そこから先の処理があまりにも雑です。
別にそれでもいいじゃないかという向きもあるでしょうが、初登場から散々復讐要素で引っ張ってきたわりにあまりにもあっさりし過ぎてて物足りない内容になっています。


また、今回の大獣神の復活が「ジュウレンジャーが頑張って大獣神を復活させた」のではなく「守護獣がマグマの中でガイアトロンエネルギーを補充して体力を回復していたから」というのも残念でした。
これだとジュウレンジャーが頑張らなくてもよかったことになってしまいますし、今までの大獣神の敗北が全て自作自演に見えてしまいかねません。
神様という非常に扱いにくい要素だからこそ扱いには細心の注意が必要ですが、本作はそもそも根本的にその辺りの慎重さに欠けてしまっています。


だからこそ、そこから6人揃っての名乗りや剛龍神への合体がうまく物語としての集約にならないのも惜しまれるところです。
しかも戦うべき敵がいないというのにそれをやっているせいでおかしな感じになってしまっており、全体的に非常に空疎な内容となってしまいました。
これならもっと尺を引っ張ってじっくり展開すべきだったと思うのですが、それだけの技量が作り手になかったのか、それとも尺不足だったのか。
何れにしても、全体的に非常によろしくない出来栄えです。


さて、ここからは「ギンガマン」の炎の兄弟との比較ですが、炎の兄弟は本作のゲキとブライを反省点として改めて一から再構築されていることがわかります。
ブライが持っていた復讐という要素をブルブラックに、そして「6人目の戦士」という要素をヒュウガに振り分けることで丁寧に物語を紡ぐことができました。
そしてリョウマをゲキよりやや未熟な感じにして、さらに「本来はギンガレッドになるはずではなかった代理戦士」とすることで葛藤を描きやすくしています。
1クール目からしっかり土台を引いて、リョウマとヒュウガ、ブルブラックとクランツという二重の兄弟を対比させることで無理なくドラマを展開しました。


ギンガマン」の2クール目中盤は傑作揃いなのですが、中でも黒騎士登場からの一連のストーリーは本作の消化不良を踏まえていることがよくわかります。
要素要素で見ていけばとても面白い要素が見えるだけに、それらの扱いがきっちり膨らみ切らずに終わってしまったのは残念です。
評価はE(不作)、良くも悪くものちのシリーズにおける追加戦士加入のエピソードの叩き台となった回でした。

 

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十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人

今日はちょっとプライベートな話題。
久々にインスタグラムで大学時代の友人から電話がかかって来ることが多いのですが、例外なく「俺の貴重な時間を電話で遮るんじゃねえ」とシャットアウトして着拒してやりました。
ここ最近学生時代の友人・知人から連絡が来ることが多いのですが、別にその人たちに今会いたいわけではなく邪魔でしかありませんから無視しています。
なぜ今更になって、と思いますが共通していたのはその人たちが「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」を地で行く人たちになっていることです。
学生時代に輝いていたあの懐かしい人たちも社会人になると意外に平々凡々の人生を送っているものなのだなあと思います。


もちろんそれが悪いわけではありませんが、中でも衝撃だったのは私より3つ上の、部活で1年だけ関わった先輩がハゲ茶瓶になっていたということです。
見た目もげっそりとやつれている感じで、聞くところによるとその人は大手アパレルで16年も勤めていて、あまりにもブラック労働の日々に気づけばこうなっていたとのこと。
何が怖かったといって、そんな社畜人生を有り難がっていることが言葉の端々から感じられたことであり、自分はこうならなくてよかったなんて心底思いました。
あまり他者の悪口や誹謗中傷なんてしたくはないのですが、でも「人の振り見て我が振り直せ」でその先輩は私にとって反面教師です。


その先輩はお世辞にもカッコいい生き方をしているとは言えず、自身でも仰っていましたがサボり癖が強く学生時代の成績はほとんどがC(可)でした。
卒論もゼミ論も途中で放棄するわ授業のプレゼンの準備はしないわと遊んでばかりだったらしく、しかしその分大好きなドラマ・演劇にだけは熱中する人だったのです。
英語劇だけではなく学生時代につかこうへいの演目を3回も演じる程根っからのエンターテイナーで、役者としてならばそこそこいい味を出しています。
しかし、その人は演技が好きなことと演技で生計を立てられる=役者として成功することは別物であるという分別だけはあったようです。


でも、私の同期はやたらにその先輩を尊敬していましたが、私はその先輩を心底尊敬したことなんて一度もありません。
それはズボラな生き方に問題があったのではなく、就活に際して私たち後輩に向けたあるアドバイスに萎えてしまったからです。


「就活のアピールで「マイペース」なんて言ってはダメだよ、社会に出たらその会社のペースに合わせなければいけないから」


確かに一面的には正しいのですが、私は「社会に出たら奴隷として生きるんだ」と言われているようで寒気がしてしまい、心の中で拒否反応を起こしてしまいました。
それ以来、その先輩は私の中で「ついて行ってはならない人」という認識になってしまい、それからずっと関わることがなかったのです。
それから17年、お互いもう40に手が届く領域に入った今、すっかり私とその先輩では精神的にも肉体的にも色んな面で逆転してしまったように感じられてしまいます。
もっとも、その先輩に限らず学生時代に輝いていた、あるいは偉業を達成した人たちは社会人になると意外とパッとしない日々を過ごしているのですが……。


学生時代に成したことなんて所詮社会に出れば単なる「過去の栄光」でしかなくなり、しかし私に最近連絡を取って来る学生時代の友人・知人はみんなそこにしがみついているように思えます。
私は容赦なくその社畜精神を「甘ったれんな!」とぶった切ってやるわけですが、あんなに輝かしい学生時代を送っていた人たちも今や単なる企業の操り人形でしかないのです。
こういうのを見るたび「十で神童、十五で才子、二十歳過ぎればただの人」とはこのことだと思ってしまうのですが、なぜこのようになってしまうのでしょうか?
色々考えられますが、結局のところは意識の差にあるんだろうなあなんて思ってしまうのです、一言で言って自分を変えようとしない人たち。


資本主義の労働の義務なんて考え方はもう古い、同一労働同一賃金が台頭してきた今もはや正社員とパート・アルバイトとで大きな差はなくなりました。
もう資格の時代ではなくスキルとシェアリングの時代になったわけであり、副業や投資なんてものは当たり前の時代になっています。
幸い私もそのことに気づき自分を変えようと必死だからこそ今があるわけであって、私が見ているのは過去でも目先でもなく10年・20年先。
そこに意識を向けて今自分ができること・やるべきことをしっかりやりきることが大事ではないかと思うのです。


人間、最後に自分を救うのは自分しかおらず、他者はそのためのきっかけを与えることしかできません。
仏教には衆生済度」という概念がありますが、同時に「縁なき衆生は度し難し」という言葉もまた存在します。
仏縁のないもの、自分で自分を救おうという気がないものは仏様・神様であっても救うことなどできないのです。
救おうとする側と救われる側の意思が大筋で合致して初めて救済は成立するのですから、甘ったれんなって話ですよ。


神童の多くがなぜ社会人になると普通の人でしかなくなってしまうのかを改めて学友たちの平々凡々の今を見て実感します。
そして私は決して彼らのようにだけはなるまいと固く心に誓うのでありました。

スーパー戦隊シリーズ30作目『轟轟戦隊ボウケンジャー』(2006)17・18話感想

 

Task17「アシュの鏡」


脚本:會川昇/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
無数の妖怪が封じ込められているといわれるプレシャス=百鬼鏡をめぐる、ボウケンジャーダークシャドウの激闘!その戦いに突如乱入してきたのはガイ、ヒョウガという2体のアシュだった。さらに、錫杖の音とともに現われるひとりの青年…「アシュに関われば、お前たち死ぬぜ」と不穏な言葉を呟く青年の正体は?


<感想>
「持っていけ!それはもう餌にもならない」
「あなたにとってはプレシャスもただの餌なのね」
「当然だ。俺様はアシュ以外興味はない。そんなガラクタ、なんの価値がある?」
「人類の宝だ!お前にだってあるだろう、大切な宝が」
「無い。俺様は高丘映士、アシュの監視者。そのこと以外大切なものなど……ない」


育ってきた環境が違うから〜♪好き嫌いは否めない〜♪


ごめんなさい、セロリ大好き+価値観の衝突でついつい某国民的スターの名曲「セロリ」を思い出しましたが、ここに来てまたとんでもないカンフル剤を投入して来ましたね會川先生。
今回はこれまでの「冒険者」とはまるで異なる「宿命の戦士」というファンタジー系戦隊の文脈を導入してきましたが、めちゃくちゃ面白かったです。
まず錫杖を武器とする黒ずくめの男という出で立ちもさることながら、何よりも演じる出合正幸氏がもう最高にカッコよくてたまりません。
やっぱり戦隊の追加戦士・番外戦士枠はこれぐらいのインパクトがなくちゃつまらないじゃないかと興奮していた次第でございます。


今回初めて出て来た「アシュ」という設定、そしてガイ・レイ・ヒョウガですがデザインや設定を見ると同時代の流行りだった「牙狼」のテイストを少し入れた模様。
ただ、「牙狼」はいわゆる西洋モチーフの騎士であるのに対して(割とキリスト教的要素が強い)、本作のアシュは名前や出で立ちからもわかるように和風の陰陽師がモチーフです。
アシュという名前自体が「阿修羅」「亜種」を由来としていると思われますが、歴代戦隊で見るとガオレンジャー」のガオハンターなどが近いでしょうか。
今回出て来た高丘の設定自体もガオシルバーを彷彿させますし、ボウケンジャーの5人との差別化にも繋がっており、まず第一段階での色分けには成功。


ネタ的にもそろそろ5人のキャラだけで続けていくのはきついと思われたところで、すかさず横からまるで異なる価値観と使命を持った戦士が来たのは見事です。
俺様ぶってはいるものの、決して悪い意味での高慢なキャラクターではなく頭も切れますし、生身ながらにできる範囲の活躍がきっちり描かれています。
小林女史がTask12で「俺たちは冒険のプロであって戦いのプロじゃない」ということをはっきり打ち出していましたが、正にその「戦いのプロ」が本作ではアシュの監視者・高丘映士なのでしょう。
ボウケンジャーの5人が5人とも強烈な個性を持っている役者陣であるだけにハードルがめちゃくちゃ高いのですが、それを軽々とクリアして来たのは好印象。


それから、鏡をゲートとしてアシュが人間界に出てくるという設定は「幽☆遊☆白書」を思わせるものがありますが、これも後の「シンケンジャー」の外道衆と三途の川の設定に繋がっていたりするのでしょうか。
アシュのいる世界とはいってみれば仏教でいうところの三悪道畜生道、餓鬼道、地獄道)のメタファーともいえそうなもので、高丘はおそらく修羅道から来た存在であることが予測されます。
少なくとも天道や人間道という真っ当な人の道は歩んでいないでしょうし、そうでなければセロリを齧って風来坊のようにアシュの監視者やるなんて業を背負っていないでしょう。
中澤監督の重厚な演出も冴えており、やはり中澤監督はギャグよりもシリアスの方が映える監督だなあと思うのです。


ボウケンジャーがここから苦戦気味になっていきますが、単なる「パワーの違い」ではなく「属性の違い」という方向の打ち出し方は好み。
闇のヤイバを蹴散らす更なる闇の深さとそれに立ち向かう宿命の戦士という壮大な設定が本作の「冒険」という要素とどう馴染んでいくのか?
その辺りのすり合わせも期待の上で総合評価はS(傑作)


Task18「生きていた男」


脚本:會川昇/演出:中澤祥次郎


<あらすじ>
なんとかアシュの1体を倒したボウケンジャーだが、ガイとレイはボウケンジャーに復讐しようとプレシャス=兵の弓を利用しようと考えた。一方、ミスター・ボイスが暁に衝撃的な提案をした。「実はレッドくんにはボウケンレッドをやめてもらおうと考えている」と。その真意はいかに?


<感想>
「お前らがやってる宝探しなんて遊びだよ。俺様みたいに逃れられない宿命でもなんでもない。どうせ好きでやってるだけだろ?嫌ならとっととやめちまったらどうだ?」


高丘映士、チーフの痛い点をバッサリ指摘して切り捨てる(笑)
すごいなあ、チーフに対してここまで真横からガンガン切り込んでくれる人、今までにはいなかったので真墨とはまた違う貴重なツッコミ役が来ました。
しかしチーフはそれを聞いてめげるどころか、かえって開き直りを見せて冒険ホリックの詭弁によって正当化してしまいます。


「なあ柾木、俺は冒険が好きだやっと気付いたよ。お前達の為とか、世界の平和や安全だとか、そんなのは理屈だ。俺は冒険が好きなんだ。お前だってそうだろ柾木?キョウコだって、愛したのは宝を探す冒険のワクワクだった。誰に与えられた使命でもない。だから……だからこそ絶対に逃げるわけにはいかない!!」


うん、チーフはこれでいいのです、どこまで行こうとチーフは「有能なリーダー」ではなく「有能なリーダーぶったただの冒険ホリック」であり続けて欲しい。
どこまでも好きをただ貫き通していて、それが結果としてヒーローっぽく見えるという少年漫画的な理屈のあり方をここで改めて補強という形に。
何が面白いといって、決してチーフは高丘の価値観を否定しているわけでもないし、また高丘もチーフの価値観を否定しているわけではないのです。
しかし、チーフが抱えている冒険魂と高丘の使命感とは明らかに種類が異なるものであり、これは今までの戦隊シリーズの文脈だけでは読み解けない要素となっています。


本作の大きな特徴は1クール目の総決算であるTask.11でも述べられていましたが、冒険者」という個人と「ボウケンジャー」というヒーローを意図的に切り分けていること。
その上で「どちらが上か」とするのではなく並列の関係にしている、これはすなわち本作における「公私」の基準となっているのです。
高丘が「逃れられない宿命=公(Must)」としてアシュと戦っているのに対して、チーフたちは「果てなき冒険魂=私(Want)」で戦っています。
サージェスはあくまでも装備一式を貸与しているに過ぎず、全てはチーフたちが各人で決断して戦っているという構造なのです。


歴代戦隊の中でも本作はこの「公私」の基準が強調されていますが、高丘が出て来たことによってよりそのことがはっきりしました。
また、これは同時にジャンプ漫画で次世代の国民的漫画として徐々に台頭していた「ONE PIECE」「NARUTO」への意識も若干あったのかもしれません。
ジャンプ漫画に例えるならボウケンジャーが麦わらの一味、それに対して高丘やアシュの設定はどこかNARUTOのような陰影の強い感じをイメージしているのでしょうか。
お互いに過去の傷を持ちながらも、その過去の柵を引きずらずに自己肯定感を高めて現在を生きるのがチーフたちで、過去生というか前世のカルマが強く影響するのが高丘とアシュという感じ。


「人は自分の限界など超えて未知の世界に挑むことができる。それが冒険の力だ!」


どこまで行こうと所詮本物の冒険ホリックの前に頭でっかちの理屈など通用しない、むしろ理屈など所詮後付けでしかないのだ!
チーフのこの潔さは一周回って素敵ではあるのですが、でもだからこそ思うのはチーフって明らかに上司には向かないよね(苦笑)
だって自分でなんとかしようという単独主義者で、今はそのカリスマ性に仲間達がくっついて来ているに過ぎませんし、本人も自らチームをまとめようという意識はない。
ボウケンジャー個人事業主の集まりでありながらチームの体裁を保てている理由は真墨とさくら姉さんが心砕いているお陰ですしね。


そして今回、ガジャがTask.11の伏線を回収してゴードムエンジンを開発するも、技術力や人体への影響を配慮していなかったせいか、実験が失敗に終わってしまいました。
この辺りもサージェスの科学力との違いが示されていて良かったところであり、ここまででボウケンジャーもまた世界観の拡張に成功したのです。
アシュのガイとレイは次回以降因縁の相手として立ち塞がることとなりますが、高丘もまたボウケンジャーに仲間入りを果たすのは目に見えているでしょう。
総合評価はS(傑作)、本作は決して大河ドラマのような大筋のアベレージが高いわけではないのですが、山場という山場の短距離走の盛り上がりは外さないところが安心できます。

 

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『ドラゴンボールZ 神と神』批評〜「風の時代」の到来を告げる作品〜

出典元:https://www.amazon.co.jp/dp/B00D0Z2JR4

さて、来月にはいよいよ「ドラゴンボール超 スーパーヒーロー」が公開されるので、それまでに何とか「神と神」「復活の「F」」まではレビューしておこうと今改めて見直してます。
今日はその中で「神と神」を久々に見直してみたわけですが、この作品は改めて最初に見た時と後に見直した時とで全く印象の異なる作品となりました。もちろんいい意味で。
というのも、私がこの作品を初めて見たのは実はアニメ版「ドラゴンボール超」を見た後だったのですが、その当時はもうただただ怒りと批判しか来ませんでした。
何故ならば「何で原作者自ら原作レイプじみた真似なんかするんだ!」という怒りがあって、「あの素晴らしかった「Z」の時代を返せ!!」なんて思ったものです。


ただ、それは良くも悪くも私がそもそも鳥山ワールドがどんなものかということへの理解が不足していたこと、そして鳥山先生が決して目先ではなくもっと先を見据えていたことへの理解が足りなかったからでした。
よくネットでは「原作者が一番のにわか」「鳥山は「DB」に口出すな」なんて悪く言われていますが、それもこれも全ては鳥山先生が孫悟空のような常識に縛られない生き方をしている人だからなのかなと思います。
あれからもう9年以上経過したわけですが、今この時代になって改めて腰を据えて見直してみると、本作は単なる目先ではなく10年・20年先を見据えて作られた普遍性のある作品だったことが見えて来ました。
ただ、今までの「DB」の劇場版と根本的に作りが異なっているため、そりゃあ初見ではこの「神と神」のタイトルの意味も含めてその本質を一発で理解できるわけじゃないんだよなあとは思ってしまうのです。


ドラゴンボールの劇場版で現時点での最高傑作はいうまでもなく「超ブロリー」なのですが、本作も決して捨てたものではないと改めて見直して思いました。
ただ、これから私が書くことはこれまでの「神と神」の批評ではあまり言われてこなかった言説だったので、もしかしたら「どういうこと?」と思われるかもしれません。
しかし、私は間違いなく本作は「ドラゴンボール」の劇場版の中でも普遍性のある名作だと断言します、少なくとも「Z」時代に濫造された旧劇場版よりは大好きです。
では果たして本作の何が魅力的なのかを改めて2022年5月現在の視点から見直してみましょう。

 


(1)作風と世界観の「揺り戻し」と「刷新」


まずこれは本作を見た第一印象として感じ取ったことですが、本作で鳥山先生をはじめとして作り手は「ドラゴンボール」という作品自体の「揺り戻し」と「刷新」を行った作品です。
それぞれ具体的に言いますと、「揺り戻し」とは無印時代、つまり悟空とブルマの出会いからマジュニア編の頃への自由闊達な作風への揺り戻しが行われています。
そして「刷新」とは、「Z」「GT」までで形成されていた「ドラゴンボール」のイメージを大きく塗り替える試みであり、本作は単なる懐古主義の同窓会フィルムではありません。
温故知新の作品であり、私のようにリアタイで原作を楽しんだ世代に懐かしさを感じさせるだけではなく、これから「ドラゴンボール」の作品を楽しむ子どもたちを引き込んでもくれました。


本作では基本的に終始緩めのギャグで進行していくわけですが、最初私がこれを「ふざけるな!」と感じ取ったのは私が熱狂していたサイヤ人編以降のシリアスでハードな作風のイメージが強かったせいです。
しかし、元々鳥山明先生自体が「Dr.スランプ」のようなギャグ漫画からスタートした作家であり、寧ろサイヤ人編以降のシリアスで重たい作風こそが「鳥山ワールドらしくない作風」だったと気付きました。
鳥山先生としてもそのあたりのデトックスを行いつつ、本当の意味での「原点回帰=Dr.スランプの頃に立ち返る」ということを本作でやりたかったのではないでしょうか。
そこには単なる「3.11(東日本大震災)の傷を癒したい」「旧来のドラゴンボールファンを楽しませたい」以上の意図があったのです。


そしてその意図こそが本作で見られた「刷新」であり、本作は目に見えない形でのパラダイムシフトが行われているのではないか、というのが改めて見直して私が感じたことでした。
本作で行われた「刷新」とは「本当の強さとは目に見えることではない」というのを改めて受け手に対しても悟空たちに対しても破壊神ビルスを通して突きつけたことにあるのではないでしょうか。
とはいえ、これ自体は特別なものではなく、そもそも鳥山ワールド自体がギャグをベースにしながらも「能ある鷹は爪を隠す」みたいな感じで強さを演出してきた作品です。
本ブログで再三述べてきたことですが、鳥山ワールドの法則として「本当に強い人は一見弱そうな見た目をしていて強そうには見えない」というルールがあります。


たとえば単なるエロオヤジにしか見えない亀仙人が拳法の達人だったり、痩せこけて見えるピッコロ大魔王が意外に強かったり、あるいは部下よりも小さいはずのベジータフリーザの方が強いのです。
人造人間編でもそんなに強そうに見えない17号・18号の方が強かったですし、魔人ブウでさえ見た目を裏切るチートじみた強さでしたから、原作から一貫して描かれた要素でありました。
それを改めて単なる「戦闘力の強さ」だけではない形で提示したのが破壊神ビルスであり、それがあのコミカルなキャラクター像につながっているのではないかと思うのです。
中川翔子氏との対談の中で鳥山先生はこのようなことを仰っていました。

 

 

僕が描く「神」って偉い感じがあんまりないんですよ(笑)庶民的にたこ焼きを食べているような神様が好きです。
いかにも強そうな敵は好きじゃなくて、人間型の敵は散々やってきたので、今回はうちで飼ってる猫を見て「こんな感じにしようかな」と。


引用元:https://www.toei-anim.co.jp/movie/2013_dragonballz/special/interview.html

 


いかにも鳥山先生らしい答えですが、同時にそんな鳥山先生でなければあの破壊神ビルスや大神官ウイスのようなキャラクターは誕生しなかったのではないでしょうか。
この2人の凄いところは神様・天使と呼ばれる立場でありながら「カリスマ性」と「親近感」の相反する要素を破綻することなく自然に持ち合わせていることです。
アニメ版や漫画版の「超」でも描かれていますが2人とも圧倒的な権力を持ちながら決して偉そうにせず、普段はどこか庶民的に地球の食べ物を味わって食べています。
つまりここからわかることは本当に凄いものや強いものは見た目でわかるものではないということであり、それこそが「ドラゴンボール」というか鳥山ワールドの魅力だということでしょう。


(2)実質の主人公・ベジータデウス・エクス・マキナの悟空


本作の大きな特徴として、悟空とベジータの役割が入れ替わっていることが挙げられるのですが、本作では実質の主人公にして狂言回しがベジータであり、真打ちの悟空がデウス・エクス・マキナの位置にあります。
最もこれは原作のある時期、具体的には魔人ブウ編からそうなっているのですが、本作は誰の目にもわかる形でそれを提示してみせており、それがわかるとまた違った楽しみ方ができるのです。
今回心情面での揺れ動きが最も激しかったのがベジータであり、悟空は基本的に冒頭と終盤以外表に顔を出さずに事態を静観していて、どうしてもやばくなった時のデウス・エクス・マキナとなっています。
それこそ鳥山先生が大好きな「ウルトラマン」に例えるなら、孫悟空ウルトラマンベジータ科学特捜隊のイデ隊員とムラマツキャップを掛け合わせたような立場にあるという感じでしょうか。


特にベジータの揺れ動きはかの「楽しいビンゴ」も含めて必見であり、「Z」時代までのベジータのイメージからするととんでもなく悪い印象を持たれてしまうかもしれません。
しかし、「殻を破る」「思考の枠を外す」という意味では、これまでのベジータらしくないことをさせるという意味では必要なことだったのではないでしょうか。
そして、それがあるからこそブルマがビンタされた後の「俺のブルマ」発言からのすげえ超サイヤ人超サイヤ人3を超えた超サイヤ人2)があるともいえるのです。
その意味で、ここから先の「超」に至るまでの物語の主人公は悟空よりもベジータなのではないかと思いました。


まずベジータの楽しいビンゴに関しては賛否両論ありますが、そもそも「ドラゴンボール」自体がかっこいいキャラにこそギャグをやらせてきたシリーズです。
天津飯だって最初はやや高圧的な感じのある修行僧として登場しながらも排球拳というギャグを悟空戦でやってましたし、ピッコロだって魔人ブウ編でそのギャグをやっています。
そしてベジータもまた原作で以下のようなギャグじみた発言をしているシーンがあり、そもそも鳥山ワールドの常連になった者の避けられない宿命だったのかもしれません。
かのフリーザ様ですら「復活の「F」」以降ではギャグをやるようになったりかませ犬になったりしていますし、「超ブロリー」では1時間も岩盤耐久レースでした。


そしてファンからネタにされる「俺のブルマ」発言ですが、ここで大事なのは発言やパワーアップ自体よりも、なぜその瞬間的なパワーアップが可能だったのかということです。
単に瞬間的に悟空の超サイヤ人3を上回るだけなら別に孫悟飯でもよかったわけですし、現にセルゲームでトランクスを殺された時にベジータは怒りましたがパワーアップはしませんでした。
ではなぜ今回に限ってパワーアップしたかというと、ベジータビルスの恐ろしさを理解した上で本当に奥底からブルマを大切に思っていたからというのがあるからです。
セルゲームの時は頭で「家族が大事」と理解しつつも、心底から潜在意識の部分で「家族愛」というものが根付いていなかったから怒ってもパワーアップをしなかったのではないでしょうか。


そしてもう1つが血筋であり、元々サイヤ人編の時点でベジータは悟空以上の天才戦士と設定されており、単純な戦闘のセンスや戦士としての実力は悟空よりも上のはずです。
それが連載を長期化した影響からか悟空の方が天才ということになってしまいましたが、ここで超サイヤ人3悟空やアルティメット悟飯ですら一発もビルスに与えられなかったのをベジータが超えました。
要するに単純な戦士としての実力やスペックではベジータが上という力関係に戻したわけであり、亀仙人が「悟空を超えたかもしれん」というのはそういう意味で言ったのです。
しかし、悟空は悟空で最後に超サイヤ人ゴッドとして戦うというデウス・エクス・マキナとしての役割があったわけですが、この役割分担が実は後述する(3)の要素へ繋がっています。


(3)破壊神ビルスと大神官ウイスベジータと悟空の将来像


これは「超」がアニメ・漫画共に進んだ現在から振り返った今だからこそ気づけることですが、破壊神ビルスと大神官ウイスベジータと悟空の将来像であるということが読み取れます。
今でこそ悟空が天使、ベジータが破壊神の方向に進むことはファンの共通了解となっていますが、本作が出た時はそこまで予想するファンは少なかったのではないでしょうか。
しかし、実は既に本作を見直すとその伏線らしきものは示されており、実はこの時点で鳥山明先生の中には悟空とベジータをこの先どういう方向にしようかという構想があったと伺えます。
そうでなければ、かのビルスをして悟空とベジータを認める発言をさせないはずでし、ベジータが悟空を超えたり悟空が二度も負けるように仕向けることはしないでしょう。


破壊神ビルスはとんでもなくわかりやすい「破壊」の象徴として描かれておきながら、地球の食べ物の美味しさにほだされて地球破壊を辞めているのです。
特に最後のわさびだけを食べて悶絶するシーンなんて噴飯もので、あれだけ猛威を振るったビルス様があんなに悶えるシーンを誰が想像したでしょうか?
漫画版と比較しても特にアニメ版ではコミカルさが強調されているビルス様ですが、これがベジータの将来像であることが何となく示されています。
逆に言えば、だからこそベジータではビルス様を超えられないのも納得で、完全な自分の上位互換を倒すことはよほどの奇跡でも起きない限りは不可能だからです。


一方それはウイスも同じであり、大神官ウイスもまた悟空が天使の方向に進むための伏線となっているキャラクターであるといえます。
基本的にウイスは干渉せずニュートラルな態度を貫いており、ビルスの破壊を止めようともせず、地球での誕生日パーティーを淡々と楽しんでいるのです。
しかし、ラストでビルスがわさびに苦しんでいるのを見ると、即座にステッキ1つであっさり止めて見せるわけであり、実はこの時点でウイスの方が力関係は上となっています。
上記した「一見強そうじゃないやつこそが実はとんでもなく強い」という法則はウイスビルス様の2人の関係にもいえるのではないでしょうか。


実は悟空とベジータのラストシーン、「俺のブルマ」発言をいじる悟空のシーンも実はウイスビルス様のラストリーンとの対比になっているのです。
一見強気なベジータの方が上のようでいて総合的には悟空の方が上という力関係が示されており、同時に鳥山先生の中で2人のイメージが完全に固まったシーンでもあります。
ただ、悟空とベジータはあくまでもサイヤ人=人間であるわけであり、ピッコロとブルマも同一空間にいるわけです。
表面上はピラフ一味も含めて既存のキャラを全員出してお祭りの雰囲気を出していますが、実質は悟空・ベジータウイスビルス様・ブルマの5人が中心となっていました。


だから悟空が超サイヤ人ゴッドになったとしても勝てなかったのも決してかませ犬にしたわけではなく、これから始まる新たなステージへの誘いとなっているからです。
これまで最強で負けなしを誇ったはずの悟空が最初の頃の負けっぱなしの挑戦者という立場に引き戻される、これがよかったのではないでしょうか。
まさに「GT」の悟空一強とは真逆のスタンスを原作者自ら打ち出したわけであり、また単純な力の強さで勝つわけじゃないということも示しています。
この構造を読み解くことができた時、「ドラゴンボール」はまた新たなステージというか高みへ登っていくのだなあということが読み取れるのです。


(4)様々な意味の「神と神」


さて、本作の「神と神」というタイトルの意味ですが、メタ的に見ても様々な意味の神様であることが読み取れ、実に秀逸なタイトルです。
作品内の解釈としては破壊神ビルス=神と超サイヤ人ゴッド悟空=神という意味ですが、他にもいろんな意味が考えられます。
まずは声優界の神である破壊神ビルス山寺宏一氏と孫悟空野沢雅子氏という神という意味でも十分に成り立つのです。
野沢雅子さんも凄いですが、それに負けない演技力と存在感を発揮している七色の声を持つ山寺宏一氏もあたある意味では神様なのでしょう。


他にもめざましテレビで見られた貴重な漫画界の神=鳥山明先生と声優界の神=野沢雅子、またスペシャル対談の漫画界の神様=鳥山明先生とドラゴンボールファンの神=中川翔子氏とも取れます。
そして何よりも原作者の鳥山明先生と本作を楽しんでくれる受け手の人々、これこそが「神と神」の意味ではないのかと私は解釈したわけであり、様々な意味が解釈されるのです。
ここを見ていった上で本作に散りばめられたメッセージは「さらなる魂のステージへ」という新たな決意ではないでしょうか。
そこにこそ本作を製作された意義があり、これを今日の視点で捉え直すと「目には見えない高次元のステージ」こそが本作の提示したかったものだと思うのです。


ビルス様が言っていたように、超サイヤ人ゴッドとは「神の気」という、それまで打ち出されていた超サイヤ人の概念とは根本的に異なるものでした。
原作の超サイヤ人とはいわゆる「気の可視化」と「変身」という要素を掛け合わせたパワーアップの表現の1つの到達点ですが、そこから先のパワーアップの概念を原作は打ち出せなかったのです。
超サイヤ人1〜4は見た目こそ異なれど結局のところは「体内の出力を瞬間的に上げているだけ」であり、気の質が根本的に変わったことを意味するものではありません。
いうなればエネルギーの出力を修行などによって上げているだけで、体質そのものが変わったわけではないので、そんなに強くなったように見えないのです。


その点、本作の超サイヤ人ゴッドは傍目には感じられない神の気というクリアな気を新たな概念として打ち出すことによって、さらなる高みを悟空たちが目指すことを可能としました。
これはスピリチュアルな観点から見ても理に適っており、肉体を極限まで鍛え上げたら、次は精神統一や内観によって魂のステージを高めることが必要となるからです。
しかし、かといって誰もがそれになれるわけではなく、恒常的に強さを求めて努力できるものでなければならないから、結果的に悟空とベジータのみがこの領域に入ることを可能としました。
つまり「超」以降で示された悟空とベジータの2強路線は決して贔屓でも何でもなく、神の次元へ進める飽くなき向上心と潜在能力・経験値を持った悟空とベジータしかいないことがロジカルに示されているのです。


これは魔人ブウ編までを振り返りつつ、鳥山明先生が作ったキャラの中でもやはり悟空とベジータは別格に思い入れがある動かしやすいキャラクターではないでしょうか。
そしてまた、人造人間編以降でファンから指摘された欠点の1つだった「超サイヤ人のバーゲンセール」を防ぐためという意図もあると思われます。
そう何人もポンポンと神の領域に入られるとまた安売りかと批判されてしまいますから、悟空とベジータのみがこの先へ進めると示されたのが本作の答えなのかなと思うのです。
これは原作のベジータへの救済措置であると同時に、悟空とベジータ以外のZ戦士にはその可能性がないという容赦のなさでもあるのですが。


英訳すると「Battle Of Gods」ですが、まさに地球を守るための戦いとかではない純粋な強さを求める戦い、それを更なる神の次元として提示したのです。
鳥山先生がここまで考えていたかは別としても、非常に秀逸なタイトルではないかと思いました。


(5)まとめ


本作は原作終了後18年ぶりとなる原作者自ら手がけた新作だったわけですが、今日の視点で見直すと「地の時代から風の時代へ」というのを10年近く前にして既に先駆けて示していたと言えます。
目には見えない神の気、それはつまりこれから現実が「地の時代」から「風の時代」へ進むことを意味し、また超サイヤ人ゴッドという概念自体が「風の時代」の象徴ではないでしょうか。
そもそも原作の「ドラゴンボール」自体が既存の権威を次々と打ち倒していく物語としての側面があったわけであり、最強の権威たるものを次々と悟空が倒してきたといえるわけです。
その悟空がまたもや最強の座から引き摺り下ろされ、そしてまたベジータも更なる神の次元へ進むことが可能となった、かなりスピリチュアルな世界観だといえます。


だから、「原作に比べて戦いに緊張感がない」「薄っぺらい」という批判は決して当てはまらないわけであり、この作品がどう見えるかによってその人の「見る目」が問われているのです。
映画作品ではたまに「見方」ではなく「見え方」が大事な作品があるのですが、本作まさにその部類でいわゆる「踏み絵」のような作品なのだと思います。
本作の表面上のギャグに散りばめられ隠された本質を見抜いてそのすごさを感じ取るか、それともそこに気づかず表面上だけを見て「つまらない」と切ってしまうか。
もちろん後者の評価を悪いというわけではありませんが、私は改めて見直したときにすごくいい作品だと自分なりに読み取ることができました。


いかにも偉そうにしている神様ではなく、確かな実力と自信がありつつもコミカルな要素を持っている庶民的な神様というのが「ドラゴンボール」らしさ、鳥山ワールドらしさではないでしょうか。
目に見えるものからいかに目に見えないものを感じ取ることができるか、それを本作は突きつけて受け手を試していることが伺えますので、単なる同窓会フィルムではないのです。
その世界に足を踏み入れる悟空とベジータ、まさに世界が三次元から四次元へと進んだかのように感じられます。
ラストの悟空とビルス様がそうであるように地球規模から宇宙規模へ、そして多元宇宙へ……原作が持っていた世界観の拡張が改めてなされているわけです。


バトルの激しさが決してないわけではないのですが、そこよりもいかに「更なるステージへ」という要素を打ち出せるかが本作の醍醐味といえます。
人知を超越し本格的に「地の時代」から解き放たれた真の意味での「神=視覚化が不可能な世界」が本作以後の世界観ではないでしょうか。
総合評価はA(名作)、庶民的・具体的なものの中から超越的・抽象的な世界へ移行した意義深い作品です。

 

ドラゴンボールZ 神と神

ストーリー

B

キャラクター

S

アクション

A

作画

A

演出

A

音楽

A

総合評価

A

 

評価基準=S(傑作)A(名作)B(良作)C(佳作)D(凡作)E(不作)F(駄作)

スーパー戦隊シリーズ39作目『手裏剣戦隊ニンニンジャー』(2015)19・20話感想

 

忍びの19「探せ!天空のオトモ忍」


脚本:下山健人/演出:加藤弘之


<あらすじ>
天晴たちは祖父・好天にキンジを弟子にしてやってくれと頼み込む。だが頑固な祖父は許すはずもない。そんなとき、登場する上級妖怪ヌエ。様々な武器をもつヌエはニンニンジャー6人の行動の先を読むかのような攻撃を繰り出し、一番刀や忍シュリケンが破壊されてしまう。それを直せる当代一のカラクリ技師がいるとキンジが提案するのだが……。


<感想>
「つまり爺ちゃんが手なずけろって言ってたやつか」
「1つ聞かせろ小僧。俺を手なずけてどうする?」
「決まってんだろ。ラストニンジャになって牙鬼から世の中のみんなを守るんだ。だから俺たちについてきてくれ!」


え?ニンニンジャーに「世の中の人々を守る」なんて使命感があったんですか!?
個人的に今回驚いたのはそこで、これまでの戦いぶりや彼らのキャラクターを見てもそのような印象は微塵も感じられなかったんですけど……。
一体これまでの話のどこに「清く正しく美しく、世のため人のために戦う正統派ヒーロー」としてのニンニンジャーが描かれていたのかさっぱり理解できません。
だって1話では天晴以外の4人がしょうもない理由で使命を拒否していましたし、一応戦うようになってからも戦う動機を問う話は特別描かれた感じはないので戸惑うばかりです。


そもそも世の中の人々を守るという意識が少しでもあるなら、凪と風花が高校の同級生を結果的に家に連れてきて危険な目に遭わせてしまった件はどうなのでしょうか?
あれこそ、使命感がない天晴たちだからとんでもないことになりかねなかったわけですし、そもそも1話で実家爆発なんてされている時点で危機意識があまりにも足りなさすぎます。
別に品行方正な昭和スタイルのヒーロー像を真正面から描くなとは言いませんが、少なくとも「守るための戦い」およびそれを実行する正統派ヒーローとしてのニンニンジャーは描けていません。
何だかこのくだりを見ていると「ゲキレンジャー」の過激気習得のくだりを思い出しますね、明らかにヒーロー側が口にすることと実際の描写が噛み合っていないというね。


ちなみに今回出てきた獅子王は設定上精霊、しかも演じるのが山形ユキオさんということで「百獣戦隊ガオレンジャー」が連想されますが、これも意図的なパロディでしょう。
見所はというと巨大戦での名乗りやアクションで、アクションは毎回何かしらの工夫が見えて楽しいのですが、問題はそこにストーリーが全く追いつかないところです。
ロボットの中の名乗りは単体でみれば好きなのですが、単体では面白くても流れで見ると全然映えないというか、妙に浮いているように見えてしまいます。


天晴を始め今回と次回は超絶パワーアップ編ということで、ロケ地や話の構成からしても「シンケンジャー」のスーパーシンケンジャー前後編を意識した作りとなっている模様。
ただ、あっちが「パワーアップの必然性が薄い」のに対して、こっちは「そもそもキャラクターやストーリーからしててんで駄目」というので、ダメさの次元が違い過ぎます。
何だろうなあ、本作のこの「やりたいことはわかるのに、その描き方やアプローチがズレている」感は……本当に痒い所に手が届かないなあ。
総合評価はE(不作)、いつもと比べるとそこまでゴチャゴチャしていないのですが、普段からもっとこれくらいスッキリ見せられないものか。


忍びの20「ザ・超絶!ライオンハオー」


脚本:下山健人/演出:渡辺勝也


<あらすじ>
謎のオッチャンは獅子王ライオンハオーの精霊だった!だが、天晴たちの協力の申し出をあっさり断る獅子王。そんな中上級妖怪ヌエはさらにパワーアップ、牙鬼軍団は本気でニンニンジャーたちをつぶしに来た。獅子王を尋ねた天晴たちは再びカラクリ技師・雑賀鉄之助と会う。「アイツのことを教えてほしいなら、忍者一番刀を出せ」と天晴の刀を奪った鉄之助、攻撃を仕掛けてきた……!


<感想>
「おまえは仲間の為に何が出来る?」
「何だろうなぁ?」
「ちょっとは頭を使え」
「一度落ち着いて、仲間を見てみろよ」
「八雲と霞は頭いいんだ!風花と凪はすばしっこいんだ!キンちゃんは普通に強いんだ!だから俺も自由に暴れられた!」
「俺がみんなと居れば、みんなも暴れられて、全員でもっと強くなるんだ!」
「もう一度聞く。おまえは仲間の為に何が出来る?」
「みんなのいいところ引き出せる。でも、その為にはみんなが必要だ。おっちゃんも同じだ。おっちゃんが暴れれば俺たちはもっと強くなるし、俺たちが良さを出せればおっちゃんももっと強くなる!」


なるほど、これがネットで「天晴は自分がバカだと自覚した上で、他のみんなに頼ることができる有能なリーダー」と評される所以だったのかあ……って納得できるかボケ!!
天晴の評価が余りにも雑過ぎんだろ、だって「キンちゃんは普通に強い」ってそれ一見褒め言葉のようでいて実は軽くディスってること気づいてんのかお前は?
あと八雲と霞が頭いいは納得できるとして、風花と凪がすばしっこいというのはこれまで特別に積み重ねられてきた個性ではないと思うのですけど……。
すごいなあ、多分下山健人を始め作り手の中ではここまでで「理想のニンニンジャー」を積み重ねてきたつもりなのでしょうが、実態は全くそのようになっていないというね。


何がすごいといって、スタッフもキャストも誰一人として作品をきちんと俯瞰して見る人ができていないということであり、屁理屈だけは凄いくせにその屁理屈の理論武装すらもガッタガタ。
「みんなのいいところ引き出せる」以降の下りは「適材適所の大切さ」を訴えていて、そのための素地は1クール目で作られていたため唐突さはないのですが、そのことと納得できるものかは別です。
1クール目で出たおでんの話って要約すると天晴の中で卵が主役で他の具材は引き立て役ということですが、それをどうここで表現するのかと思いきや全く変わっていません。
要するに「天晴のいないニンニンジャーは具のないおでんと一緒である」ということが今回の結論ということになりますが、この解釈でよろしいでしょうか?


天晴の屁理屈は詐欺師の常套手段に近いところがあって、一見尤もらしいことを言っているようでよくよく考えたら単なる詭弁でしかないという。
因みに「ボウケンジャー」のチーフも詭弁を振りかざしますが、あっちはまだ仕事がきちんとできる人ですからまだマシといえばマシです。
天晴って仕事ができないくせに妙に自信家で部下を自分の手足としか思ってなさそうな節がありましたが、成る程ここまで露骨にそれを出してきましたか。
天晴の答えを要約すると獅子王のおっちゃんも所詮は俺の引き立て役だから、頑張って引き立て役を務めてくれ」と言っているようなもので、私が獅子王の立場だったら即却下ですね。


「適材適所(個人個人が自分の役割に沿った能力を発揮すること」と「自分が活躍するために仲間達を引き立て役にすること」は似て非なるものであり、本作はそもそもここを履き違えています。
2010年代になると、いわゆる「なろう系」が台頭してきた影響もあるのですが、「努力!団結!勝利!」というより「血筋!天才!勝利!」みたいなのが多くなっているんですよね。
本作なんてその典型で、天晴がこんなにツッコミどころしかないバカなのに劇中で最強クラスとされている理由って好天の直系の孫という隔世遺伝だからでしょ?
だから仕事ができなくても「爺ちゃんの孫だからえらい」ということになりますし、天晴の本質は金持ちの御曹司という権威を振りかざすスネ夫と我儘なガキ大将のジャイアンが合体したようなもの。


別にバカだから天晴が嫌いというわけじゃなくて、バカというか底抜けに明るくても一生懸命何かを頑張っているところや芯の部分がきちんとしてたら私だって高く評価しますよ?
でも天晴にそんな要素がきちんと描かれてきたかと言われたらそうはいえないし、悪い意味での熱血バカにしておじいちゃん子な訳で……むしろ今回の話は天晴を余計に嫌いになった理由が明らかになっただけですね。
それを白日のもとに晒したという意味では高く評価しますが、戦隊シリーズでやっていい話ではないし、少なくともこれを「いい話」として受け取るには今までが酷すぎました。
一度マイナス印象がつくとそれを覆すのは難しいですが、本作は何度もそのマイナス印象を溜めまくった上にこれですからね……。


今回の話で思い出したのはそれこそ「ONE PIECE」のアーロンパークでのルフィを思い出しました。

 



そう、アーロンを前にルフィが自分には肉弾戦で戦うしか能がないことを自覚し、仲間たちの長所を肯定した上で自分に何ができるかをきちんと宣言したのです。
でもルフィは天晴みたいなやつとは違って歯切れのいい男として描かれていましたし、無理に自分をカッコよく見せようともしていませんでしたからね。
かと言って決して仲間達を引き立て役になんてしないし、決して親や爺ちゃんの脛齧りというわけでもなく、ちゃんと船長やってますので全然違います。
多分作り手が想像する天晴ってジャンプ漫画でいう孫悟空やルフィみたいなやつなんでしょうけど、悟空もルフィもそれぞれ鳥山先生と尾田先生だから描けたわけで、誰しもが描けるキャラではありません。


で、今回は好天爺ちゃんが「ちょっとだけ認めてやろう」なんて言ってましたが、この人何の面下げてそんな偉そうにしてるんでしょうか?
裏切り者の弟子を出した上に獅子王すら手懐けることができなかったわけで、この人名師匠ぶっているただの無能なんじゃないのか疑惑が出てきます。
自分のことを棚上げして偉そうに踏ん反り返ってるだけの無能な指導者でしかなく、こういうのは一番上司にしてはならないタイプだなと。
そして何より話のメインだったはずの「キンジの弟子入り」が有耶無耶にされてしまっており、話の軸から肉付の具材まで全て空中分解したまま終わるという最悪の結末に。


総合評価はF(駄作)、うまく決まれば物語として大きく跳ねられたのに、そのチャンスを全部ぶち壊してしまったKing Of 駄作

 

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